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2006年9月30日 (土)

無為も僕も通院

 昨日は「もう寝よう」などと言っていたが、結局「努力目標」になってしまい、午前3時過ぎまで『シュガーな俺』の校正をやってしまった。でも今朝は、かかっている糖尿病専門クリニックの原則5週に1度の診察日だったので、どうにか起きて午前中には受付を済ませた。

 病院だから当然、待合室の患者を呼ぶときはフルネームなわけだが、最近、そこで「平山瑞穂さん!」と大声で呼ばれるたびに戦々恐々としている。頼むから、せめてもう少し小さな声で呼んでほしい、と思う。

 今のところ僕は圧倒的なまでに無名なので、普通なら僕の名を知る人などにはめったにお目にかかることもないのだが、糖尿病専門クリニックということは、そこに居合わせている時点ですでにかなりセグメントされているわけで、待合室の患者の中に、@ニフティで連載中の『シュガーな俺』を読んでいる人がいても、なんら不思議ではないのだ。今にバレるんじゃないか、とビクビクしている。まあ、バレたところで、「はは、実はそうなんですよ、ご愛読ありがとうございます!」と言うしかないわけだが。

 僕がそのクリニックにかかっている頃、妻が無為を再び動物病院に連れていっていた。あいかわらず、食欲不振の原因特定はできないままで、薬の種類を増やして様子を見る状態だが、心なしか元気になったように見えなくもない。妻がマンションに連れ帰った時点ではプリプリしていて、妻を避けるような行動を取っていたそうだが、しばらくしたら忘れてしまったのか、妻にだっこされながら赤ちゃんのように両手で首にしがみついて甘えていた。

 イヤな思いをしてだれかに腹を立てていても、甘える相手が限られているばかりに、その、腹を立てていた当の相手に甘えるしかなかったりするわけだ。そういうところが、特にマンションなど閉鎖的な空間で飼われている猫の気の毒な部分だ。愚痴のひとつをこぼす相手もいないとは。しかし同時に、すべて無為のためを思ってやっていることなのだということを、どうにかしてわからせたいとも思う。仮にわかったところで、「イヤだ」と感じる気持ちに変化は訪れないだろうが。

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2006年9月29日 (金)

電池切れ

 頭の傷の治りは早く、あと来週の火曜日にもう一度行けば、そこでもう「ホチキスの針」が抜けるそうだ。それはよかったのだが、不測の事態と未知の経験による緊張がふっと解けたらぐったりしてしまって、今日はめずらしく会社からまっすぐ帰宅した金曜日だったのに、今まで何もできなかった。

『シュガーな俺』初校の残りの部分も届いている。「残りの部分」というのは、主として図表だ。文字だけだとうまく伝わらないであろう部分があるので、いくつか図表を導入することにしたわけだ。もともと、エンターテインメント小説でありながら「実用書の役割も兼ねる」というコンセプトで企画を立てたものだったので、これはいかにもそれらしい要素になるだろう。

 初校のゲラは、本文部分も含めて、実はまだ手つかずだ。日曜には発送しないと間に合わないスケジュールなので、明日、どうにかするしかない。まあ、大きな問題はなさそうなのでなんとかなるだろう。毎週土曜日、僕にしてはめずらしくほぼ毎回欠かさず熱心に観ていた番組(アニメの“BLOOD+”)も、先週最終回だったし。

 そう、その“BLOOD+”と言えば、「僕にしてはめずらしくほぼ毎回欠かさず」というのは一種のレトリックであって、正確には、「そもそも連続ドラマなどのように続き物を毎週放映するという形態の番組を律義に毎週追っていくという観方をする習慣がほとんどないこの僕が、めずらしく“毎週追っていこう”という姿勢を最初から最後まで示しつづけた」ということなのだ。

 実際には、なにか予定が入っていたり、たまたま忘れていたりして、たぶん3回に2回くらいしか観ていないと思う。それでも、わざわざ録画してまで全部観ようとはしなかったということだ。ちなみにあの番組の場合、放映後、翌週の放映時まではネットで「何度でも視聴できる!」というサービスがあって、当初は「デビッド」がシブい声でそれを宣伝していたのだが、そのサービスは実はMacユーザーには利用できないもので、でもそんなこと言ってくれないから僕は入会してしまって、入会してからそれに気づいて、どうしてもっと大きく書いといてくれないんだろう、「デビッド」だって、「ただし、Macユーザーの諸君には、このサービスは利用できない! 十分に注意されたい!」とか呼びかけておいてくれてもよさそうなものを、などと思い、でもだったら使えもしないサービスのために月額いくらだかを払っていくのは無駄なので退会しようと思ったら(以下略)

 ダメだ、なんか疲れてるととりとめがなくなってしまう。自分で読み返してみて思わず目をみはるほどダメな文章だ。これでは本来言いたかったことにいつまで経っても辿り着けない。たぁ〜どぉ〜りつぅ〜けない、此処に欲しい腕や髪や首筋。貴方の嫌う生温い雨に濡らされてゆく(椎名林檎)。

 今日はもうおとなしく寝よう(努力目標)。

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2006年9月28日 (木)

喉にひっかかってること

 笑えないユーモアなら出さない方がましだ。浅い倫理意識なら持たない方がましだ。善悪の境界を見定めるための酷薄な闘いなど一度も経験していないのが見え見えなのに、大上段に「悪の断罪」をふりかざすその無邪気さをこそ、僕は断罪したいのだ。

 でもそれっくらいのヌルいテイストの方が、世人にはウケがいいのだろうか。

 あ、いえ、現首相の話ではありませんよ(今回は)。

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2006年9月27日 (水)

一夜明けて

 午前中、昨夜救急車で担ぎ込まれた外科病院で消毒を受けてから会社へ向かう。昨日の帰りがけには、絆創膏を貼った上に保護用のネットを巻かれた状態だったのだが、今日からもうそれも不要とのこと。1週間で、ホチキスの針みたいなやつが取れるそうだが、この場合、「抜糸」ではないので、どう言うのだろう。抜針(ばっしん)?

