2021年12月24日 (金)

新作『さもなくば黙れ』発売

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僕の26作目の小説作品、『さもなくば黙れ』が論創社から発売された。現状、大手版元から僕名義の本を出すことはかぎりなく困難になっているため(なぜ、どういう経緯でそうなってしまったのかについては、いずれ別の著作であきらかにする予定だ)、このように、小さな版元からゲリラ的に少部数で刊行していく戦法に切り替えることにした。もともと喫水線下だったのが、さらに日光の届かない深海に潜り込んでいくことになりそうだが、その分、のびのびできて快適な面も多々ある。最終的には、本を出しつづけることさえできれば、僕としてはそれでいいのだ。

今回は、近未来の物語である。「バイザー」と呼ばれる頭部装着型のデバイスを装着した者同士が対面すると、おたがいの脳内の思念を文字化して伝えあうことができる(バイザーを通して見る視界の脇に、LINEでのやりとりのように文字が表示されるというイメージ)。そのバイザーを、公共空間において常時装着することが法的に義務づけられた社会が舞台となっている。このシステムを使いこなせない人間は、「何を考えているのかわからない危険人物」として排斥されていく。

このアイデアの核心部分を着想したのは、コロナ禍が始まるより前だったのだが、詳細な設定や登場人物のプロフィールなどを決めていく過程は、まさにコロナ禍の進行とパラレルに進められていった。去年の4月、まだいちいちマスクをつけて外出することに強烈な違和感を覚えていた頃に、家の近所を散歩しながらどんどん細かい設定を思いつき、そのたびに足を止めて、スマホにメモしていったのだ。

バイザーをつけることとマスクをかけることは、どこか似ている。そして、システムへの不適合を起こして社会から締め出されていく人々の姿は、コロナ禍で自由に外出することに制限が加えられる人々の姿と重なっていた。そのあたりについては、コロナ禍のおかげで、想像を膨らませやすくなっていた面もあったと思う。

創作の中で、コロナ禍をどう扱うかというのは、ずっと悩みの種だった。当初は、「せいぜい数ヶ月のうちに収束するだろう」と見ていたので、無視していいと考えていたのだが、実際には一向におさまらず、ついには年単位になってしまった。TVドラマなどを観ていても、そのあたりをどう扱うか、制作サイドが頭を悩ませているのが手に取るようにわかった。多くは、「コロナ禍がない世界」という設定でどうにか辻褄を合わせているようだったが(だから登場人物らは、屋外でもマスクをつけていない)、これだけ長引いてしまうと、創作の設定にもその現実を反映させないわけにいかなくなってくるのではないか。

しかしその点について、本作では、実にあっけなく解決策が見つかった。これは、あくまで近未来の話なのだ。設定では、コロナ禍のおおむね10年後の世界ということになっている。それだけ遠い先のことにしてしまえば、コロナ禍がもはや完全に過去のできごとになっている(つまり、作中にコロナ下の世界をことさらに意識した設定を取り入れる必要はない)ということで、なんとなく許される気がした。

でもわからない。現実には、オミクロン株のあとにも続々としぶとい変異株が登場しつづけ、10年の間にウプシロン株やらカイ株やらを経てオメガ株まで行き着き、ギリシア文字のアルファベットを使い切ってしまって、また頭に戻って今度は「ダブルアルファ株」から順番にナンバリングされるようなことになっているかもしれない。そのあたりについては、今後の推移を見守るしかない。

どのみちメタバースなども登場してしまった現在の趨勢を見ていると、10年後ともなれば、おそらく、想像をはるかに超えた「未来」的なコミュニケーション環境が実現しているものと思われる。その時点で本作を読み返すと、「うわー、なんて古くさい“未来”像を描いていたことか」というような目も当てられないありさまになっていることも十分に予測されるが、この際、そこには目をつぶることにする(それを言うなら、「未来」を描いたほとんどすべての作品は、そうしたズレを回避することができないのだ)。

この本を書いた僕の関心は、もともと「テクノロジーの未来」それ自体にはなかった。コミュニケーションの様態についてのひとつの仮説の提示、ひとつの思考実験をしたかっただけなのだ。そのつもりで読んでいただきたい。なお、本書を一般書店で入手するのはなかなか困難かもしれないので、どうぞネット書店などを躊躇なく活用していただければさいわいである。

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2021年11月17日 (水)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (5)

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それでも、次の痙攣がいつ訪れるかはわからなかった。僕たちは脱衣所にかけ布団だけ持ってきて、床に直接横たわり、両側からクーを挟むようにしながら仮眠を取った。気づけば朝になっていた。クーも落ち着いていたので、僕と妻のベッドが接している中央部分にタオルを敷いてその上にクーを横たわらせ、ひきつづき両側から見守る態勢を取った。

もっとも、結局ほとんど一睡もせずに朝を迎えていたので、目を開きつづけていることはむずかしかった。何度も眠りに落ちてしまい、そのたびにヒヤッとして目を覚ました。そして、まだかろうじて生きているクーの姿を目にして胸を撫で下ろした。そんなことを何度も繰り返しながら、いつしか午後になっていた。そして1時半ごろ、バタッという音が耳元で聞こえ、再び「ニャーーーッ」という悲痛な叫び声がそれに続いた。僕も妻も、その音と鳴き声で、 浅い眠りの淵から一気に引き上げられた。

クーはたぶん、いまわの際に臨んで、立ち上がってどこかに行こうとしたのだと思う。しかし力が足りず、倒れてしまったのだ。バタッという音は、それが原因だったのだろう。見るとクーは、僕たちが横たわらせた位置から少し離れた場所で、体を大きくのけぞらせていた。僕と妻は、そのクーに覆いかぶさるようにして、懸命に呼びかけた。苦しんでいるのに、何もしてやれないのがせつなかった。

クーはヒュウッ、と勢いよく息を吸い込み、10秒ほど間を開けてはまたヒュウッ、と息を吸い込んでいた。やがてその間隔が、次第に間遠になっていった。もう終わったかと思うと、またヒュウッ、と聞こえる。でもそれも、ある時点で完全に途絶えた。ただ、触ればまだ温かいし、本当に逝ってしまったのかどうか、しばらくは確信が持てなかった。何分かそのまま見守ったが、呼吸の音は二度と聞こえなかった。それが、本当の最期だった。

ひとまず、かつてクーが愛用していたカゴの中に寝かせるために抱き上げると、その体はなんの緊張も伴わずにぐにゃりと垂れ下がった。ああ、本当に逝ってしまったんだな、とようやく確信した。硬直が始まらないうちに、体を丸めるようにしてカゴに収めると、おだやかに眠っているようにしか見えなかった。よくそのカゴの中で、クーが実際にそうしていたように――。

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やがて体の硬直が始まったが、尻尾だけは硬くならず、根元から先端まで手を走らせると、そのたびにまだ生きているみたいにしゅるんと手からこぼれ落ちていった。先代の猫・無為(本名は「うい」)は、(もともとノラだっただけに)生育環境がよくなかったのか、尻尾の骨が丸まったまま固まってしまっており、生前も死後も、そんなふうに尻尾を触ることができなかったので、死んでも尻尾は硬直しないということを、僕はそれまで知らずにいた。たぶん、尻尾には筋肉がないからなのだろう。

翌日の日曜日、ういのお骨を納めてあるペット霊園経由で火葬してもらった。立派な骨だった。クーは顔つきなどは仔猫のようでも実は大柄な猫だったので、骨も大きくて、猫用の標準的な骨壷に収まりきらないほどの量があり、ペット火葬業者のスタッフの人がちょっと困っているように見えた。納骨に際しては、ういの隣のスペースがたまたま空いていたので、「愛猫クー号」はそこに納めてもらうことにした。おおらかであっけらかんとしていたクーはともかくとして、気むずかしかったういはやきもちを焼くかもしれないが、壁で隔てられているので大丈夫だろう。

ともあれ、土曜日に最期を迎え、日曜日に荼毘に伏すという形で、妻と二人揃って、すべてにスムーズに立ち会うことができた。飼っていた猫が、飼い主の都合を考えて、すべてわきまえた上で死のタイミングを見計らっていたように見えたという話は、ざらに耳にする。本当にそうなのかもしれない。

 

覚悟していたことではあるが、クーのいなくなった欠落感は、そうたやすく埋められそうにない。僕が作家専業になったのは10年前であり、クーと過ごした14年のうち10年は、基本的に終日、家で一緒に過ごしていたことになる。もちろん、四六時中べったりとくっついていたわけではないが、家の中にクーの存在感があることはあたりまえの状態だった。もはやそれがないことに、心が容易に適応できずにいるのだ。

最初の数日は、1日に何度も、いや、何十回も、「そういえばクーはどうしているかな」と思ってしまっていた。もういないのに、いる前提でそう考えてしまっていた。そして僕は気づくのだ。クーの具合が悪くなる前から、日中、そうやってたびたびクーの安否を気づかい、その時点での所在をたしかめ、無事でいることを確認して安心することが、すっかり習い性になってしまっていたのだということに。

