2020年5月25日 (月)

短編『獺祭の夜』を「SFマガジン」に掲載

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「SFマガジン」6月号に、僕の短編『獺祭の夜』が掲載されている。この雑誌への作品掲載は、なんと11年ぶりだ。2009年に早川書房から短編集『全世界のデボラ』が刊行されて以来、なんとなく離れてしまっていた。

その間に、「SFマガジン」は月刊から隔月刊に変わっていた。今回の6月号も、本来は先月末に刊行される予定だったのが、コロナ問題をめぐって1ヶ月延期されたものだ。

編集部のコメントに、「原稿をいただいたのは半年前ですが、究極のStay Homeともいえる状況が描かれます」とある。そのとおり、原稿はとうに書き上げていたのだが、久々だっただけに僕が少々カンを失っていて改稿が必要になったのと、担当の塩澤さん(編集長でもあるし、それ以外にもいろいろとたいへんな役職に就いておられる)があまりに多忙で、なかなか時間を作ってもらえなかったことが原因で、いつしか半年も過ぎてしまっていた。

その間にコロナ禍で世の中はこんなことになってしまい、作中に描かれる「外界との交渉が途絶えた一種の隔離状態」が、はからずも今の世相を反映したかのような趣を帯びるに至ってしまったというわけだ。

それは偶然の戯れとして、作品自体は、いろいろな意味で実に僕らしい、SFともファンタジーともホラーとも純文学とも呼びがたい、不穏さに満ちた一篇になっていると思う。

短編だと、わりとこのように「自由に、書きたいように」書かせてもらえる余地がある。まあ僕は必ずしも短編向きの書き手ではないと思うのだが(事実、これまでに刊行した25冊の小説作品のうち、短編集は『全世界のデボラ』のみだし、単行本未収録の短編も数えるほどしか存在しない)、今回、書いていて純粋に楽しかったことは否定できない。

なお、『獺祭の夜』というタイトルについてひとこと付言しておくと、このタイトルは、もともと短編集『全世界のデボラ』に収録された表題作『全世界のデボラ』のために考え出したものだった。当初、そのタイトルで書きはじめたのだが、書いている間に登場人物が「全世界のデボラ」というある意味でキャッチーな表現を口にするくだりに差しかかり、その時点で「これだ!」と思いなおして改題したのである。

それでも、『獺祭の夜』というタイトルにも愛着があり、いつか別の形で利用できないものかと思っていた。今回、それが果たせたことには自分でも満足を感じている。

ただし、短編小説『全世界のデボラ』が「SFマガジン」に掲載された2005年末から15年を経る間に、「獺祭」という日本酒のポピュラリティが格段に高まってしまったであろうことは、少しだけ残念だ。もちろん、今回の短編も、そういう銘柄の日本酒に関する物語ではまったくなく、むしろ「獺祭」という言葉そのものの本来の意味に近い使い方をしたものではあるのだが。

なんにしても、どんな形であれ作品を発表できたことは本当にありがたい。このとおり、僕はまだ生きている。

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2020年3月 3日 (火)

思い出すあの人

毎年、この季節になると、否応なくある人の死を思い出す。

2012年に実業之日本社文庫から出た『エール! 1』というアンソロジーがある。僕の最新刊『ドクダミと桜』(新潮文庫)に解説を寄せてくれた書評家の大矢博子さんが責任編集した、「働く女性」をモチーフとしたシリーズの第一弾だ。僕はそこに、『六畳ひと間のLA』という短編小説を寄稿した。通信教育による英検の対策講座の講師を務める若い女性が、受講生である52歳の得体の知れないオッサンに変になつかれて往生する、という筋書きだ。

このオッサン、主人公の講師からはひそかに「タイッつぁん」と呼ばれている小柴太一なる男性には、実はモデルが実在していた。その人とどうして知り合ったのかを説明していると、それだけでひとつの長い物語になってしまうのでそれは割愛するが、とにかく、僕より十くらい歳上だったその人は、かつてはヤクザだったこともあるが、その後足を洗い、といっても何を生計の手段にしているのかは最後まではっきりしなかったという、きわめてうさんくさい人物だった。

その人のことを、仮にマッチャンと呼ぶことにしよう。胡乱な人物ではあったが、僕は単純に好きだった。決して品はよくなかったものの、頭は決して悪くなかった。頭が悪くない人のことは、僕は好きなのだ(これを反転させたセンテンスは、あえて口にするまい)。

学がないながら、拘置所や刑務所内で無聊を慰めるために読書の習慣を身につけ、「教養」と呼んでいいのかどうかはわからないが、広く浅くいろいろなことを知っていた(経験からいって、そういう人はえてしてむしろ平均以上に読書家だったりする)。そして作家としての僕を無条件に尊敬してくれていて、当時発刊されていた僕の本は(数だけはやたらと多いにもかかわらず)あらかた(図書館で借りて)読んでくれてもいた。驚いたことに彼は、奇書中の奇書といわれることもある僕のデビュー作『ラス・マンチャス通信』に対しても、著者である僕自身を唸らせるほど深く本質的な理解を示していた。

人はときに、受けてきた教育や、培われてきた英知を軽々と跳び越える勘のよさや洞察力を示すことがある。マッチャンは、まちがいなくそのうちの一人に数えられる人だった。

彼をモデルとして造型した小柴太一が登場する『六畳ひと間のLA』も、マッチャンはおもしろがって読んでくれていた。作中の小柴が、かなりドギツい、えげつない感じで描かれているにもかかわらず。

そして作中の小柴太一は、たいへんさびしい死に方をする。街なかである暴力事件に巻き込まれて警察病院に運び込まれ、ほどなく絶命するのだが、いまわの際に彼が口にするのは、通信講座の講師だったずっと歳下の女性の名だけであり、家族も友人も身元確認には現れないのである。

それから何年かして、そのモデルであったマッチャンも、ある日予告もなく、とてもさびしい死に方をした。一人暮らししていたアパートで、財布を持って外出しようとしているなりで、玄関ドアに向かってうつぶせに倒れたまま絶命しているのを、アパートの大家さんが発見したのだ。もともと、酒や不摂生が祟り、多臓器がやられてボロボロの状態だったらしい。

葬儀には、僕も列席した。それが、この季節だった。斎場まで向かう道中、前日までに降り積もった雪で、歩くのもままならなかったことを覚えている。そして、参列者の数は、驚くほど少なかった。一人の人間が死んだというのに、どうしてこれだけの数の人間しか集まらないのか。血の繋がった係累にせよ、友人にせよ、もう少しいてもよさそうなものなのに。その中では僕など、ほとんど晩年に知り合った新参者にすぎないのに。

あれから何年が過ぎたのか、正確には思い出せない。しかし脳裏には、生前のマッチャンが僕に送ってくれた何葉かの年賀状がちらつく。小学生男子みたいな汚い字で、それでもせめてもの正月らしい彩りを添えようとして、何色かのマーカーでわざわざ書き分けた上で送ってくれた拙いメッセージが。そんな彼からの年賀状を受け取ることは、今後、未来永劫ありえないのだ。