 まあともかく大事には至らずほっとしたが、今日、喫煙コーナーで話しているときにはそのことで持ちきりになってしまった。昨日、迅速に救急車を呼んでくださったのは、歓迎される立場だった次期社長(御曹司)の方で、「いろいろな意味で、生涯忘れない歓迎会になりました」とのコメントに恥じ入ることしきり。

 今朝、枕の上に敷いてあったタオルに2、3箇所小さな血痕が残っていたが、それ以上出血することもなく、傷口は順調にふさがりつつあるのだが、寝ている間、無意識に傷口を庇って妙な姿勢になっていたらしく、朝から背中の筋が痛い上に、首が筋肉痛になっている。

 転倒するときは、普通、肘などでガードしようとするものだと思うのだが、後から気づくと、そういう形跡がいっさいない。文字通り、直立姿勢のままドミノのように倒れて、頭部で地面を直撃したものと見える。当然、普通に横たわって枕に当たるであろう部分が切れたわけだ。すぐ隣を歩いていた女子社員が言うには、「平山さんが急にいなくなっちゃったんですよ!」。なんというマンガみたいなシンプルな転倒。

 ところで、昨夜は自分の方がたいへんなことになってしまってそれどころではなかったが、食欲が異常になくておなかの贅肉がすっかりこそげてしまった無為を、妻が病院に連れていっていた。点滴を打ったら、少しは元気になったようだ。原因は特定できなかったが、腎臓が縮小して機能が低下しており、それが影響している可能性もあるという。とりあえず、さっきはネコ缶「とりのあらほぐし」を元気ににちゃにちゃ食べていた。

 書籍版『シュガーな俺』の初校が届く。新潮社の場合は、まずデータ入稿してゲラを出してしまってから「校閲部」が(鬼のような)書き込みをして、それが編集者のチェックを経由した上で僕のもとに届く仕組みだが、世界文化社の場合、入稿前のデータ状態でかなり綿密な校正をして、完全原稿に近い形になってから初めてゲラを出すらしい。初校が出てきた時点でほぼ問題がない状態になっているので、校正自体は楽だ。しかし、よく考えると、文字修正の手間が僕に移動しているだけ、という気もする。


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2006年9月26日 (火)

流血騒ぎ

 今日は、うちの会社の次期社長となる人の歓迎会だったのだが、その帰り、雨が降っている中、酔っぱらっていて足を滑らせて頭をしたたかに打ってしまい、でも僕自身はたいしたことないと思っていたのに、まわりがやたら大騒ぎしていて、いったいなにごとなんだと思った。

「だって、血が出てますよ」と言われて、触ってみたらダラダラ流血している。あまりに流血がはなはだしいので、救急車を呼ばれてしまった。意識は明晰なので「大丈夫ですよ」と言い募ったのだが、直属の上司の人は病院まで付き添ってくれるという。明晰な意識のまま救急車に乗り、明晰な意識のままCTスキャンにかけられた。横たわっている台が、数センチずつ、「ゴッ……ゴッ……」と移動する。数センチおきに、僕の脳を輪切りにしているのだろう。

 検査結果は、一応、問題なし。2針縫う程度の傷ができていたらしいが、ホチキスみたいなもので3箇所、バチンバチンと止められただけで処置は終わりだった。もしも吐気があるようならすぐに連絡してください、とのこと。今のところ、問題なさそうだ。ホチキスで止められたところがズキズキするけど。

 いや、まいった。まさかこんなおおごとになるとは。付き添ってくれた直属の上司をはじめ、みなさんにえらい心配をかけてしまった。帰宅してからよく見ると、ワイシャツは血みどろでたぶんもう二度と着れない状態、スーツの上着にもボタボタと血痕がついているし、カバンも血まみれだ。

 気をつけなければ。という言葉が虚しい……。ほんとに気をつけなければ。


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2006年9月25日 (月)

メーンって?

 "main"は、カタカナでどう表記するのが適切なのか。こういうネタはたいへん久々だが、今日の夕食中、妻とひとしきりその話題で盛り上がったので、一応書き留めておく。

 朝日新聞では、「メーン」と表記している。「メーンイベント」とか。でも妻は、これが「おかしいのではないか」と言う。僕もそう感じる。「メイン」が普通じゃないか、と思う。もしも、英語における"ein"の音を「エーン」と綴るなら、「キャピタルゲイン」だって「キャピタルゲーン」と綴るべきだが、現状、そうなってはない。では、何の違いなのだろうか。

 逆に"ein"の音を「エーン」と綴るほかの例を考えてみよう。"chain"これは「チェーン」が普通だ。でも"stain"は「ステイン」だし、"rain"は「レイン」だ。ただし、「車線」を意味する"lane" 、これは「レーン」が一般的だと思う。とはいえ、マケイン上院議員が「マケーン」なわけではない。朝日新聞だってはっきりと「マケイン」の表記を採用している。

 強いて言えば、外来語として導入された時代の古さが関係しているようにも見える。"main"、"lane"、"chain"などは比較的古くから日本語に入っている。だから、「慣用的に」「エーン」の方を採用しているのだと思えなくもない。逆に"capital gain"などはかなり最近だろうし、"stain"なんてサンスターのOraが出てきたあたりからやっと認知された言葉で、それまでは「ステンレス」=stainless(「汚れ・シミのがない」が原義)の構成要素としてしか一般には知られていなかったと思う。

 だけど、だったら映画にもなった「メイン・テーマ」などはどう説明をつけるのか。これはまったくの憶測で言うのだが、"main"をどう表記するかは、世代によっても異なるのではないか。少なくとも、「メイン・テーマ」をリアルタイムで普通に楽しんだ世代以降の人々にとっては、"main"は「メイン」と綴るのがより自然に感じられるのではないか。

 ああ、もっと言いたいことがいっぱいあったのに全部書いていたらキリがない(いつもこうなる)。今日はこれくらいにしておこう。

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2006年9月24日 (日)

父の幸せな夢

 昨夜からどうも鼻がグズグズしていると思ったら微妙に風邪をひいていたらしく、今日は半日は寝て過ごす状態だった。日中、まどろんでいる間に、ものすごく汚い風呂の排水口を掃除する夢を見つづけていた。「黒いシミ通信」時代にもちょっと書いたかもしれないが、疲れているとき、僕はよくそういう夢を見る。風呂掃除は現実世界でも僕の担当で、週に1度は排水口もきれいにしているのだが、本当はその仕事がイヤでイヤでたまらないのかもしれない。

 大学教授であった僕の父は、銭湯の汚くてぬるい、ドロドロした残り湯に首まで浸かっている夢をよく見るという。助手の頃は、給料だけでは家族を養っていけず、家庭教師などのアルバイトをいくつかかけもちしていた上に、家は風呂なしだったので、実際、閉店間際の銭湯に駆け込んで、あまりきれいではない湯に浸かることも実際にしばしばあったそうだ。その頃の記憶が、誇張された形で再現されているのかもしれない。

 一方、やはり父がときどき見るという「いちばん幸せな夢」は、「たくさんの子猫が体中にまといついている」夢だそうだ。つまり、銭湯の湯に浸かるように、子猫の海に首まで浸かっている状態、ということだ。

 とここまで書いてきて、かつて「黒いシミ通信」に、「ちょっと書いた」どころかそっくり同じ内容の記事を書いたことがあるような気がしてきた。面倒だからわざわざウラを取ることはしないが、もし、「これ前にも読んだよ」と気づかれた読者がおられたとしたら、そっと気づかなかったふりをしていただければと思う。健忘状態になるにはまだ早過ぎるが、最近、自分の記憶にあまり自信が持てないのだ。

