2020年12月29日 (火)

クーをめぐるさらなる顛末(5)

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 その頃には、クーが自分からは食べようとしない状態が続いていることも考慮して、主治医はクーに投与する抗がん剤を消化器毒性の比較的弱いタイプのものに切り替えてくれていた。しかもその薬剤は、毎週ではなく、3週間に一度打てば薬効が持続するような効き方をするものだった。しかしクーは、主治医にいわせれば「薬が効きすぎるほど効く」体質であり、3週間おいても骨髄毒性の影響が抜けず、貧血ぎみだったり白血球が少ないままだったりするので、さらに1週間、2週間と次の薬剤を投与せずに様子を見るような状態が続いていた。

 クーが食欲を取り戻した背景には、そういう形で消化器毒性の影響が極小に近づいていたこともあるのだろうと思う。実際、主治医は、9月の終わりには、抗がん剤投与は中断したまま、月に1度くらいの経過観察で見守るという方針に転じ、結局それきり二度と抗がん剤は打たなかった。投与せずにいても、病変が再発する気配がまったく見られなかったからだ。そこで抗がん剤を打っても、いたずらに副作用ばかりを煽るという本末転倒な状態になってしまう。

 猫に抗がん剤治療を施す期間は、基本的には半年を目安にしていると最初に聞いていた。しかし、そもそもなぜ半年なのかというと、抗がん剤治療を施した猫の平均寿命が半年くらいであるため、まずは半年生かすことを目指そうという考えからそう決められているのだという。

 ただし、ここでいう「平均寿命」は、あくまで「平均」である。現実には、抗がん剤の効きがいい猫とそうでない猫との間の個体差が大きく、効きが悪い猫は抗がん剤を打ってもすぐに病変が再発してしまい、2ヶ月ももたない場合がある一方、効きがいい猫なら、1、2ヶ月の間投与しただけで、その後まったく再発せず、なお数年の間すこやかに生き延びる場合もあるのだそうだ。「半年」というのは、それらすべてをひっくるめて算出した平均値にすぎない。

 クーは非常に抗がん剤の効きがよく、これまでの経過を見ても、「長生きするほうのグループ」に入っている感触がある、と主治医は言っていた。この寿命の話のカラクリを聞いたのは、最初の診断からだいぶ経ってからのことなのだが、最初の時点では、クーが抗がん剤にどう反応するかもまだ読めないので、予断を与えないようにあえてそこまでは言わなかったのだろうと思う。

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 ともあれ、こうしてクーの状態は、着々といい方向に向かっていった。次第に自分の意思で十分な量のフードを食べるようになり、排便も規則的になっていた。そして10月中旬を最後に、チューブ経由の注入給餌はまったく必要でなくなった。

 それでも、病変が再発したらまた抗がん剤を打たなければならず、そうするとまた食べなくなってしまうというシナリオもありうるので、チューブはつけたままにしておく必要があった。チューブは脇腹に空けた穴にただ通してあるだけなので、胃の内容物がどうしても少しずつじくじくと染み出してしまう。1日でも放っておくと、チューブの差し込み口の周辺がカピカピになっていたりする。毎日、そこを清拭するメンテの作業も必要だった。

 染み出して乾いた胃の内容物が、毛とからみあったまま固まっているので、そう簡単には取れない。赤ちゃん用の濡れコットンなどで丹念に何度もこすったりしているうちにふやけてくるので、ある時点でそっとつまんで、からまった毛ごと除去するのだ。毛が抜けて痛いのではないかとか、差し込み口周辺に触れられて不快なのではないかと気を揉んでいたのだが、この作業をしている間、クーはむしろ「極楽」とでもいわんばかりの寛いだポーズで始終喉をゴロゴロいわせていた。

 もっともそれは、この作業と併せて、普段ボディスーツに覆われていてクーが自分では毛づくろいできずにいるエリアを指でガシガシとこすって抜け毛を取ってやるという世話もしており、それが文句なく気持ちいいばかりに、この一連の作業全体を「気持ちがいいアレ」とクーが認識していたためだったのかもしれない。

 それより問題は、注入給餌が完全に不要になるタイミングがあまりにも突然訪れてしまったことにあった。

 注入していた「i/d 消化ケア」は、Amazonでは25缶入りのケースでしか買えず、それでも最後の1箱を注文した時点ではまだ当分必要だろうという見立てだったので躊躇もなかったのだが、実際には、その新しいケースを開けて1缶だけ使った時点で、残りがそっくり不要になってしまった(この療法食はもともと普通にエサとして与えることを想定したものなのだが、クーはフードを選り好みするので、これをただエサ皿に盛ってもいっさい食べない。あくまで注入の際に便利だから使っていただけだった)。

 その後も月に1度程度の頻度で東大では経過観察をしていたのだが、毎回、再発所見もなかった。それはつまり、今後、抗がん剤が再び必要になることもなく、その副作用で再び自分からは食べなくなってしまう可能性もなくなるということを意味していた。もうチューブはいらないだろうということで、12月9日にチューブを抜去してもらい、チューブが抜けたあとの穴は一応縫合したのだが、2週間後、クリスマスイブの前日にその糸も取れた。

 主治医からは、「これでクーちゃんは、こちら(東大)からは2度目の卒業です」と言われた。東大を2度も卒業したとはすごい話だが、僕にとってはまたとないクリスマスプレゼントになった。

 今後は地元のクリニックで定期的に血液検査と超音波検査を行ない、再発がないかどうかをモニターしていくことになる。もちろん、再発の可能性もゼロではないが、さしあたっての脅威はなりをひそめてくれた。今はその喜ばしさを全身で噛みしめていたい。

 足かけ半年にも及ぶ、長くつらい看病・介護生活だった。コロナが猛威を振るう炎暑の中、毎週東大のキャンパス内までキャリーケースを片手に通ったこと、いっときはもうだめだとこうべを垂れていたこと、チューブ経由の給餌でいろいろ苦労したことなどが脳裏をよぎるが、すべては報われたのだ。検査のための待機時間にちょくちょく使っていたため、すっかり常連になってしまっていた東大正門前の純喫茶。あの店にもう行けなくなるのはさびしいようだが、今はむしろ、再び入店する機会が訪れないことを祈るべきなのだろう。

 8月から4ヶ月近くの間、クーは黄色いボディスーツを常に身につけたままだった。それが取れたすっぽんぽんの姿を今目にしていると、「こんなに黒っぽい猫だったっけ」と不思議な気持ちになる。ただ、猫には常に「現在」しかない。この半年のことを振りかえってしみじみと感慨に浸ることなどクーにはありえないだろう。クーはただ、今現在のすこやかさに満たされ、機嫌よくのんびりと過ごしているだけだ。

 それでいいのだ。僕が施した献身的な介助に感謝などしてくれなくていい。ただ快適に過ごし、よく食べ、ときには僕を追いかけっこに誘ってはタカタカと元気に走りまわっていてくれさえすれば、そして遊びに疲れたら陽だまりでしあわせそうに丸くなって眠っていてくれさえすれば、それが何よりのお返しとなるのだから。

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〈終わり〉

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2020年12月28日 (月)

クーをめぐるさらなる顛末(4)

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 こうして注入給餌の「適切な方法」を見出したことは、僕の辛抱づよい試行錯誤の勝利だったと思う。しまいにはクーは、この注入に対して、驚くほど協力的にさえなっていった。注入するには、まずクーの体を覆っているボディスーツの背中側の合わせ目からマジックテープを剥がし、丸めて収めてあるチューブを取り出す必要があるのだが、僕がそれをしようとしただけで、自らペタリとおなかを床にくっつけて這いつくばる姿勢を取り、そのままじっとしているようになったのだ。

 注入には、なんだかんだで正味15分ほどはかかるのだが、その間、クーは身じろぎもせずにいる。そしてひととおり済んで僕がマジックテープを合わせてスーツを着せなおしても、まだじっとしている。いつ終わったのかが、クーにはわからないらしいのだ。だから僕は、「ほら、終わったよ」と言いながら、おなかの下に手を差し入れて立たせてやる。そうするとようやく、「やれやれ」とでも言わんばかりにひとつ悠々と伸びをしてから、おもむろに歩み去るのである。

