2014年11月10日 (月)

最新刊『彫千代 〜Emperor of the Tattoo〜』発売

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 小学館より、僕の最新作、『彫千代 〜Emperor of the Tattoo〜』が刊行される。単行本としては21冊目に当たる。「きらら」20136月号から20148月号に連載された小説に手を加えたものである。

 この作品については「きらら」での連載開始時にもこのブログで軽く紹介させていただいているが、僕にとっては初の歴史小説である。

「彫千代(ほりちよ)」というのは明治時代の横浜に実在した刺青の彫り師であり、日本国内でよりもむしろ欧米諸国で名を上げ、「刺青師のエンペラー」とまで呼ばれて伝説化していた人物。本作は基本的にはその史実に基づいているが、この人物には謎も多く、結果としてはその謎の部分を僕自身の想像で大胆に補うような形でフィクションとして再構成したものといっていいだろう。

 刺青というと、イコール「怖い」「暴力団」(?)というイメージを抱く人がおおかただろうが、実際には非常に繊細で芸術的な世界である。彫千代の腕もまた、欧米人たちから第一級の芸術として高い評価を受けていた。にもかかわらず、人の肌に刻む刺青というものは、その持ち主が死んでしまえばどこにも残らない。

 そのはかないきらめきをめぐって、彫千代とその周囲の人々、師匠と弟子、女たち、仕事仲間や敵対者などが愛憎劇を繰り広げる。時は明治、ものすごい勢いで流入してくる西洋文明と伝統的な価値観がせめぎあい、ごった煮のような状態になっていた激動の時代である。そのさなかで彫千代は、静岡、大阪、京、神戸、横浜、東京、函館とあちこちを駆けめぐるのだ。

 内容については、これ以上は語らない。ただ今回は、僕がこれまでに書いたあらゆる本の中で、最も読者を選ばない、つまり、誰もがかけ値なく楽しめるものになっていると思う。誰より僕自身が、これを書き上げることによってまちがいなくひとつの大きなハードルを乗り越えたという感触を抱いている。

 読んでいただければわかるはずだ。とにかく、手に取って読んでいただきたい。絶対に損はさせない(とここまで著者が、というよりこのへそ曲がりで皮肉屋でうしろ向きで斜に構えた僕が言うのもめずらしいではないか)。

 なお、今回の表紙まわりはめちゃくちゃ豪勢である。題字はなんと金の箔押し+エンボス加工だ。書店でも異様な異物感を放つことだろう。逆に背景は、どことなくスミ1色の刺青そのものの色合いを思わせるような渋い紺色。これがなんとも「明治」な雰囲気を醸し出している。このあたりはデザインを担当してくださった山田満明さんの卓越したセンスの賜物だろう。

 カバーイラストは、「きらら」連載時のトビラ絵と「あらすじマンガ」が好評を博した煙楽(えんらく)さんの手になるものである。

 この人の描く、現代的にスタイリッシュにアレンジされた「彫千代」像があまりにハマっていただけに、カバーをお願いするのもこの人以外には考えられないということで、編集者との間では一瞬で意見の一致を見た。

 煙楽さんはこれ以外にも、目次ページや章トビラなどにたいへん心惹かれるカットを多数寄せてくださっている。どれもこれも、そのまま刺青の図案にしたくなるようなできだ。

 余談ながら、カバーの裏面にある英文(下画像)は、かつて実在した広告そのものである。明治時代、横浜の外国人居留地にあった「アーサー&ボンド」という骨董品商社が、マレー社というところから出版されていた日本旅行案内書に掲載したものだが、彫千代はいっとき、ここに刺青師として雇われていたのだ。

  この広告、よく見ると下の方にTATTOOING.という項目があり、その1行目にHori Chiyoの名が読める。これを見るたびに、「ああ、彫千代は実在したんだなぁ」とどこかピント外れな感慨をしみじみと抱かされる。この小説の執筆を通して、僕の中で彫千代という人物が、あまりにも生き生きとした確固たる「キャラクター」に育ってしまっていたからだろう。

 

 

Murray

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2014年10月11日 (土)

『遠い夏、ぼくらは見ていた』刊行

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 幻冬舎文庫より、拙著『遠い夏、ぼくらは見ていた』が刊行された。これは僕の12冊目の単行本『偽憶』(2010年刊行)を改題の上、文庫化したものだ。