そういうせつなさを掬い上げることもできずに、「作家」を僭称することができようか。作家として八方ふさがりの状況が続く中で、自分が何をなすべきなのかが少しだけわかりかけてきたような気がする。「わかりかけてきた」「ような気がする」って、ものすごく迂遠な感じだけど。

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2020年2月15日 (土)

ある業界内告発

もちろん全員とは言わない。しかし、編集者と呼ばれる人々の中には、まちがいなく一定量、社会常識をわきまえていないとしか思えない人が含まれている。

たとえば、こちらから(明瞭になんらかの回答を求めている)メールを何通送っても、無視しつづける人。こっちだってなにも、頭ごなしに恫喝しているわけでもないし、ストーカー的に毎日たてつづけに送ったりしているわけでもない。相手の立場や都合も考慮しながら、それでもていねいに事情を説明した上で、あくまで控えめになんらかの応答を求めているだけだ。

すぐに返信がなかったとしても、「忙しいのかもしれない」などと慮り、1週間、2週間、場合によっては1ヶ月もスパンを置いてから、「お送りしたメールはご覧になっていただけているでしょうか?」と確認しているにすぎない。

それでも、返信はない。その時点で、その神経が僕には理解できない。

色よい返事を返せないことが気まずいのかもしれない。ただでさえ、それまで長い間自分からは連絡ひとつしなかったことで引け目に感じているのかもしれない。だとしても、「何も返さない」ことでそれが解消できるだろうか。いつまで経っても返信を受け取れない側が、どんな思いでそれを待っているのか、想像してもみないのだろうか。

こちらが求めていることを果たせないなら、それはそれでいい。ただその事実を率直に告げてくれさえすれば、それで済む話なのだ。こっちだって大人なのだから、できないこともあるということくらいハナから承知している。

そういうことも踏まえて、「むずかしいとは思いますが」とか、「むずかしいということならそれでかまいませんので」などとあらかじめ逃げ道を設けてあげていることさえある。それでも返事ひとつよこさないというのは、いったいどういうつもりなのか。

僕が彼らに「社会常識がない」というのは、そういうケースだけに留まる話ではないのだが、「こういうところがおかしい」というのを具体的に例示するだけでかなりの字数を費やしてしまうと思われるので(さりとて具体的に例示しないと、そのおかしさは伝わらない)、それは控えておこうと思う。

とにかく、作家になって驚いたことのひとつは、それだったのだ。作家が非常識というのなら、まだわかる。僕自身は、サラリーマン時代もそこそこ長かっただけに、そういう意味での非常識さはたぶんかなり稀薄な作家であると自認しているのだが(自認しているだけで、実際には違うのかもしれない)、編集者といったら普通は仮にも会社員ではないか。

それでそんな社会常識の欠如を抱えているのだとしたら、どうなってしまうのか。それとも、仕事上相手にしているのがもっぱら(非常識な人であることも高頻度でありうる)作家だから、そういう欠点がたまたま表面化していないだけなのか?

そういう「なにか大事なものが欠けた編集者」には、作家になってかなり初期の頃から折々に遭遇していたが、作家としての僕の立場が格段に弱くなってからは、さらに遭遇率が高まる次第となった。もちろん、売れっ子作家よりも気を遣わなくていい相手だから、ということなのだろうが、僕が問うているのはそれ以前の問題、人としての姿勢、社会人としてのあり方なのだ。いいのかそれで?

そんな中、今日はある編集者からメールをいただいた。もう何年も前に、某誌に連載して単行本化された作品を担当してくれていた人だ。その本も例によってまったく売れなかったため、「次の仕事」に続いたわけでもなく、その人とも仕事上の関わりはほぼ絶えて久しかったのだが、勤めていたその出版社を退職するにあたって、ひとこと「お世話になりました」と述べてくれたのだ。

その人は、くだんの作品を通じて関わりがあった頃のちょっとした思い出話も添えてくれていて、ちょっと胸が熱くなった。たとえ、その後具体的には仕事に結びつかなかったとしても、こうしたメールが1通あるだけでまったく違う。でも現実には、ひとことの挨拶もなく知らぬ間にフェードアウトしてしまう編集者が大半なのだ(僕はそれを、久々に送ったメールが戻ってきてしまうことによって知ることになる)。

忙しいのはわかる。気まずいのもわかる。でも、だったらひとこと、「残念ながらその後、お仕事でお力になることはできませんでしたが」などと言い添えてくれさえすれば、こちらとしてはすっきりした気持ちでその人を見送ることができるのに、と思う。

でもまあ現状、関係が今もってアクティブである編集者など数えるほどしかいないので、今さらこんなことを言ってもあまり意味がないのだろう。今日は、長年の間にひそかに溜め込んでいた釈然としない思いを、つい吐露してしまったというところだと思ってほしい。

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2020年2月10日 (月)

『冥王星パーティ』の消された部分

前回、『あの日の僕らにさよなら』すなわち『冥王星パーティ』で、第一稿の約800枚から300枚分ほどの過酷なダウンサイジングを余儀なくされたいきさつについて書いた。その過程で、何人かの重要人物を消したことについても述べた。実は、当の第一稿の文字データは、今でもまだそのままの形で保持している。

主人公の一人である都築祥子が、物語の終盤では本来、奥多摩の豪邸で富豪に雇われているという設定だったこともすでに述べたとおりだが、そのくだりに登場する「皆井」という人物のことを、書き手である僕自身はとても気に入っていた。祥子が身を寄せるのは、大手製薬会社である「コーシン製薬」の創業者であり、現在は会長職も退いて隠居生活を営む船津甚三郎なる人物のもとなのだが、皆井もまた、その船津にお抱え運転手のような立場で雇われている身なのである。

以下は、いろいろあって11年ぶりに祥子と連絡のついたもう一人の主人公・桜川衛が、祥子が現住所で開催するという「ささやかな宴」に招かれ、言われるままに奥多摩駅前まで赴き、まずは皆井に迎えられる場面である。