 なんならクーは、むしろこういう形で給餌されることを、喜んですらいるのではないかと思われる節があった。その体勢になっている間、のんきにあくびをしたり、ゴロゴロと喉を鳴らしていることもあったからだ。注入されること自体を気持ちがいいと思っているわけではないにしても、なんとなく僕に「世話をされている感」があり、それは喜ばしいと感じているのではないか。実際、主治医にこのことを話してみると、「たしかに、お父さん・お母さん(主治医は飼い主のことをそう呼んでいる)にそうされるのを喜ぶ猫も稀にいるみたいですね」と笑いながら言っていた。

 ただし、この注入給餌は、とにかく手間がかかった。一度に注入する量が多すぎると胃に負担がかかる可能性があるので、給餌は日に3度くらいに分けたほうがいいと言われてからはそうしていたのだが、「i/d消化ケア」に水を加えてフードプロセッサーで粉砕し、粉薬を水に溶いて、それぞれをシリンジに充填して準備を整えてから、クーへの注入を行ない、使用したフードプロセッサーやシリンジなどを洗う、という一連の作業には、どうしても40分はかかる。それを1日に3回ということはつまり、クーに給餌・投薬するためだけに、1日に2時間は無条件に取られるということを意味する。

 それに、給餌に必要な「i/d 消化ケア」やシリンジを、いつでも必要な分だけ確保しておくことは、思いのほかむずかしかった。

 シリンジはその都度洗って何度も使用するのだが(本体には”SINGLE USE ONLY”、すなわち「使用は1回限り」と明記されているのだが、東大ですら、その言いつけを愚直に守ってはいないものと思われる。東大から最初に手渡されたシリンジからして、犬かなにかがかじったあとのついた、「使用感」のあるものだったからだ)、何度も使っているとゴムの部分の摩擦がきつくなり、使用に耐えなくなる。「i/d 消化ケア」も、クーの体重から割り出すかぎり、1日に1.5缶は必要だった。

 僕はこれらの消耗品をAmazonで購入していたのだが、そうそう需要のあるものでもないらしく、一時的に品切れになっていたりする。そんなときは、地元クリニックにわけを話して、備蓄分を分けてもらったり、場合によっては医療関係のルートを使って取り寄せてもらったりしていた。それも含めて、クーに滞りなく必要な栄養分を与えるための手配や世話に、僕は日々追われていたのである。

 もちろん、それでもクーが元気でいられるなら、それに越したことはない。事実クーは、本来の病変部は早々におさまってしまっていた一方、注入給餌によって必要な栄養分は十分に与えられていたため、見た目はすっかり元気になっていた。残る問題は、再び自分の意思で飲み食いをしてくれるようになるかどうか、その一点に集約されていた。

 一時は、仮に抗がん剤治療が終わったとしても、このままクーが自分の意思では飲み食いをしない状態が続いたとしたらどうすればいいのか、と気を揉んでいたのだが、8月も下旬に至る頃、転機は突如として訪れた。もしかしたら食べてくれるかもしれない、というかすかな期待のもとに毎日エサ皿に盛っては、結局いっさい口をつけられないまま湿気させてしまってただ廃棄していたドライフードに、クーがある日突然、口をつけたのである。

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 もっとも最初は、本当に食べているのかどうかはかなり怪しかった。口をつけているのはたしかでも、その後はなんだか口をくちゃくちゃさせているだけで、咀嚼音が聞こえてこない。エサ皿を見ても、ただ単にフードの一部を舌で皿の外に押し出しているだけのようでもあった。自分の意思で食べるということを長いことしていなかった間に(6月の下旬以来、このときまで、クーは丸々2ヶ月にわたって、自分の意思では食べ物にいっさい口をつけていない)、食べ方というものを忘れてしまっているようにも見えた。

 しかし何日かしたら、ドライフードをかじる「カリッ、カリッ」という音――久しく聞いていなかったたしかな咀嚼音がそれに伴うようになり、エサ皿の中もたしかに着々と減っていることが確認できるようになった。涙が出るほど嬉しかった。飼っている猫がただをエサを食べているというそのことが、これほど嬉しいとは……。

 それでもその頃はまだ、「たまに気が向くと」という程度の頻度だったのだが、そうして自ら食べる量は日に日に増えていった。それからは、クーが自分の意思で食べた分を見極めつつ、1日に必要な栄養量として足りない分だけを注入給餌で補う、という形を取るようになった。

〈以下続く〉

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2020年12月27日 (日)

クーをめぐるさらなる顛末(3)

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 入院2日目、手術が終わったら連絡をもらえることになっていたが、東大の主治医から電話がかかってきたのは、見込んでいたよりだいぶ早い時間だった。しかも、声が暗い。その時点でいやな予感がしたのだが、主治医は案の定、「ちょっと問題が発生しまして……」と言う。

 おなかにチューブを取りつける処置は、内視鏡手術によって行なうことになっていた。内視鏡で胃の内部から体の外側に向けて穴を穿ち、そこにチューブを通すのである。それをするためには、まずは胃の内部に空気を送り込んで、膨らませる必要がある。その処置をしている渦中に、あろうことか「胃の内壁が裂けていく」ような現象が発生し、手術の中断を余儀なくされたというのだ。

 そういう症例は、いまだかつて見たことがなく、ほかの先生に訊いても原因がわからなかったという。無数の症例を積み上げた知見のある東大のレベルで思い当たらないのでは、お手上げだろう。めったに症例の見られない奇病である可能性もある。「どうしましょうか」と訊かれて、返答に窮してしまった。どうすればいいかなんて、素人の僕にわかるわけがない。

 しかしよくよく聞けば、さしあたっては胃の内壁の組織を保護する薬を投与するなどしてから、同じ手術を再試行することは可能だという。内視鏡手術は内科医でもできるもので(主治医は内科医)、今回も主治医自身が施術していた。そのさなかに不測の事態が発生してしまったため、それ以上対処することができず、手術も中断せざるをえなかったわけだが、外科医も立ち会った上で、いざとなれば開腹してしかるべく処置できるような態勢で臨めば問題ないはずだというのだ。だったら、その手はずでやってもらうしかない。

 外科医のスケジュールもあったため、クーにはそのまま、通算8日もの間、入院させることになってしまった。入院という形でそんなに長い間離れて過ごしたのは初めてのことで、毎日、家にクーがいない欠落感に悩まされてしまったのだが、外科医立ち会いのもとにおこなわれた2度目の施術では、結果として胃の内壁の裂け目は初回以上には広がらず、実際には外科医の手を借りるまでもなく成功したと聞かされた。

 クーの胃の内壁がそんな状態になっていた原因については、いまだにはっきりしたことはわからないままだ。「長期間、液状のフードしか与えていなかったために、胃の伸縮性が一時的に損なわれていたのかもしれない」というのが主治医の見立てだったが、胃の内部で生じていたその異変自体が、あるいはクーがしきりと気持ち悪がってよだれを垂らしつづけていた原因だったのかもしれない。

 ともあれ、8月上旬、今度は左脇腹からチューブを生やした状態で、クーは無事退院となった。チューブは長さが30cmほどあり、むき出しにしているとどこかに引っかけて抜けてしまう恐れがあるため、背中側に持ち上げてクルリと丸めた状態にした上で、ボディスーツを着せて固定しておく必要があった(下の画像参照。なお、背中の上に突き出ている白い器具は、胃からの逆流を防ぐためのストッパーのようなもの)。

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 それまでは首のチューブから注入していたクリティカルリキッドを、今後はおなかのチューブから注入することになる。変わったのはその点だけのはずだった。むしろチューブが太くなる分、注入は楽になるはずだという見通しもあった。ところがこれがまた、一筋縄ではいかなかった。