 15年前の夏、海辺のキャンプに参加した小学6年生の男女5人が、27歳になる年、弁護士によって集められる。キャンプの主催者が、そのうちの1人に莫大な遺産を贈与したいとの遺言を遺していたのだ。

 条件は、当時、主催者に感銘を与えた「或る事」をした者。ただし、誰がそれをしたのかを主催者は記憶していなかった。5人は、「或る事」の内容は伏せられたまま、ただキャンプ当時のことをできるかぎり詳しく思い出して手記にまとめることを求められる。

 ------おおむねそのようなストーリーだが、原題である『偽憶(ぎおく)』という造語にも暗示されているとおり、「改竄される記憶」「記憶の不確かさ」といったものに焦点を当てているという意味では、『忘れないと誓ったぼくがいた』や『マザー』等とも連なる、僕のライフワーク的な取り組みの一環でもある。

 と同時に、大矢博子さんの解説にもあるように、これは本来、僕が「最初からミステリを標榜して書いた」ものなのだが、単行本当時より、「これって本当にミステリになってるんだろうか」という疑念から逃れることができずにいた。それ以外にも、書き手として納得できていない部分がいくつもあった。

 もちろん、本来なら、そんなものをそもそも世に出すべきではない。ただ、いささか言い訳がましくなるが、単行本を出したのはサラリーマンとの兼業時代の末期であり、心身ともに限界にかぎりなく近づいていた。「納得できていない」という自覚がありながら、ではどこをどう直せばいいのかというのを具体的に考え、なおかつ実行する余力が残されていなかったのだ。

 今回、文庫化のお話をいただいたとき、当時は力が及ばずにできなかったことを、この機会にやってしまったらどうか、と思い立った。

 単行本を文庫化するにあたって、内容に手を加えることは、僕の場合、原則としてない。せいぜい、単行本刊行後に発覚した事実関係のあきらかな誤りを正したり、校正者からあらためて受けた指摘に応じて小さな修正を施したりする程度だ。

 今の自分から見て至らない点や未熟な部分などがあったとしても、その作品はすでにその形で一度は世に出まわってしまっているわけで、それを執筆当時よりも経験を積んだ者の目で見て、その水準に合致するように書き改めるのは、一種のあと出しジャンケンのようでずるいのではないか、という思いがあるからだ。

 事実、去年から今年にかけてまずまずの売れ行きを示した『あの日の僕らにさよなら』(旧『冥王星パーティ』)も、改題はしたものの、テニヲハ以外の部分には基本的にまったく手をつけていない。

 あれは僕の4作目の小説であり、11月に出る新刊『彫千代 〜Emperor of the Tattoo〜』(小学館)が通算21作目となる僕にとっては、ほぼ「初期」の作品といっていい。正直、今から見ると「洗練されていない」と思える箇所も多々あったのだが、あえてそのままの形で文庫にしている(幸か不幸かそれがけっこう売れてしまったばかりに、いささか気恥ずかしい思いをさせられてもいるのだが)。

 しかし今回ばかりは、単行本のときのままの内容で文庫化することにどうしても抵抗があったのだ。

 そこで、担当編集者に自ら改稿を申し出て、およそ1ヶ月半、かかりきりで全面的に書き改めた。もっとも、物語の骨格部分は、さまざまな熟慮の末、結果としてそのまま活かす形になった。書き直しが「全面的」なレベルになったのは、文体そのものを改めたことによるところが大きい。

 それ以外にも、流れとして不自然さを感じさせる部分、力技で強引に束ねてしまっていた部分などを可能なかぎり滑らかに鞣したつもりだ。

 ただ、それでこの作品が単行本時代と比べてより「ミステリ」らしくなったのかというと、これがどうも怪しい。とどのつまり、いわゆる「ミステリ」を書くことは、僕にはできないのではないか------そんな思いが、以前よりかえって強まってしまった感もある。

 それでも、単行本時代よりはずっと読みやすく、納得しやすいものに仕上がったはずだという自負はある。この作品で伝えたかったテーマも、より鮮明に打ち出せているはずだ。どうか、「これはミステリであるか否か」という点にはあまりこだわらず、虚心坦懐に読んでいただきたいところである。

 なお、改題後のタイトルなどが、某既刊本ととてもよく似ていることについては、どうか深く突っ込まない方向でご高配たまわれれば幸いである。世の中には「大人の事情」というものがあるのだ。