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2006年9月23日 (土)

食欲のない無為

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 無為の調子が悪い。見た目は元気そうなのだが、食欲がほとんどまったくないようだ。ここ1週間ほど、ふだんの半分も食べず、ときどき胃液を吐いたりしている。心配だが、病院に連れていくとそれがまたストレスになりそうなので、躊躇している。もう14歳なのだから、いつお迎えが来てもおかしくない。そろそろなのかな、と思う。そう思いながら、ほんとはそんなことをまったく信じていない自分にも気づく。

 世界文化社の担当Uさんから、書籍版『シュガーな俺』の表紙ラフ案が届いている。スゴい。ものすごいインパクトだ。あらゆる意味で、予想を裏切っている。PDFファイルをここに貼りつけたい衝動に駆られているが、ここはガマンだ。

 書籍版はもともと、「全国糖尿病週間」(11月6日〜12日)を当て込んで、11月1日ごろ配本になる予定だった(ちなみに僕は糖尿病歴3年強だが、Uさんに指摘されるまで「全国糖尿病週間」の存在を知らなかった)が、世界文化社営業サイドの押しもあり、10月20日に前倒しされることになった。もう、1ヶ月を切っている。その日を楽しみに待つことにしよう。

 學燈社『國文學』の特集「わかりやすい文章応用力」に寄せた原稿のゲラも届いている。当初、仮のタイトルとして「小説を書いてみましょう」というのが指定されていたが、それではあまりにナニ様な感じなので、できれば変えてください、と申し出て、「小説における文章表現とは」にしてもらったが、ゲラで実際に見てみると、それでもだいぶエラそうだ。ナニ様だ自分。何とぞ読者諸兄のご寛恕を請いたいところである。

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2006年9月22日 (金)

支持しない理由

「坊やだからさ」(by シャア・アズナブル)

 つまりそれが気に喰わんのです、その、「素」な感じが。無邪気な感じが。無邪気に残酷なことしそうな感じが。ほら、子供って、トンボの体を3つに解体したりするじゃないですか、真顔で。あの感じがあるのです、あの人には。「したたかな計算」? そんなもんないでしょ、彼には。本気で思ってんでしょ、口に出してることは。過大評価ですよ、そんなの。見りゃわかるでしょ、あの調子コイた顔見れば。

 でも今の段階で僕がこんなことをいくら声高に言ってもせんのないことです。

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2006年9月21日 (木)

クリスマス?

 小学館から送っていただいている文芸誌『きらら』最新号の背表紙を見たら、映画の広告が載っている。『7月24日通り』、おお、吉田修一さんのあれ、映画化されるとは知っていたがそれか! と思いつつ、いや、ちょっと待て、その後にもなんか続いてるぞ、『……のクリスマス』? 違う。これは違う。絶対違う。この時点で違う!

 いやいや、そう言わずにもうちょっと詳しく見てみよう。「妄想のリスボン(実は長崎)を舞台に、ダメな私の恋が始まる!」……ってなんかぜんぜん違う話になってるんですけど! なんというか、そうなんだけど、そうなんだけどこれは違うのだ。吉田さんの描く、あの、やるせない中にも心揺さぶられる「あの感じ」とはまったく異質ななにかなのだ。

 だいたい、右下にいる、「ガンバ〜レ サユ〜リ!」とか言ってるこのカッパハゲの外人誰よ! あ、ザビエルか。グザビエね。長崎だからね、なるほどね。ってだから違うんだってば。こうじゃないんだ、吉田さんの『7月24日通り』は!

 いや、でも、プラスの面も見てみよう(落ち着け自分)。主演は大沢たかおと中谷美紀。あー、いいんじゃないですかね、どっちも芸達者だし、中谷美紀もともと好きだし、彼女、なんというかこう、野暮ったい女とか演じるのすごくウマいし。うん、なんか、原作と切り離して単純に映画として観たら楽しいかも。きっとそうにちがいない。上野樹里も出てるし。上野樹里好きだし。11月3日からロードショーね、はい、観に行きます。

 あらためて思うのは、吉田修一さんって、ほんとはいつもすごく微妙なところ、言語化するのが困難な、痛さとも甘さともせつなさともつかないとても隠微ななにかを描きえているのに、同時にこうした形でベタな方向に容易にスライドさせ(られ)てしまうこともまた可能なところを突いている、という意味ですごく「ウマい」んだな、ということだ。

 ああ、今日はこのトピックがあってよかった。でなかったらまんまと総裁になってしまったあの人のことをボロクソに言ってしまうところだった。あの、誰が支持してるんだかさっぱりわからない、少なくとも僕は支持していないし身のまわりにも支持してる人が1人も見当たらないあの人のことを。って、ほとんど言ってるけど。っていうか「美しい国」ってなんだよ。何をもって「美しい」とか言ってんだよ。意味わかんないんだけど。


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2006年9月20日 (水)

紛失したあれ

 先日更新の手続きを取ったパスポートを受け取りに行く。新しいパスポートは中央にICチップを内蔵したボードみたいなものを挟んでいるので、折り曲げられない。DVDのおまけつき雑誌みたいで気持ち悪い(僕はあの、硬いんだか柔らかいんだかわからない感触が嫌いだ)。

 ICチップが組み込まれたせいで、高温多湿のところや、テレビ・電子レンジのそばなど磁気が強い場所などに保管することもできなくなった。まあ、テレビや電子レンジのそばに無造作にパスポートを置いておく人もいないだろうが。しかし、これだけガードを堅くしても、なおパスポート偽造はなくならないのだろうか。

 実を言うと僕は、渡航先でパスポートを紛失したことがある。大学の卒業旅行でアメリカに行ったときのことだ。ニューヨークのマクドナルドで、パスポートも入っていたバッグを、床の上にじかに置いてしまっていたのだ。なんだか疲れてぼうっとしていた上に、店内がすいていて、従業員がうろうろしている程度だったので油断していた面もあるが、基本的には初歩的もいいところのミスだろう。気がついたら、バッグは跡形もなく消え失せていた。

 ほぼ絶望しながらも、できる努力はし尽くそうと思って、一応、従業員の1人に「バッグがなくなったんだけど知らないか」と訊ねてみた。その黒人従業員はおおげさに眉を吊り上げながら、「ベァーーーーグ? ア・ロン・ノウ!」と肩をすくめた。「知るもんか」と言わんばかりに。というか、実際に彼はそう言っていたのだろう。あの、人を小バカにしくさった顔を、今でも忘れることができない。

 僕のバッグを盗んだのはたぶんまちがいなく、そのマクドナルドの従業員のだれかだったと思う。その「ア・ロン・ノウ!」の男ではなかったとしても。しかし証拠もないので、泣き寝入りするしかない。日本に帰るための仮の渡航証明書を発行してもらうためには、警察に紛失を届け出た証明書が必要だったので、街の小さな警察署に行った。入り口で若い警官が、からかうように"Welcome to the police!"と言った。なんだかもう打ちひしがれていて、泣きたい気分だった。