*****

 まもなく、駅前にただ一台だけ停めてあった白いライトバンから、サングラスをかけた白いウインドブレーカーの男が出てきて、こちらへ向かってきた。どちらかというと関わり合いになりたくないタイプの人間に見えて躊躇したが、ためしに注意を促すように会釈をしてみる。しかし男は、一瞬だけ怪訝そうに衛の方を見ただけでその脇を素通りし、背後にあるトイレに向かっていく。
 途端に、祥子名義で送られてきた招待状の真実性が疑わしくなってくる。ともすれば、結果として衛一人になること自体、仕組まれたことだったのではないか。自分を陥れるために、望月と香原とでひと芝居打った? いやそれなら、仕掛人の顔がわかるだけまだましだ。彼らが無関係だとすれば、いったい誰が、何の目的で衛をここに呼び出し、酷寒の中放置しているのか。
 匿名の悪意のようなものが、不意に肌で直接感じられるような実在感を伴ってまといついてくる気がして、衛は怖気をふるった。そのとき、目の前に男が現れた。
 威圧感を覚えたのは、衛の視界すべてを覆うほど背が高かったためで、よく見れば前頭部が禿げ上がった、どこか愛嬌のある顔立ちだ。その見かけから想像するよりずっと深みのある青年らしい声で、男が言った。
「失礼ですが、香原さんか、そのお友達の方では?」
「あ、はい……桜川と申しますが、都築さんのところから?」
「ええ、皆井という者です。お迎えに上がったんですが、三人でいらっしゃるものとばかり思っていましたので……。桜川さんですね、お名前は伺っております」
 衛の中に、安堵が広がった。
 ブルージーンズにモカブラウンのシベリアンパーカー。皆井と名乗るこの男は、着ているものこそカジュアルだが、姿勢のよい長身とあいまって、全体にしゃれた雰囲気が漂っている。五十は過ぎているだろうと思われる年齢のわりに、ずいぶん若々しい。それに、メガネの奥の細い目や声の響きに、理知的ななにかを感じさせる。暴力的なことに自ら手を染めたり、それに加担したりすることはなさそうに見える。
「すみません、ちょっとわけあって、私一人になってしまったんですが……」
 そう言いながら衛は、この瞬間まで皆井はどこに身を潜めていたのだろうと訝った。どこかから衛の姿を認めて近づいてきたその気配もなく、だしぬけに目の前に出現したかのように見えた。
「そうですか、お一人でもお出でになれてよかったです。祥子さん、お待ちしてますから」
 皆井はそう言ってそつなく笑いながら、駅前の道に出て、陰になっているところに衛を誘導した。駅の敷地内から続く通用口のようなところに、黒塗りのベンツがひっそりと鎮座している。
「こんな大げさな車ですみませんね。もちろん、私の私物ではないんです。私はいわば、船津会長の……もう会長ではないんですが、私はどうも落ち着かなくていまだにそうお呼びしてるんですが、とにかく私は、会長のお抱え運転手みたいなものですので」
 後部座席のドアを開いて手慣れた様子で衛を招じ入れるさまはまさに「お抱え運転手」然としているが、この男は最初からこの仕事をしていたわけではないだろう、となんとなく直感した。
「十五分ほど、走ります」
 皆井はそう言うなり、アクセルを踏み込んだ。ベンツ特有の鈍い振動がシートから伝わってくる。顧客の中にベンツを乗り回している社長がいて、何度か、送るというのを断りきれずに乗せてもらったことがある。ただ、証券マンとしてではなくベンツに乗せられるのは、初めてだった。
 ベンツはゆるやかに車道を滑り、橋をひとつ渡り、ふたつ渡った。コンビニやガソリンスタンドなど、この時間まで営業しているいくつかの店舗を通り過ぎてしまうと、道の両脇はもう死に絶えたように真っ暗になった。そこまで無言でハンドルを繰っていた皆井が、ようやく人心地がついたとでも言わんばかりに口を開いた。
「遠かったでしょう? これでも東京都なんですがね」
「そうですね……。皆井さんも、こちらにお住まいなんですか?」
「今はね。会長宅に住み込みで働いてます。会長宅と言っても、これから向かうところはもともと別荘みたいなもので、会長ご自身、週の半分は渋谷の本宅でお過ごしになってるんですがね。お聞き及びかどうか、人工透析を受けておられて」
「ああ……だそうですね」
 そのために通っていた都心部の大病院で、祥子を見初めたのだと榛菜から聞いている。
「普段はその送り迎えに忙殺されているってところですね、私は」
 そう言って皆井は笑った。特におかしくもなかったが、衛も調子を合わせて「ははぁ」とあいまいに笑った。
「そうすると、皆井さんはコーシン製薬の社員と言うよりは、船津会長ご自身に雇用されておられるわけですか?」
「社員……でした、昔は。もう十年ほど前ですが」
 続きを言うものかと待ってみたが、皆井はそれきり無言でハンドルを操作している。それ以上突っ込んで訊くのも憚られて黙っていると、その正当な続きであるかのような口調で皆井の方から再び口を開いた。
「今は個人契約ですので、祥子さんとはまあ、言わば同僚ですね」
「あの、それなんですけど……」
 衛はその言葉尻を捉えて、少し運転席の方に身を乗り出した。
「実は僕、よくわかってないんですよ、都築さんの、そちらにおける立場とか。そもそも、僕なんかが今日こうしてお邪魔するのは、なにかとんでもなく場違いなことだったりしませんか?」
「それはないでしょう」
 皆井は言下に否定した。
「会長ご自身、今日はこちらにいらっしゃいますし、あなたがたが……いや、結局桜川さんだけになってしまいましたが、とにかく、祥子さんの古いお友達がいらっしゃることは承知していらっしゃいます。たぶん、最初だけ挨拶に見えると思いますよ」
「あの、ぶっちゃけたところ、都築さんは、会長にとってどういう……?」
「愛人なんじゃないかってことですか?」
 そう言いながら皆井は笑った。
「愛人ではありませんよ。一介の被雇用人に過ぎません、私と同じように。私が会長の送り迎えをすることで給料を頂いているように、祥子さんもあの屋敷である役割を担うことによって給料を受け取っているだけです。気にされているのはたぶん、その“役割”が、性的な内容を含んだものなのかどうかってことなのではありませんか? だとしたら、答えはノーです。おそらく」
「おそらく?」
 皆井は口をつぐみ、言葉を選ぶような間を空けてから続けた。
「会長は今年で八十五になられたご老体です。その老いた脳の中でどんな幻想が渦巻いているのかは、誰にもわからないってことです。もちろん、私にもね。でもそれは、会長のプライバシーに属することですからね」
 皆井はそんな謎めいたことを言って、くすくすと笑った。
「ま、とにかく、心配なさるようなことはありませんよ。会長は、与えられた仕事をしているとき以外の祥子さんには興味をお持ちにならないんです。もちろん、その交友関係にもね。ほぼ、自由放任です。ただ……そうそう、ひとつ、申し上げておかなければならないことがありました」
「何でしょう?」
「会長は祥子さんのことを“トシエさん”とお呼びになると思いますが、戸惑われないように」
「“トシエさん”、ですか?」
「桜川さんまで調子を合わせてそうお呼びになる必要はありませんけどね。会長にとって、祥子さんは“トシエさん”なんですよ。それだけ、覚えておいていただければと」
 道が山腹に沿って大きなカーブを描き、わずかばかりの街の灯が、闇の底にたゆたう鬼火のように一瞬だけ浮かび上がってすぐ森に呑まれた。まもなくベンツは右折して森に挟まれた細い道に入り、ライトが届く範囲以外のすべてが真っ黒に塗り込められた。
 道幅や視界の狭さが引き起こす錯覚なのか、この道に入ってからの方が皆井の運転が荒くなったように感じられ、斜め後ろからの横顔だけが見える皆井の人格までもが豹変してしまった気がした。しかし、衛の不安が本格的なものに変わる前に、皆井はそれまでどおりの知的で穏和そうな顔で振り返って、「じきですよ」と言った。

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 14年も前に書いた文章ではあっても、われながら、綻びひとつ見られない文章だと自画自賛したくなる。こういったくだりを丸々破棄しなければならなかったのは、本当に惜しいと今でも思う。というか、今でも僕の中には、この「皆井」という人物が確たるリアリティを備えた人物として存在しているのだ。