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2014年8月24日 (日)

『忘れないと誓ったぼくがいた』映画化決定

 僕の2作目の長篇小説『忘れないと誓った僕がいた』(2006年・新潮社/2008年・新潮文庫)の映画化が決定した。詳細については以下をご参照されたい。

http://www.cinra.net/news/20140818-wasuboku

http://wasuboku.com

 この作品については、単行本刊行直後から映像化のオファーは幾度となくあったのだが、いずれもせいぜいプロット止まりで立ち消えになっていた。8年越しでようやくの実現である。

『あの日の僕らにさよなら』(新潮文庫。旧『冥王星パーティ』)の相継ぐ重版や「新潮文庫の100冊」入りの事実と並んで、この映画化についても、「かつがれてるんじゃないか」感を否めないところがある(それほどまでに、今までが不遇だったということだ)。

 しかし先日、神奈川県の某所で行なわれていた撮影現場を見学させていただき、大勢のスタッフ・キャストの皆さんが懸命にことに当たっておられる様子を目にしてようやく、「どうやら夢でも妄想でも錯覚でもないらしい」ということが胃の腑に落ちはじめたところだ。

 当日、主演のお2人にもご紹介いただいたのだが、タカシ役の村上虹郎さんは、17歳とは思えない大物の風格をお持ちで、最初、その雰囲気に圧倒されて一瞬言葉を失い、おたがい無言のままに見つめあうという奇妙な瞬間を招来してしまった。そのあとに現れたあずさ役の早見あかりさんにも、ろくなご挨拶ができなかったと思う。

 そのときのでくのぼうっぷりは、そんな芸能人の方々が現実に僕の原作に基づく映画の役を演じておられるということに今ひとつリアリティを感じられずにいたための一種の離人症状だったのだ、ということで何とぞご勘弁いただきたいところである。

 ちなみに、古くから僕のブログをご覧の(ごくわずかな)方々ならおわかりのことと思うが、この作品のタイトルは長いので、ブログでは通常、略称を用いていた。当時は「ワスチカ」と呼んでいたのだが、上記サイトなどを見ると「ワスボク」と(公式に)略されているようだ。ワスボク……。なるほど、ワスボク。なるほど、ポキン、金太郎(つげ義治)。

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2014年5月 6日 (火)

糖尿病啓発プログラム 市民公開講座

 このたび、日本糖尿病学会主催の市民公開講座に出演させていただく運びとなったので、簡単にそのご紹介を。

 5月24日(土)14:00開演(13:00開場)で、場所は大阪の堂島リバーフォーラム(入場無料)。

 大阪医科大学で教鞭を執っておられる花房俊昭先生を筆頭に、1型糖尿病患者にして競技エアロビックの世界でジュニア部門の世界チャンピオンなど数々の栄冠に輝く大村詠一さん、糖尿病予防のためのかんたんレシピの開発などで注目を浴びる家庭料理研究家の奥薗壽子さん、そして不肖1型糖尿病作家として(ごく一部で、実のところ主として医療関係従事者の方々の間で・笑)知られる僕が、リレートークやパネルディスカッションなどを披露する予定である。なお司会は、「はなまるマーケット」でおなじみのフリーアナウンサー山本舞衣子さん。

 詳細は以下のリンクでご確認くだされたく。

http://tonyobyo-shimin.com/extension.php

 だいぶ前、名古屋で似たような趣旨の講演およびパネルディスカッションに出演したときは、朝イチの枠だったこともあるのか、千人単位を収容できそうな大ホールにわずか20人かそこらしかお客さんが集まらず、たいへんせつなくいたたまれない思いをした。

 今回は午後だし、運営の規模もずっと大きいようなのでそうはなるまいと信じているが、前回のことがトラウマになっていて、少しだけ憂鬱である。お近くにお立ち寄りの際はどうぞお気軽にお立ち寄りいただきたく(誤った日本語)。

 それはそうと、上記サイトのホーム部分は、運営を仕切っておられるイエローツーカンパニーさんが制作に関わった糖尿病啓発サイトなのだが、ここに掲載されている啓発マンガ、「健康(タテヤス)ファミリーの物語」が非常におもしろい。