 あのとき盗まれたパスポートは、その後どこかで高値で取引されたりしたのだろうか。

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2006年9月19日 (火)

BGMについて

 スーパーなどでよく、ポップスなどをアレンジして主旋律部分をサックスとかハーモニカで奏でているような安っちぃインストルメンタルがBGMとして流れているが、あれはいったい、何のつもりで流しているものなのだろうか。

 あれだったら有線かなんかで普通にポップスをそのまま流した方がずっとマシな気がするのだが、それだと「使用料」とかが発生して話がややこしくなったりお金がたくさんかかったりするのだろうか。そういえばあの手のBGMは、たいてい3曲くらいしかレパートリーがなくて、それを繰り返しローテーションしている。そういう契約になっているのだろう。でもだったらその3曲だけでもかまわないから、オリジナルの方を流すというわけにはいかないのか。

 たまに安っちぃインストルメンタルではない、ボーカルつきの曲が流れたかと思うと、そのスーパーのオリジナルイメージソングだったりする。しかもそれがまた、おそろしく人の神経を逆なでする歌なのだ。「♪スーパー・マルヨシ、花マル・これでヨシ! いろいろありすぎて困っちゃう〜(Woh!)」みたいな(あくまで「例」です)。それが何十回も繰り返しかかっていると気が狂いそうになってくる。一刻も早く会計を済ませてここから逃げ出さなければ、という気持ちになる。

 ついでに言えば、中途半端な和食の店でときどきかかっている、琴や三味線でアレンジしたビートルズ・ナンバーなども意味不明だ。それも、"Yesterday"とか"The Long And Winding Road"とかならまだしも、"Nowhere Man"だったりするとますます意味がわからない。なぜ、"Nowhere Man"なのか。選曲がシブすぎやしないか。

 さらについでに言うなら、うちのすぐそばにあるジョナサンで、子連れ客や高校生などがメインの客層により店内に慢性的に充満している蜂の巣をつついたような騒ぎによって100%かき消されてしまっていて、もはやかかっているのかどうかさえわからないBGM、あれは意味がないのでいっそやめた方がいいと思う。

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2006年9月18日 (月)

プロット立ち上げ

 先週、「仕事ウィーク」にしたおかけで『シュガーな俺』の(単行本用)入稿も済んだので、昨日から新作のプロットを立ち上げている。ただ、僕の場合、プロットで作品のよさをわかってもらうのはたいていの場合至難だ。最たるものは『ラス・マンチャス通信』だろう。あれのあらすじを人に説明するのは難しい、というかほとんど不可能だし、もしもあの作品を、まずプロットを立て、承認を得てから書く、という形で書こうとしたら、そもそも承認を得られなかったか、得られていたとしたも完成させることができなかっただろう。

「ラスマン」以後はもう少し、プロットにしやすい話を書いているが、しょせん明瞭な謎解きなどがあるミステリーではないし、作家としての僕の資質もあるので、やはり毎回、まとめにくさを感じる。プロットという形でまとめてしまうと、もうそれは、最初に書こうとしていたものとは別のものになってしまっている気がする。しかしその一方で、いやしくも自分以外の人間(編集者)に、「この話はこういう話です」ということを伝えるには、明晰で疑問の余地がないプロットを提供すべきなのではないかという思いもあり、うんうん唸りながらどうにかして辻褄の合う筋を文章の形でまとめるわけだ。でも、そんなに苦労しても、それを読んだ編集者から、「これ、おもしろいの?」と言われたりする。正直、死にたくなる。

 あるとき、日本ファンタジーノベル大賞仲間の何人かの作家さんと話しているとき、僕が(長篇の場合)プロットはA4で2、3枚分は書くと言ったら、彼らが口を揃えて「自分なんてせいぜい1枚の半分くらい」と言っていて、ショックを受けたことがある。そうだったんだ! そんなカンタンでいいんだ! そのときは、今後は自分もそうしようと心に誓ったぼくがいた。しかしいざプロットを書こうとすると、つい凝ってしまう。それじゃいかんのだ!

 凝った分だけ説得力のあるプロットが書けるわけでは必ずしもない。問題は、どうやって編集者を納得させるかなのだ。だから僕は最近、まず、出だしの数ページ分だけ本文を実際に書いてみて、比較的簡単なプロットをそれに添えて、「総合的に」判断してもらうようにしている。「これ、続き読みてぇ」と編集者に思わせることに成功すればしめたものだ。そのかわり、結局ダメだった場合はショックもよりデカくなるわけだが。

 といったことをさっきからチンタラ書いているのは、なんだか脳がオーバーヒートしてしまって困っているからだ。早く寝た方がいいと思うが、すぐに眠りに就ける自信がない。

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2006年9月17日 (日)

コスプレ

Sugar_wb1

 今さらだが、先月撮影した浴衣写真をアップしてみる。竹芝埠頭から出ている納涼船に乗った日の日中、駒込の六義園に立ち寄ったときのものだ。髪を衝動的に短く刈ってからわずか1週間なので、相当短い。しかし、浴衣というコスチュームとこの背景にはむしろなじんでいる気がする。雰囲気を出すためにわざと白黒にしてみたのだが、どう見ても昭和初期の人だ。「昭和六年、駒込六義園にて。三十八歳頃」と下にキャプションを入れれば、誰も疑わないだろう。

 「黒いシミ通信」時代にもちょこっと言ったことだが、今の人たちがわりに好んで浴衣を着用するのは、一種のコスプレに近い感覚なのではないかと思っている。自分で初めて買って、実際に着て外を出歩いてみると、その感覚がますます真実味を帯びてくる。ただコスプレとは言っても、一応、社会的にも認知されている、「初心者でも安心のライト・コスプレ」だ。

 コスプレと言えば、妻と結婚する前の話だが、ロシアに旅行に行くに際してなにかおみやげの希望はないかと問われ、なかば冗談で「旧ソ連の軍服かなんかがあるといいな」と言っていたら、彼女は旧軍部から流出していた将校用のミリタリーコートと制帽を本当に手に入れてきてしまった。驚くやら嬉しいやらで、もちろん、自室ではひそかに着て楽しんだりしたのだが、さすがにそれを着て表は出歩けない。「カザフ系の将校」という設定で、それなりにハマっていると自分では思うのだが。

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2006年9月16日 (土)

コム・デュザージュ

 今日は妻の誕生日だった。誕生日が近いので、間のどこかでおたがいにお祝いしあう食事を一度にまとめていた時期もあるが、それだとどうしても「祝ってあげている/祝ってもらっている」気がしないので、結局元に戻した。だから、9月はけっこう忙しい。