 それまで首や食道のあたりに感じていた違和感がなくなったのだから、もう気持ち悪そうにすることもなくなるだろうと踏んでいたのだが、事態はいくらも改善されていなかった。胃に直接通じるチューブを使っても、クーはやはり、注入しようとするだけでも気持ち悪そうに口をにちゃにちゃさせたり、注入直後に吐いてしまったりする。そして、注入後は長いこと、あいかわらずよだれを垂らしつづけたりする。

 これ以上どうしろというのか、といっときは打ちのめされたような気持ちになったのだが、注入前後のクーを注意深く観察しているうちに、僕はあることに気づいた。注入している間、クーはあきらめたように床に這いつくばる姿勢を取っているのだが、終わるとすっくと立ち上がる。そのとき、すぐには歩み去らずに、なにか考えるような間を空けている。それから恐る恐るという感じでまずは数歩だけ進み、また立ち止まって、考えをめぐらしているようなそぶりを見せる(場合によっては、そこで吐いてしまったりもする)。

 僕の目にはそれが、なんとなく、「おなかの中がタプンタプンになっていないかどうか」をたしかめている姿のように見えた。

 もしかしたらクーは、胃の中に液状のものが多量に溜まっている状態そのものが気持ち悪くて、だから注入の時間になり、ある特定の姿勢を取らされると、それだけで「またおなかの中がタプンタプンになるあれが始まる」と予期して、気持ち悪そうなそぶりを見せるのではないか。

 考えてみれば、無理もない話なのだ。一度に注入するクリティカルリキッドは100cc、それ以外に水に溶いた散薬も飲ませ、チューブの内部をきれいにするためにさらに真水を注入したりもしているので、最大でともすれば200cc近くもの液体が、小さな胃の中に一気に注ぎ込まれていることになる。人間に換算すれば、2リットルほどの水を強制的にイッキ飲みさせられているのにも等しい状態だ。それは気持ち悪くもなるだろう。

 そこで僕は、注入するフードを液状のものから固形のものに替えてみることにした。主治医の話では、おなかに取りつけるチューブなら比較的太いので、固形食でも注入できるということだった。しかし、実際にやってみると、思うようにはいかない。市販の猫缶などだと、フードプロセッサーで入念に粉砕したとしても、大きめの粒が残っていて、すぐに詰まってしまう。チューブの太さはたしかにそこそこあるのだが、口径の異なる複数の種類のシリンジに対応できるよう、注ぎ口が二又に分かれていて、そこだけ口径が狭くなっているためだ。

 いろいろ試してみて、実際に注入できる固形食は、ほぼペースト状のものだけだとわかった(「ゼリー」とか「テリーヌ」などと呼ばれているタイプのものなら注入可能なのだが、それらは嗜好品の扱いであり、日々の基本的な栄養補給に推奨されている「総合栄養食」ではない)。ただし、ペースト状の猫缶を、スーパーなどで売られている市販のものから見つけることはできなかった。地元のクリニックで強制給餌してもらった「i/d 消化ケア」という医療機関向けのフードならペースト状なので、Amazonでそれを探して取り寄せる形になった。

 また、それなら注入できるとはいっても、そのままシリンジに詰めると、実際にはかなりの力を込めないとチューブには入っていかない。そのペースト状のフードに少しだけ水を足し、フードプロセッサーでクリーム状になるまで撹拌してからシリンジに充填すれば、かなりスムーズに注入できることがわかった。一度に与えるフードの量が0.3缶なら水が9cc0.4缶なら12cc0.5缶なら15ccといった見当だ。あまり水を足しすぎると、液状のフードを注入しているのと同じことになってしまうから、加減がむずかしい。

 ともあれ、注入するフードをこれに切り替えてからは、事態は劇的に改善された。それでも最初のうちクーは、「注入の姿勢」を取らされるだけで懐疑的になり、口をにちゃにちゃさせたりしていたのだが、注入が済んで歩いてみたときに、「おなかの中が意外とタプンタプンになっていない」ことに、次第に気づいていったものと見える。注入後によだれを垂らしつづける時間がだんだん短くなり、そのうちよだれを垂らすこと自体がなくなり、ついには「注入の姿勢」を取らせても、気持ち悪そうにすること自体がなくなった。

〈以下続く〉

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2020年12月26日 (土)

クーをめぐるさらなる顛末(2)

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 ある晩、クーの様子が見るからにおかしくなった。呼吸が浅くなり、口からよだれを垂らしている。よだれを垂らすのは、通常、なにか受けつけられない味のするものを口に含んでしまった場合だが、このときのクーは、単に気持ちが悪くてそうなっているように見えた。

 しばらくすると落ち着いたのだが、次の日も、そのまた次の日も、クーは同じ状態になった。チューブから注入したあとは必ずそうなったし、注入からだいぶ時間が過ぎていても、夜になるときまってよだれを垂らしはじめ、何時間もそれが続くこともあった。吐き気止めを飲ませると幾分ましになるのだが、薬が効いた結果おさまっているのかどうかは確信が持てなかった。

 7月の終わりの、土曜日の晩のことは忘れられない。夜の8時ごろからよだれを垂らしはじめたクーが、何時間にもわたって、それまで聞いたこともないような悲痛な声で唸りつづけたのだ。呼吸も走ったあとの犬みたいに「ハッハッハッハッ」と浅く荒くなっており、目はうつろで、なだめようとして触れても煩わしそうに顔をそらしたり、僕の指に噛みついたりする。じゃれてそうしているのではなく、穴が開いて血が出るほどの強さで、本気で噛んでいた。

 このまま放っておいたらまちがいなく死んでしまう――そう確信した。一緒にその様子を見ていた妻も、同じように感じていた。しかし土曜日の夜なので、東大には宿直医すらいない。とにかくなんらかの手を打たなければと思って、救命救急も受けつけている近場の動物病院に電話してみた。

 現在こういう病気で東大にかかっており、東大ではこういう治療を受けていて、こういう段階である、ということも含め、クーの置かれている状況を可能なかぎり詳細に説明した。それだけの情報を伝えれば、クーに何が起きているのか、どんな手を打てば状態を改善できるのか、獣医には見当がつくものと思っていた。しかしその回答は、「連れてきていただいたとしても、皮下点滴くらいしかしてあげられることがない」というものだった。

 その病院になんとかしてもらうことは、その時点で断念した。皮下点滴とは、前回書いたように、水分を補給するための処置にすぎない。水分なら、チューブから与えることができているから現状で十分に足りているのだ。この状態のクーに皮下点滴を施したところで、それがなんの足しになるというのか。

 あとから冷静になって振りかえると、その病院は、もしかしたらクーが東大にかかっていると聞いたせいで、変に身構えてしまっていたのかもしれない。相手は獣医学の最高峰といわれる東大附属動物医療センターだ。そこにカルテもないまま変に介入して死なれでもしたら、責任の取りようもない。だから、なにかするとしても最小限の処置、すなわち、それによって直接的に死が引き起こされる心配のない皮下点滴に留めておきたいと考えたのではないか。

 ともあれ、僕たちにできることはもはや、見守ることしかなかった。この様子では、おそらく朝まではもたないだろうと思われた。僕も妻も、そういうつもりで覚悟を決めていた。

 抗がん剤治療を始めてから、ある時点まで、経過は順調だと思っていた。薬剤の効きはめざましく、本来の病変部分は驚くほど早く縮退し、その後もぶりかえしてはいないという報告を、東大に行くたびに受けていたからだ。それなのに、本来の問題であるリンパ腫とは関係のない部分で、クーが死んでしまうというのか。理不尽な思いでいっぱいだった。

 それでも、翌日も出勤予定だった妻はある段階でベッドに向かったのだが、僕は寝ずの番をするつもりでいた。祈るような思いで経過を見守っていたところ、さいわい、明け方になる頃には、クーはおおむね平静な状態に戻っていた。ひとまずは胸を撫でおろした。

 翌日曜日にも、注入後や夜などにクーはやはり似たような様子を示したのだが、土曜日の晩ほど切迫した状態には至らなかった。その間に、東大の宿直医を通じて、次回の予約を早めてもらい、月曜日には東大まで連れていって、精密検査をしてもらった。