 シナリオが実によく練られていて、ガチな糖尿病体験(病気の告知、入院、治療、食事療法など)を持つ身としては、「納得」の一語に尽きる。「市民公開講座は会場が遠くてちょっと……」という方は、せめてこのマンガだけでも目を通してみていただきたい。

http://tonyobyo-shimin.com

 

 ……と、そんな中、肝腎の拙著『シュガーな俺』が現在たいへん入手しづらくなっていてすみません生まれてすみません。

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2014年3月11日 (火)

最新刊『ここを過ぎて悦楽の都』

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 今日・明日あたりから、僕の最新刊『ここを過ぎて悦楽の都』(祥伝社)が店頭に出まわりはじめる。雑誌「Feel Love」の2012年冬号から2014年冬号まで7回にわたって連載したものだ。単行本としては記念すべき20冊目である。僕の作家生活は今年で満10年なので、平均すれば年に2冊は新作を出しつづけていたことになる。

 勤務先を理不尽ないきさつで解雇された若い会社員・日夏充が、夜な夜な「エピキュロポリス」と呼ばれる人工都市の夢を見つづける。そこではさまざまなテクノロジーや薬物を利用して、窮極の快楽を追求しているのだ。一方で充は破格の条件での再就職を果たすのだが、その会社の目的も、自分に割り振られた業務の意味も、不明なままでありつづける。ただ1人の部下である大槻砂李はなにやら背景を知っているらしく思われるのだが------

 と、一応内容をサマリーしようと努めてみたが、例によってうまくいかない。実際に読んでいただいた方が絶対にいいと思う(それにしても、われながら、僕の小説というのはどうしてこうサマリーしにくいのだろうか)。

 ところでこの作品には、実は原形がある。19年前である1995年に、同名の作品を中篇小説として執筆しているのだ。しかも、第32回文藝賞で1次予選を通過している。予選通過作品のリストを今見てみると、伊藤たかみさんの『助手席にて、グルグル・ダンスを踊って』(彼はこの作品で文藝賞を受賞して作家デビューを果たしている)があったり、1次予選通過者として嶽本野ばらさんの名前があったりして興味深い。

 デビュー前に書き溜めていた習作をリライトして世に出すケースは、僕の場合は稀だ。そのときはいいものを書いたと思っていても、プロとして経験を積んでから読み返すと、「なっちゃいない」ところがあまりに多すぎて、それを直すよりはゼロから書き起こした方がずっと楽だと思ってしまうからだ。

 この作品の原形についてもそれは同様で、そのままでは恥ずかしくてとても出せなかったのだが、個人的に強い愛着があり、そのまま埋もれさせてしまうのはあまりに惜しかった。

 そこで、主要登場人物を何人か増やすかたわら、エピソードも追加して物語に奥行きをもたらし、「なっちゃいない」部分に大鉈を振るって説得力を持たせ、結果としてはオリジナルのほぼ3倍の量にまで膨らませた(といっても、もとが中篇なので、長篇としては標準的な長さだと思うけれど)。

 ただそれは、仮にも10年におよぶプロとしての経験を積んだ人間が持つ技術力だけでカバーできる部分だ。骨格となるプロットそのものには、ほとんど手を加えていない。

 全面的リライトを終え、こうして本になってから原形を読み返すと、「発想はいいのに、惜しい!」という気持ちになる。なんというか、全体的なコンセプトや、取り上げているモチーフも含めて、「時期尚早」感があるのだ。あたかも当時の自分が、19年後に完全な形で存在することになるこの作品をなんらかの形で「幻視」して、自分の手で具現化しようと努めながらも、力が及ばず半端なところで息絶えてしまったのだ、とでもいうかのように。

 そういう意味でも、この作品をまさに今、世に出すことには、なにがしかの必然性があったのだと思っている。この19年の間に力を蓄えてきた僕が、とうとう本当にこの作品を書く資格を手に入れたのだ、と。

 ところでこのカバー、ものすごくカッコよくて、自分でも何度も見とれてしまうのだが、背後の絵の特異な作風、過去に僕の作品の装丁ですでに記憶しておられる方もいらっしゃるのではないかと思う。そう、2009年に早川書房から出した短編集、『全世界のデボラ』のカバーも、この人の作品を使用したものだったのだ。

Deborah


 作者は画家の高松和樹さん。そしてデザインは、『マザー』の単行本のときやはり装丁をお願いした高柳雅人さん。僕にとっては、まさに夢のゴールデンタッグとでも呼ぶべき取り合わせの布陣である。