 しかしその一方で今さらながら思うのは、この書きぶり、「なんか、村上春樹くさくないか?」ということだ。『愛ゆえの反ハルキスト宣言』で村上春樹をさんざんこきおろした僕だが、影響を受けていたことはやはりどうにも否定できないようだ(もちろん僕は、あの本の中でもその点については最初から素直に認めているのだが)。

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2020年2月 7日 (金)

『あの日の僕らにさよなら』をめぐる複雑でめんどうくさい思い

 僕は現在、twitterのプロフィール欄に、「代表作は『あの日の僕らにさよなら』と書かざるをえないのが本人としてはなんとも不本意」との一文を添えている。気にしている人などほとんどいないだろうが、その一文の真意に当たるものを、ここで述べておこうと思う。あの本に惹かれて僕の存在を知った人がくだんの一文を見たら、落胆したり怪訝に思ったりするかもしれないからだ。

 『あの日の僕らにさよなら』は、僕にとって4作目の長編小説だ。単行本として刊行された2007年当時は、『冥王星パーティ』というタイトルだった。それはまったく売れなかったのだが、2012年の暮れ、文庫化に当たって現タイトルに改題されてから、風向きが変わった。

 しばらくするとどうした拍子かじわじわと売れはじめ、本格的に火がついてからは毎週のように重版の連絡が入り、最終的には10万部を超えるヒットになった。それでもいわゆるベストセラーに比べればささやかな数だが、ほとんどの本が初版止まりである僕にとっては、未曾有の売れ行きだったといっていい。

 それ以外に、僕の本で「売れた」といえる作品は、ほぼない。映画化もされた『忘れないと誓ったぼくがいた』は若干売れたが、それもあくまで「若干」レベルだ。だから僕は、自分の代表作としては、好むと好まざるとにかかわらず、『あの日の僕らにさよなら』の書名を挙げないわけにはいかないのだ。

 それをどうして「不本意」とあえて明記するのかというと、著者本人としては、売れたかどうかにかかわらず、あれよりずっとすぐれた作品がその後ほかにいくらでも書かれているではないか、という思いを否定できないからだ。

 もちろん、『あの日の僕らにさよなら』——というより、『冥王星パーティ』という作品に対する思い入れは、僕自身にもそれなりにある。

 定義不能な怪作である『ラス・マンチャス通信』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞することで作家デビューを果たした僕は、その後の作家としての路線をどう引いていくのかという問題にしょっぱなから対峙させられ(というのは、デビュー作のままの路線では、カルト的な人気を博す可能性こそあれ、一般的にはまったく注目されないであろうことが自明だったから)、続く2作では迷走の限りを尽くしている。

 『忘れないと誓ったぼくがいた』は、当時流行っていた「セカチュー」や「いまあい」などの純愛路線を露骨に意識したものだったし、3作目の『シュガーな俺』に至っては、自らの糖尿病体験をベースにした半自叙伝的な内容、とまるで一貫性がなかった。デビュー作から続くこの3作で、僕の統一された作家像を形成するのは困難だっただろう(なぜそのタイミングでそういう作品を書いたのかには、それぞれそれなりの必然性があったにしても)。

 『冥王星パーティ』は、そうした迷走にいったん区切りをつけ、「この路線で行きます」という意思表示を果たすべく書いた、当時としては会心の作だった。僕個人としては、一種の仕切り直しというか、「再デビュー」に臨むくらいの気構えだったのだ。

 日本ファンタジーノベル大賞でデビューした僕だが、僕がそれでデビューしたことは単なる偶然にすぎず、僕自身は自分のことを「ファンタジー小説作家」だなどとは最初からかけらも思っていなかった(「ファンタジー小説」なんてものは存在しない。小説そのものが、必然的にもともと一種のファンタジーなのだ)。デビューによってついてしまった色を、僕は『冥王星パーティ』でいったんリセットしたかったのである。

 しかし、気負いすぎたせいか、僕は執筆途上で致命的な失敗をやらかした。

 当初、4百字詰め原稿用紙換算で「400枚程度」(標準的な1冊に当たる分量)にすると銘打って書きはじめたところ、書いている間に乗りに乗ってしまい、気持ちの赴くままに書き進めていったら、第1稿はなんと800枚ほどの大部の作品になってしまったのだ。それでもなんとかなるだろうとタカをくくっていた僕は、当時の新潮社の担当編集者からのひとことに言葉を失った。

「おもしろかったです。でも、長すぎます。300枚程度減らしてください」

 800枚のうちの300枚といえば、半分にも迫る分量だ。それを削れというのか――。しばらくは原稿を読みかえす気にすらなれずに放置していたが、それではなんの解決にもならない。やがて僕は肚を決めて、言われたとおりのダウンサイジングを図るべく、原稿に再び向き合った。

 当然、設定の一部も根本的なレベルで改めざるをえなかったし、その過程で、存在自体を消された重要キャラクターが何人も発生した。

 『冥王星パーティ』というタイトルは、主人公の1人である都築祥子が、物語の終盤、国立市のアパートで人目を憚るようにひっそりと一人暮らししながら、「ここにいると、まるで一人で冥王星(=この世の果て)にでもいるみたいな気持ちになる」という意味のひとことを漏らすところから来ている。

 でも本来、このタイミングで祥子が住んでいるのは、国立市ではなく、奥多摩のはずだった。奥多摩駅から車でさらに何十分も山のほうへ向かった先にある、人里離れた豪邸で、年老いた富豪の身のまわりの世話をする介助人のような立場で雇われ、俗世とはほとんどの交流を絶っているという設定だったのだ。だからこそ、そこが「冥王星みたい」という祥子のつぶやきも当を得ていたのである。

 でも結果として僕は、その「奥多摩パート」を丸々削除し、そこに登場していた人物を何人も消去した。そして舞台をずっと都心部に近い国立に移し、もう1人の主人公である桜川衛と祥子の11年ぶりの再会、という本筋に関わるエッセンスだけを残す形で、該当部分を大幅に書き改めた。

 まさに身を削る思いだった。自分がひとたび、文字を使って造形し、彫琢し、築き上げた世界を、ほぼ丸ごと葬り去る——そのことがこれほどつらいとは、想像したこともなかった。でもそれをしなければ、作品を刊行すること自体が危うくなるような状況だったのだ。すでに名が売れていて定評もある作家でもないかぎり、上・下巻にわたるような長い作品を出版できる望みなどほとんどないのだから。

 思えば、作品を起稿する前の段階で、ときにはA4で15ページにも及ぶ長く詳細で綿密なプロットをきっちりと組み上げておくようになったのは、このときの苦い思い出がきっかけだったのではないかと思う。

 あらかじめプロットを高い精度で明瞭に定め、編集者とのコンセンサスも取っておき、それに従って本稿を書き進めているかぎり、作品のサイズ自体が見込みと変わってしまうような逸脱など、執筆途上で起こりようはずもない。そして何度か長編小説を書いた経験があれば、最終的に「400枚〜500枚程度」の作品に仕上げるには、これくらいのプロットでちょうどいいはずだ、という加減もわかってくる。