 しかし、検査結果からは、そういう状態になる原因と思われるものが何も見つからなかったという。にわかには信じられなかった。素人考えでひとつ思いついたのは、クーがなんらかの炎症を起こしていたのではないかということだった。

 抗がん剤の骨髄毒性により、クーの白血球は目に見えて減少していた。おりしも、そのために次の抗がん剤投与を1週間見合わせていたさなかのことである。そして白血球が少ないということは、細菌などの外敵に対する防御力が弱まっているということだ。それでなんらかの感染症にかかっていたのだと考えれば、あの息の荒さも説明がつく。しかもクーには、感染防止のために抗生剤も飲ませていた。症状がおさまったのは、それが効いた結果だったのではないか。

 僕のその見解に対して、主治医は否定的だった。もしそうなら、一度おさまった症状が翌日もまたぶりかえすとは考えづらいというのだ。いずれにせよ、そうした異状が現れたときには、その渦中にあるときに採血するなりして検査しないと、確たることは何も言えない。やはり、首にチューブが刺さっていることが大きなストレスになっており、そのために一時的な興奮状態にあったのではないか、というのが主治医の見立てだった。

 そのさなかには、僕も妻も、「これは死ぬだろう」と確信して、覚悟も決めていたのだ。それほどまでに激烈な症状だったのだ。ストレスで興奮状態にあったくらいで、あんな状態になるだろうか。その点は今もって完全に腑に落ちてはいないのだが、とにかく、首のチューブはいったん外したほうがいいだろうという話になった。

 チューブを外すと、たしかにクーはよだれを垂らしたり気持ち悪そうにしたりすることはなくなった。しかし、やはり自分ではいっさい飲み食いをしようとしない。主治医によれば、「チューブを外した途端に食欲が回復する猫もいる」とのことだったが、その期待は裏切られた。何日かは強制給餌と皮下点滴でしのいだが、根本的な解決のためには次の手立てを講じる必要があった。

 といっても、選択肢はひとつしかなかった。すなわち、当初は大がかりすぎると思って避けていた、「胃に直接通じるチューブをおなかに取りつける」というものだ。この際、背に腹は代えられないので、クーを入院させ、全身麻酔の上で取りつけ手術をしてもらうことになった。

 ところが、ここでまたしても大きな危機が訪れるのである。

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〈以下続く〉

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2020年12月25日 (金)

クーをめぐるさらなる顛末(1)

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 去年、クーが肥満細胞腫に冒されたときの一部始終はかつてこのブログで詳細に語ったが、実は今年も、クーは大病を患っている。実のところ、今年の特に後半は、コロナどころかクーの治療および介護に明け暮れていたと言っても過言ではない。例によって、話に一段落がつくまでは報告も憚られ、気がついたらこんな年の瀬も押しつまる頃合いになってしまっていた。少々長いが、今回から5回に分けてその顛末を報告したい。

 最初の兆候が現れたのは4月ごろだった。基本的に快食快便のクーが、下痢気味になってきたのだ。それが何日も続くので、これはなにかあると思い、さしあたってはかかりつけの地元クリニックに相談した。しかし、整腸剤を投与してもなんら改善の兆しが見られなかった時点で、今回は早々に東大附属動物医療センターにつないでもらうことにした。

 去年の肥満細胞腫のときの反省に基づく対応だった。前回、当初問題になっていたのは頻繁な嘔吐であり、地元クリニックでは消化器系の不具合を疑っていたのだが、東大ではそれを即座に、脾臓で増殖していた肥満細胞腫のしわざであると看破したのである。今回も、「消化器系の不具合」という見立てで悠長に「様子を見て」いたら、その間にどんどん病状が進行してしまうのではないかと恐れたのだ。

 危惧は的中しており、東大での診断は、消化器の不具合とはなんの関係もない、悪性リンパ腫というものだった。リンパ管およびそれと接している大腸がリンパ腫の影響で肥厚しており、その結果として消化機能に不全が生じていたのである。その診断を受けたのは、新型コロナウイルスが蔓延し、外出も憚られるようになっていた6月上旬のことだった。

 司令塔となっている脾臓の摘出で済んだ肥満細胞腫と違って、今回の治療としては、抗がん剤しかありえなかった。副作用もあるが、半年ほど投薬して様子を見るしかないという。そして、もし抗がん剤治療をしなかったとしたら、このあとは「もって1、2ヶ月」と宣告された。選択の余地もなく抗がん剤治療を始めてもらい、以降は原則として週に1度、東大の弥生キャンパス(本郷キャンパスに隣接する、農学部が入っているキャンパス)に通う日々が始まった。

 しょっぱなから見舞われた大きな障害は、副作用だった。抗がん剤の副作用は大きく見て二つあり、ひとつは骨髄毒性、すなわち造血機能などにもたらされる障害であり、もうひとつは消化器毒性、すなわち嘔吐や下痢、便秘など、消化機能に関わる障害である。クーの場合、まずは消化器毒性が、食欲不振という形で現れた。

 いや、「不振」というレベルではない。自分の意志では飲み食いというものをいっさいしなくなってしまったのだ。2、3日程度なら食べなくても死にはしないが、水さえ飲もうとしないので、放置していたら命をつなげなくなってしまう。次に東大にかかるまでは、地元クリニックなどで皮下点滴(毛皮と肉の間の隙間に生理食塩水などを注入し、ゆっくりと体内に水分を吸収させる処置)や強制給餌(口の中にフードを強制的に押し込んで嚥下させる処置)で生きながらえさせるよりほかになかった。

 状況を伝えたら、東大からは3つの解決策を提示された。いずれも、チューブを経由して強制的に給餌もしくは給水することに関わるものだ。

 いちばん簡単なのは、鼻にチューブを取りつけるというもの。これは麻酔も必要としないが、チューブが細いため、水しか入れられず、フードについてはこれまでどおり、強制的に口の中に押し込む形でしか与えられないし、チューブ自体が外れやすい。次に簡単なのは、食道に通じるチューブを首に取りつけるというもの。局所麻酔だけで済み、水だけでなく、液状の栄養物なら注入することができる。

 最も本格的なのは、おなかに穴を開けて胃に直接通じるチューブを装着するというもの。チューブも太いから固形物も注入できるし、これがいちばん抜けにくいので安全でもあるが、そのかわり、全身麻酔が必要になり、そのために入院させなければならない。

 鼻のチューブは論外だと思った。鼻の穴に常時チューブが刺さったままというのは、どう考えても快適であるはずがないし、どのみち水しか入れられないのではほとんど意味がない。かといって、入院させてまで胃に直接通じるチューブをつけるのもどうかと思ったので、首に取りつけるチューブを選んだ。

 チューブから給餌・給水するには、「シリンジ」と呼ばれる注射器のような形の器具が必要になる。給餌については、これを使って、クリティカルリキッドという液状の栄養物をボトルから吸い出し、チューブの先端から注入するのである(下の画像参照)。クーの体重だと、このリキッドが1日に200ccは必要ということなので、100ccずつ2回に分けて注入した。

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 生命維持に必要な栄養と水分は、これで与えることができる。飲み薬が必要な場合も、散薬を水に溶かして注入すれば済むので、その意味ではかえって楽だった。その間にも、消化器毒性の作用でひどい便秘になり、浣腸が必要になったりする不具合はあったのだが、とにかく抗がん剤治療が終わるまではこうしてしのぐしかないのだと覚悟を決めていた。注入の間、クーは基本的にはおとなしくしており、特にいやがっている気配もないので、手間がかかるだけで大きな問題はないと思っていた。

 ところが、この注入を始めて1ヶ月ほどが過ぎると、クーは注入しているさなかや直後に吐いてしまうようになった。ときには、これから注入しようとセッティングして、クーを膝に乗せて首のカバーからチューブを引き出しただけで、えずきはじめることもあった。主治医の話では、チューブ自体が吐き気を催させることはないはずだが、なんらかの違和感があり、それが気分的に吐き気に結びついているのではないかということだった。

