2017年3月17日 (金)

遅い目覚め

最近、深田晃司監督の映画作品をいくつかたてつづけに観た。すばらしい。「先が読めないおもしろさ」というのは、こういう作品群にこそ捧げられるべき言葉だと思う。はっきりした起承転結、わかりやすい文法に則ってウェルメイドに作られたどんなエンタメ作品よりも「先」が気になって、ひとたび観はじめるや途中でやめることができない。

それらを観ながら、自らの不明を恥じずにはいられない(村上春樹的に言うなら、「不明を恥じないわけにはいかない」。なんで村上春樹的に言いなおさなければならないのかは自分でもよくわからないが)。深く、深く不明を恥じる。僕はこの十数年、いったい何をしていたのだろうか。あくせくと目の前の仕事を片づけることに汲々としながら、いちばん大事ななにかを見失っていたのではないだろうか。

もう遅いかもしれない。今さらかもしれない。しかし僕は、とにかくもう一度、本来自分が目指していたところに目を据え、そこに向かって歩みを進めていこうと思う。僕のいわゆる(エンタメ作家としての)作家生命は、昨年の時点ですでに尽きたと思っている。どうせもう終わっているのなら、何をどう仕切りなおそうが勝手ではないのか。

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2017年3月10日 (金)

アンソロジー『変態』(シリーズ紙礫)

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僕が編者として取りまとめ、解説を寄せた短編小説アンソロジー『変態』が、皓星社の「シリーズ紙礫」の第7弾として発売された。ご覧のとおり、なんとも怪しいたたずまいの本である(撮影しようとしたら猫のクーが寄ってきたので一度どかしたのだが、どかしてもまた寄ってきてしまうので、あきらめて一緒にフレームに収めた次第)。

収録作は以下のとおり。

「犬」 中勘助

「東京日記(その八)」 内田百

「富美子の足」 谷崎潤一郎

「彼等[THEY]」 稲垣足穂

「合掌」 川端康成

「果実」 平山瑞穂

「夢鬼」 蘭郁二郎

それぞれの作品については「解説」の中でほぼ語り尽くしているので、ここではくりかえさない。ただ、川端と蘭の間にさりげなく紛らせてある僕自身の書き下ろしについては、(当然のことながら)解説は省いているため、ここでひとこと補足しておこう。 

この作品「果実」は昨秋一気呵成に書き上げたものだが、中核となるモチーフは、実は二十数年前、アマチュア時代に書いた習作から切り取ってきてリミックスしたものである。まだ25歳かそこらの頃の話だ。25歳。信じられないくらい若い。そのときの着想が、長い歳月は経たものの今ではこうして活字になっていることを、当時の自分に知らせてやりたくてならない。 

なお、ついでなので一応言っておくと、クーは元気である。このブログに登場するのも軽く5、6年ぶりなのではないかと思うが、10歳の今もこれといった病気にはかからず毎日陽気かつ呑気に過ごしている。ただ、なぜか腹部を執拗に舐めつづけるせいで、ふさふさだった腹毛のほとんどが禿げてしまっているのだが(アレルギー性らしく、ときどき薬をやったりしているのだが、根本的な解決には至らずにいる)。

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2017年2月14日 (火)

踏み越えていなかったひとつのハードル

年明けから、村上春樹の小説を相次いで時系列で再読している。なぜそんなことをしているのか、その理由はいずれ知らしめることになると思うが、今はまだそのときではない。今言いたいのは、自分がどれだけこの作家から影響を受けていたのかということだ。

僕は1968年生まれだが、この世代で村上春樹という作家をまったく無視できた人はいないのではないかと思っている。影響を受けざるをえなかった(村上春樹的にいうなら、「影響を受けないわけにはいかなかった」)ということだ。たとえそれが、「この人の影響を受けてはいけない」という否定的なスタンスに根ざしたものであったとしても、意識しているという時点でそれはすでに「影響を受けている」ということなのだと思う。そういう意味で、避けて通れないところにこの作家はいたのではないかということだ。