 神楽坂の某フレンチの店に行く。この店は、『忘れないと誓ったぼくがいた』に出てくるビストロ“コム・デュザージュ”のモデルだ。いや、この言い方は正確ではない。正確には、『忘れないと誓ったぼくがいた』の原型となった小説(1999年執筆)でビストロ“コム・デュザージュ”と同じ位置づけにある店、のモデルと言うべきだ。その原型においては、おそろしいことに、織部あずさは28歳、タカシに当たる人物も29歳なのだった。それでは世界の中心で愛を叫べまい(自虐的・逆説的言辞)。

 ところでその、『忘れないと世界の中心でいま、叫びに行ったぼくがいた』……じゃなくて、『忘れないと誓ったぼくがいた』の韓国語版だが、当初6月下旬刊行予定というのが7月中旬にずれこみ、その後一向に音沙汰がないなと思っていたら、さらに延期になって10月中旬頃の予定という。ひとえに、向こうの版元Studio Born-Freeの都合らしい。僕はともかく、もともと相当無理なスケジュールなのに頑張って締切までに翻訳をアップしたキム・ドンヒさんが気の毒だ。

 まあ、あの手の話は多少肌寒いくらいの気候のときに読む方がふさわしいかもしれないが。

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2006年9月14日 (木)

隣のダンジョン

「絶対、和風じゃない方がいいと思うのに……」

 突き返された洋風コスチュームの試作品を胸に担当のスタッフがぼやく中、女は、わりに露出度の高い和風のコスチュームを身につけ、同じく和風の、しかしザコキャラだということがはっきりとわかるコスチュームを着た2人の手下(女)を引き連れて、颯爽と基地を出ていく。

 移動はどうも普通の乗用車らしい。地味だ。ともあれ、見たところ普通のビルのように見えるところに降り立った女と2名の手下は、堂々と正面玄関から怪人のアジトを訪ねる。いや、そこは「アジト」と言うよりむしろ、怪人が平常時になんらかの商いをしている一種の店舗らしいのだ。なんの商いなのかはわからないのだが。

 全身が緑色で、どうやら全裸と思しい怪人は、1階のだだっぴろく薄暗いフロアの中央に、大きなたらいのようなものを置いて水を張り、仰向けに膝を曲げて上半身をそこに浸けるような姿勢を取っている。それが普段の彼のポジショニングなのだ。何をしているのかはわからないのだが。

「失礼いたしまーす!」

 最近、居酒屋などでよく聞くようになった、「失礼」が低く「いたしまーす!」で上がるイントネーションで挨拶しながら、女が独特の所作で膝を屈して恭順の意を表す。2名の手下も同じ姿勢だ。この女は、怪人を倒しに来たはずなのに、どうしてこんなに礼儀正しいのか。

「なんじゃおまえらは!」

 緑色の怪人が驚きと怒気の混ざった声を上げながら、たらいの中から上半身を起こす。飛び散る飛沫も緑色をしているようなので、どうも、ただの水ではなくて、「培養液」かなにかなのかもしれない。

「はい、私たちは、“神様の隣のダンジョン”がシンボルマークの……」

 女がそう言っている間に、目が覚めた。惜しい。続きを見たかった。せめて彼らがなんの組織に属しているのかだけでも知りたかった。“神様の隣のダンジョン”? 気になるフレーズだ。あ、しまった。こんなところで夢の内容として暴露するより、それをタイトルにして1本書けばよかった。

 今週は予告どおり「仕事ウィーク」にしており、毎日ほぼまっすぐ会社から帰宅して(作家としての)仕事に励んでいるのだが、会社での仕事もたまたまそこそこ忙しいので、帰宅直後は眠気に抗えず、どうしても横になってしまう。ほんの30分ほどだが、うたた寝している間に膨大な夢を見る。そして、大音量でBGMが流れる。

「女と怪人」の映像を見ている間は、オリジナルのインストルメンタルだった。今もその一節が、間引きされた形とはいえ頭の中で流れている。ちょっとフュージョンっぽい曲だ。うたた寝状態の自分が駆使しているらしい、このリアルタイム作編曲の能力を、どうにかして活用する方法がないか、と高校生の頃から考えているが、いい方法が見つからない。

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2006年9月13日 (水)

○仁シリーズ

 僕と誕生日が同じである親王のお名前が「悠仁」に決まったが、これを「ヒサヒト」と読むのは教えられなければほぼ不可能だろう。ただそれを言うなら、三笠宮殿下の「寛仁」だって「トモヒト」と読むのはかなり難しい。普通に読めば「ヒロヒト」になってしまう。

 逆に昭和天皇の「裕仁(ヒロヒト)」は順当だ。大正天皇の「嘉仁(ヨシヒト)」、明治天皇の「睦仁(ムツヒト)」もまあ無理のない感じだが、そのさらに前に遡ると孝明天皇は「統仁(オサヒト)」だし、仁孝天皇の「恵仁(アヤヒト)」、光格天皇の「兼仁(トモヒト)」などはそうとう難問だ。

 あまり一般的ではない読みを充てるのは、なにかこう、普通とは違うやんごとない感じを添えるためなのだろうか。

 ところでこの、親王の名の構成要素としてルール化されている「仁」の字だが、歴史は意外に古いらしく、第56代の清和天皇(在位858〜875)の諱(いみな)がすでに「惟仁(コレヒト)」だった。もっとも、それからずっと親王の諱の2文字目が「仁」だったというわけではない。次に現れるのは第60代醍醐天皇の「敦仁」だが、これはなぜか「アツギミ」と読むらしい。

 第70代後冷泉天皇の「親仁(チカヒト)」から再び「仁=ヒト」が復活し、しばらく「○仁」シリーズが続く。その中には、「善仁(タルヒト)」「体仁(ナリヒト)」「言仁(トキヒト)」など到底読めないものもちらほら見られる(以上、笠原英彦著『歴代天皇総覧』より)。

 そういえば、大本教の出口王仁三郎は自ら「尋仁(ヒロヒト)」の号を名乗り、身内にも「○仁」シリーズの名をつけていたという。

 僕だったらどうしようかな。……「糖仁(アマヒト)」? なんだそりゃ。それとも「ラス・マンチャス」にあやかって、「汚仁(シミヒト)」というのはどうか。

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2006年9月12日 (火)

アンケート外注

 本気で後悔していることがある。3年ほど前、某リサーチ会社から「無作為抽出」によりモニターに選ばれ、約1年にわたって、主に消費者動向を探るのが目的と思われるアンケートに回答したのだが、その会社から先日また電話で協力を要請された際、つい、「やります」と返事してしまったのだ。