 それでもさしあたってその方法での給餌・給水を続けるよりほかになく、だましだましやり過ごしていた。最悪の事態が訪れたのは、そのときだった。

〈以下、続く〉

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2020年5月25日 (月)

短編『獺祭の夜』を「SFマガジン」に掲載

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「SFマガジン」6月号に、僕の短編『獺祭の夜』が掲載されている。この雑誌への作品掲載は、なんと11年ぶりだ。2009年に早川書房から短編集『全世界のデボラ』が刊行されて以来、なんとなく離れてしまっていた。

その間に、「SFマガジン」は月刊から隔月刊に変わっていた。今回の6月号も、本来は先月末に刊行される予定だったのが、コロナ問題をめぐって1ヶ月延期されたものだ。

編集部のコメントに、「原稿をいただいたのは半年前ですが、究極のStay Homeともいえる状況が描かれます」とある。そのとおり、原稿はとうに書き上げていたのだが、久々だっただけに僕が少々カンを失っていて改稿が必要になったのと、担当の塩澤さん(編集長でもあるし、それ以外にもいろいろとたいへんな役職に就いておられる)があまりに多忙で、なかなか時間を作ってもらえなかったことが原因で、いつしか半年も過ぎてしまっていた。

その間にコロナ禍で世の中はこんなことになってしまい、作中に描かれる「外界との交渉が途絶えた一種の隔離状態」が、はからずも今の世相を反映したかのような趣を帯びるに至ってしまったというわけだ。

それは偶然の戯れとして、作品自体は、いろいろな意味で実に僕らしい、SFともファンタジーともホラーとも純文学とも呼びがたい、不穏さに満ちた一篇になっていると思う。

短編だと、わりとこのように「自由に、書きたいように」書かせてもらえる余地がある。まあ僕は必ずしも短編向きの書き手ではないと思うのだが(事実、これまでに刊行した25冊の小説作品のうち、短編集は『全世界のデボラ』のみだし、単行本未収録の短編も数えるほどしか存在しない)、今回、書いていて純粋に楽しかったことは否定できない。

なお、『獺祭の夜』というタイトルについてひとこと付言しておくと、このタイトルは、もともと短編集『全世界のデボラ』に収録された表題作『全世界のデボラ』のために考え出したものだった。当初、そのタイトルで書きはじめたのだが、書いている間に登場人物が「全世界のデボラ」というある意味でキャッチーな表現を口にするくだりに差しかかり、その時点で「これだ!」と思いなおして改題したのである。

それでも、『獺祭の夜』というタイトルにも愛着があり、いつか別の形で利用できないものかと思っていた。今回、それが果たせたことには自分でも満足を感じている。

ただし、短編小説『全世界のデボラ』が「SFマガジン」に掲載された2005年末から15年を経る間に、「獺祭」という日本酒のポピュラリティが格段に高まってしまったであろうことは、少しだけ残念だ。もちろん、今回の短編も、そういう銘柄の日本酒に関する物語ではまったくなく、むしろ「獺祭」という言葉そのものの本来の意味に近い使い方をしたものではあるのだが。

なんにしても、どんな形であれ作品を発表できたことは本当にありがたい。このとおり、僕はまだ生きている。

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2020年3月 3日 (火)

思い出すあの人

毎年、この季節になると、否応なくある人の死を思い出す。

2012年に実業之日本社文庫から出た『エール! 1』というアンソロジーがある。僕の最新刊『ドクダミと桜』(新潮文庫)に解説を寄せてくれた書評家の大矢博子さんが責任編集した、「働く女性」をモチーフとしたシリーズの第一弾だ。僕はそこに、『六畳ひと間のLA』という短編小説を寄稿した。通信教育による英検の対策講座の講師を務める若い女性が、受講生である52歳の得体の知れないオッサンに変になつかれて往生する、という筋書きだ。

このオッサン、主人公の講師からはひそかに「タイッつぁん」と呼ばれている小柴太一なる男性には、実はモデルが実在していた。その人とどうして知り合ったのかを説明していると、それだけでひとつの長い物語になってしまうのでそれは割愛するが、とにかく、僕より十くらい歳上だったその人は、かつてはヤクザだったこともあるが、その後足を洗い、といっても何を生計の手段にしているのかは最後まではっきりしなかったという、きわめてうさんくさい人物だった。

その人のことを、仮にマッチャンと呼ぶことにしよう。胡乱な人物ではあったが、僕は単純に好きだった。決して品はよくなかったものの、頭は決して悪くなかった。頭が悪くない人のことは、僕は好きなのだ(これを反転させたセンテンスは、あえて口にするまい)。

学がないながら、拘置所や刑務所内で無聊を慰めるために読書の習慣を身につけ、「教養」と呼んでいいのかどうかはわからないが、広く浅くいろいろなことを知っていた(経験からいって、そういう人はえてしてむしろ平均以上に読書家だったりする)。そして作家としての僕を無条件に尊敬してくれていて、当時発刊されていた僕の本は(数だけはやたらと多いにもかかわらず)あらかた(図書館で借りて)読んでくれてもいた。驚いたことに彼は、奇書中の奇書といわれることもある僕のデビュー作『ラス・マンチャス通信』に対しても、著者である僕自身を唸らせるほど深く本質的な理解を示していた。

人はときに、受けてきた教育や、培われてきた英知を軽々と跳び越える勘のよさや洞察力を示すことがある。マッチャンは、まちがいなくそのうちの一人に数えられる人だった。

彼をモデルとして造型した小柴太一が登場する『六畳ひと間のLA』も、マッチャンはおもしろがって読んでくれていた。作中の小柴が、かなりドギツい、えげつない感じで描かれているにもかかわらず。

そして作中の小柴太一は、たいへんさびしい死に方をする。街なかである暴力事件に巻き込まれて警察病院に運び込まれ、ほどなく絶命するのだが、いまわの際に彼が口にするのは、通信講座の講師だったずっと歳下の女性の名だけであり、家族も友人も身元確認には現れないのである。

それから何年かして、そのモデルであったマッチャンも、ある日予告もなく、とてもさびしい死に方をした。一人暮らししていたアパートで、財布を持って外出しようとしているなりで、玄関ドアに向かってうつぶせに倒れたまま絶命しているのを、アパートの大家さんが発見したのだ。もともと、酒や不摂生が祟り、多臓器がやられてボロボロの状態だったらしい。

葬儀には、僕も列席した。それが、この季節だった。斎場まで向かう道中、前日までに降り積もった雪で、歩くのもままならなかったことを覚えている。そして、参列者の数は、驚くほど少なかった。一人の人間が死んだというのに、どうしてこれだけの数の人間しか集まらないのか。血の繋がった係累にせよ、友人にせよ、もう少しいてもよさそうなものなのに。その中では僕など、ほとんど晩年に知り合った新参者にすぎないのに。

あれから何年が過ぎたのか、正確には思い出せない。しかし脳裏には、生前のマッチャンが僕に送ってくれた何葉かの年賀状がちらつく。小学生男子みたいな汚い字で、それでもせめてもの正月らしい彩りを添えようとして、何色かのマーカーでわざわざ書き分けた上で送ってくれた拙いメッセージが。そんな彼からの年賀状を受け取ることは、今後、未来永劫ありえないのだ。

そういうせつなさを掬い上げることもできずに、「作家」を僭称することができようか。作家として八方ふさがりの状況が続く中で、自分が何をなすべきなのかが少しだけわかりかけてきたような気がする。「わかりかけてきた」「ような気がする」って、ものすごく迂遠な感じだけど。

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2020年2月15日 (土)

ある業界内告発

もちろん全員とは言わない。しかし、編集者と呼ばれる人々の中には、まちがいなく一定量、社会常識をわきまえていないとしか思えない人が含まれている。

たとえば、こちらから(明瞭になんらかの回答を求めている)メールを何通送っても、無視しつづける人。こっちだってなにも、頭ごなしに恫喝しているわけでもないし、ストーカー的に毎日たてつづけに送ったりしているわけでもない。相手の立場や都合も考慮しながら、それでもていねいに事情を説明した上で、あくまで控えめになんらかの応答を求めているだけだ。