ある時期から------というのは、作家デビューを果たすよりだいぶ前の段階のことを言っているのだが、とにかくある時期から僕は、この人の亜流に甘んじることだけは絶対に避けなければいけないという気持ちで日々、発表するあてがあるのかどうかもわからない小説の原稿を書きつづけていた。

それはある程度成功していると自分では思っていた。そしてある時期以降、自分はほぼ完全に村上春樹の影響下から抜け出すことができたという確信を抱いていた。しかし今、『風の歌を聴け』から通して再読していく中で、その脱却度合いがいかに生半可なものであったかということを思い知らされている。 

たとえば2013年に僕が上梓した『ルドヴィカがいる』はどうか。これは、作家である語り手がある謎の電話を受けるところから物語が始まっている。この出だしは、『ねじまき鳥クロニクル』の冒頭部分と酷似してはいまいか。

もちろん僕は、『ルドヴィカがいる』を書くときに、そんなことはまったく念頭に浮かべていなかった。僕はただ、なんらかの不条理感や、「これから何が起こるがわからない感じ」を出したくてそういう場面を書いたにすぎない。しかしその「感じ」を実現するために僕が援用したのは、なんのことはない、村上春樹が20年も前に則ったのと同じ作法にほかならなかったのだ。

やれやれ、と僕は思う(村上春樹風)。しかしそれと同時に僕は、だからこそこれを踏み越えなければならないのだとも思うのだ。たとえその努力が、誰からの支持も得られないものであったとしても。

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2017年2月10日 (金)

その名も「変態」

さて、前著『妻を譲らば』が刊行されてから少々間が空いたが、次に出るのは僕が編者として取りまとめたアンソロジーである(3月10日発売予定)。

皓星社がマイク・モラスキー氏・編の『闇市』を皮切りに2015年から毎回テーマと編者を替えて刊行しているシリーズ「紙礫」の第7弾として、ちょっと変わった趣向の中・短編小説を7篇揃えている。取り上げているのは、中勘助、川端康成、蘭郁二郎等の作品なのだが、僕自身の書き下ろしもドサクサに紛れるように1篇忍ばせている。ネット上にもすでにちらほらと情報が現れはじめているが、その名もズバリ、『変態』。

声がかかったとき、一も二もなくこのテーマでやらせてほしいと申し出たのは僕自身だし、「いかに変態っぽいラインナップを組み上げるか」というのは実に取り組みがいのあるテーマで、解説を書いている間もずっとノリノリだった。

少し前、某社の担当編集者にこういう本が出るという話をしたところ、「平山さんの名前が冠された『変態』という名の本が世に出てしまうという点についてはどうなんですか?」と言われたのだが、それに対しても「いやそれは別に」という反応で終わっていた。

しかし今、ネット上で“『変態』  平山瑞穂・編”という文字を見ると、そのインパクトに毎回一瞬ギョッとしてしまう。ああそうか、『変態』というタイトルの本を自分名義で出すというのはこういうことだったのか、と。

なお、本書編集の過程では、候補作選定のためにめぼしい作品をピックアップしつつ、それぞれの作品における「変態ポイント」(ここが変態っぽいと思う要素やその理由)について僕がメモをつけていった資料が作成されているのだが、版元皓星社から、その「変態ポイント」をツイッターで随時アップしてくれているようなので、併せてご参照いただければ幸いである。

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2017年2月 1日 (水)

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語らない時期が長くなればなるほど、語れないという思いが強くなっていく。ネットで発言を始めた約12年前から常に思っていたことだ。無理にでもそれに抗おうとする胆力がかつてはあった。それに屈してはいけないという思いにだけ駆られて、僕はなにごとかを綴りつづけていた。