玄関のドアを開け閉めするときには、つい、クーが外に飛び出していかないかどうか目を走らせてしまうし、キッチンの、冷蔵庫の前に置いてあったエサ皿が空になっていないかどうか、つい確認しようとしたりもしてしまう。クーの水飲み用のカップをゆすいで中身を入れ替えようとして、もうそれがいつもの場所に置かれていないことに気づいて打ちのめされたり、ゴミ出しのために家中のゴミを回収している間に、猫トイレのチップやマットをもう交換する必要がないことに気づいてまた悲嘆に暮れたり。

僕のスマホには、夥しい数のクーの写真が収まっている。いや、実のところ、収蔵している写真の99%以上は、クーの写真なのだ(インスタ全盛の時代ではあるが、僕はクー以外のなにかを撮影することにほとんど関心がなかった)。そうしてクーの写真を見たが最後、嗚咽にむせぶことすらなく、涙がツツーッと頬をとめどなく伝い落ちていく。ときには恥も外聞もなく号泣してしまうこともある。

作家専業になってからこのかた、朝、出勤する妻を見送って一人になっても、日中、寂しいと思うことは一度もなかった。でもそれは、実は「一人」ではなかったからなのだ。たとえ姿が見えなくても、家の中のどこかにクーがいることはわかっていたし、必要なら姿を見に行くこともできた。会話は成立しなくても、しょっちゅうなにかしらクーに話しかけたりもしていた。仕事に集中していても、廊下からクーが僕の部屋の中を覗き込んでいることにふと気づいて、ほっこりしたりもしていた。それがいっさいなくなってしまうと、文字どおり一人で過ごす家の中は妙にガランとしていて、空虚で、空っぽで、寂しくてやりきれない。本当の一人ってこんなに寂しかったんだ、と今になって思い知らされている。

それでも、事前に予想していたほどには、僕はいわゆるペットロスの状態には陥っていないと思う。いったいクーの死に自分は耐えられるのだろうか、クーが死んだら、僕は悲しみのあまり一時的に廃人のようになってしまうのではないか、と案じていたが、実際には、クーが旅立ったその日から、僕は仕事も含めてやるべきことをやれていた。その後も、日常生活をまっとうな形でこなすことができている。

それはひとえに、クーがお別れのための時間をたっぷりくれたからなのだと思っている。

近いうちの死を覚悟してから1ヶ月半にもわたって、クーはアンコールに応じつづけてくれたのだ。その間に僕は、さんざん泣いた。泣いて泣いて、その間にだいぶ心の整理がついていたのだと思う。どれだけ整理がついていても、もう二度と会えないのが死ぬほど悲しいことに違いはないから、思い出せばやはり泣いてしまうけれど、お別れは十分すぎるほど果たせたから、「もっとこうしておけばよかった」といった悔いはいっさい残っていない。

ものすごい生命力で何度も危機を乗り越え、心の整理をする機会をしっかり提供してくれたクー――それ以前に、14年もの長い年月、かぎりない慰安と癒しを、そして楽しい思い出を惜しみなく与えつづけてくれたクーには、感謝の言葉もない。せめて天国でも、おだやかでおおらかで、陽気でのんきでいつも上機嫌だったその姿のままで、元気に走りまわったり、暖かい陽射しを浴びながら寛いで丸くなったりしていられることを祈っている。

――いや、クーならまちがいなくそうしているだろう。

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〈終わり〉

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2021年11月16日 (火)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (4)

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クーはもはや、いつ死んでも不思議ではない状態だった。それでも妻は、毎朝出勤しなければならないので、夜はそこそこの時間に就寝していたのだが、僕は毎晩、寝床に就きかね、3時・4時まで粘って、クーの様子を窺いつづけるようになった。それでもある時点で眠気に抗えなくなり、今にも命の火を絶やしてしまうのではないかと気を揉みながらもベッドに向かい、翌朝、まだ生きている姿を目にして安堵する、というパターンを毎日くりかえしていた。

最後の頃、クーはたいていの場合、リビングの隅のカーペット上か、お風呂の蓋の上にいるようになっていた(人目につかない隙間などに潜り込むことは、なぜかなくなっていた)。お風呂の蓋の上に飛び乗る力もなくなってからは、脱衣所のバスマットの上にうずくまっていることが多くなった。

水だけは飲んでいたから、おしっこは定期的にしていたようで(ときどき、猫トイレをチェックすると、下に敷いたマットには着々とおしっこのしみが広がっていた)、猫トイレはバスマットのすぐそばにあったから、その意味でも都合のいい場所だったのだろう。クーは本来、洗面台の脇に置いたカップから水を飲んでいたのだが、その頃には洗面台に飛び乗ることもできなくなっていたので、バスマットのそばにカップを移動させたり、浴室の床に置いた洗面器に常に水を張っておくようにしたりしていた。

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それにしても、水だけで命をつなげるのは、せいぜい1週間くらいだろうと思っていた。食べ物を口にしなくなってから1週間が過ぎ、最初の土日が巡ってきたとき、正直、「この土日の間に死んでくれたら、いろいろな意味で収まりがいいんだけどな」と思っていた。というのも、妻は原則として月〜金で出勤しなければならず、週の中日に死なれてしまったら、火葬などに立ち会うために休みを取らなければならなくなるからだ。

ところがクーは、その土日も生き延び、新しい週が始まってしまった。さすがに次の週末まで命がもつことはないだろうから、妻も休みを取らざるをえなくなるだろうと思っていた。その間、妻は毎朝、うしろ髪を引かれるような思いで出勤していたと思う。帰宅するときには、もうクーはこの世にいないかもしれない。これが見納めになるかもしれない――毎朝、そんな思いで玄関のドアを開けて出ていっていたのではないか。

しかし驚いたことに、クーは次の1週間も、水だけで生き延びたのだった。

最後の数日ほどは、水も胃が受けつけなくなっていたらしく、しきりと水を飲もうとはするのだけれど、ひと口飲んではえずき、えずいてはまた飲もうとするというのをくりかえしていた。それでもクーは水を飲もうとし、最後まで生きようとしていた。そして、死の2日前まで、たぶんたまたま比較的調子がいいときには、僕が体を撫でるのに応じて、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれてすらいた。

動物は、「痛い」とか「つらい」などと自分から訴えることはしない。この最期の日々に、クーが本当はどう感じていたのか、僕たちが知る術はない。それでも、あくまでその様子を見るかぎり、クーはひたすら衰弱していくだけで、おそらく、願わくば、それほど苦しんではいなかったと思う。

10月22日金曜日、日中に僕は、痩せ衰えたクーを抱きかかえて寝室まで運び、ベッドの上に寝かせていた。硬く冷たい床に敷いた薄いバスマットの上では、あまりに寛げないのではないかと思ったのだ。寝室では、僕と妻のベッドがくっつけてあるのだが、僕のベッドの足もとあたりに常に畳んだタオルケットを敷いてあり、元気だった頃にはそこがクーの定位置になっていた。クーにとってもなじみのあるその場所に横たわらせると、クーはそこそこ寛いでいるように見えた。クーがそこから降りたくなった場合のことを考えて、踏み台になる高さのものをベッドにくっつけてもおいた。

しばらくして様子を見に行くと、クーは妻のベッドに移動していた。「そっちに移ったの?」と訊きながら近づいた僕は、タオルケットを畳んだクーの居場所と、クーが横たわっている場所の間に、おしっこのしみが広がっていることに気づいた。たぶん、尿意を感じてトイレに移動しようとしている間に力尽きて、その場におもらししてしまっていたのだろう。かわいそうなことをしたと思って、僕は大急ぎでクーをバスマットの上に戻し、おもらしのあとをきれいにした。

しかしクーは、ベッドに寝かせたほうがあきらかにゆったりと身を横たえることができているようだったので、その後も様子を見ながら、ときどきベッドに寝かせていた。その晩、妻が就寝する時点でも、クーはそこにいた。そして僕は例のごとく、リビングで寝ずの番を務めながら、数十分おきに寝室に様子を見に行ったりしていた。

すると午前3時半ごろ、寝室からドタッという音が聞こえた。なにごとかと思って駆けつけると、「クーちゃんがベッドから落っこちちゃった」と妻が寝ぼけまなこで言いながら、クーを抱き上げている。「ああ、水が飲みたかったんじゃないかな」と言いながら、僕が妻の手からクーを引き取った。そして、いつしか羽根のように軽くなってしまっていたその体を、浴室の洗面器の前にそっと下ろした。