 それが、ある時期以降の僕の基本姿勢になった。僕はもう二度と、『冥王星パーティ』のときに味わったような断腸の思いをくりかえしたくなかったのだ。

 ともあれ、こうして300枚近くのダウンサイジングを経てできあがったのが、『冥王星パーティ』という作品だったわけだ。担当編集者も、「よくこんなに上手に直しましたね」と感心してくれていたし、自分でも、これだけ根本的なスキームの変更をしていながら、それなりのオチがつくもっともらしい物語に仕上がっていることを自画自賛したりもした。

 しかし、やはりそれは、本来なら考えられないほどの規模の大手術にはちがいなかった。右腕と左足を根元から切断し、いくつかの臓器を摘出したというのにも近いレベルの改変だったのだ。その痕跡を、あとかたもなく消すことなどできようはずもなかった。

 改稿しているさなかの僕には当然、「切断面」がどこにあるのか、逐一わかっていた。本来はその間に、30枚にも及ぶ重要な場面があった、ということを知っていた。それだけに、切断した部分が目立たないようにと、僕は前後を見定めながらその部分を周到に鞣し、ヤスリをかけて突起を滑らかにしていった。

 でもそれにも限界がある。今見ると、「ああ、ここにザックリと傷跡が残っている。前後に“段差”がある」「ここのつながりがなんだか唐突で不自然になっている」と気になってしまってしかたのない箇所がいくつも目につく。そういうのは、スマートではない。今の僕なら、許しがたく思うほどの瑕疵だ。

 この作品が文庫化され、『あの日の僕らにさよなら』とタイトルを変えたことがきっかけで万単位の人の手に届き、中には好意的な感想を寄せてくれる人が出てきてくれたことは、もちろん嬉しかった。でも僕はその一方で、こうも思っていたのだ。

 「僕の唯一売れた本が、どうしてよりによって、こんな欠点だらけの作品でなければならなかったのか」と。「もしもそれがこの本ではなく、その後に書いた、もっと完成度が高く、洗練されていて、今の僕が読み返しても納得できるようなクオリティの作品であったとしたら、その後の流れも変わっていたのではないか」と。「その作品で僕を知った人が、もっとたくさん、その後も僕の本を読もうと思ってくれていたのではないか」と。

 でもそれは、そもそもありえない仮定なのだ。なぜなら、僕自身がその作品をどう評価していようと、『あの日の僕らにさよなら』を超えるレベルで売れた本などひとつもなかったのだから。

 と言いながら、一方で僕は思っている。『あの日の僕らにさよなら』が例外的に売れたのは、単なる偶然にすぎない。いろいろな条件がたまたまうまい具合に重なって、ヒットにつながっただけなのだ。あの本が売れたのは、あれが僕の二十数作に及ぶ小説作品の中でとりわけすぐれていたからでもなんでもなく、たまたましかるべきタイミングでしかるべき位置にあの作品があったからにすぎないのだ、と。

 16年にわたって、二十数作も本を出してきていれば、それくらいのことはわかる。それはとてもやりきれないし納得できないことでもあるが、僕はそれに対してなんらなすすべがないのだ。

 いずれにしても、twitterのプロフィール欄にあるあの一文にこめられた真意は、ことほどさように入り組んだ複雑な心情に基づくものなのだということだけは、これでわかってもらえるのではないかと思う。

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2020年1月25日 (土)

クーをめぐる顛末(2)

――前回からの続き。

 退院後は、嘔吐もおさまっていて、一応ゆるやかに回復に向かっているように見えたのだが、それまで食べていたドライフードをほとんど受けつけなくなっていた。食べるとすれば、パウチの「スープ」(魚肉を煮込んだ汁気の多いフード)だけだった。しかも、これは入院前からのことなのだが、クーはそれを与えても、汁の部分を飲むだけで、身は残してしまう。

 それは総合栄養食ではなく、1日に与えていい量の上限も決まっている「おやつ」扱いのフードだから、あまりたくさん与えるのもどうかというためらいもあったのだが、何も食べないよりはましだと思ってもっぱらこれを与えていた。いずれにしても身は食べないので、ほとんど固形物を口にしていないことになる。

 1週間後の診療でそれを訴えても、「まあ体調も悪いので、ぜいたくなものしか受けつけなくなっているだけでしょう」と先生はあっさりした回答しか与えてくれなかったのだが、この日の検査の結果、もっと大きな問題が発覚した。胆管炎を併発しているというのだ。それで炎症を抑える薬を追加で処方してもらい、それも飲ませていたところ、クーは見るからに元気がなくなっていった。

 再び頻繁に、しかも水っぽいものを大量に吐くようになり、みるみるうちに激痩せしていく。フードはあいかわらずほとんど口にせず、「もしかしたら食べるかも」と思って盛っておいたドライフードの皿が、何時間かおきに見るたびに少しも減っていない。胸をえぐられるような思いをさせられた。

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 上の画像が、最も痩せていた頃のクー。背骨のゴツゴツが、ボディスーツの上からでもはっきりとわかる。通常5kg前後ある体重が、この頃は3.6kgまで落ち込んでいた。人間で言えば、50kgが36kgになったようなものだから、危機のほどが推して知れる。動きもどんどん鈍くなり、たいていは隅っこのほうでただじっとうずくまっている。もはや風前の灯という感じで、「もうダメかもしれない」といったんは覚悟を決めていた。

 それでももちろん、放置はできなかった。次の診療は本来、2週間ほどあと、GW明けの予定だったのだが、待ちきれなくなって連休中に電話したところ、さいわいにも担当の先生がたまたま当直として出勤していて、そういうことならすぐに連れてきてほしいと言われ、タクシーで駆けつけた。

 先生が言うには、おそらく炎症を抑えるための薬が体質に合わなかったのが原因と思われるので、その薬はいったん投与を中止するとのことだった。それより、頻繁に吐くことから脱水症状を起こしており、それが原因で腎機能がだいぶ弱まっていて、今はそれをどうにかするのが最優先の課題だと指摘された。

 とりあえずその場で皮下点滴はしてもらったのだが、それを何日かは続ける必要があるという。本来なら入院が必要なほどの状態だが、連休中はスタッフも少なくて対応できない。地元の行きつけのクリニックに通いでもかまわないので処置を受けさせてほしいという話だった。

 それから3日にわたって、地元のクリニックに日参して皮下点滴を受けさせた。併せて、あいかわらずほとんど何も食べようとしないクーに強制的に栄養を与える処置も行なった。これはセンターの指導のもとに、自分たちでやらなければならなかった。脾臓摘出手術の際、術後に食欲がふるわなくなる可能性を見越して、胃に通じるチューブが装着されていたのだが、その先端に専用の注入器を接続して、液状のフードを胃の中に直接流し込むのである。

 液状といってもかなりドロリとしているので、細いチューブの中にはなかなか入っていかない。1度に与える量は50ml程度を目安に、と言われていたが、1分間におおむね3mlほどしか入れられないので、50ml注入するには15分くらいかかる。その間ずっと、クーを仰向けに抱っこしたまま、片手で注入器の異様に重たいプランジャーを押しつづけるのだ。クーもおなかになにかが入ってくる違和感を覚えるらしく、しきりと身をよじる。これはなかなかつらい作業だった。