この無差別な「発信」の洪水の中で、あくまでそれを続けていくに足るだけの心の強さが自分にあるとは思えない。いったいそれを誰が求めているというのか。語ることなどは、説明責任を放棄した短い発信を垂れ流し、その結果に関心を持たずにいられる鈍感な人々にでも任せておけばいいのではないかとも思う。それでも、僕はいいかげん語らなければならない。

語るべきことが何もないわけではない。語ろうと思えばいつでも語れる。ただ僕は、あまりにも長いこと沈黙を守りつづけたせいで、語り方というものを忘れてしまっているようなのだ。それを思い出すまで、少しだけ猶予が欲しい。

それまでは、どことなくたどたどしくて舌足らずな語り口になってしまうだろう。それでも許してくれるという人は、僕が再び語りのステージにじわじわと這い上がってくるさまを辛抱強く見守っていてほしい。

どのみち僕には、語ることから逃げつづけていることなどできはしないのだから。

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2016年5月 8日 (日)

最新刊『妻を譲らば』

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僕にとって24作目にあたる単行本『妻を譲らば』が、中央公論新社より刊行された。

「どこかで見たようなタイトルだな」と思われるだろうが、まったくの偶然である。原稿そのものは昨年11月末時点で脱稿しており、今年の1月に第154回直木賞が発表されるまで、僕はそんなタイトルの本が存在していることを失礼ながらまったく知らずにいた。

タイトルを再考すべきかと一瞬は考えたのだが、あえてこのタイミングでまるで二番煎じの「類似品」のような名称の作品を世に問うのも逆におもしろいかもしれないと思いなおし、結局当初案のまま刊行する運びとなった。まあ、「めとる」と「譲る」はほぼ逆の行為を指しているわけで、フランク・ミュラーと「フランク三浦」ほどのあからさまな懸隔は認められないにしても、別物であることはおのずとわかってもらえるだろうということで。

ところで「妻を譲る」といえば、文学史上でまっさきに想起されるべきは谷崎潤一郎である。昭和5年、友人・佐藤春夫との間で起こした「細君譲渡事件」は、谷崎好きならずともどこかで耳にしたことがあるかもしれない。そして事実この作品『妻を譲らば』は、谷崎潤一郎生誕130年記念作品として書かれたものである。オビの背表紙側に僕自身が寄せたコメントがあるので、引用しよう。

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絵に描いたような文学少年であった高校時代、谷崎潤一郎は最も好きだった作家の一人で、全集の七割は読破していた。今回、主だった作品を一気に再読して、実生活で起こした「細君譲渡事件」がどれほどこの人の作品世界に深い影を投げかけているかを再認識した。『蓼喰ふ蟲』をはじめとする一連の作品の現代性にあらためて驚嘆しつつ、その「陰翳」を及ばずながら現代社会にトレースするつもりで書き上げたのが本作である。

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執筆意図としてはまさに上記のとおりなのだが、谷崎といえば(いろいろな意味で)真性の変態であったと僕は考えている。ビブリオグラフィーの大半が(なんらかの意味での)変態小説で占められているああいう種類の書き手が、今なお稀代の大作家として不朽の名声を維持しているというのは、よく考えたらすごいことだと思う(※褒めてます)。そういう意味では、僕の作品のレベルは「及ばずながら」どころか、足元が視界に入るところまですら達していないかもしれない。

しかしともあれ、高校時代以来の「谷崎愛」を僕なりに精一杯投入した作品ではある。(一応)ミステリー仕立てで、中卒で消費者金融を立ち上げ、いっとき荒稼ぎをした父・生島龍雄と、その父に反目しながらデザイン事務所を立ち上げた息子・生島将大(まさひろ)、この一見水と油の親子2代にわたる、「第三者が介在する妻との間の特殊な関係」が物語のキーとなっている。

なお、カバーに使用されている写真は、それ自体としてはことさらに性的な要素を含んだものでもなんでもないのだが、そこに「妻を譲」という文字がかぶせられ、しかもそれがピンクで彩られているだけで、なぜか写真までエロいものに見えてくるから不思議だ。昔から「ピンク映画」「桃色遊戯」などというが、人はどうしてこの色におのずとそういう意味を見出してしまうのだろうか。