すぐに返信がなかったとしても、「忙しいのかもしれない」などと慮り、1週間、2週間、場合によっては1ヶ月もスパンを置いてから、「お送りしたメールはご覧になっていただけているでしょうか?」と確認しているにすぎない。

それでも、返信はない。その時点で、その神経が僕には理解できない。

色よい返事を返せないことが気まずいのかもしれない。ただでさえ、それまで長い間自分からは連絡ひとつしなかったことで引け目に感じているのかもしれない。だとしても、「何も返さない」ことでそれが解消できるだろうか。いつまで経っても返信を受け取れない側が、どんな思いでそれを待っているのか、想像してもみないのだろうか。

こちらが求めていることを果たせないなら、それはそれでいい。ただその事実を率直に告げてくれさえすれば、それで済む話なのだ。こっちだって大人なのだから、できないこともあるということくらいハナから承知している。

そういうことも踏まえて、「むずかしいとは思いますが」とか、「むずかしいということならそれでかまいませんので」などとあらかじめ逃げ道を設けてあげていることさえある。それでも返事ひとつよこさないというのは、いったいどういうつもりなのか。

僕が彼らに「社会常識がない」というのは、そういうケースだけに留まる話ではないのだが、「こういうところがおかしい」というのを具体的に例示するだけでかなりの字数を費やしてしまうと思われるので(さりとて具体的に例示しないと、そのおかしさは伝わらない)、それは控えておこうと思う。

とにかく、作家になって驚いたことのひとつは、それだったのだ。作家が非常識というのなら、まだわかる。僕自身は、サラリーマン時代もそこそこ長かっただけに、そういう意味での非常識さはたぶんかなり稀薄な作家であると自認しているのだが(自認しているだけで、実際には違うのかもしれない)、編集者といったら普通は仮にも会社員ではないか。

それでそんな社会常識の欠如を抱えているのだとしたら、どうなってしまうのか。それとも、仕事上相手にしているのがもっぱら(非常識な人であることも高頻度でありうる)作家だから、そういう欠点がたまたま表面化していないだけなのか?

そういう「なにか大事なものが欠けた編集者」には、作家になってかなり初期の頃から折々に遭遇していたが、作家としての僕の立場が格段に弱くなってからは、さらに遭遇率が高まる次第となった。もちろん、売れっ子作家よりも気を遣わなくていい相手だから、ということなのだろうが、僕が問うているのはそれ以前の問題、人としての姿勢、社会人としてのあり方なのだ。いいのかそれで?

そんな中、今日はある編集者からメールをいただいた。もう何年も前に、某誌に連載して単行本化された作品を担当してくれていた人だ。その本も例によってまったく売れなかったため、「次の仕事」に続いたわけでもなく、その人とも仕事上の関わりはほぼ絶えて久しかったのだが、勤めていたその出版社を退職するにあたって、ひとこと「お世話になりました」と述べてくれたのだ。

その人は、くだんの作品を通じて関わりがあった頃のちょっとした思い出話も添えてくれていて、ちょっと胸が熱くなった。たとえ、その後具体的には仕事に結びつかなかったとしても、こうしたメールが1通あるだけでまったく違う。でも現実には、ひとことの挨拶もなく知らぬ間にフェードアウトしてしまう編集者が大半なのだ(僕はそれを、久々に送ったメールが戻ってきてしまうことによって知ることになる)。

忙しいのはわかる。気まずいのもわかる。でも、だったらひとこと、「残念ながらその後、お仕事でお力になることはできませんでしたが」などと言い添えてくれさえすれば、こちらとしてはすっきりした気持ちでその人を見送ることができるのに、と思う。

でもまあ現状、関係が今もってアクティブである編集者など数えるほどしかいないので、今さらこんなことを言ってもあまり意味がないのだろう。今日は、長年の間にひそかに溜め込んでいた釈然としない思いを、つい吐露してしまったというところだと思ってほしい。

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2020年2月10日 (月)

『冥王星パーティ』の消された部分

前回、『あの日の僕らにさよなら』すなわち『冥王星パーティ』で、第一稿の約800枚から300枚分ほどの過酷なダウンサイジングを余儀なくされたいきさつについて書いた。その過程で、何人かの重要人物を消したことについても述べた。実は、当の第一稿の文字データは、今でもまだそのままの形で保持している。

主人公の一人である都築祥子が、物語の終盤では本来、奥多摩の豪邸で富豪に雇われているという設定だったこともすでに述べたとおりだが、そのくだりに登場する「皆井」という人物のことを、書き手である僕自身はとても気に入っていた。祥子が身を寄せるのは、大手製薬会社である「コーシン製薬」の創業者であり、現在は会長職も退いて隠居生活を営む船津甚三郎なる人物のもとなのだが、皆井もまた、その船津にお抱え運転手のような立場で雇われている身なのである。

以下は、いろいろあって11年ぶりに祥子と連絡のついたもう一人の主人公・桜川衛が、祥子が現住所で開催するという「ささやかな宴」に招かれ、言われるままに奥多摩駅前まで赴き、まずは皆井に迎えられる場面である。