そのときの感触を、僕は忘れることができない。いつもなら、そうやって下ろしたあと、クーは四つ足で這いつくばるような姿勢を取るのに、そのときは、くたっ、という頼りない感触しか伝わってこなかったのだ。クーは、僕が置いた位置にそのまま、軟体動物のようにぐにゃりとくずおれていた。自分の体を支えようとする力が、そこからはまったく感じられなかった。「あ、これはまずい」と直感的に察せられた。その直後、クーは、それまで聞いたこともないような悲痛な声で「ニャーーーッ」と叫び、体を痙攣させはじめた。僕は大慌てで、今しがた眠りに戻ったばかりの妻を、「クーちゃんが死にそう!」と呼び起こした。

死に際の猫がそういう声で鳴くことがあるという話は、ほうぼうで聞いていた。これがそれなんだと思った。それからは、狭い脱衣所で、僕がクーのお尻側から、妻がクーの頭側から臨み、無我夢中で体をさすりながら、最期を看取ろうとした。クーは、切迫した調子の荒い呼吸をくりかえしていた。そしてその場で、バスマットの上におもらしをしてしまっていた。すぐにバスマットを交換し、お尻周辺を拭ってやった。でも、クーが粗相をしたのは、日中のおもらしとこのときのおもらしの、たったの2回だけだ。限界まで、自力でトイレに移動して排尿していたし、最後まで、嘔吐も下痢もいっさいなかった。

しばらくすると妻が、「顔を見たがっているから、見せてあげて」と言ってきた。僕はクーのお尻側から見ていたから気づいていなかったのだが、クーは、苦しそうに喘ぎながらも、しきりと顔を起こして僕のほうを向こうとしていたらしかった。でも、もう顔を起こすだけの力が出せずにいたのだ。僕が急いでクーの小さな頭に手を添え、僕のほうに顔を向かせると、クーは僕の目をまっすぐに見つめていた。

瞳孔がほぼ完全に開いてしまっていて、実際にはたぶんろくに見えていなかったと思うが、クーはその真っ黒な目を、ひたむきに、まっすぐに僕に向けていた。その目が何を訴えているのか、正確にはわからなかった。「助けて」と言っているようでもあり、ただ僕に対する底の見えない信頼をあらわにしているようでもあった。僕はただあられもなく泣き崩れながら、クーと見つめあっていた。あの真っ黒な目を、僕は生涯、忘れることができないだろう。

さっきの悲痛な鳴き声は、「末期の声」だろうと思っていた。このまま逝ってしまうのだろうといよいよ覚悟を決めていた。ところが、クーはまたしても、持ち直した。僕たちに撫でさすられながら、次第に呼吸が落ち着いてきたのだ。

驚くべき生命力だと思う。もともと、一昨年の肥満細胞腫と、去年の悪性リンパ腫と、2度も大病を患いながら、それを乗り越えて生き延びてきた猫だ。そして今回も、今にも息絶えそうな危機的状態からいったんは回復し、なお1ヶ月半も寿命を伸ばした。そして最後の2週間は水だけで命をつなぎ、ついに末期の叫びらしきものを上げながらも、一度はその絶体絶命の関門をすり抜けたのだ。

〈続く〉

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2021年11月15日 (月)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (3)

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夕方、そのリビングに据えてあるエアロバイクで僕が運動を始めると、やはりクーは、どこからともなくソファの上に移動してきて、僕が運動を終えるまではそこにいることが多かった。クーは、それも踏襲していた。そして運動を終えた僕が、ウェアーなどを洗濯機にかけるかたわらシャワーを浴び、髪を乾かしてから、洗ったものをカゴに移してベランダに干しに行くと、クーはそれについてきて、気が向けばちょっとベランダに出てうろうろして、そのあとは寝室に僕を誘うのが普通だった。ベッドの上で、僕に「つぶして」もらうためだ。

「つぶす」というのは、ベッドに横たわったクーの上に僕が覆いかぶさって、顔をおなかにすりつけたりしながら適度な「圧」を加えることなのだが、クーはそれが大好きで、毎回、ゴロゴロと喉を鳴らしながら大喜びしていた(母猫のおなか周辺にまといつき、子猫同士きょうだいで折り重なっていた頃のしあわせな記憶が喚起されるからなのではないか、と僕は見立てていた)。

それがどうして、「僕が洗濯物を干したあと」に定式化されてしまったのかはわからない。たぶん、ずっと前にたまたま何度か、僕がそのタイミングでそういうふうにクーをかまったことがあったのだろう。それがクーの頭の中では、「僕が洗濯物を干したあとには、“あれ”をやってもらえる」という形で登録されていたわけだ。もちろん、クーはそれも踏襲していた。

そして夕食は、妻が帰ってから二人で摂るのが普通だったのだが、そのときには、クーはやはりどこからともなくリビングに移動してきて、食事が済むまでは近くにいた。いる場所は、ソファの上だったり、食卓の下にセットしてあるベンチ(かつて、食卓には椅子が4脚あり、2脚ずつ向かい合わせになっていたのだが、わが家は来客もほとんどなく、妻と食事する際にはテレビに向かって横並びに座るのが普通なので、ある時期に対面の椅子2脚を処分し、横長のベンチに置き換えてしまっていた)の上だったりとまちまちだったが、いずれにしても、クーはたぶん、そうして「夕食の団欒に参加」しているつもりだったのだろう。クーは、その習慣も踏襲していた。

そうした姿を見ているかぎり、クーはまったくそれまでどおりであり、大病を患って近いうちの死を宣告されているのだということをしばしば忘れそうになった。ひょっとして、リンパ腫はなにかの加減で自然治癒してしまったのではないか、と信じたくなるほどだった。しかしもちろん、なんの治療もしていないのに、病状が逆のルートを辿ることなどありえなかった。2週間・3週間と過ぎていく間には、クーが着々と衰弱に向かっていることがはっきりと目に見えてきた。

クーの活発さや食欲には波があり、何日か食が細くなったかと思うとまた持ち直すというパターンをくりかえしていたが、持ち直したとしても、最初の水準まで戻ることはもはやなかった。上がったり下がったりしながらも、均せば確実に下向きになっている曲線が、そこには見えた。それでも2週間分のステロイド剤はあっという間に尽きてしまったので、さらに2週間分、地元のクリニックで処方してもらっていたが、今度こそ、それを使い切るまではもたないだろうと思っていた。

10月に入ったあたりから、クーの食欲は再び目に見えて落ちていった。そして、毎日の習慣についても、ひとつずつ、それまでどおりにはなぞらなくなっていった。そもそも、東大で診てもらった時点では「 もってあと数日の命」と思っていたクーが、それから1ヶ月近く、わりと普通に暮らしてこられたこと自体が奇跡のようなものだったのだが、「いよいよなのだな」と思うとやはり、事実を受け入れがたい気持ちにさせられてしまっていた。

その頃には、少しでも目先が変われば、目新しさもあって口にしてくれるのではないかと期待して、それまでは与えていなかった銘柄や、ゼリー状・テリーヌ状など形態もまちまちなキャットフードをあれこれ買ってきて試したりしていたのだが、たいていは、ひと口・ふた口食べるともううんざりしたような顔をして、ぷいといなくなってしまうのだった。

クーが最後に食べ物を口にしたのは、10月8日の午後だった。汁気の多いパウチのスープ部分だけをわずかに飲んだのをしめくくりとして、もう何も口に入れようとしなくなった。すでにだいぶ痩せ細って、毛皮越しに骨がゴツゴツと突き出したようななりをしていたし、ほとんどの時間は、テレビの裏だとか、ベランダへのサッシとキャビネットの隙間だとか、薄暗くて狭いところに潜り込んで出てこなくなっていた。手を伸ばして触れても、もはやゴロゴロいうことが稀になっていた。

地元クリニックに追加で処方してもらったステロイド剤は、残り2錠のところで、投与を中断していた。無理に飲ませること自体がつらい状態になっていたからだが、日数としては、優にそれを使い切れるところまで生きていたということになる。それでも、終わりのときが間近に迫っていることはまちがいなかった。だから僕は、その10月8日も、予約していた(自分がかかっている)糖尿病クリニックに向けて出かけようとしていながら、その間にクーが死んでしまっていたら猛烈に悔やむだろうと思い、直前で予約をキャンセルしたほどだった。

ところが、奇跡のようなことは、その後もさらに起きた。それが正確にはいつのことだったのか、僕にはわからなくなってしまっていたのだが、今調べてみたら、どうやら10月10日だったようだ。というのも、そのとき僕は、遅い昼食を一人で摂りながら、NHK総合でたまたまやっていた「歴史秘話ヒストリア」かなにかを観ており、そのテーマが「仮面ライダー50年の歴史」であったことを覚えていたからだ。厳密には、「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア」と呼ばれる特番だったようだが、NHK総合でそれを放送したのは、まさに10月10日の午後3時からだったのである。

そのときクーは、キャビネットとサッシの隙間に潜り込んでいた。その頃には、そういう場所でじっとしていられると生死すらさだかではなく、何秒間かじっと様子を窺って、おなかのあたりがゆっくりと上下しているのを見届けてほっとしたり、手を伸ばして触れてみて、温かかったり、しっぽをつまめばしゅるんと動いたりするのをたしかめて胸を撫で下ろしたり、という按配になっていた。