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2016年4月 6日 (水)

『ルドヴィカがいる』文庫版

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2013年に小学館より単行本が刊行された拙著『ルドヴィカがいる』が、このたび小学館文庫に入った。

本業だけでは食っていくのが難しい売れない小説家・伊豆浜亮平が、糊口をしのぐためのアルバイトとして行なっている女性週刊誌のライター仕事を通じて知り合った若き天才ピアニスト、「鍵盤王子」の異名を取る荻須晶と知りあい、不思議な言葉を操るその姉・水(みず)失踪の謎を探る過程で言葉の迷宮にからめ取られていってしまう、という物語である。

単行本のカバーは、不穏な暗い森のイメージが印象的なデザインだった。

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一転して今回は、画像的要素や色彩などを徹底的に削ぎ落としたソリッドでシンプルきわまりないデザインになっている。最初にラフを見せられたときは思わず目を瞠った。

元少年A氏の『絶歌』や、小保方晴子さんの『あの日』など、物議を醸した人の「手記」のカバーデザインにも相通じる大胆さだが、それ以外にも、タイトルの下に小さく入った仏語題がワンポイントになっている点、一見無地にも見える背景に実は薄いスミアミで「ルドヴィカがいる」の文字がランダムに配置されている点、タイトルよりもむしろオビのキャッチの方が大きい字で表示されている点など型破りな要素が満載だし、何より文庫でこうしたミニマムなデザインというのはかなり異例なケースなのではあるまいか。

こんな小さな画像や、ましてネット書店での書影などでは、この「異物感」を実感することは難しいと思う。ぜひ現物を手に取って見てほしい。

カバーがこのデザインに落ち着くまでにはそうとうな紆余曲折があったらしい。すべてが確定したあとで、担当編集者経由で今回発生したラフ案のほぼすべてを「参考までに」ということで見せてもらったのだが、その数の多さに度肝を抜かれた。

バラの花などボタニカルなイメージを前面に押し出した絢爛なものから、「森と女」がモチーフの写真を使用したもの、一見風変わりな少女のイラストを援用したもの、同じミニマム路線でも一面黒で塗りつぶされているもの、そしてそれぞれの路線の中で派生した無数のバリエーションなど、その数は優に100点を超えている。

それだけあると、もはや何をもって「よし」とするのかわからなくなりそうなものだが、できあがった現物を前にすると、「うん、たしかにこれがいちばんだな」と納得させられる。「シンプル・イズ・ベスト、ただし若干のヒネリが存在感を格段に高める」といったところだろう。デザインを担当してくださったbookwallさん、本当にありがとうございました。

なお本文庫には、文芸評論家の関口苑生さんがすばらしい解説を寄せてくださっている。このいくぶん人を食ったところのある作品についてのすぐれた解題になっていることは言うに及ばず、物書きとしての僕のスタンスについても、僕自身が言いたかったことをみごとに代弁してくださっていて、まさに感激の至りである。こちらにもこの場を借りてお礼を述べさせていただきたい。

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2015年12月17日 (木)

新刊『バタフライ』

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幻冬舎より最新書き下ろし『バタフライ』が刊行された。僕にとって通算23作目の単行本(最初から文庫として刊行された『遠すぎた輝き、今ここを照らす光』を含む)である。

20作も超えると、今度何作目なのかというのをいちいち数えないととっさにはわからなくなってくる。極端に子だくさんの人というのは、こんな気持ちなのではないだろうか。それぞれの子どもへの愛情がないわけではないのだけれど、あまりに多すぎて一人ひとりに目が行き届かなくなるこの感じ。

さて、「バタフライ効果」と呼ばれるものがある。自然環境の中で生じたわずかな変化が、力学的な連鎖を引き起こし、自然災害などの大きな結果に結びつくというその可能性を、寓意的に表現したものだ。これを、偶然すれちがうことになった人間同士の相互作用で表現できないかと考えたのが、本作を執筆するに至った動機だ。