 ただでさえ兼業生活で忙しいのに、どうしてそのとき断れなかったのか、いまだにわからない。別に、1度のアンケートにつき謝礼としてもらえる1,000円のギフト券が欲しかったわけじゃない。そんなものより時間が欲しい。毎回40ページほどもある分厚いアンケートに答えて期日までに郵送するのは、はっきり言ってかなりの負担だ。

 だいたい、「この商品を見たことがありますか?」とか訊かれても、ほとんどの場合は「ない」のだ。まあ、それもまたサンプルとしてはアリなのだろう。「30代男性会社員・年収○○万円」として、世の商品のほとんどに関心がない人間ってのもいるだろう。まさに僕がそれだ。しかしそういう人間が、商品の認知度を探る趣旨のアンケートに答えていくのは、ものすごい苦痛なのだ。

 ああ、どうして断れなかったんだろう。現職業の確認をされたとき、わざわざ「実はその後、作家になったんですが、それでもいいんでしょうか?」とまで訊きかえしたのに。いや、実のところ、僕はそのとき、「それではお願いできません」と言ってもらえるのを期待していたのかもしれない。でも、「作家になった」と言った尻から、「あ、いや、兼業ですけどね、会社員のかたわらってことですけどね」とつけ加えてしまい、「では、ご収入のメインはお勤めの会社の方で、ということですね?」と訊かれて「あ、はい」と答えてしまい、「でしたらけっこうですよ」と「認可」されてしまったのだった。ああ、大後悔。なぜ、いらんところでバカ正直になるのだ。

 そんなわけで、今日、第1回目のアンケートが届いた。また40ページくらいある。げんなりだ。だれかにアウトソーシングしちゃおうかな。同封のギフト券1,000円に現ナマ1,000円つけ加えてもいいので、どなたか代わりに回答していただけませんか? 「30代男性会社員」の方がベストですが、多少の差異には目をつぶります。僕の権限で。

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2006年9月11日 (月)

ミッション終了

 昨日の深夜、某誌からご依頼を受けていた「小説の書き方」の原稿をアップした。締切にはまだ間があるが、基本的にギリギリまでもったいをつけたりいじくりまわしたりするのは嫌いなタイプなので、さっさと送信してしまった。これまで小説以外に依頼を受けてきたコラム等の仕事とはあきらかに異質な、初めて経験する種類の仕事だったので少々戸惑いもあったが、今日、担当編集の方から返信があり、大筋で問題なかったようでほっとした。

 そんなわけでやっと安心して言えるのだが、「某誌」とは學燈社の『國文學』である。特集として組まれる記事は正岡子規とか樋口一葉とか夏目漱石とか南方熊楠と近松とかそのあたりのイメージが強く、ずいぶん堅いところから声がかかったものだと緊張することしきりで、最近はもっぱらコミック誌やラノベの編集部と接触を持っている僕などが掲載原稿を担当して本当にいいのだろうか、と半信半疑だったのだが、とりあえず、ミッションは果たせたものと見える。

 掲載は、10月10日発売の11月号になる予定だ。直前になったらまたアナウンスさせていただくことになると思う。

 ところで、先月、衝動的に短く刈ってしまった髪が、一向に伸びていないような気がする。会社の喫煙コーナーでよく顔を合わせるOさんが、「お会いするたびに短くなっている気がします」と言う。「慣れないせいでしょう。慣れないから、見るたびに短さにショックを受けて“さらに短くなっている”と感じるんでしょう」と2週間くらい前に説得した覚えがあるのだが、今日会ったときも「まだ慣れません」。

 どうも、くせっ毛なのもよくないらしい。実際には伸びているのに波打っているせいで、伸び具合が縮れに吸収されてしまってよくわからないのだ。ストレートパーマでもかけてみようか。

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2006年9月10日 (日)

遊び過ぎ

 少々遊び過ぎたかもしれない。金曜・土曜と2晩連続で午前様。今日は反省してほぼ終日仕事をしていたが、飲みの疲れがまだ取れない。

 昨日はライターであり友人のもり・ひろしさんと六本木界隈で遊び倒した。1軒目は、ショーレストラン「香和(かぐわ)」で、ニューハーフ中心のショー。この店では2つのグループ、花魁座と太夫座が交代でショーをするそうだが、今回は花魁座の方だった。ダンサーには真性の女性も混ざっているが、ほとんど見分けがつかない。逆に、どう見ても宝塚の男役にしか見えないダンサーさんもいて、「あれは元女性なのでは?」と思っていたが、そうではなく、単に「宝塚のメイクが好き」な男性なのだそうだ。びっくり。約50分のショーはたいへん楽しくて、あっという間だった。

 ショーがひけてから、「元銀行員」だというダンサーの蓮さんと席で少しだけお話する。とても聡明そうな人だった。舞台では、「元銀行員」という、どっちとも取れる言い方で紹介されていたので、てっきりニューハーフの人かと思っていたら、この人は女性だそうだ。なかなか幻惑される。しかし皆さんたいへんきれいなので、「きれい」という点では男も女もニューハーフも関係ないのだな、とつくづく思う。

 2軒目は、以前にももりさんに連れられて行ったことがある西麻布の某ボンデージ系ショーパブ。2軒続けて「ショー」系というところに、伊達や酔狂とはとうてい思えない強いバイアスを感じる。ちなみにこの店は、カウンターの背後がステージになっていて、ショータイムになるとその床が上下し、それまで普通にトークの相手をしてくれていたお姉さんたちがいきなりダンサーに早変わりして、ショーが終わるとまた何ごともなかったかのようにカウンターで接客するお姉さんたちに戻る、というある意味シュールな店だ。

 そのお姉さんの1人が僕の名刺を見て、「平山瑞穂って男性だったんだ」と言う。どこかでその名前を見たことがあったが、女だと思っていたそうだ。初対面のだれかが、作家としての僕の名をあらかじめ知っていた、という事態に立ち合うのは実は初めての経験なので、ちょっと感激する。

 それにしても遊び過ぎた。今週は気を引き締めて仕事ウィークにしよう。いやほんとに。

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2006年9月 7日 (木)

パスポート更新

 昨日、38歳の誕生日を迎えた僕は、その事実と、同じ日がいずれ「天皇誕生日」になるかもしれないという事実を、頭の中で結びつけることができなかった。何人かから指摘を受けて初めて気づいた。

 年齢が変わったこととはあまり関係がないのだが、今日は会社を休んで、来月末で期限が切れるパスポートの更新をしに池袋のパスポートセンターに行った。木曜が比較的すいているということをちゃんと下調べしてからこの日を選んだわけだが、実際、整理券をもらってからの待ち時間は30分程度で済んだ。

 申請書はセンターに行ってから記入するのだが、申請の要領を説明している案内書きを見ると、「申請書は裏面に『平成18年3月改正』と印刷されたものを使用してください」とある。ところが、積んである未使用の申請書の裏面には、「平成十七年十二月改正」と書いてある。ダメじゃん。

