« 見えない「感想」 | トップページ | 聞いてないけど »

2006年8月27日 (日)

今よみがえる「サルまん」

 小学館IKKI編集部より、『IKKI』の10月号を送っていただく。表紙を見た瞬間に、先月号で予告されていたアレは、幻ではなかったのか、と悟る。『サルでも描けるまんが教室21』、いや、これは紛うかたなく竹熊健太郎氏と相原コージ氏だ。すげぇ、スクール水着とメイドのコスプレしてる。相原さんはだいぶ肉づきがよくなったようだが、竹熊さんは基本的なフォルムが変わっていない。しかし、とにかく、この2人は本物だ。

「サルまん」といえば、大学生末期から社会人初期(フリーター時代含む)にかけての僕のバイブルのひとつだ。あれでどれだけ笑わせてもらったことか。あの空前絶後の作品は、高度な批評性を持ったパロディの一大集成であり、こんなものが描かれてしまった後、いったい日本の漫画界は何をどう描いていけばいいのかと危惧したものだった。

「サルまん」がとりわけやり玉に挙げていたものは、「ベタなもの」それ自体だったと思う。規制のフォーマットというかスペックというか、そういうアリモノの鋳型に題材を流し込むことでよしとする作品群について、「サルまん」はことのほか厳しかった。そして僕自身、「サルまん」のそういう姿勢にこそ先鋭的なヒロイズムを見出し、拍手喝采を送っていたのだが……。

 結果だけを見れば、その後も日本の漫画界は、本質的には何も変わっていないと思う。というより、変わりようがなかったのだ。「ベタなもの」は、まさに「ベタ」であるがゆえにその後も求められつづけ、そのことによって命脈を保ってきたのだ。「ベタなもの」には、それ自体としての存在意義があるのである。そして僕は今や、そのことに対してなんら異義を申し立てるものではない。それはそれで「アリ」だ、と思っている。

 それでも僕は、「サルまん」は不朽の名作だと思っている。あれから14年の歳月が流れたが、結果として日本の漫画界が本質的な変化を被っていない以上、当時の「サルまん」が持っていた批評性は、今もって失われてはいないのだ。そして「批評性」とは、その時代・その時代において支配的なある現象(と書くと、作中で竹熊たちが関わっていた「支配社」というコミック出版社の社号が、なにやら意味深な感じに思えてくる)に対する中和剤として、またバランサーとして、その存在をぜひとも認められるべきなにかなのだと僕は信じている。

『サルまん21』の『IKKI』への掲載はプロモーション的なもので、実際には8月30日頃単行本として小学館より発売される上・下巻が今回の企画の本尊らしい。しかし、とにかくこれは「買い」だ。無条件に「買い」だ。実際におもしろいかどうかはどうでもいいのだ。これはリスペクトの問題なのだ。

|

« 見えない「感想」 | トップページ | 聞いてないけど »

コメント

『サルまん』に受けた影響ははかり知れません。何度読み返したことか。(という割に何年も前から行方不明)
新装版も買います。誰に頼まれずとも。

投稿: 黄海 | 2006年8月28日 (月) 06時55分

なんとなく、黄海さんはこのネタに反応してくださるのではないかと思っておりました(笑)。
かくいう僕も実は自分で買ったわけではなく、友人に「きっと好きなはず!」と贈呈されたのですが、今もって書棚の一角に鎮座ましましております。

投稿: 平山瑞穂 | 2006年8月28日 (月) 17時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/181870/11636575

この記事へのトラックバック一覧です: 今よみがえる「サルまん」:

« 見えない「感想」 | トップページ | 聞いてないけど »