僕はクーがそこに引きこもって出てこないことをさびしく、かつ心もとなく思いながら、そしてさほど興味も惹かれないまま「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア」に目を向けながら、リビングで一人、食事をしていたわけだ。テレビをつけた時点で番組はすでに終盤にさしかかっていたのだが、そのあと、藤岡弘が主演を務めた初代「仮面ライダー」の第1話を丸々放送すると知って、「これは観なきゃ」と思った。ところが、それが始まってまもなく、僕は「仮面ライダー」どころではなくなってしまった。

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それというのも、ずっと隙間に引っ込んで姿を見せずにいたクーがよたよたと出てきて、ソファにセットしたブランケットの上に自ら乗っていったのだ。そんなことは、もう1週間ほどなくなっていた。なにかのまちがいではないかと思ってしまったほどだ。おそるおそる、そばに寄っていって撫でてみると、クーはそれを煩わしそうにするでもなく、やがてかすかにゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてきた。もうショッカーなんてどうでもいい、と思った。今は、クーが再び、一人で昼食を摂る僕のご相伴を務めてくれていることのほうがはるかに大事だ。

僕はクーのおなかに顔をすりつけながら、またしてもボロボロ泣いてしまった。たまたま具合がいくらかよかっただけなのかもしれない。それでもクーはそのとき、僕が昼食を摂っているタイミングで自分がよくそうしていたことを思い出し、乏しい力を振り絞って、その習慣をなぞってくれたのだと思った。途中からは、ゴロゴロいう音も全開に近くなっていた。10分か15分くらいはそれが続いただろうか。少し気が済んだ僕が、使い終えた食器をキッチンのシンクに運んで片づけている間に、クーがソファを降り、もといた隙間によたよたと戻っていく姿が見えた。まちがいない、クーは、僕の昼食にわざわざ「つきあって」くれていたのだ。

〈続く〉

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2021年11月14日 (日)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (2)

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妻とも相談したいので、少しだけ時間がほしいと願い出ると、主治医は「もちろんです」と応じてくれた。妻は職場に出勤していたが、「なにかあったら連絡してくれてかまわない。すぐには応対できないかもしれないけど」と言ってくれていたので、取り急ぎLINEで概要を伝えて意見を訊いてみた。しかし、メッセージはいっこうに既読にならない。電話もかけてみたが、応答はない。

あとから聞いたところによると、妻は午前中からLINEはまめにチェックしていたのだが、僕が相談を持ちかけた時間帯はたまたまタイミングが悪く、ほかのことにかかりきりになっていたという。いずれにしても僕は、妻からの応答を待っている間に、だいぶ心の整理ができてきていた。治療は断念して、家で看取ろう――ほぼ、そういう方向に意向が定まりつつあったのだ。

クーはこの4月で14歳になったところだった。猫としては、もう十分に生きてくれたし、これまでに十分すぎるほど、僕たちを楽しませてくれ、癒してくれた。去年のリンパ腫の際にはもはやこれまでかと思っていたが、それも乗り越えてさらに8ヶ月も、元気でのんきな姿を見せてくれた。これ以上、苦しませてまで生き延びさせようとするのは、飼い主のエゴでしかないのではないか。それに、延命を試みるつもりで入院させ、輸血を受けさせている間にもし死んでしまったとしたら、僕たちがいない見知らぬ場所で、寂しく心細い状態に置いたまま、クーを一人で逝かせてしまったことを、僕はのちのちまで悔やむことになるだろう。

1時間以上が過ぎ、主治医が気遣わしげに待合室に出てきたときには、僕はすでに決意を固めていた。今回はこのまま治療させずに連れ帰るとの意向を告げると主治医は、「そうですね。クーちゃんは去年がんばってくれたし、それもいいかもしれません」と応じてくれた。症状をいくらかやわらげるかもしれないというステロイド剤を2週間分処方されたが、それを実際に飲ませる機会はないかもしれないと思った。貧血傾向の悪化度合いからいって、もってあと数日だろうと踏んでいたからだ。

家に連れ帰ったクーは、病院帰りのときには常にそうであるようにいささかぐったりしてナーバスになってはいたが、やがてお気に入りのソファの上に移動してきて、寛いだ様子を示しはじめた。そして僕がその頭や背中を撫でていると、さも嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。ついさっき、どれほど残酷な宣告を僕が受け、どれだけつらい決断を下してきたかも知らずに……。僕はその姿を前に、こらえきれずに涙をボロボロ落としながら、「これでよかったんだ」と思っていた。

クーはどこよりも家の中が好きな猫なのだ。なじみのある場所で、僕や妻に見守られ、かまわれているのがいちばんしあわせなのだ。残りわずかな命ならなおのこと、クーがいちばん安心できるその状態の中で看取ってやりたい――心からそう思った。やがて帰ってきた妻も、僕の決断に異を唱えることもなく、結果として一人で決めさせてしまったことを申し訳なかったと言ってくれた。

さて、あと数日の命だろうと思っていたクーだが、翌日、不可解な行動を取りはじめた。しきりと猫トイレに行っては、いきむのだ。過去6日間ほど、固形物をほとんど口にしていないのに、便が溜まっているはずもなかったし、実際、何も出ていない。それがあまりに頻繁なので心配になり、東大の主治医に電話で状況を説明してみたところ、「おそらく、腸管の病変のせいでなにか違和感があって、それが便意につながっているのだと思う」という見解だった。それは、僕自身の推測とも一致していた。

かといって、いわば幻のような感覚なのだから、どうしてあげることもできない。僕は、10分、20分おきに何度も何度もトイレのチップの上に乗っていきんでは、何も出てこずにあきらめて去っていくクーの姿を、せつない思いでただ見守っていた。

ところがその日の晩、奇跡のようなことが起きた。キッチンの隅に置いてあるクーのエサ皿のあたりから、「カリッ……カリッ……」という聞き慣れた音が聞こえてきたのだ。まさか、と思いながら見に行くと、クーがドライフードをかじっていた。どういうわけか、食欲が突然回復したのだ。しかも、けっこうな量を食べる。

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半信半疑の思いで見守っていたのだが、その後もクーは、ちょくちょくエサ皿の前に行っては、ドライフードを食べつづけた。一日あたりで計算すると、元気だった頃に匹敵するほどの量に達していた。水も自分の意志で再び飲むようになり、数日の間に本来の活力もあらかた取り戻していた。便もまた出すようになり、おかげで「幻便感」とでも呼ぶべき例の錯覚にも悩まされなくなったようだった。呼吸が速くなるようなことも、いつしかなくなっていた。

これはあくまで推測だが、なにかの加減で食欲が回復し、再び十分な量のフードを食べるようになったことで、造血作用も起きていて、赤血球が減少していく動きとそれが拮抗していたのではないかと思う。しばらくはその状態が続いた。そうなると、東大に連れていったときの、貧血で今にも死にそうだった状態とは条件が異なる。このコンディションなら、比較的リスクの少ない状態で、抗がん剤治療を受けさせることも視野に入ってくるのではないか。

東大の主治医も、電話で相談するかぎり、そういうことなら、治療が成功する可能性が高まったかもしれないという見解を示していた。僕も妻も、かなり迷った。それでも結局、結論は覆されなかった。治療のためとはいえ、クーに人為的に苦痛を与えているさなかに命が尽きてしまうというリスクが高確率で存在している以上、根本的な事情は変わらないのだ。

なお、再び食べるようになってからのクーの便通はきわめて規則的で、便の状態もよかった。便通が再開した最初の2回ほどはやや軟便で、「やはり病変が進んでいるのだ」と解釈していたのだが、その後再び、見た目だけは実に健康そうな、色つやもいい理想的な便に戻り、腸管が病変で冒されているのだということが信じがたくなるほどだった。腸管から出血していたのだとすれば、便にも当然、その影響が出ていたはずだ。赤血球の減少は、どちらかというと溶血が原因だったのかもしれない。

ともあれ、まだしばらくは生きそうだということがわかった時点で、東大で最後に処方されたステロイド剤も飲ませることにした。クーに錠剤を飲ませる際には、無理やり口をこじ開けて、喉の奥に薬を放り込む形を取る。今にも死にそうなクーにそんなことをするのは忍びなくて、飲ませること自体を放棄していたのだが、そこも事情は変わった。残りわずかな日数だとしても、QOLを少しでも高めてやりたかったのだ。

それでもさすがに、そこから起算して2週間分の錠剤を使いきるまで寿命が伸びることはあるまいと思っていたのだが、クーは生きた。毎日よく食べ、常におおむね上機嫌で、それまでどおりの習慣的な行動をそのまま踏襲し、決まりよくくりかえした。