 ちなみに高松さんとは、奇しくも先日、東京国際フォーラムで開催されていた「アートフェア東京2014」の会場で初めてお会いすることができた。

 ナイフの切っ先のようにソリッドな冷たさを放つこの作風から勝手に想像していたよりもはるかに気さくな方で驚いたが、もっと驚いたのは、印刷された状態で見るかぎりまるでCG処理のように見える作品が、現物を間近で見ると、生々しいマテリアル感や、幻惑されるような奥行き感に満ち満ちていることだった。そして何より、あらゆる光を完全に吸収してしまう背景の黒。これがもう、圧倒的な「漆黒」としか呼びようがないものなのだ。

 高松さんは、ご自分の作品が表紙に使用されたことを「光栄です」とおっしゃってくれていたが、僕にしてみればThe honor is mine.という感じである。

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2013年12月13日 (金)

嘘くさいconfession

 あまりにも長い間ブログを放置してきたことについて、まことに慚愧の念に耐えないところがある。と書きながら思うことは、「慚愧の念に耐えない」だとか「断腸の思い」だとかいう大げさな言いまわしは、大げさであるというその一点においてすでに、嘘くさいと謗られてもしかたのないところがあるなということである。

 いや、反省しているのは本当なのだ。しかしそうは言っても作家なんてしょせん嘘つきだしね。まあ最近は必ずしもそうではないみたいだけど。作家であってもなんか普通に、実際に思ったことしか口にしなかったりする人が増えてるみたいだけど。でも僕はそういう誠実で心やさしい作家の1人であることはたぶんできないと思うんです。すみませんすみません。生まれてすみません。

 それはそれとして、2ヶ月半ぶりくらいのブログで何を書こうかという話ですね。山手線最終で何処へ行こうと云うの(椎名林檎)、という話ですね。じゃあ、最新刊の『四月、不浄の塔の下で二人は』を発表するにあたって感じていたジレンマの話でもしましょうかね。

 予備知識なくあれを読みはじめた人の多くは、「あ、これはファンタジーかSFだな」と思うことでしょう。当然のことです。そういう風にミスリードしているわけだから。でも読み進めるにつれて、どうやらそうではないらしいということに気づいていくことと思います。

 その時点で、「あ、そういうことだったんだ!」とおもしろがってくれること。僕はまさにそれを期待して、あえてあのような書き方をしているわけなんだけど、人によっては、それに気づく前の時点で、「え、これってファンタジーなの? そういうの苦手なんだよなー」と見切って、読み進めるのをやめてしまうかもしれない。 

 ファンタジーとかが苦手な人がそうやって離反してしまうのを防ぎたくて、僕はわりと早めの段階で、「いやいや、待ってくださいよ、そうじゃないんですよ、これはあくまで現代日本を舞台にしたリアルな話なんですよ」ということがわかるように、作中世界のそういう一面もわかりやすく提示しているつもりなんだけど、それでもなお、ピンとこない人が一定量どうやらいるらしく、じゃあどうすればいいのかなと。

 途中まで「ファンタジーなのかもしれない」と思わせられなければ、実はそうではなかったということがわかったときのサプライズが骨抜きになってしまう。そうかといって、あまり長い間それが発覚しないと、ファンタジー嫌いな人たちからそっぽをむかれてしまう。 

 だけどまた僕はこうも思うわけですよ。僕はそもそも、先般、今回の第25回でひとたび休止になると発表された日本ファンタジーノベル大賞からデビューした人間であり、SFとかをかなり熱心に読んでいた時期もあるし、ファンタジーで何が悪いのかと。そういうのを敬遠する人たちの気持ちも理解できるんだけど、そうとわかった時点で読むのをやめてしまうってさびしすぎるんじゃないかと。

『四月、不浄の塔の下で二人は』はそもそもファンタジー「ではない」わけだけど、あれを書いている間、僕はずっとそんなことを考えつづけていた。

 それに、言わせてもらえるなら、小説なんて、最終的には全部ファンタジーじゃないですか。小説というもの自体が、本源的にファンタジーであることを免れないわけですよ。その条件下で、肯定的な意味においてであれ否定的な意味においてであれ、ジャンルとしての「ファンタジー」にこだわることに、いったいどれだけの意味があるというのか。