*****

 まもなく、駅前にただ一台だけ停めてあった白いライトバンから、サングラスをかけた白いウインドブレーカーの男が出てきて、こちらへ向かってきた。どちらかというと関わり合いになりたくないタイプの人間に見えて躊躇したが、ためしに注意を促すように会釈をしてみる。しかし男は、一瞬だけ怪訝そうに衛の方を見ただけでその脇を素通りし、背後にあるトイレに向かっていく。
 途端に、祥子名義で送られてきた招待状の真実性が疑わしくなってくる。ともすれば、結果として衛一人になること自体、仕組まれたことだったのではないか。自分を陥れるために、望月と香原とでひと芝居打った? いやそれなら、仕掛人の顔がわかるだけまだましだ。彼らが無関係だとすれば、いったい誰が、何の目的で衛をここに呼び出し、酷寒の中放置しているのか。
 匿名の悪意のようなものが、不意に肌で直接感じられるような実在感を伴ってまといついてくる気がして、衛は怖気をふるった。そのとき、目の前に男が現れた。
 威圧感を覚えたのは、衛の視界すべてを覆うほど背が高かったためで、よく見れば前頭部が禿げ上がった、どこか愛嬌のある顔立ちだ。その見かけから想像するよりずっと深みのある青年らしい声で、男が言った。
「失礼ですが、香原さんか、そのお友達の方では?」
「あ、はい……桜川と申しますが、都築さんのところから?」
「ええ、皆井という者です。お迎えに上がったんですが、三人でいらっしゃるものとばかり思っていましたので……。桜川さんですね、お名前は伺っております」
 衛の中に、安堵が広がった。
 ブルージーンズにモカブラウンのシベリアンパーカー。皆井と名乗るこの男は、着ているものこそカジュアルだが、姿勢のよい長身とあいまって、全体にしゃれた雰囲気が漂っている。五十は過ぎているだろうと思われる年齢のわりに、ずいぶん若々しい。それに、メガネの奥の細い目や声の響きに、理知的ななにかを感じさせる。暴力的なことに自ら手を染めたり、それに加担したりすることはなさそうに見える。
「すみません、ちょっとわけあって、私一人になってしまったんですが……」
 そう言いながら衛は、この瞬間まで皆井はどこに身を潜めていたのだろうと訝った。どこかから衛の姿を認めて近づいてきたその気配もなく、だしぬけに目の前に出現したかのように見えた。
「そうですか、お一人でもお出でになれてよかったです。祥子さん、お待ちしてますから」
 皆井はそう言ってそつなく笑いながら、駅前の道に出て、陰になっているところに衛を誘導した。駅の敷地内から続く通用口のようなところに、黒塗りのベンツがひっそりと鎮座している。
「こんな大げさな車ですみませんね。もちろん、私の私物ではないんです。私はいわば、船津会長の……もう会長ではないんですが、私はどうも落ち着かなくていまだにそうお呼びしてるんですが、とにかく私は、会長のお抱え運転手みたいなものですので」
 後部座席のドアを開いて手慣れた様子で衛を招じ入れるさまはまさに「お抱え運転手」然としているが、この男は最初からこの仕事をしていたわけではないだろう、となんとなく直感した。
「十五分ほど、走ります」
 皆井はそう言うなり、アクセルを踏み込んだ。ベンツ特有の鈍い振動がシートから伝わってくる。顧客の中にベンツを乗り回している社長がいて、何度か、送るというのを断りきれずに乗せてもらったことがある。ただ、証券マンとしてではなくベンツに乗せられるのは、初めてだった。
 ベンツはゆるやかに車道を滑り、橋をひとつ渡り、ふたつ渡った。コンビニやガソリンスタンドなど、この時間まで営業しているいくつかの店舗を通り過ぎてしまうと、道の両脇はもう死に絶えたように真っ暗になった。そこまで無言でハンドルを繰っていた皆井が、ようやく人心地がついたとでも言わんばかりに口を開いた。
「遠かったでしょう? これでも東京都なんですがね」
「そうですね……。皆井さんも、こちらにお住まいなんですか?」
「今はね。会長宅に住み込みで働いてます。会長宅と言っても、これから向かうところはもともと別荘みたいなもので、会長ご自身、週の半分は渋谷の本宅でお過ごしになってるんですがね。お聞き及びかどうか、人工透析を受けておられて」
「ああ……だそうですね」
 そのために通っていた都心部の大病院で、祥子を見初めたのだと榛菜から聞いている。
「普段はその送り迎えに忙殺されているってところですね、私は」
 そう言って皆井は笑った。特におかしくもなかったが、衛も調子を合わせて「ははぁ」とあいまいに笑った。
「そうすると、皆井さんはコーシン製薬の社員と言うよりは、船津会長ご自身に雇用されておられるわけですか?」
「社員……でした、昔は。もう十年ほど前ですが」
 続きを言うものかと待ってみたが、皆井はそれきり無言でハンドルを操作している。それ以上突っ込んで訊くのも憚られて黙っていると、その正当な続きであるかのような口調で皆井の方から再び口を開いた。
「今は個人契約ですので、祥子さんとはまあ、言わば同僚ですね」
「あの、それなんですけど……」
 衛はその言葉尻を捉えて、少し運転席の方に身を乗り出した。
「実は僕、よくわかってないんですよ、都築さんの、そちらにおける立場とか。そもそも、僕なんかが今日こうしてお邪魔するのは、なにかとんでもなく場違いなことだったりしませんか?」
「それはないでしょう」
 皆井は言下に否定した。
「会長ご自身、今日はこちらにいらっしゃいますし、あなたがたが……いや、結局桜川さんだけになってしまいましたが、とにかく、祥子さんの古いお友達がいらっしゃることは承知していらっしゃいます。たぶん、最初だけ挨拶に見えると思いますよ」
「あの、ぶっちゃけたところ、都築さんは、会長にとってどういう……?」
「愛人なんじゃないかってことですか?」
 そう言いながら皆井は笑った。
「愛人ではありませんよ。一介の被雇用人に過ぎません、私と同じように。私が会長の送り迎えをすることで給料を頂いているように、祥子さんもあの屋敷である役割を担うことによって給料を受け取っているだけです。気にされているのはたぶん、その“役割”が、性的な内容を含んだものなのかどうかってことなのではありませんか? だとしたら、答えはノーです。おそらく」
「おそらく?」
 皆井は口をつぐみ、言葉を選ぶような間を空けてから続けた。
「会長は今年で八十五になられたご老体です。その老いた脳の中でどんな幻想が渦巻いているのかは、誰にもわからないってことです。もちろん、私にもね。でもそれは、会長のプライバシーに属することですからね」
 皆井はそんな謎めいたことを言って、くすくすと笑った。
「ま、とにかく、心配なさるようなことはありませんよ。会長は、与えられた仕事をしているとき以外の祥子さんには興味をお持ちにならないんです。もちろん、その交友関係にもね。ほぼ、自由放任です。ただ……そうそう、ひとつ、申し上げておかなければならないことがありました」
「何でしょう?」
「会長は祥子さんのことを“トシエさん”とお呼びになると思いますが、戸惑われないように」
「“トシエさん”、ですか?」
「桜川さんまで調子を合わせてそうお呼びになる必要はありませんけどね。会長にとって、祥子さんは“トシエさん”なんですよ。それだけ、覚えておいていただければと」
 道が山腹に沿って大きなカーブを描き、わずかばかりの街の灯が、闇の底にたゆたう鬼火のように一瞬だけ浮かび上がってすぐ森に呑まれた。まもなくベンツは右折して森に挟まれた細い道に入り、ライトが届く範囲以外のすべてが真っ黒に塗り込められた。
 道幅や視界の狭さが引き起こす錯覚なのか、この道に入ってからの方が皆井の運転が荒くなったように感じられ、斜め後ろからの横顔だけが見える皆井の人格までもが豹変してしまった気がした。しかし、衛の不安が本格的なものに変わる前に、皆井はそれまでどおりの知的で穏和そうな顔で振り返って、「じきですよ」と言った。

******

 14年も前に書いた文章ではあっても、われながら、綻びひとつ見られない文章だと自画自賛したくなる。こういったくだりを丸々破棄しなければならなかったのは、本当に惜しいと今でも思う。というか、今でも僕の中には、この「皆井」という人物が確たるリアリティを備えた人物として存在しているのだ。

 しかしその一方で今さらながら思うのは、この書きぶり、「なんか、村上春樹くさくないか?」ということだ。『愛ゆえの反ハルキスト宣言』で村上春樹をさんざんこきおろした僕だが、影響を受けていたことはやはりどうにも否定できないようだ(もちろん僕は、あの本の中でもその点については最初から素直に認めているのだが)。

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2020年2月 7日 (金)

『あの日の僕らにさよなら』をめぐる複雑でめんどうくさい思い

 僕は現在、twitterのプロフィール欄に、「代表作は『あの日の僕らにさよなら』と書かざるをえないのが本人としてはなんとも不本意」との一文を添えている。気にしている人などほとんどいないだろうが、その一文の真意に当たるものを、ここで述べておこうと思う。あの本に惹かれて僕の存在を知った人がくだんの一文を見たら、落胆したり怪訝に思ったりするかもしれないからだ。

 『あの日の僕らにさよなら』は、僕にとって4作目の長編小説だ。単行本として刊行された2007年当時は、『冥王星パーティ』というタイトルだった。それはまったく売れなかったのだが、2012年の暮れ、文庫化に当たって現タイトルに改題されてから、風向きが変わった。

 しばらくするとどうした拍子かじわじわと売れはじめ、本格的に火がついてからは毎週のように重版の連絡が入り、最終的には10万部を超えるヒットになった。それでもいわゆるベストセラーに比べればささやかな数だが、ほとんどの本が初版止まりである僕にとっては、未曾有の売れ行きだったといっていい。

 それ以外に、僕の本で「売れた」といえる作品は、ほぼない。映画化もされた『忘れないと誓ったぼくがいた』は若干売れたが、それもあくまで「若干」レベルだ。だから僕は、自分の代表作としては、好むと好まざるとにかかわらず、『あの日の僕らにさよなら』の書名を挙げないわけにはいかないのだ。

 それをどうして「不本意」とあえて明記するのかというと、著者本人としては、売れたかどうかにかかわらず、あれよりずっとすぐれた作品がその後ほかにいくらでも書かれているではないか、という思いを否定できないからだ。

 もちろん、『あの日の僕らにさよなら』——というより、『冥王星パーティ』という作品に対する思い入れは、僕自身にもそれなりにある。

 定義不能な怪作である『ラス・マンチャス通信』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞することで作家デビューを果たした僕は、その後の作家としての路線をどう引いていくのかという問題にしょっぱなから対峙させられ(というのは、デビュー作のままの路線では、カルト的な人気を博す可能性こそあれ、一般的にはまったく注目されないであろうことが自明だったから)、続く2作では迷走の限りを尽くしている。