たとえば、朝、妻が出勤しようとして玄関まで移動すると、クーもついてきて、玄関の手前にある寝室の入口から僕を呼ぶ。本来は、出ていく妻を見送るという意味を持つ行動だったのだろうが、専業作家になってからの僕は、妻が出勤するタイミングでかろうじて起き出す(場合によってはその後、さらに二度寝する)生活形態になっていた。クーにしてみれば、「妻が家を出ていく」→「僕がベッドから起きてくる」という図式が頭の中で成り立っていたらしく、いつしか妻の出勤は、「僕が起きてくることに対する期待」にすり替わってしまっていた。妻がもう靴を履いているのに僕が起きてこないと、「起きなくていいの?」とでも言いたげにニャーニャーと僕に声をかけてくるのだ。

また、僕がリビングで一人、昼食を摂っているときには、どこからともなくやってきて、食卓のそばにあるソファの上に移動し、クーのために常にそこに敷いてあるブランケットの上で体を丸めることも、前からの習慣のひとつだった。そういうときに、とにかくそばにいようとするのだ。クーは、それも踏襲していた。ただし、毎日ではなく、気が向いたとき、条件が許すときだけだ。元気だった頃から、日中はどこかでぐっすりと寝入っていることもあり、その場合には、必ずしも姿を現さなかった。

〈続く〉

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2021年11月13日 (土)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (1)

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まさか「さらなる顛末」の次にアップするのがこの記事になるとは思っていなかった。もっとも、それはひとえにブログを放置していた僕の怠慢に起因することであり、実際にはあれからけっこうな月日が流れているのだが、それにしても、元気になったクーの姿を伝えた記事に続けてこれを書くことには、胸をえぐられるような思いをさせられる。

10月23日の午後1時半ごろ、クーは息を引き取った。その最期の顛末について書きたい。申し訳ないが、例によって長いので、5回に分けて投稿する。

年明けからずっと、クーは驚くほど元気だった。月に一度程度、地元のかかりつけのクリニックで血液と超音波の検査をしてもらい、リンパ腫が再発していないかどうかモニターしていたのだが、毎回なんの兆候もなかったこともあり、途中からは2ヶ月に一度程度にしていた。それもよくなかったのかもしれないが、8月の終わりごろ、クーはにわかに食が細り、動きから活発さがなくなっていった。最初はたまたまなのかと思っていたが、数日のうちにみるみる元気がなくなり、水すら自分の意志では飲もうとしなくなっていた。

慌てて地元クリニックにかかったところ、超音波検査の結果、「十中八九、リンパ腫が再発している」との所見を告げられた。しかも、貧血がかなりひどい状態になっており、輸血が必要なレベルだとも言われた。ただし、そのクリニックでは輸血に対応できないという。いずれにしても、可及的速やかに東大動物医療センターにつないでもらう必要があった。

担当の先生はその場ですぐに東大に電話してくれたのだが、すでに夕刻で、その日の予約受付は終了していた。しかもその日は金曜日だったので、月曜まではどうしようもなかった。とりあえず皮下点滴と、(なんらかの感染症にかかっている兆候もあったため)抗生剤の投与だけしてもらって、ジリジリしながら週明けを待ったが、僕は実のところ、実際に東大で診てもらうまで、クーの命はもたないのではないかと思っていた。東大の予約がすぐに取れることはほとんどない。過去の経験からいっても、2週間・3週間は先になると見ておくべきだ。今でさえ息も絶え絶えなのに、それまでどうやって命をつなげというのか。

ところが月曜の午前中、クリニックから電話があって、驚いたことに翌日の午前10時に東大の予約が取れたと告げてきた。東大も、クリニック側からクーの状態を聞き、事態の切迫度に鑑みて、最大限急いでくれたのだろう。

こうして97日、僕は再び東大の弥生キャンパス内にある動物医療センターまでクーを連れていった。それは、僕自身の53歳の誕生日の翌日でもあった。待機期間中のクーは、皮下点滴で水分を与えられる以外には、僕が掌に「ちゅ〜る」を捻り出して差し出せば、かろうじてひと舐めふた舐めすることもある、という状態だったので、前日には、僕の誕生日がクーの命日になってしまうのではないかと危惧していたほどだった。

一連の検査を終えた主治医から聞かされた診断結果は、絶望的なものだった。

「リンパ腫が再発していることはほぼまちがいがないんですが、確定診断ではありません。というのは、確定診断のためには、穿刺して病変部の組織の一部を取って生検する必要があるんですが、貧血の状態が悪すぎて、それをするのすら危険な状態なんです。かかりつけのところで金曜日に検査した結果と比べると、3日間で赤血球が半減しています。この減り方のペースからすると、リンパ腫の影響で病変部などから体内で出血しているか、溶血(自己免疫反応の一種で、赤血球を自ら破壊してしまう現象)が起きている可能性が高い。正直、もしも連れてきていただくのが明日になっていたら、われわれとしても手の施しようがなかったかもしれないほどの状態です」

貧血の状態からすれば、赤血球経由で全身に運ばれる酸素の供給量も少なくなっていて、おそらく呼吸も苦しくなっているはずだという。たしかにその数日、クーは、ときどき呼吸が速くなっていた。なお、病変部とは、リンパ節と隣接している腸管のことだ。その病変も、かなり進行していた。去年の6月、最初にリンパ腫にかかって超音波検査した際の画像と今回の同じ部位の画像を比較すると、前回は腸管が肥大しているように見えるだけなのに対して、今回は、腸管の内部がぐちゃぐちゃになっていて、組織の形をひと目で見定めることがむずかしいような状態になっていた。痛ましくて、目を背けたくなるような画像だった。

そのわりに、不思議なことに、クーは便通になんの問題も起こしていなかった。去年、東大で診てもらうことにした際も、出発点は下痢が続いたことだったし、逆に今回は、下痢の兆候がまったく見られないことから、「リンパ腫の再発ではないだろう」と油断していたところもある。

いずれにしても、まずその貧血状態を改善しないことには、治療しようにもできない状態だというのが、主治医の見立てだった。ただ、その治療とは、抗がん剤治療しかありえない。去年、それでいかに七転八倒したかが脳裏にフラッシュバックした。抗がん剤を打てば、リンパ腫はおさまるかもしれないが、その副作用で、クーはまた自分の意志では何も食べなくなってしまうのではないか。そうすると、また何日か入院させて、胃から通じるチューブを取りつけてもらわなければならなくなる。そうしてまた何度も、タクシーにクーを乗せて東大まで通わなければならないのだ。

手間はどれだけかかってもいい。チューブ経由の給餌には苦労したが、要領は今でも覚えている。それをしてクーがまた元気になってくれるのなら、労力を惜しむ気持ちはなかった。でも、今回もクーが無事に回復する確率がどれくらいあるのか、その点に関して、僕は懐疑的にならざるをえなかった。もしも治療中に力尽きてしまうようだとしたら、入院や手術、抗がん剤投与や通院といった一連の過程は、クーにとって苦痛にしかならない。家で寛いでいることがあんなに好きな猫なのに、それでいいのか――。

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「とにかくまずは輸血をして、抗がん剤治療に耐えられる状態まで回復すれば、前回の治療の際、後半で使用したような、消化器毒性の比較的弱いタイプの薬剤を投与するという形で、治療を試みることはできます。ただ、再発したことからいっても、抗がん剤が前回と同じように効くという保証はありません。一度打ってみて効かないようであれば、そこであきらめるしかないと思います。それでもとにかく、一度試してみるという手はあります。もちろん、こちらとしては、もし治療を希望されるなら提供できなくはないと言っているだけで、どうされるかはお父さん・お母さん(前にも言ったが、この主治医は飼い主のことをそう呼ぶ)のお考え次第です。治療はあえて受けさせないというのであれば、われわれとしてはそれでもかまいません」

妻(主治医が言うところの「お母さん」)との間では、「病状がどうであったにしても、クーにとっていちばん苦痛の少ない方法を選んであげよう」という大枠でのコンセンサスはできていた。でも、この場合に実際にどうするか、僕一人では決めかねた。

クーが受けるであろう苦痛を考えて、あえて治療を受けさせず、そのまま連れ帰って家で看取る、という選択肢ももちろんあった。でもその場合、クーは今日・明日にも命の火を絶やしてしまうかもしれない。それはあまりにも急な展開で、心がついていけないところがあった。それに、もうほとんど身動きもしなくなってしまっている衰弱したクーの姿は、見るに耐えなかった。

抗がん剤治療は受けなくてもいい。それでも、せめて今のつらさを少しでも楽にしてあげられる方法はないのだろうか。僕は藁にもすがるような思いで、「抗がん剤治療はしないとして、輸血だけでもすれば、少しは楽になりますか?」と訊いてみた。しかし主治医の回答は、「今の状態では、穴の開いたバケツに水を注いでいるようなもので、それにはほとんど意味がない」というものだった。輸血はあくまで、抗がん剤治療を試みることの前提として位置づけられていたのだ。それに、輸血自体にも一定のリスクはあり、その最中に容態が急変することもありうるという。