 いや、やめよう。こうして「ジャンル論」を始めてしまうと(言うまでもないことだが、僕自身はジャンル分けなどまったくくだらないものだと思っている)、底なしの泥沼にはまっていってしまう。僕としてはとにかく、わかってくれる人に読んでほしいだけなのだ。

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2013年9月25日 (水)

文教堂浜松町店さん御礼

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 文教堂書店・浜松町店にお邪魔して、最新刊『四月、不浄の塔の下で二人は』のサイン本を作らせていただいた。

 こちらには本当にお世話になっていて、2作前の『ルドヴィカがいる』のときから3作連続でサイン本を置かせていただいているばかりか、6月に出た前作『悪魔と私の微妙な関係』以降、ご覧のとおり、「平山瑞穂を読みつくせ!」なる破格の待遇のコーナーを常置してくださっている。

『悪魔と私の微妙な関係』などは、入荷した分はとうに「売りつくし」てしまい、現在は版元在庫も逼迫しているため、新規入荷待ちの状態とのこと。もう、どうお礼したらいいものやら……。

 ほとんどの作品に個別に手書きPOPをつけてくださっているが、それによれば、平山瑞穂未読の方にはまず『マザー』がお勧めで、2番目が『偽憶』、『ルドヴィカがいる』については「現時点での最高傑作」とのコメントがある。あれはちょっと癖があるだけに賛否の分かれる作品だと思うが、自分としては本当に楽しんで書いたものなので、このように言っていただけるのはこの上なく嬉しい。

 なお、最新作のところに立ててある僕の手書き色紙の文言は、撮影時の光線の加減か、「この世界が〈異界〉に見える」で途切れているように見えるが、実際には2行目に「感覚をお楽しみください」と続いている(はず。自作についてこうした「ひとことコメント」を考えるのはどうも苦手で、毎回時間をかけてひねり出すわりにたいしたことが言えずもどかしい思いをしている)。

 ともあれ、お近くにお立ち寄りの際はぜひ覗いてみていただきたく。それにしても、今回初めて、自分で画像を撮ることができた。過去2回は、コーナーが存在すること自体がなんだか気恥ずかしくて(というか心苦しくさえあって)直視できず、ましてカメラを向けるなど「めめめっそうもない!」というありさまだったので。

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2013年9月21日 (土)

新刊『四月、不浄の塔の下で二人は』

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 僕の19冊目の単行本、『四月、不浄の塔の下で二人は』(中央公論新社)が、そろそろ世に出回りはじめている。

 着想したのは4年以上も前のことなのだが、いろいろあってなかなか着手することができずにいた。そのかわり起稿してからはほぼ一気呵成で、あとから数えたら正味4ヶ月にも満たない期間で書き上げていたとわかり、自分でも驚いた。長い構想期間を経て頭の中で物語が熟成され、とっくに「完成品」ができあがっていたのだろう。

 迷いもなく一気に書ききり、読み返してもほとんど手直しの必要を感じない。そういうケースは稀だ。僕の中では、まさに「書くべくして書いた」という感触のある作品である。

 この作品は、ある意味で、昨年4月に上梓した『出ヤマト記』の姉妹篇のようなものである。もちろん、背景やモチーフはまったく違うのだが、『出ヤマト記』が、「異世界」に単身飛び込んでいく少女の物語だとすれば、本作はその逆で、「異世界」から少女が単身、われわれの住むこの世界に飛び出してくる。ただし、ファンタジー的な設定はいっさい使用していない。

 新興宗教団体の中には、共同生活を送る聖域のようなものを築き、外部世界との接触を断って信仰の浄化を図ろうとするタイプの教団がある。もしもそういう教団の内部で生まれ、出生届も提出されず、当然学校に通うこともなく、聖域から一歩も外に出ないまま成長した子がいたとしたら? そしてそういう子が、ある日突然、何も知らない外部世界にたった1人で対峙しなければならなくなったとしたら? この作品は、そんなところから着想したものだ。

 主要な舞台は、東京都東部の下町周辺である。出水ぽすかさんによる装画に描かれているのは、まさにそういう風景だ。ごみごみとした下町の住宅地を前景にして、東京スカイツリーが聳えている。ともにこの現代日本に実在するものであるにもかかわらず、なぜか近未来かパラレルワールドの風景を描いたものみたいに見える。しかしそれこそ、僕が描きたかった「異界としての現実世界」なのだ。