 念のため、申請書の山を一番下までざっと確認してみたが、どれも「平成十七年十二月改正」バージョンだ。さらにダメ押しで、別のところに積んであった用紙も確認したが、やはり同じ。よっぽど係員に質問しようかと思ったが、みんな順番待ちしているし、もしこの用紙では受けつけないということであれば、今待っている人たちが全員申請できないということになる。そりゃいくらなんでもありえねーだろと思い、かまわずその用紙に書き込んだ。

 結果としてはなんら問題はなかったのだが、不思議なのは、僕以外に誰も、そのことを気にしている人がいなさそうに見えたことだ。だいたい、気にする人がほかにもいれば、「ご案内にはああ書いてありますがこの用紙で大丈夫ですよ」といった意味の但し書きがどこかにあってしかるべきではないのか。それとも、みんなハナから「どのバージョンの用紙を使うか」なんて注意書きなど読んでもいないのか。

「役所関係」というとどうしても、意味があるとは思えないようなささいな違いでも決して見過ごさず「不可」を言い渡してくる、というイメージが先行して、身構えてしまう。しかし実際には、職員の皆さんはサービス業的な物腰を身につけていて、昔の「お役所」のイメージと比べると隔世の感がある。

 それに、今回、住基ネットに登録されている「住民票コード」というのを初めて使ったが、恐ろしくスムーズで感動した。住基ネット導入当時には、「国民総背番号制断固フンサーイ!」などと叫ばれていて、僕自身、気味の悪さや抵抗感などを感じていたものだが、「悪用」さえしなければ、合理的で便利なのは論をまたないわけだ。今日、やっとその「利点」の方を実感することができた。

 しかしその一方で、やはり、「悪用」しようと思えばいくらでもできるよな、これ、という感も否めないのだった。次期首相と目されているあの人とかだいじょぶですかね。「悪用」の仕方とかこっそり考えてないですかね。妄想ですかね。それより、あのヤニ下がった下膨れヅラをどうにかしてほしいです。

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2006年9月 6日 (水)

38歳の秋だから

 今日は何曜日だつた?(椎名林檎) 今日は誕生日だった。38歳になった。1年の重みが年々軽くなり、歳を取ることが怖くなくなってくる。

 会社帰りに妻と待ち合わせて、イタリアンの店に入る。コースが何種類かあり、僕は2番目に安いやつくらいで十分だと思っていたのだが、「内容を見ちゃうとやっぱりこれがいいと思っちゃわない?」と言って、妻が一番高いコースのメニューを指さす。たしかに、メインディッシュで比べるとそれが一番惹かれる。

 だったらワインを安めにして料理は奮発しよう、ということに決まりかけるが、ワインリストを見ながら、2人とも好みである「渋めのやつ」はどれかと訊いてみると、やはりそれなりの値段がする。今日の会計は妻持ちだから、僕には決定権はない。任せておいたら、「じゃあ、これを」と言って、どうもけっこう高いのを頼んだようだ。

「あ、今、やぶれかぶれになったな」と妻の目を見ていてわかった。たぶん、僕が同じ立場でもそうしただろう。ある瞬間に、そういうのってけっこうどうでもよくなってしまうのだ。でもそれができるのは、いわゆるDINKSの30代カップルだからだと思う。

 もっとも、僕が楽できるのはもっぱら、会社での収入のおかげだ。僕の方は作家としての収入もあるのだから、ますます「お大尽」なのではないか、と推測する人がいる。でもそれは、必ずしも正しくない。

 作家として得た収入を遊興費に使ったのは、日本ファンタジーノベル大賞を受賞して賞金500万円(正確には、税金を源泉徴収されて手取りは450万円ほど)をゲットした後、これまで支えてくれた妻への感謝の印として、バリ島での豪遊(といってもたかだか総額で50万円程度だが)に使ったのが最初で最後で、残りはいわば「回転資金」としてプールしておき、作家としての必要経費に充当する仕組みになっている。

 だいたい、作家としての収入が、ほんとに、びっくりするほど微々たるものなのだ。最初の賞金は少々大きい額だったが、それ以降はかき集めてナンボ、みたいなレベルだ。それだけでは、とうてい食っていけない。作家というのは、要するに、よっぽど売れないかぎりちっとも割に合わない職業なのだ。プロの作家がよくそんなことを口にしているのを聞きながら、「あれは、まあ、一種のレトリックで言ってるのだろう」と思っていたが、それがかけ値のない事実だったのだということを知ったのは、自分自身がプロになってからのことだ。

 ともあれ、いい誕生日であった。収入のこととかを考えたりするのはやめよう。


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2006年9月 5日 (火)

チョコボールの恋

 ある店で、白人男性(後にアイルランド人と判明)と日本人女性3名が飲んでいたところに、飛び入り的に日本人男性が加わった。僕と連れはその隣のテーブルでそれとなく彼らを観察していた。後から加わった日本人男性は、有名なチョコボール向井さんを痩せさせたような感じの人で、英語がわりと堪能で、アイリッシュの彼と熱心に話し込んでいた。

 ふと気づくと、女性3名は煙草やライターなどをテーブルに置いたまま行方をくらまし、残ったチョコボール氏とアイリッシュさんが2人の世界を形成していた。やがて女性のうちの1人だけがテーブルに戻ってきたが、チョコボール氏は彼女にはほとんど見向きもせず、アイリッシュさんの目ばかり見て話しつづけた。

 そうかと思えば、いつのまにかアイリッシュさんが日本人女性の肩を抱き、彼女はうっとりとしながらアイリッシュさんにもたれかかっている。しかし、チョコボール氏はあいかわらずアイリッシュ氏の目ばかり見て話しつづけている。で、下ネタで盛り上がったりしている。

 どういうユニットなんだか、そして、消えた2人の日本人女性はいったいどこに行ってしまったのか、とうとう最後までわからなかったが、チョコボール氏のお目当てがアイリッシュさんだということだけはわかった。彼の恋路に幸多からんことを。

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2006年9月 4日 (月)

ちげーよ!

 会社からの帰り道、すれ違った若者がケータイの相手に向かって「ちげーよ!」と叫んでいるのが聞こえた。「違うよ」の乱暴な言い方だが、ここ数年でしばしば耳にするようになったし、僕自身もある特定の文脈・シチュエーションではふざけて使ったりする。

 昔なら、絶対に使わなかった。

 思い起こせば25年前、中学1年のときだ。当時仲良くしていた友達Kはなにかというと「ちげーよ!」と言うのが口癖で、僕は彼がそれを言うたびに、むきになってその誤りを指摘した。

「“高い”を“たけー”、“甘い”を“あめー”というのは正しい。でも“違う”を“ちげー”と言うのは間違ってるよ。江戸っ子の口調で“ちげーねぇ”っていうのがあるけど、あれは元の形が“違いない”だから“ちげー”でもいいんだ。“違い”は、“違う”とは違う。“違う”は “ちげー”にはならない」

 Kは僕がそれを言うたびにうるさそうな顔をして、たいていは何もコメントせずにやりすごした。僕もいちいち言わなければよかったのだが、我慢できなかったのだ、彼の口から「ちげーよ!」という音が放たれるのが! もう、ムズムズして!