いずれにしても、対応についてはその場で決断し、回答する必要があった。貧血の状態からいっても、もはや猶予はなかった。入院させるかさせないかは即刻決め、入院させるのであればその場でクーを引き渡さなければならず、それをしないという選択肢は、すなわち治療を断念することを意味していた。

〈続く〉

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2020年12月29日 (火)

クーをめぐるさらなる顛末(5)

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 その頃には、クーが自分からは食べようとしない状態が続いていることも考慮して、主治医はクーに投与する抗がん剤を消化器毒性の比較的弱いタイプのものに切り替えてくれていた。しかもその薬剤は、毎週ではなく、3週間に一度打てば薬効が持続するような効き方をするものだった。しかしクーは、主治医にいわせれば「薬が効きすぎるほど効く」体質であり、3週間おいても骨髄毒性の影響が抜けず、貧血ぎみだったり白血球が少ないままだったりするので、さらに1週間、2週間と次の薬剤を投与せずに様子を見るような状態が続いていた。

 クーが食欲を取り戻した背景には、そういう形で消化器毒性の影響が極小に近づいていたこともあるのだろうと思う。実際、主治医は、9月の終わりには、抗がん剤投与は中断したまま、月に1度くらいの経過観察で見守るという方針に転じ、結局それきり二度と抗がん剤は打たなかった。投与せずにいても、病変が再発する気配がまったく見られなかったからだ。そこで抗がん剤を打っても、いたずらに副作用ばかりを煽るという本末転倒な状態になってしまう。

 猫に抗がん剤治療を施す期間は、基本的には半年を目安にしていると最初に聞いていた。しかし、そもそもなぜ半年なのかというと、抗がん剤治療を施した猫の平均寿命が半年くらいであるため、まずは半年生かすことを目指そうという考えからそう決められているのだという。

 ただし、ここでいう「平均寿命」は、あくまで「平均」である。現実には、抗がん剤の効きがいい猫とそうでない猫との間の個体差が大きく、効きが悪い猫は抗がん剤を打ってもすぐに病変が再発してしまい、2ヶ月ももたない場合がある一方、効きがいい猫なら、1、2ヶ月の間投与しただけで、その後まったく再発せず、なお数年の間すこやかに生き延びる場合もあるのだそうだ。「半年」というのは、それらすべてをひっくるめて算出した平均値にすぎない。

 クーは非常に抗がん剤の効きがよく、これまでの経過を見ても、「長生きするほうのグループ」に入っている感触がある、と主治医は言っていた。この寿命の話のカラクリを聞いたのは、最初の診断からだいぶ経ってからのことなのだが、最初の時点では、クーが抗がん剤にどう反応するかもまだ読めないので、予断を与えないようにあえてそこまでは言わなかったのだろうと思う。

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 ともあれ、こうしてクーの状態は、着々といい方向に向かっていった。次第に自分の意思で十分な量のフードを食べるようになり、排便も規則的になっていた。そして10月中旬を最後に、チューブ経由の注入給餌はまったく必要でなくなった。

 それでも、病変が再発したらまた抗がん剤を打たなければならず、そうするとまた食べなくなってしまうというシナリオもありうるので、チューブはつけたままにしておく必要があった。チューブは脇腹に空けた穴にただ通してあるだけなので、胃の内容物がどうしても少しずつじくじくと染み出してしまう。1日でも放っておくと、チューブの差し込み口の周辺がカピカピになっていたりする。毎日、そこを清拭するメンテの作業も必要だった。

 染み出して乾いた胃の内容物が、毛とからみあったまま固まっているので、そう簡単には取れない。赤ちゃん用の濡れコットンなどで丹念に何度もこすったりしているうちにふやけてくるので、ある時点でそっとつまんで、からまった毛ごと除去するのだ。毛が抜けて痛いのではないかとか、差し込み口周辺に触れられて不快なのではないかと気を揉んでいたのだが、この作業をしている間、クーはむしろ「極楽」とでもいわんばかりの寛いだポーズで始終喉をゴロゴロいわせていた。

 もっともそれは、この作業と併せて、普段ボディスーツに覆われていてクーが自分では毛づくろいできずにいるエリアを指でガシガシとこすって抜け毛を取ってやるという世話もしており、それが文句なく気持ちいいばかりに、この一連の作業全体を「気持ちがいいアレ」とクーが認識していたためだったのかもしれない。

 それより問題は、注入給餌が完全に不要になるタイミングがあまりにも突然訪れてしまったことにあった。

 注入していた「i/d 消化ケア」は、Amazonでは25缶入りのケースでしか買えず、それでも最後の1箱を注文した時点ではまだ当分必要だろうという見立てだったので躊躇もなかったのだが、実際には、その新しいケースを開けて1缶だけ使った時点で、残りがそっくり不要になってしまった(この療法食はもともと普通にエサとして与えることを想定したものなのだが、クーはフードを選り好みするので、これをただエサ皿に盛ってもいっさい食べない。あくまで注入の際に便利だから使っていただけだった)。

 その後も月に1度程度の頻度で東大では経過観察をしていたのだが、毎回、再発所見もなかった。それはつまり、今後、抗がん剤が再び必要になることもなく、その副作用で再び自分からは食べなくなってしまう可能性もなくなるということを意味していた。もうチューブはいらないだろうということで、12月9日にチューブを抜去してもらい、チューブが抜けたあとの穴は一応縫合したのだが、2週間後、クリスマスイブの前日にその糸も取れた。

 主治医からは、「これでクーちゃんは、こちら(東大)からは2度目の卒業です」と言われた。東大を2度も卒業したとはすごい話だが、僕にとってはまたとないクリスマスプレゼントになった。

 今後は地元のクリニックで定期的に血液検査と超音波検査を行ない、再発がないかどうかをモニターしていくことになる。もちろん、再発の可能性もゼロではないが、さしあたっての脅威はなりをひそめてくれた。今はその喜ばしさを全身で噛みしめていたい。

 足かけ半年にも及ぶ、長くつらい看病・介護生活だった。コロナが猛威を振るう炎暑の中、毎週東大のキャンパス内までキャリーケースを片手に通ったこと、いっときはもうだめだとこうべを垂れていたこと、チューブ経由の給餌でいろいろ苦労したことなどが脳裏をよぎるが、すべては報われたのだ。検査のための待機時間にちょくちょく使っていたため、すっかり常連になってしまっていた東大正門前の純喫茶。あの店にもう行けなくなるのはさびしいようだが、今はむしろ、再び入店する機会が訪れないことを祈るべきなのだろう。

 8月から4ヶ月近くの間、クーは黄色いボディスーツを常に身につけたままだった。それが取れたすっぽんぽんの姿を今目にしていると、「こんなに黒っぽい猫だったっけ」と不思議な気持ちになる。ただ、猫には常に「現在」しかない。この半年のことを振りかえってしみじみと感慨に浸ることなどクーにはありえないだろう。クーはただ、今現在のすこやかさに満たされ、機嫌よくのんびりと過ごしているだけだ。

 それでいいのだ。僕が施した献身的な介助に感謝などしてくれなくていい。ただ快適に過ごし、よく食べ、ときには僕を追いかけっこに誘ってはタカタカと元気に走りまわっていてくれさえすれば、そして遊びに疲れたら陽だまりでしあわせそうに丸くなって眠っていてくれさえすれば、それが何よりのお返しとなるのだから。

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〈終わり〉

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2020年12月28日 (月)

クーをめぐるさらなる顛末(4)

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 こうして注入給餌の「適切な方法」を見出したことは、僕の辛抱づよい試行錯誤の勝利だったと思う。しまいにはクーは、この注入に対して、驚くほど協力的にさえなっていった。注入するには、まずクーの体を覆っているボディスーツの背中側の合わせ目からマジックテープを剥がし、丸めて収めてあるチューブを取り出す必要があるのだが、僕がそれをしようとしただけで、自らペタリとおなかを床にくっつけて這いつくばる姿勢を取り、そのままじっとしているようになったのだ。

 注入には、なんだかんだで正味15分ほどはかかるのだが、その間、クーは身じろぎもせずにいる。そしてひととおり済んで僕がマジックテープを合わせてスーツを着せなおしても、まだじっとしている。いつ終わったのかが、クーにはわからないらしいのだ。だから僕は、「ほら、終わったよ」と言いながら、おなかの下に手を差し入れて立たせてやる。そうするとようやく、「やれやれ」とでも言わんばかりにひとつ悠々と伸びをしてから、おもむろに歩み去るのである。

 なんならクーは、むしろこういう形で給餌されることを、喜んですらいるのではないかと思われる節があった。その体勢になっている間、のんきにあくびをしたり、ゴロゴロと喉を鳴らしていることもあったからだ。注入されること自体を気持ちがいいと思っているわけではないにしても、なんとなく僕に「世話をされている感」があり、それは喜ばしいと感じているのではないか。実際、主治医にこのことを話してみると、「たしかに、お父さん・お母さん(主治医は飼い主のことをそう呼んでいる)にそうされるのを喜ぶ猫も稀にいるみたいですね」と笑いながら言っていた。