 しかし苦労の甲斐あって、クーは瞬く間に元気を取り戻していった。4度目の皮下点滴を受ける頃には、腎臓の数値は正常な範囲に戻っていたし、胆管炎も自然に治癒していた。その翌日にはドライフードも食べるようになり、しかも本来の食欲が回復していた。

 そしてさらに2日後、腹部に装着していたはずのチューブがそこらにコロンと転がっているのを見たときには一瞬ぎょっとさせられたのだが、どうも元気になって走りまわっている間にどこかに引っかけて外れてしまったらしかった。念のためセンターに確認したら、「もう普通に食べられているのなら不要なものだし、どうせいずれは抜去することになっていたのだから、そのままで心配ない」とのことだった。

 そう、クーはこの頃には、すでに走りまわるほど元気を取り戻していたのである。そして5月15日、再度センターに連れていったとき、先生に診せる前に補助スタッフの人に現在の状況を説明している中で、「もう走りまわっています」と言ったときのことが忘れられない。スタッフの人は「あっ、そうですか!」と言いながら、カルテに「活動性100」と記入したのだ。「ああ、走りまわるのは“活動性100”なんだ、もう心配ないんだ」と胸を撫でおろさずにはいられなかった。

 事実、その後の検査で、数値に大きな問題はないこともわかり、東大附属動物医療センターからは「いったん卒業」とのお墨つきをもらうことができた。ここに支払った治療費の総額、中でも手術のために入院したあとに請求された金額は、一瞬絶句するほどの高額に達していたが(保険には入っていなかったので)、惜しいとはまったく思わなかった。

 その後は地元のクリニックで1、2ヶ月に1度くらいの頻度で経過観察的に血液検査を受けて、大過なければそのままでかまわないという話だった。そして現在に至るまで、大きな問題は見つかっていない。腎臓の数値がちょっと悪くなることもあるが、それは高齢の猫なら普通にあることで、腎臓サポート食をときどき与えるようにしただけで今のところはコントロールできている。

 あと2ヶ月強で、クーは13歳の誕生日を迎える。もちろん、高齢だから何があるかはわからないし、肥満細胞腫が再発する恐れもゼロになったわけではないものの、毎日、元気かつ呑気な姿を見せてくれるので、それだけで癒される。

 地元のクリニックの先生も、僕がクーを連れていくたびに、「毛並みがいいですねえ」と感心している。職業柄、どこかしらに不調を抱えた動物に触れることが多いのだから当然といえば当然なのだが、それでも、日々多くの動物に触れている人があえてそう評するということは、目下のところクーはかなり「いい状態」なのだな、と安心させられもする。

 特にここ数年、作家としての僕は筆舌に尽くしがたい逆境の中に落とし込まれていたけれど、さして落胆もせずに淡々としていられたのも、この猫が常にそばにいたということにかなりの部分を負っていると思う。逆に、クーが死んでしまったら、僕は一瞬で精神が崩壊してしまうのではないかという危惧すら抱いている。遅かれ早かれその日は必ず来るのだが、今はまだそのことを考えたくない。

 考えたくないだけで、いずれにしても避けられないということはよくわかっているのだけれど。

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2020年1月24日 (金)

クーをめぐる顛末(1)

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 いっとき、twitterで連日のように「本日のクー」として画像つきでクーの動向をレポートしていたが、途中でそれをやめてしまった。なぜやめたのかというと、去年の3月ごろからクーの具合が本当に悪くなってきて、日々呑気にレポートするどころではなくなっていたからだ。今さらながら、その顛末を、次回と合わせて2回にわたって報告しよう。

 結論から先に言っておくと、クーはその後すっかり復調して、今は毎日元気にしている(上の画像は最近のクー)。1ヶ月半おきくらいに経過観察の意味もこめて血液検査を受けさせてもいるが、今のところまったく問題がない状態だ。しかしそうなるまでには、山あり谷ありだった。

 もともと去年の年明けくらいから頻繁に吐くようになっていて、近所の行きつけの動物病院で診てもらっていたのだが、確たる理由がわからないままだった。エコー検査の結果、胃の中に不審な影が見られたことから、異物を誤飲した可能性があると指摘され、半日かけて造影検査(要するにバリウムを飲ませて腹部レントゲンを撮影すること)まで受けさせたのだが、やはり原因を突き止めるまでには至らなかった。

 妻は早い時期から、日本の動物医療においては最高峰といわれる東大附属動物医療センターで検査を受けさせるべきだと主張していた。先代の猫ういが、やはりある時期から頻繁に吐くようになり、同じ地元の動物病院でさんざん調べたにもかかわらず理由がわからず、動物医療センターに紹介してもらって調べた結果、たちどころに肺がんと判明したという経緯があったからだ(咳などもほとんどしていなかったから、肺の疾患だとは思いも寄らずにいた)。

 ただし、ういはその時点で末期に至っており、もはや手の施しようがなかった。できたのは、自宅で皮下点滴だけ行なって命をつなぎながら、その命の火が尽きるまで看取ってやることだけだった。そのときのやるせなさをよく覚えていた妻は、手遅れになる前により専門的な診断能力を持つところに早く託すべきだという考えだったのだ。

 当時、ういを病院に連れていっていたのはもっぱら妻だったし(僕がまだサラリーマンと兼業だった時代のこと)、その言い分も理解はできたのだが、クーは頻繁に吐くということさえ除けば元気そのものであり、そして目下、日がな一緒に家にいてクーの様子を見ているのも、病院に連れていくのももっぱら僕になっている。その僕が見て、そこまで深刻な事態になっているとは思えなかったし、地元の病院もとても熱心に診てくれているので、安易に紹介状を書いてもらうのもどうかというためらいがあったのだ。

 しかし、造影検査を受けてもはっきりしたことがわからなかった時点で、これはもう東大附属動物医療センターに診てもらうしかないだろうという結論になった。そして3月26日、初めてここでの検査を受けた結果、思ってもいなかった病名が告げられた。

 肥満細胞腫と呼ばれる、血液がんの一種である。「肥満」と称しているが、患畜自身の肥満度とは関係がない(実際クーは、やや太り気味とはいっても、病的なレベルでの肥満には達していなかった)。がん化している血液細胞が肥満して見えることからその名がついているという。

 動物医療センターとしては、脾臓が異常に肥大していることからそれを疑い、脾臓組織の一部を顕微鏡で見た結果、その診断に至ったという。そして、脾臓で発生したその肥満細胞腫が、すでに血管を経由して肝臓にまで浸潤している疑いがあるとの説明だった。やはり、さすが東大附属だ。地元のクリニックも熱心ではあるが、蓄積された知見の水準が比較の対象ではないのだろう。

 対処としては、脾臓の摘出以外にはほぼ選択肢がないと聞かされた。さいわい、脾臓が担っている機能は、他の臓器でも代替できる上に、この病気は脾臓が司令塔の役割を果たしており、脾臓さえ摘出してしまえば、他の臓器に浸潤した肥満細胞腫も自然に減衰することが多いのだという。