たとえば今日、あなたがたまたま朝から気分がよくて、いつもなら無視している募金に応じたとする。あるいは逆に、勤め先でいやなことがあったばかりに、帰りに寄った居酒屋で従業員に対してついきつい調子でなにか言ってしまったとする。

なんの気なしにしたそのことが、別のだれかのなんらかの行動を引き起こし、それが巡りめぐって、どこかで大きなできごとに結びついていたとしたら? テレビのニュースで知るような、自分の与り知らないところで起きた大きな事件に、その自覚もないままに、自分も遠因のひとつとして関与していたとしたら------?

そんな空想を突きつめていったところに、本作は成立している。だからこれは、「ミステリー」と銘打ってはいても、いわゆる謎解きものではない。むしろ、あるできごとが「いかにして起こったか」を、時系列に沿って説いていくような構成を取っている。そこで真に問題になるのは、この「あるできごと」に結果として関与することになった、それぞれは接点を持たない人物たちの生きざまである。

なお、Amazonなどにおける本書の紹介文(オビの文言とほぼ同様)は、以下のとおりになっている。

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尾岸七海(13)は母の再婚相手に身体を求められていた。「この男を本当に殺したい」。島薗元治(74)は妻に先立たれ、時間を持て余している。「若い奴は全くなってない」。永淵亨(32)はネットカフェで暮らし、所持金は1887円。「もう死ぬしかないのか」。山添択(13)は級友にゴミ扱いされて不登校に。「居場所はゲームの中だけだ」。設楽伸之(43)は二代目社長として右往左往している。「天国の父に笑われてしまう」……。全く接点のなかった、困難に直面する一人ひとりの日常。誰かの優しさが見知らぬ人を救う、たった一日の奇跡の物語。

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オビには、芥川賞作家・羽田圭介さんから推薦コメントをいただいた。カバーデザインは片岡忠彦氏。裏表紙では、同じ東京の夜景が揺れている。一匹の蝶の起こした波紋が、東京全体を震撼させているという趣向だ。ラフを見たときには、その芸の細かさに思わず唸らされた。

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2015年9月20日 (日)

極私的読書ガイド(13) ------記憶をめぐる考察(2)

『マザー』(単行本は2010年、文庫は2012年)

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一人だけ、自分にとって「理想の人物」を作ることができるという携帯ソフトをめぐる都市伝説の謎に、若者たちが迫っていくという話。「デスノート」的なものを書いてみてほしいという担当編集者からのリクエストに応じて書いたものだ。

編集者の意図は、「ここらでとにかく一度ブレイクして、平山さんの名を一気に知らしめることが必要。そのためには作品を一般受けしやすい形にしておかなければ」というところにあった。僕もそれを理解したからこそ、精一杯期待に沿うようなスペックで作品を仕上げたわけだ。

それで僕なりに一種のSFミステリーを書いてみたつもりなのだが、少し不器用だったかもしれない。そう、ただ少しだけ、不器用だったのかもしれない。あのミラーボールみたいに、明るくてまん丸なお月さんに、憧れただけさ。

しかしまあ畢竟するところ、「ピリオドの向こう」には行けなかったわけですな、この作品でも。

つくづく、「あの手この手」を試したものだと思う。そしてこの作品にかぎらず、「どの手」を使った場合も、僕は作品を一定以上の水準に到達させることはできているはずだと自負している。しかしほとんどの場合、それは読者には届いていない。

もしかしたら、そんな風に、何をどう書いても「それなり」に仕立てあげることができてしまう小器用さこそが、僕の最大の欠点なのかもしれないと考える瞬間もたびたびある。いわゆる器用貧乏というやつだ。もっともっと不器用で、「自分はこういう風にしか書けない」というタイプだった方が、結果としては明確に「色」を出すことができて、最終的にはそれが読者から支持される結果になったのかもしれない、と。