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2013年8月12日 (月)

特集内容とは無関係ながら

 今出ている「anan」(No.18682013.8.14-21号)の新刊紹介コーナー(p.158BOOK)に、最新刊『悪魔と私の微妙な関係』(文藝春秋)についての僕のインタビュー記事が掲載されているので、ぜひご一読を。

 インタビュアーは瀧井朝世さん。そもそも瀧井さんとは、4冊目の単行本『冥王星パーティ』(これが現在は『あの日の僕らにさよなら』と改題されて新潮文庫に入っており、解説を書いてくださっているのはまさに瀧井さん)が出たときに、「anan」の新刊コーナーでインタビューしていただいて以来のおつきあいである。

 以後、「anan」だけで4度、それ以外の媒体でも2度、都合6回も彼女からインタビューを受けているので、なんだかもうちょくちょく会っている友だちみたいに錯覚する瞬間すらあるのだが、僕の作品についても知り尽くしてくださっていて、その中で特にどれがお好きかといったこともわかっているので、取材を受ける側としてはそれだけ安心して席に臨めるというものである。

 というのも、聴き手が初見の方だと、「この人は僕の本をどれくらい読んでくれているのだろう」というのがわからず、話の流れで過去の自作に触れるときも、「『○○○』という作品がありまして、これはこれこれこういう内容なんですが……」と慎重に話を進めながら、相手の反応を見て手心を加えたりとかいろいろ神経を遣う必要があるからだ。

 まあそれはともかく、文藝春秋の編集部経由で掲載誌が届いたのは今日なのだが、表紙を見て一瞬、身が凍りそうになった。「anan」名物「SEX特集」の号ではないか。そして表紙には、藤ヶ谷太輔くんのフルヌードが大写しに……。しかしこれは疑いなく目につく表紙だと思うので、その勢いに便乗して拙作の認知度が少しでも高まってくれればこれ幸い。

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2013年6月17日 (月)

新刊『悪魔と私の微妙な関係』

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 僕の18冊目の単行本『悪魔と私の微妙な関係』(文藝春秋)が、今週なかばあたりから店頭に並びはじめる。「別冊文藝春秋」2011年7月号〜2012年5月号に連載された『私は非公認』を改題したものだ。

 主人公・真崎皓乃(まさき・あきの)は、某独立行政法人に勤務する27歳。根が小心者で他人との衝突を好まないばかりに、表向きは「おとなしい人」を装っているが、実は超毒舌で、心の中では周囲の人間を誰彼となく罵っている。そんな皓乃だが、オカルト好きが嵩じて、怪しさ満点の自称神父・米沢ヨセフにスカウトされ、ひそかなアルバイトとしてエクソシスト(悪魔祓い師)稼業に手を染めることになる。

 ……といった話である。実はこれ、そもそもは、「ラブストーリーを書いてほしい」とのリクエストに応じたものなのだが、「普通のラブストーリーじゃつまらないから、なにか突飛な設定を導入しよう」と思ってあれこれいじっているうちに、なんだか「オカルトコメディ」みたいになってしまった。もちろん「ラブ」要素もあるにはあるのだが、設定の突飛さの方が際立ってしまい、書いていて自分でも「これははたして……」と首を傾げつつ、ラブコメとして話を畳むのにだいぶ難儀させられた。

 しかし、「ラブコメ」であるかどうかはともかくとして、楽しんで読んでいただける内容にはなっていると思う。ぜひご一読を!

 カバーイラストは、仁木英之さんの『僕僕先生』シリーズなどでおなじみの三木謙次さん。これまた、今までの僕の本とはガラリと趣向を変えたかわいい雰囲気のものに仕上がっている。

 ただ、このイラストのラフ段階では、スーツ姿のメガネ男子(作中で「ウェーバー卿」と呼ばれているイケメンエリート上司)のビジュアルが、僕自身の中のイメージと違う、と再三ダメ出しをしてしまった。何様なんだ自分、という感じである。三木さん、お手数おかけしてすみませんでした。おかげでもうこれ以上はないというほどピッタリなウェーバー卿にしていただけました。この場を借りて、地面に額をなすりつけつつお礼申し上げます。

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«All I hear is the sound of rain falling on the ground