 ただし、この注入給餌は、とにかく手間がかかった。一度に注入する量が多すぎると胃に負担がかかる可能性があるので、給餌は日に3度くらいに分けたほうがいいと言われてからはそうしていたのだが、「i/d消化ケア」に水を加えてフードプロセッサーで粉砕し、粉薬を水に溶いて、それぞれをシリンジに充填して準備を整えてから、クーへの注入を行ない、使用したフードプロセッサーやシリンジなどを洗う、という一連の作業には、どうしても40分はかかる。それを1日に3回ということはつまり、クーに給餌・投薬するためだけに、1日に2時間は無条件に取られるということを意味する。

 それに、給餌に必要な「i/d 消化ケア」やシリンジを、いつでも必要な分だけ確保しておくことは、思いのほかむずかしかった。

 シリンジはその都度洗って何度も使用するのだが(本体には”SINGLE USE ONLY”、すなわち「使用は1回限り」と明記されているのだが、東大ですら、その言いつけを愚直に守ってはいないものと思われる。東大から最初に手渡されたシリンジからして、犬かなにかがかじったあとのついた、「使用感」のあるものだったからだ)、何度も使っているとゴムの部分の摩擦がきつくなり、使用に耐えなくなる。「i/d 消化ケア」も、クーの体重から割り出すかぎり、1日に1.5缶は必要だった。

 僕はこれらの消耗品をAmazonで購入していたのだが、そうそう需要のあるものでもないらしく、一時的に品切れになっていたりする。そんなときは、地元クリニックにわけを話して、備蓄分を分けてもらったり、場合によっては医療関係のルートを使って取り寄せてもらったりしていた。それも含めて、クーに滞りなく必要な栄養分を与えるための手配や世話に、僕は日々追われていたのである。

 もちろん、それでもクーが元気でいられるなら、それに越したことはない。事実クーは、本来の病変部は早々におさまってしまっていた一方、注入給餌によって必要な栄養分は十分に与えられていたため、見た目はすっかり元気になっていた。残る問題は、再び自分の意思で飲み食いをしてくれるようになるかどうか、その一点に集約されていた。

 一時は、仮に抗がん剤治療が終わったとしても、このままクーが自分の意思では飲み食いをしない状態が続いたとしたらどうすればいいのか、と気を揉んでいたのだが、8月も下旬に至る頃、転機は突如として訪れた。もしかしたら食べてくれるかもしれない、というかすかな期待のもとに毎日エサ皿に盛っては、結局いっさい口をつけられないまま湿気させてしまってただ廃棄していたドライフードに、クーがある日突然、口をつけたのである。

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 もっとも最初は、本当に食べているのかどうかはかなり怪しかった。口をつけているのはたしかでも、その後はなんだか口をくちゃくちゃさせているだけで、咀嚼音が聞こえてこない。エサ皿を見ても、ただ単にフードの一部を舌で皿の外に押し出しているだけのようでもあった。自分の意思で食べるということを長いことしていなかった間に(6月の下旬以来、このときまで、クーは丸々2ヶ月にわたって、自分の意思では食べ物にいっさい口をつけていない)、食べ方というものを忘れてしまっているようにも見えた。

 しかし何日かしたら、ドライフードをかじる「カリッ、カリッ」という音――久しく聞いていなかったたしかな咀嚼音がそれに伴うようになり、エサ皿の中もたしかに着々と減っていることが確認できるようになった。涙が出るほど嬉しかった。飼っている猫がただをエサを食べているというそのことが、これほど嬉しいとは……。

 それでもその頃はまだ、「たまに気が向くと」という程度の頻度だったのだが、そうして自ら食べる量は日に日に増えていった。それからは、クーが自分の意思で食べた分を見極めつつ、1日に必要な栄養量として足りない分だけを注入給餌で補う、という形を取るようになった。

〈以下続く〉

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2020年12月27日 (日)

クーをめぐるさらなる顛末(3)

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 入院2日目、手術が終わったら連絡をもらえることになっていたが、東大の主治医から電話がかかってきたのは、見込んでいたよりだいぶ早い時間だった。しかも、声が暗い。その時点でいやな予感がしたのだが、主治医は案の定、「ちょっと問題が発生しまして……」と言う。

 おなかにチューブを取りつける処置は、内視鏡手術によって行なうことになっていた。内視鏡で胃の内部から体の外側に向けて穴を穿ち、そこにチューブを通すのである。それをするためには、まずは胃の内部に空気を送り込んで、膨らませる必要がある。その処置をしている渦中に、あろうことか「胃の内壁が裂けていく」ような現象が発生し、手術の中断を余儀なくされたというのだ。

 そういう症例は、いまだかつて見たことがなく、ほかの先生に訊いても原因がわからなかったという。無数の症例を積み上げた知見のある東大のレベルで思い当たらないのでは、お手上げだろう。めったに症例の見られない奇病である可能性もある。「どうしましょうか」と訊かれて、返答に窮してしまった。どうすればいいかなんて、素人の僕にわかるわけがない。

 しかしよくよく聞けば、さしあたっては胃の内壁の組織を保護する薬を投与するなどしてから、同じ手術を再試行することは可能だという。内視鏡手術は内科医でもできるもので(主治医は内科医)、今回も主治医自身が施術していた。そのさなかに不測の事態が発生してしまったため、それ以上対処することができず、手術も中断せざるをえなかったわけだが、外科医も立ち会った上で、いざとなれば開腹してしかるべく処置できるような態勢で臨めば問題ないはずだというのだ。だったら、その手はずでやってもらうしかない。

 外科医のスケジュールもあったため、クーにはそのまま、通算8日もの間、入院させることになってしまった。入院という形でそんなに長い間離れて過ごしたのは初めてのことで、毎日、家にクーがいない欠落感に悩まされてしまったのだが、外科医立ち会いのもとにおこなわれた2度目の施術では、結果として胃の内壁の裂け目は初回以上には広がらず、実際には外科医の手を借りるまでもなく成功したと聞かされた。

 クーの胃の内壁がそんな状態になっていた原因については、いまだにはっきりしたことはわからないままだ。「長期間、液状のフードしか与えていなかったために、胃の伸縮性が一時的に損なわれていたのかもしれない」というのが主治医の見立てだったが、胃の内部で生じていたその異変自体が、あるいはクーがしきりと気持ち悪がってよだれを垂らしつづけていた原因だったのかもしれない。

 ともあれ、8月上旬、今度は左脇腹からチューブを生やした状態で、クーは無事退院となった。チューブは長さが30cmほどあり、むき出しにしているとどこかに引っかけて抜けてしまう恐れがあるため、背中側に持ち上げてクルリと丸めた状態にした上で、ボディスーツを着せて固定しておく必要があった(下の画像参照。なお、背中の上に突き出ている白い器具は、胃からの逆流を防ぐためのストッパーのようなもの)。

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 それまでは首のチューブから注入していたクリティカルリキッドを、今後はおなかのチューブから注入することになる。変わったのはその点だけのはずだった。むしろチューブが太くなる分、注入は楽になるはずだという見通しもあった。ところがこれがまた、一筋縄ではいかなかった。

 それまで首や食道のあたりに感じていた違和感がなくなったのだから、もう気持ち悪そうにすることもなくなるだろうと踏んでいたのだが、事態はいくらも改善されていなかった。胃に直接通じるチューブを使っても、クーはやはり、注入しようとするだけでも気持ち悪そうに口をにちゃにちゃさせたり、注入直後に吐いてしまったりする。そして、注入後は長いこと、あいかわらずよだれを垂らしつづけたりする。

 これ以上どうしろというのか、といっときは打ちのめされたような気持ちになったのだが、注入前後のクーを注意深く観察しているうちに、僕はあることに気づいた。注入している間、クーはあきらめたように床に這いつくばる姿勢を取っているのだが、終わるとすっくと立ち上がる。そのとき、すぐには歩み去らずに、なにか考えるような間を空けている。それから恐る恐るという感じでまずは数歩だけ進み、また立ち止まって、考えをめぐらしているようなそぶりを見せる(場合によっては、そこで吐いてしまったりもする)。

 僕の目にはそれが、なんとなく、「おなかの中がタプンタプンになっていないかどうか」をたしかめている姿のように見えた。

 もしかしたらクーは、胃の中に液状のものが多量に溜まっている状態そのものが気持ち悪くて、だから注入の時間になり、ある特定の姿勢を取らされると、それだけで「またおなかの中がタプンタプンになるあれが始まる」と予期して、気持ち悪そうなそぶりを見せるのではないか。