 『忘れないと誓ったぼくがいた』は、当時流行っていた「セカチュー」や「いまあい」などの純愛路線を露骨に意識したものだったし、3作目の『シュガーな俺』に至っては、自らの糖尿病体験をベースにした半自叙伝的な内容、とまるで一貫性がなかった。デビュー作から続くこの3作で、僕の統一された作家像を形成するのは困難だっただろう(なぜそのタイミングでそういう作品を書いたのかには、それぞれそれなりの必然性があったにしても)。

 『冥王星パーティ』は、そうした迷走にいったん区切りをつけ、「この路線で行きます」という意思表示を果たすべく書いた、当時としては会心の作だった。僕個人としては、一種の仕切り直しというか、「再デビュー」に臨むくらいの気構えだったのだ。

 日本ファンタジーノベル大賞でデビューした僕だが、僕がそれでデビューしたことは単なる偶然にすぎず、僕自身は自分のことを「ファンタジー小説作家」だなどとは最初からかけらも思っていなかった(「ファンタジー小説」なんてものは存在しない。小説そのものが、必然的にもともと一種のファンタジーなのだ)。デビューによってついてしまった色を、僕は『冥王星パーティ』でいったんリセットしたかったのである。

 しかし、気負いすぎたせいか、僕は執筆途上で致命的な失敗をやらかした。

 当初、4百字詰め原稿用紙換算で「400枚程度」(標準的な1冊に当たる分量)にすると銘打って書きはじめたところ、書いている間に乗りに乗ってしまい、気持ちの赴くままに書き進めていったら、第1稿はなんと800枚ほどの大部の作品になってしまったのだ。それでもなんとかなるだろうとタカをくくっていた僕は、当時の新潮社の担当編集者からのひとことに言葉を失った。

「おもしろかったです。でも、長すぎます。300枚程度減らしてください」

 800枚のうちの300枚といえば、半分にも迫る分量だ。それを削れというのか――。しばらくは原稿を読みかえす気にすらなれずに放置していたが、それではなんの解決にもならない。やがて僕は肚を決めて、言われたとおりのダウンサイジングを図るべく、原稿に再び向き合った。

 当然、設定の一部も根本的なレベルで改めざるをえなかったし、その過程で、存在自体を消された重要キャラクターが何人も発生した。

 『冥王星パーティ』というタイトルは、主人公の1人である都築祥子が、物語の終盤、国立市のアパートで人目を憚るようにひっそりと一人暮らししながら、「ここにいると、まるで一人で冥王星(=この世の果て)にでもいるみたいな気持ちになる」という意味のひとことを漏らすところから来ている。

 でも本来、このタイミングで祥子が住んでいるのは、国立市ではなく、奥多摩のはずだった。奥多摩駅から車でさらに何十分も山のほうへ向かった先にある、人里離れた豪邸で、年老いた富豪の身のまわりの世話をする介助人のような立場で雇われ、俗世とはほとんどの交流を絶っているという設定だったのだ。だからこそ、そこが「冥王星みたい」という祥子のつぶやきも当を得ていたのである。

 でも結果として僕は、その「奥多摩パート」を丸々削除し、そこに登場していた人物を何人も消去した。そして舞台をずっと都心部に近い国立に移し、もう1人の主人公である桜川衛と祥子の11年ぶりの再会、という本筋に関わるエッセンスだけを残す形で、該当部分を大幅に書き改めた。

 まさに身を削る思いだった。自分がひとたび、文字を使って造形し、彫琢し、築き上げた世界を、ほぼ丸ごと葬り去る——そのことがこれほどつらいとは、想像したこともなかった。でもそれをしなければ、作品を刊行すること自体が危うくなるような状況だったのだ。すでに名が売れていて定評もある作家でもないかぎり、上・下巻にわたるような長い作品を出版できる望みなどほとんどないのだから。

 思えば、作品を起稿する前の段階で、ときにはA4で15ページにも及ぶ長く詳細で綿密なプロットをきっちりと組み上げておくようになったのは、このときの苦い思い出がきっかけだったのではないかと思う。

 あらかじめプロットを高い精度で明瞭に定め、編集者とのコンセンサスも取っておき、それに従って本稿を書き進めているかぎり、作品のサイズ自体が見込みと変わってしまうような逸脱など、執筆途上で起こりようはずもない。そして何度か長編小説を書いた経験があれば、最終的に「400枚〜500枚程度」の作品に仕上げるには、これくらいのプロットでちょうどいいはずだ、という加減もわかってくる。

 それが、ある時期以降の僕の基本姿勢になった。僕はもう二度と、『冥王星パーティ』のときに味わったような断腸の思いをくりかえしたくなかったのだ。

 ともあれ、こうして300枚近くのダウンサイジングを経てできあがったのが、『冥王星パーティ』という作品だったわけだ。担当編集者も、「よくこんなに上手に直しましたね」と感心してくれていたし、自分でも、これだけ根本的なスキームの変更をしていながら、それなりのオチがつくもっともらしい物語に仕上がっていることを自画自賛したりもした。

 しかし、やはりそれは、本来なら考えられないほどの規模の大手術にはちがいなかった。右腕と左足を根元から切断し、いくつかの臓器を摘出したというのにも近いレベルの改変だったのだ。その痕跡を、あとかたもなく消すことなどできようはずもなかった。

 改稿しているさなかの僕には当然、「切断面」がどこにあるのか、逐一わかっていた。本来はその間に、30枚にも及ぶ重要な場面があった、ということを知っていた。それだけに、切断した部分が目立たないようにと、僕は前後を見定めながらその部分を周到に鞣し、ヤスリをかけて突起を滑らかにしていった。

 でもそれにも限界がある。今見ると、「ああ、ここにザックリと傷跡が残っている。前後に“段差”がある」「ここのつながりがなんだか唐突で不自然になっている」と気になってしまってしかたのない箇所がいくつも目につく。そういうのは、スマートではない。今の僕なら、許しがたく思うほどの瑕疵だ。

 この作品が文庫化され、『あの日の僕らにさよなら』とタイトルを変えたことがきっかけで万単位の人の手に届き、中には好意的な感想を寄せてくれる人が出てきてくれたことは、もちろん嬉しかった。でも僕はその一方で、こうも思っていたのだ。

 「僕の唯一売れた本が、どうしてよりによって、こんな欠点だらけの作品でなければならなかったのか」と。「もしもそれがこの本ではなく、その後に書いた、もっと完成度が高く、洗練されていて、今の僕が読み返しても納得できるようなクオリティの作品であったとしたら、その後の流れも変わっていたのではないか」と。「その作品で僕を知った人が、もっとたくさん、その後も僕の本を読もうと思ってくれていたのではないか」と。

 でもそれは、そもそもありえない仮定なのだ。なぜなら、僕自身がその作品をどう評価していようと、『あの日の僕らにさよなら』を超えるレベルで売れた本などひとつもなかったのだから。

 と言いながら、一方で僕は思っている。『あの日の僕らにさよなら』が例外的に売れたのは、単なる偶然にすぎない。いろいろな条件がたまたまうまい具合に重なって、ヒットにつながっただけなのだ。あの本が売れたのは、あれが僕の二十数作に及ぶ小説作品の中でとりわけすぐれていたからでもなんでもなく、たまたましかるべきタイミングでしかるべき位置にあの作品があったからにすぎないのだ、と。

 16年にわたって、二十数作も本を出してきていれば、それくらいのことはわかる。それはとてもやりきれないし納得できないことでもあるが、僕はそれに対してなんらなすすべがないのだ。

 いずれにしても、twitterのプロフィール欄にあるあの一文にこめられた真意は、ことほどさように入り組んだ複雑な心情に基づくものなのだということだけは、これでわかってもらえるのではないかと思う。

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