 気になるのは、それで当面の危機は回避できたとして、その後の余命はどれくらいあるのかということだった。担当の先生は確答を避け、こんな言い方をした。

「仮にそれが1年だとして、それが長いのか短いのかというのは、解釈の問題だと思います。この子はすでに12年生きているわけで、自然にしていてもそれが寿命だったという考え方もあるわけです」

 何も答えていないに等しいが、うかつなことを言って言質を取られてはまずいという意識も働いているものと解釈できた。いずれにしても、言葉どおり「1年」ということはないにしても、そう長くは生きられないと覚悟を決めておいたほうがよさそうだと思った。

 それでも僕と妻は、一も二もなく脾臓摘出手術を受けさせるという方向で意見が一致し、その場で執刀を依頼する流れになった。ただ、妻の仕事の都合や執刀する先生のスケジュール上の都合もあり、入院日は3週間近く先になってしまった。その間は投薬によって嘔吐も抑えられていたのだが、いざ入院日を迎え、手術前の検査を行なったところ、担当の先生は渋い顔をした。

「肝臓の数値がだいぶ悪くなっています。前回の検査の時点では、手術にも耐えられるであろうコンディションだったんですが、この3週間でそれがだいぶ悪化してしまいました。手術は可能ですが、このままだと当初見込んでいたよりも大きな負荷が体にかかってしまう可能性があります。術後も無事でいられる確度が低くなったということです」

 だからといって、手術を先延ばしにしてもコンディションがよくなるという保証はない。僕たちとしては、予定どおり執刀してもらう以外に道はなかった。

 入院は4泊5日の予定で、手術は入院日の翌日だった。当日は立ち会うこともできず、ただ結果が知らされるのを待つしかなかった。妻は仕事に出ていたが、僕はいつもどおり在宅していたので、手術の時間が近づくともう居ても立ってもいられず、日課であるランニングの時間をあえてそこに充てた。走っていれば、よけいなことを考えずにいられると思ったからだ(現実には、それでも考えてしまうことを避けられなかったのだが)。

 生きた心地もしなかったが、やがてセンターから電話がかかってきて、手術は無事成功し、今のところ大きな問題はなさそうだと聞かされた。全身から力が抜けて、その場にくずおれてしまいそうだった。

 翌日から連日、東大本郷キャンパス農学部の敷地内にあるセンターに見舞いに通う日々が続いた。東大附属だけあって、見舞いを受けつけているのは日中だけだ。妻は仕事があるので、僕が行くしかなかった(もちろん、僕にも仕事はあるのだが)。ちなみに、入院中の患畜に会いに行くことをセンターでは「面会」と呼んでいる。とても奇妙な表現だと思うのだが、それをいうなら「見舞い」というのもどことなく変だ。

 それはともかく、2日ぶりに顔を合わせたクーは、恐怖と心細さのあまりか、なんだかうつろな目をしていた。抱きかかえればおとなしく抱かれてはいるのだが、普段と違って喉をゴロゴロいわせるでもなく、僕とも決して目を合わせようとしない。

 毎日通っているうちに少しずつ表情が緩んできて、退院日にはようやく僕の知っている顔つきに戻ったものの、最初の頃は、このままクーは心を通い合わせられない存在になってしまうのではないかと心配になったほどだった。下の画像は、見舞い初日に待合室で撮影したものである。

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 ——以下、次回に続く。

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2019年12月24日 (火)

新刊『ドクダミと桜』

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 2年ぶりの新刊、小説としては2016年の『妻を譲らば』以来3年7ヶ月ぶり、25作目に当たる『ドクダミと桜』が、このたび新潮文庫から上梓される。文庫だが新作である。まちがえないでほしい。既刊の単行本を改題して文庫化したものではない。

 ここのところ、「文庫化に合わせて(ほとんどの場合は著者である僕自身の意に染まない)改題」を強いられるパターンが続いているので、わざわざこんなことを強調せざるをえなくなっているわけだが、タイトルについていえば、そもそも文庫化でなくとも僕自身の意見が通らないことが多い。今回はめずらしく僕の原案どおりである。原稿を書いている段階から、「このタイトルにせざるをえなくなる」ように周到に仕向けてきた結果でもあるのだが、それでもなかなかの苦戦を強いられた。僕としては快挙といいたいところだ。

 オビにあるとおり、高校中退のシングルマザーと、妊活に悩む大学図書館司書という2人の女性の、幼馴染時代から30代中盤の現在に至るまでの複雑な友情関係を描いた物語である。経済格差に分断された2人の物語でもあるが、主人公の2人はどちらも女性だ。

 前から「女性同士の友情」を描いてみたいという思いが僕にはあり、今回それが果たせた形だが、僕自身は男性なので、そういう意味ではなかなかチャレンジングな主題だった。どこまでその機微を掬いあげることができたかは、読者の厳正な評価に俟ちたい。

 装画は佐藤紀子さん。ポップながら大人の雰囲気も醸すいいたたずまいの装幀に仕上がっていると思う。さる友人には、「装幀といい、タイトルといい、向田邦子のような雰囲気」といわれ、なるほどと思った。アルバイト的に書いている「週刊朝日」での書評で、奇しくもつい先日、『向田邦子の本棚』という本について原稿をまとめたばかりであり(掲載は少し先だが)、不思議な暗合を感じる。

 解説は書評家の大矢博子さん。『遠い夏、ぼくらは見ていた』以来、解説をお願いするのは2度目だが、大矢さんの解説を読むと毎回、「この本は表向きこういう装いになってはいるが、実は真の狙いや眼目はここにある」といったあたりを実に巧みに文章化してくださっていて(というより、予測される読者のブーイングを先回りして封じてくれている、というべきか)、その穿った読みに唸らされる。まあそれだけ僕の小説が素直でないというか、どこかしらひねくれたところがある、ということでもあるのだが……。

 ともあれ、どうにか年内に形にできたことにはほっとさせられた。原稿そのものは、実は去年の今ごろにはアップできていたのだが、諸事情で刊行がずれこんでいたのだ。ここのところ、僕の周囲は「諸事情」だらけだ。大人の階段を上ってからこのかた、常に大人の事情に翻弄されている。

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2019年8月25日 (日)

二人のアンネ

 先日、「アンネの日記」のオランダ語原書を読み終え=翻訳し終えたことに触れた。細かい検証はあとまわしにして、とりあえず、僕が読んだバージョン(この本は、入り組んだ事情から長短さまざまな複数のバージョンが存在する)にもっとも近いものを底本とした邦訳と思われる本、すなわち文春文庫の『アンネの日記 増補新訂版』(深町眞理子・訳)を通して読んでみている。

 おおむねは、自分も正しく読解できていたらしく思われる。読んでいると、「そうそう、こんな場面があった」「このあと、本棚を装ったドアの向こうに灯りが残っていて、それでみんなが気を揉むはずだ」「おまるがタプンタプンになっていて、中身が漏れていたはずだ」などと具体的に思い出せることからも、それはわかる。

 自力でどうにも読み解けなかった箇所も折々にあるが、たいていの場合それは、手持ちの辞書には必ずしも例示されていない慣用句の類が使われている部分であったり、アンネが皮肉で言っているのを文字通りに解釈してしまっている箇所であったりする(僕自身、訳文の間に、「字義どおり訳せばこうなるが、それでは意味が通らない」といったメモを挿入している)。