 当時はうまく説明できなかったのだが、13歳の僕は、要するに、「音便変化の法則性」みたいなものを経験的に会得しており、“違う”が“ちげー”になるのはその法則から逸脱している、ということを指摘したかったのだと思う。日本語では、”ai”は訛ることによって長音の”e”に転じ得るが、”au”が”e”に転じることはないはずだ、と。他に同系列の変化を示す例が見当たらない以上、それはerrorなのだと。

 今さらながら、中坊の頃から自分は今と同じことにこだわりつづけていたのだな、と思ってめまいがしそうになる。もっともこれは、はてな時代の僕のブログを辛抱強く読んでくれていた人でないとピンと来ないかもしれないが。

 なお、上記のようにあきらかに法則から逸脱しているにもかかわらず、“違う”がしばしば“ちげー”と発音される背景には、以下と似た問題が潜んでいるものと思われる。もしこういう話題に興味がおありの方がいらっしゃればご一読を。

「平山瑞穂の黒いシミ通信」 違くない

 ちなみに、くだんの友人Kとは、高校進学とほぼ同時に交流が途絶え、その後、バブル絶頂の頃、「栃木で地上げ屋をやっている」と風の噂に聞いたのが最後だ。今は杳として行方が知れない。

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2006年9月 3日 (日)

興味なし

Gardening

 マンションのベランダで、ささやかなガーデニングを楽しんでいる。というのは嘘で、これ、ベランダの縁の排水路みたいなところに溜まった土から勝手に生えてきた、名前も知らない草である。

 3年ほど前に出現して、どうせすぐ枯れるだろうと思って放置していたら、その後何度も冬を越し、今も育ちつづけている。よく見ると、向かって左奥にスリッパの片割れがある。ベランダの荒れ具合と、草の驚くべき大きさが推して知れるというものだろう。

 排水路に直接陽が当たることはないし、土は常時、風に乗って追加されていくから、この程度の草が生命を維持できる水分や養分に事欠くことはないのだろう。それにしても、強靱な生命力だ。そこがマンションのベランダであるかどうかなんてことは、この草にとってはまったく興味がないことなのだろう。

「興味がない」と言えば、さっきテレビCMにある女性が出ているのを見て、妻がこう言いかけた。

「この人さー、この前講演してて初めて本物を見たんだけどさー……」
「え? この人誰?」
「長谷川理恵」
「長谷川理恵って誰?」
「ええっ?! そこから言わないとダメなの?」
「うん、知らない」
「じゃあさー、石田純一が“不倫は文化だ”って言ったのは知ってる?」
「あー、うん、それはかろうじて、なんとなく……」
「それは知ってたか……。その石田純一が結婚してた相手だよ」
「ははー、そうなんだ」
「その後、石田純一は松原千明と結婚したんだけど……」
「松原千明って誰?」
「それもかい!」

 ねえ皆さん、僕はあまりに知らなすぎるでしょうか。と言うか、芸能人自体の名前もよくわかってないけど、それ以上に、芸能人の誰と誰が結婚したとかまったく興味がないのです、僕は。篠原涼子は好きだけど、その篠原涼子が市原正親と結婚したこともつい最近まで知らなかったのです(『マイ・ボス マイ・ヒーロー』を観ているときに妻のひとことで発覚)。

 それにしても今日は疲れた。先日某誌から依頼された「小説の書き方」の原稿(依頼は20枚)に取りかかり、前半部分を一気に書いたら、消耗してしまった。自分の小説のことを書けばいいのだから楽かと思いきや、そんなことはない、逆である。「へっ、こいつ、まだ駆け出しのくせに、偉そうに自分で自分の小説のこと書いてらー!」という「読者の声」が、幻聴となって僕を苛むのである。それとの闘いのために、消耗してしまうのである。

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2006年9月 2日 (土)

共有される語彙

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 このところ無為がよく咳き込んでいる。最初は、毛玉がうまく吐けないのかと思っていたが、あまりに頻繁だし、1回ごとの咳も長引くので、変だと思って今日、妻が動物病院に連れていった。

 気管支が炎症を起こしているようなのだが、原因はよくわからなかった。というのも、あまりに激しく抵抗するため、レントゲンがうまく撮れなかったからだ。何度かかかっているその病院では、無為は「凶暴な猫」として有名になっている。されるがままのおとなしい猫もいる一方で、無為は「キシャーッ」と威嚇するわ、猫パンチや猫キックを連発するわ、先生の指に穴を開けてしまうわで毎回大騒ぎだそうだ。どうしてこうも気性が荒いのだろうか。

 結局、原因ははっきりしないながらも、ある薬を試しに飲ませて様子を見ることになった。連れ帰られてキャリングケースから出された無為は、しばらくの間、妻にも僕にも警戒していて、近づくだけで「シャーッ」と威嚇していたが、妻が懐柔のために焼いてやったサケを食べたら少し気が済んだらしく、今はこうして力尽きたように深く眠っている。

 それにしても、と僕は思うのだ。前から不思議なのだが、猫をめぐるさまざまな語彙群というのは、だれかが音頭を取っているわけでもないのに、なぜ猫飼いたちの間で自然に共有されていることが多いのだろうか。「猫パンチ」や「猫キック」はまだしも、「猫缶」(キャットフードの缶詰)や「猫砂」(猫のトイレ用の砂)などは、そのものの概念を正確に表しているわけでもない。よく考えると変な言葉だ。にもかかわらず、なぜか誤解の余地もなくみんなが当然のように使っている気がする。

「カリカリ」というのもそうだ。猫用ドライフードのことだが、「猫用ドライフード」とわざわざ言っている猫飼いを、僕は見たことがない。辞書を引いてももちろん載っていないし、僕だって、猫がそれを食べるときに立てる音から勝手にそう呼びはじめただけなのだが、猫飼いと話していると、「うちの猫はカリカリを食べないんだよね」とか当然のように使っているし、聞いている側もそれを当然のように受け止めている。不思議だ。

 ところで、先日このブログで、「サルまん21」について言及したら、今日になって小学館からそれが上下巻揃って挨拶文とともに届いた。「送ってほしいなー」と謎かけしたつもりではなかったのだが、結果としてそうなってしまったようで、恐縮している。「いやぁそんなつもりではそうですかぁすみませんねぇ」という感じだ。しかし、届くのがもう少し遅かったら、たぶん自分で買ってしまっていただろう。危ないところだった。

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