だがそんなのはしょせん仮定の話だし、そういうわがままがきくのは、既存の作品がいくらなんでももう少しは売れているケースなのではないかとも思う。先にも言ったように、そういう対応力が欠けていたばかりに、どの出版社からも相手にされなくなってしまったとしたら元も子もないではないか。僕はまちがっていたのだろうか。------そうは思えない。

それより僕は、敬愛する楳図かずお先生が初監督した映画のタイトルが、これとまったく同じであったことにいろいろな意味でショックを受けた。もっとも、僕の『マザー』が映画化されるようなことは(少なくとも現段階では)ほぼありえなさそうなので、タイトルが競合する心配も実質的には存在しないわけだが。

タイトルといえば、まさにこの『マザー』あたりから、僕自身が考えた案が通らなくなるケースが増えていくことになる。この作品だって、「きらら」連載当時は『理想の人』というタイトルだった。それでは今ひとつキャッチーではないので、単行本化にあたって改題してほしいと提案されたのだ。

それでも『マザー』は、タイトルとして結果的には気に入っている。簡潔で端的で力強いタイトルだ。しかし僕の作品においては、このような短いタイトルはむしろ例外的で、後半に至るほど、『忘れないと誓ったぼくがいた』的な、長くて文章っぽいタイトルが増えていく。単行本のときには簡潔だったタイトルを、文庫化する時点でその手の長いタイトルに変えることを余儀なくされるケースもままある。

具体的にどれが、と言うことは控えておくが、そうしたタイトルに僕自身がいつも納得しているわけではないということは、どさくさにまぎれてどこかでひとこと言っておきたかった。今がそのときだ。

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2015年9月17日 (木)

極私的読書ガイド(12) ------記憶をめぐる考察(1)

僕の作品の中に見えづらい形で存在している「系列」として、『ラス・マンチャス通信』系の次に挙げるべきなのは、なんらかの意味で「記憶」をテーマにした諸作品だろう。

もともと僕は、作品の中に「過去」を入れ子にするような構造の小説を書きがちである。「10年前」「15年前」といった過去における特定の「ある時期」と物語上の現在とを交錯させるようなスタイルの物語ということだ(例:『冥王星パーティ/あの日の僕らにさよなら』『株式会社ハピネス計画』『桃の向こう』『偽億/遠い夏、ぼくらは見ていた』『遠すぎた輝き、今ここを照らす光』 etc.)。

そういう意味では、いみじくも瀧井朝世さんが『あの日の僕らにさよなら』(新潮文庫)の解説で指摘しておられるとおり、僕は「記憶について書く作家」なのかもしれない。ただしそれは、系列を横断して存在する特徴のひとつにすぎない。

ここで「系列」として取り上げたいのは、「記憶とは何か」という、記憶そのものについての考察がベースとなっているような作品群である。

記憶とは、ある人間の人格そのものといってもいいほど重要なものだと僕は考えている。記憶の総体が、その人の人格を構成しているのだ。記憶の一部が、あるいは全部が揺らげば、その人をその人たらしめている根拠そのものが危うくなり、その人にとっての世界そのものが不完全なものとなってしまう。つまり記憶とは、「その人の信じている世界」そのものなのだ。

フィリップ・K・ディックが好んで取り上げたモチーフのひとつである「自己認識の揺らぎに伴うアイデンティティの危機」(知らない方は、映画「トータル・リコール」や「マイノリティ・リポート」などを想起していただくといいかもしれない)的なテーマともいえるが、それを小説として描写するにあたっては、必ずしもSFの形を取らせる必要はないはずだ。

この系列に当たる僕の作品としては、『忘れないと誓ったぼくがいた』、『マザー』、『偽億』(文庫化時に『遠い夏、ぼくらは見ていた』に改題)の3点を挙げたい。

実は、「ラスマン系」として先に紹介した『魅機ちゃん』(2009年)にも、この「記憶とは何か」的な考察の反映は仕込まれている。そのように、「系列」による切り分けはあくまで便宜上のもので、実際には複数の系列に同時に属しているような作品もざらにあるということはひとこと付記しておく。