 考えてみれば、無理もない話なのだ。一度に注入するクリティカルリキッドは100cc、それ以外に水に溶いた散薬も飲ませ、チューブの内部をきれいにするためにさらに真水を注入したりもしているので、最大でともすれば200cc近くもの液体が、小さな胃の中に一気に注ぎ込まれていることになる。人間に換算すれば、2リットルほどの水を強制的にイッキ飲みさせられているのにも等しい状態だ。それは気持ち悪くもなるだろう。

 そこで僕は、注入するフードを液状のものから固形のものに替えてみることにした。主治医の話では、おなかに取りつけるチューブなら比較的太いので、固形食でも注入できるということだった。しかし、実際にやってみると、思うようにはいかない。市販の猫缶などだと、フードプロセッサーで入念に粉砕したとしても、大きめの粒が残っていて、すぐに詰まってしまう。チューブの太さはたしかにそこそこあるのだが、口径の異なる複数の種類のシリンジに対応できるよう、注ぎ口が二又に分かれていて、そこだけ口径が狭くなっているためだ。

 いろいろ試してみて、実際に注入できる固形食は、ほぼペースト状のものだけだとわかった(「ゼリー」とか「テリーヌ」などと呼ばれているタイプのものなら注入可能なのだが、それらは嗜好品の扱いであり、日々の基本的な栄養補給に推奨されている「総合栄養食」ではない)。ただし、ペースト状の猫缶を、スーパーなどで売られている市販のものから見つけることはできなかった。地元のクリニックで強制給餌してもらった「i/d 消化ケア」という医療機関向けのフードならペースト状なので、Amazonでそれを探して取り寄せる形になった。

 また、それなら注入できるとはいっても、そのままシリンジに詰めると、実際にはかなりの力を込めないとチューブには入っていかない。そのペースト状のフードに少しだけ水を足し、フードプロセッサーでクリーム状になるまで撹拌してからシリンジに充填すれば、かなりスムーズに注入できることがわかった。一度に与えるフードの量が0.3缶なら水が9cc0.4缶なら12cc0.5缶なら15ccといった見当だ。あまり水を足しすぎると、液状のフードを注入しているのと同じことになってしまうから、加減がむずかしい。

 ともあれ、注入するフードをこれに切り替えてからは、事態は劇的に改善された。それでも最初のうちクーは、「注入の姿勢」を取らされるだけで懐疑的になり、口をにちゃにちゃさせたりしていたのだが、注入が済んで歩いてみたときに、「おなかの中が意外とタプンタプンになっていない」ことに、次第に気づいていったものと見える。注入後によだれを垂らしつづける時間がだんだん短くなり、そのうちよだれを垂らすこと自体がなくなり、ついには「注入の姿勢」を取らせても、気持ち悪そうにすること自体がなくなった。

〈以下続く〉

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2020年12月26日 (土)

クーをめぐるさらなる顛末(2)

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 ある晩、クーの様子が見るからにおかしくなった。呼吸が浅くなり、口からよだれを垂らしている。よだれを垂らすのは、通常、なにか受けつけられない味のするものを口に含んでしまった場合だが、このときのクーは、単に気持ちが悪くてそうなっているように見えた。

 しばらくすると落ち着いたのだが、次の日も、そのまた次の日も、クーは同じ状態になった。チューブから注入したあとは必ずそうなったし、注入からだいぶ時間が過ぎていても、夜になるときまってよだれを垂らしはじめ、何時間もそれが続くこともあった。吐き気止めを飲ませると幾分ましになるのだが、薬が効いた結果おさまっているのかどうかは確信が持てなかった。

 7月の終わりの、土曜日の晩のことは忘れられない。夜の8時ごろからよだれを垂らしはじめたクーが、何時間にもわたって、それまで聞いたこともないような悲痛な声で唸りつづけたのだ。呼吸も走ったあとの犬みたいに「ハッハッハッハッ」と浅く荒くなっており、目はうつろで、なだめようとして触れても煩わしそうに顔をそらしたり、僕の指に噛みついたりする。じゃれてそうしているのではなく、穴が開いて血が出るほどの強さで、本気で噛んでいた。

 このまま放っておいたらまちがいなく死んでしまう――そう確信した。一緒にその様子を見ていた妻も、同じように感じていた。しかし土曜日の夜なので、東大には宿直医すらいない。とにかくなんらかの手を打たなければと思って、救命救急も受けつけている近場の動物病院に電話してみた。

 現在こういう病気で東大にかかっており、東大ではこういう治療を受けていて、こういう段階である、ということも含め、クーの置かれている状況を可能なかぎり詳細に説明した。それだけの情報を伝えれば、クーに何が起きているのか、どんな手を打てば状態を改善できるのか、獣医には見当がつくものと思っていた。しかしその回答は、「連れてきていただいたとしても、皮下点滴くらいしかしてあげられることがない」というものだった。

 その病院になんとかしてもらうことは、その時点で断念した。皮下点滴とは、前回書いたように、水分を補給するための処置にすぎない。水分なら、チューブから与えることができているから現状で十分に足りているのだ。この状態のクーに皮下点滴を施したところで、それがなんの足しになるというのか。

 あとから冷静になって振りかえると、その病院は、もしかしたらクーが東大にかかっていると聞いたせいで、変に身構えてしまっていたのかもしれない。相手は獣医学の最高峰といわれる東大附属動物医療センターだ。そこにカルテもないまま変に介入して死なれでもしたら、責任の取りようもない。だから、なにかするとしても最小限の処置、すなわち、それによって直接的に死が引き起こされる心配のない皮下点滴に留めておきたいと考えたのではないか。

 ともあれ、僕たちにできることはもはや、見守ることしかなかった。この様子では、おそらく朝まではもたないだろうと思われた。僕も妻も、そういうつもりで覚悟を決めていた。

 抗がん剤治療を始めてから、ある時点まで、経過は順調だと思っていた。薬剤の効きはめざましく、本来の病変部分は驚くほど早く縮退し、その後もぶりかえしてはいないという報告を、東大に行くたびに受けていたからだ。それなのに、本来の問題であるリンパ腫とは関係のない部分で、クーが死んでしまうというのか。理不尽な思いでいっぱいだった。

 それでも、翌日も出勤予定だった妻はある段階でベッドに向かったのだが、僕は寝ずの番をするつもりでいた。祈るような思いで経過を見守っていたところ、さいわい、明け方になる頃には、クーはおおむね平静な状態に戻っていた。ひとまずは胸を撫でおろした。

 翌日曜日にも、注入後や夜などにクーはやはり似たような様子を示したのだが、土曜日の晩ほど切迫した状態には至らなかった。その間に、東大の宿直医を通じて、次回の予約を早めてもらい、月曜日には東大まで連れていって、精密検査をしてもらった。

 しかし、検査結果からは、そういう状態になる原因と思われるものが何も見つからなかったという。にわかには信じられなかった。素人考えでひとつ思いついたのは、クーがなんらかの炎症を起こしていたのではないかということだった。

 抗がん剤の骨髄毒性により、クーの白血球は目に見えて減少していた。おりしも、そのために次の抗がん剤投与を1週間見合わせていたさなかのことである。そして白血球が少ないということは、細菌などの外敵に対する防御力が弱まっているということだ。それでなんらかの感染症にかかっていたのだと考えれば、あの息の荒さも説明がつく。しかもクーには、感染防止のために抗生剤も飲ませていた。症状がおさまったのは、それが効いた結果だったのではないか。

 僕のその見解に対して、主治医は否定的だった。もしそうなら、一度おさまった症状が翌日もまたぶりかえすとは考えづらいというのだ。いずれにせよ、そうした異状が現れたときには、その渦中にあるときに採血するなりして検査しないと、確たることは何も言えない。やはり、首にチューブが刺さっていることが大きなストレスになっており、そのために一時的な興奮状態にあったのではないか、というのが主治医の見立てだった。

 そのさなかには、僕も妻も、「これは死ぬだろう」と確信して、覚悟も決めていたのだ。それほどまでに激烈な症状だったのだ。ストレスで興奮状態にあったくらいで、あんな状態になるだろうか。その点は今もって完全に腑に落ちてはいないのだが、とにかく、首のチューブはいったん外したほうがいいだろうという話になった。

 チューブを外すと、たしかにクーはよだれを垂らしたり気持ち悪そうにしたりすることはなくなった。しかし、やはり自分ではいっさい飲み食いをしようとしない。主治医によれば、「チューブを外した途端に食欲が回復する猫もいる」とのことだったが、その期待は裏切られた。何日かは強制給餌と皮下点滴でしのいだが、根本的な解決のためには次の手立てを講じる必要があった。

 といっても、選択肢はひとつしかなかった。すなわち、当初は大がかりすぎると思って避けていた、「胃に直接通じるチューブをおなかに取りつける」というものだ。この際、背に腹は代えられないので、クーを入院させ、全身麻酔の上で取りつけ手術をしてもらうことになった。

 ところが、ここでまたしても大きな危機が訪れるのである。

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〈以下続く〉

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