 ところでアンネは、日記中にちょくちょくドイツ語(不正確なものが多い)を差し挟んだり、一緒に隠れ住んでいる人が使うドイツ語訛りのオランダ語をそのまま書き取ってちゃかしたりしており、ドイツ語については読み方くらいしか押さえていなかった僕はだいぶ手こずらされたのだが、僕が「その感じ」を出すために訳文に加えた工夫とよく似た試みを深町氏もしているのを発見したりすると、おこがましくも勝手に同士愛のようなものを感じたりもする。

 たとえば、ドイツ語訛りをなかなか是正できないデュッセルさん(フランク一家、ファン・ダーン一家とともに隠れ家に潜伏するユダヤ人歯科医)の台詞をどう訳しているか。深町訳と拙訳とを並べてみよう。

・深町訳:「政治情勢はしゅこぶる良好、われわれがつかまることなんて、じぇーったいにありえない。わたしは、わたしは、わたしは……!」

・拙訳:「政治に関してはシュバラシクうまくいっている。私たちが捕まることはアリエノイ。私は、わた、私は……!」

 一応解説しておくとこれは、デュッセルさんが、「すばらしい」の意のオランダ語「アイトステーケント」を「オイトシュテーケント」、「ありえない」の意の「オンモーヘルック」を「ウンモーグリック」とドイツ語風に発音してしまっているという場面なのだが、この「ドイツ語っぽさ」をどう表現するかという一点においては、僕と深町氏はかなり近いところにいるものと思われるのだ。

 とはいえ、違いもある。深町氏訳と拙訳との比較という観点からいって最も注意を促されたのは、書き手であるアンネ・フランクの「キャラ」の違いである。

 もちろん、原文は同じなのだから、あるできごとが起きたとき、そこでアンネがどうふるまうか、何をどう思うかといった事実関係の部分には差が発生しようはずがない(発生しているとすれば、それはたぶん僕の読解に問題があるということ)。僕が言いたいのはそういうことではなく、結果として訳された文章を読んでいる間に感じられるアンネのキャラが、訳し方の違いによって驚くほど違っているということなのだ。

 原書を読んでいて僕が感じたアンネのキャラは、かんたんにいえば以下のようなものだ。すなわち、基本的に聡明で機知に富み、年齢にそぐわないおとなびた語彙もこともなげに駆使する一方、その分おしゃまで小生意気で、自意識が強く、少々鼻持ちならないところもある、中二病まっさかりの(日記を書いた時点で彼女はまさに中学生くらいの年齢だったのだから、それをもって「病」と称するのはいささか不当だとしても)、今ふうにいえば「こじらせ女子予備軍」と呼びたくなるような、ちょっとめんどくさい女の子、という像である。

 深町氏ももちろん、アンネのそういう特性については十分に理解された上で、しかるべく訳文をしたためておられるものとは思うのだが、結果としてアウトプットされたものとして、深町氏のアンネは、僕のアンネよりもずっと理知的で品行方正な感じがするのだ。ここで僕が何を言わんとしているのかは、実際の訳文を読み比べてもらわないことには正確に伝わらないとは思うのだが、今はそれを省かせていただく。

 もっともこれは、あくまで「受け止め方」の問題であり、どっちがよりすぐれているということではない。翻訳した時点での時代背景の違いもあれば、翻訳者の世代の違いもある(深町氏は僕の37歳も上、僕の父親と同年)。それでも、訳文を読み比べながら、「かくまで違うものか」と驚きつづけるはめになったという点については、ひとこと言っておかねばならないと思った。両アンネが同一人物であるとは、にわかには信じがたいのである。

 なんにせよ、今後はもっと精緻な水準で訳文の比較を行なっていくことになるが、言語オタクを自認する僕にとっては実に楽しい作業になりそうだ(好きでなければこんなめんどくさい作業はできまい)。

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2019年8月13日 (火)

酒飲みの成長を見守った店の最後に寄せて

 かつて、わが家へと向かって辿る道があった。かつて、故郷へと帰る道が。かわいい人よ、泣くのをやめて。子守唄を歌ってあげるから。

 かつて、池袋にあるバーがあった。その店については、拙著『プロトコル』の「あとがき」でも言及している。作中で、主人公・有村ちさとが、上司に連れられて行った店で高級バーボン「ブラントン」を知ることになるというくだりがあるのだが、僕自身がその酒の存在を知ったのは、まさにその店においてのことだったのだ。

 その店が、先だっての8月10日をもって閉店した。

 今から思えばまだ若造だった30代の前半から通いつめた店だ。池袋という、よくも悪くも猥雑な街にはあるまじき、孤高のたたずまいを超然と保持しているバーだった。「池袋にもこんな気のきいた店があるんだよ」と自信をもって人を連れていける数少ない店のひとつだった。

 店主のY氏は僕が作家であることも知っていて、店内にずっと僕の著作を陳列してくれていた。Y氏経由で読者に引きあわされたり、Y氏のもとに預けられた自著にサインを頼まれたりすることも数知れずあった。しかも、僕自身は自作の中で5本の指に入るほどの評価を与えていながら、一般的には悲しいほどまったく知られていない『3・15卒業闘争』を、非常に高く評価してくれてもいた。彼が旅行で訪れたマチュピチュの遺跡を背景に『3・15卒業闘争』を掲げてくれていた写真は忘れられない。

 僕はY氏を通じて、この店で実にいろいろな酒とめぐりあってきた。初期の頃は当時凝っていたさまざまなカクテルを、途中からは数々の、癖のある、あるいは曰く因縁つきのシングルモルトやスピリットの類を。

 閉店に際して、直前に挨拶を兼ねて顔を出すことはかろうじて果たせたのだが、最近は諸般の事情でなかなか訪れることもできずにいたことが心の底から悔やまれる。終わりというものは、いつも突然やってくる。Y氏はいずれまた別の場所で仕切りなおすとのことだが、その店と、池袋にあったこの店とは、同じものではない。池袋のあそこに、あの場所にあったこの店には、もう二度と足を運ぶことができないのだ。

 この店で過ごした幾多の夜のことが、脳裏を駆けめぐる。「こういう酒が飲みたい」という僕のリクエストに応じて、Y氏がこちらに背中を向けて、並みいるボトルの中からしかるべき1本を物色している姿。そうしてY氏の見立てで飲んだ酒の味が、翌朝フラッシュバックのように舌の根から蘇ってきたこと。いつしか僕も50代にさしかかり、体力的な全盛期はすでに過ぎてしまった感があるが、精力も好奇心も、アルコール耐性も最もさかんだった最良の時期を、僕はこの店とともに過ごしてきたのだ。

 その最良の時期に、そういうすばらしい店に、そしてそれを統べるY氏というすばらしい人物にめぐりあえた僥倖に心から感謝すると同時に、池袋という、どう工夫してもどこかが垢抜けない街で、そういう珠玉の店を探り当てることができた自分を、僕は誇りに思う。Yさん、今まで本当にありがとうございました。そしてこれからも、少し違った形ではあるとしても、この酔っ払いを末永くよろしくお願いいたします。

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