 

『忘れないと誓ったぼくがいた』(単行本は2006年、文庫は2008年)

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この小説は、早見あかりさん・村上虹郎さんの主演で映画化され、今年3月に公開された。ブルーレイ/DVDも今月頭に発売されている(余談ながら、特典のメイキング映像の中に原作者として僕自身が1分程度登場している)。

 

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僕の作品の中では現時点で2番目に売れている本だが、「売れている」といってもいわゆるヒット作のイメージではなく、10年近くにわたって「じわじわと売れつづけている」と表現した方が正確かもしれない。

「記憶」と「記録」は、どこが違うのか。「知識として知っていること」と「記憶として覚えていること」との違いは何か。せつなかったり悲しかったり、胸をときめかせたり怒りに打ち震えたりした記憶も、時の経過とともにいしつか生々しい感触が薄れ、しまいには「知識」と変わらないものになってしまうのではないか。「忘れる」というのは、そういうことなのではないか------。

そういった「考察」の結果を、一人の少年がひと目惚れした少女のために奔走する純愛物語の中に落とし込んだのが本作である。

これは、日本ファンタジーノベル大賞を受賞したデビュー作『ラス・マンチャス通信』の次に発表されたいわゆる「受賞第1作」だが、作風のギャップは当時多くの人を驚かせたようだ。かたや不条理感溢れるファンタジーともホラーともつかない怪作、かたや「いま、会いにゆきます」も顔負けのせつない純愛ファンタジー。驚きはもっともだろう。

ただこのギャップは、必ずしも意図したものではない。先に述べたように「ラスマン」は売れなかったため、同じ路線の作品を続けて刊行するというシナリオがほぼ考えられなかったのは事実だが、だからといってここまであからさまに作風を変えるつもりはなかった。

本来、「受賞第1作」として構想していたのは、実は『冥王星パーティ』(現『あの日の僕らにさよなら』)だった(さらにいうなら、『見上げれば天照らす鏡』という作品のプロットが、それに先立って存在していた。原稿用紙10枚分に相当するかなり精緻なプロットだったが、これは事実上ボツにされたので、今や「幻の作品」といっていい)。

ずっと前にこのブログにも経緯を書いたような気がするので詳細は割愛するが、『忘れないと誓ったぼくがいた』には少々複雑な成立事情があり、本来、僕が『ラス・マンチャス通信』で作家デビューしたこととはまったく別の文脈から生まれた作品だったのだ。さまざまな偶然が重なって、結果としてはそれが「受賞第1作」として発表される流れになってしまったのである。

ただ、この手で攻めるならいっそとことんまで「狙って」やろう、という居直り的な気持ちがなかったといったら嘘になる。

本来この作品は『ランドルト環の裂け目』(「ランドルト環」とは、視力検査で使われる、あの回転する「C」の字のこと)というタイトルだったのだが、内容的にはまさに「いま、会いにゆきます」を思わせるような、当時流行っていた純愛ものにほかならない。だったらタイトルも露骨にそれをイメージさせる感じにしよう、といったことだ。比喩として適切かどうかはわからないが、いわば「毒を食らわば皿まで」の心境だった。

ベタといえばベタだが、このタイトルは僕自身が考案したものにはちがいないし、パッと見の印象以上に含蓄に溢れた秀逸なタイトルになっているはずという自負もある。「〜ぼくがいた」と、自分のことなのになぜ客観視しているのか。また、「ぼくがいる」ではなく「ぼくがいた」と過去形になっているのはなぜなのか。実はそこに、この作品の本質が反映されているのだ。

 

ただ、ここでうっかりこういう文章みたいな長いタイトルをつけてしまったことが、ある意味運の尽きだったと思わないでもない。その点については、次回に譲ろう。

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