« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月31日 (火)

それどころでは

 高校時代の恩師から、「村上春樹に続け!」という1文だけのメールが届いていた。最近、『シュガーな俺』が出たことについて短いメールのやりとりがあったばかりなので、今ひとつ先生の真意がつかめないままに、とりあえず「遠い道のりですが頑張ります!」という趣旨の返信をしておいた。

 村上春樹がカフカ賞を受賞したことを知ったのは、ついさっきだ。妻が今日の朝刊を持ってきて、「これ、知ってた?」と言う。知らなかった。実は、「カフカ賞」という賞があることさえ知らなかった。「日本のカフカになりたい」奴失格だ(ってだから、僕はそれを自発的に言ったわけではないのだが、なんだかごく一部でその台詞が一人歩きしているらしく見受けられるので)。

 結果として、先生に対する僕の返信は、その事実を踏まえているという想定のもとに読んでも不自然ではない文面になっていたと思う。しかし、先生のせっかくの激励の意図を適切に解していなかったことは、申し訳ないと思う。すみませんでした、先生。世事に疎いもので。

 しかし正直、今日の僕は、カフカ賞どころではなかったのだ。今もそれどころではない。

 妻が無為を東大病院に連れていき、もろもろの検査の結果が出た。ひどく低下していた腎臓機能は、ここ数日の点滴の効果でだいぶ回復しており、おかげで麻酔もかけることができたので、内視鏡を使った検査も難なくしおおせたのだが、その検査を経た上での先生の所見というのが……ダメだ、つらすぎて書けない。

 だから今日の僕は、正直なところ、村上春樹やフランツ・カフカや海辺のカフカや恋するソクラテスどころではないのだ。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006年10月30日 (月)

宅配チラシの悲哀

 今日、『シュガーに俺』連載ページにアップした分に、マンションの郵便受けに投げ込まれる宅配チラシの話が出てくる。

 僕はそもそも、宅配チラシでなくても、広告というものをおよそ見ない人間だと思う。欲しいものがあるときは自分から情報を得ようとする。そうでないときに、広告によって購買意欲が喚起されるということはほとんどない。潜在的な購買欲求がかすかに刺激されることくらいはあるかもしれないが、それは広告を見たときに表面化するわけではなく、その時点ではせいぜいサブリミナルな効果しかもたらさない。

 だから、その結果僕がなにがしかの商品を近いうちに購入したとしても、それは往々にして、最初に見た広告で取り上げられていた商品とは似て非なる別のものであったりする。それをもって、くだんの広告が僕の購買活動に帰結したと結論づけるのには無理があるだろう(それを考えれば、僕がテレビでショップジャパンの「スイブルスイーパー」を見て購入を即決したことが、いかに稀有な事態であったかが推して知れるというものだ)。

 そんな僕が、郵便受けに投げ込まれていたデリヘルだかホテトルだかのチラシに目を向けることがあるとすれば、それはふとした気まぐれや、購買欲求とは無関係な純然たる好奇心の発露以外にはありえないわけだが、今日、たまたま入っていたチラシを見たところ、「日本人専門店」とある。なるほど、それ自体が売りになってしまう社会情勢があるわけだ。

 そして、その名刺大の小さなチラシには、四隅にかわいい女の子の写真が配置されており、それぞれに「モデル系」「人妻系」「ロリロリ系」「OL系」と注記が添えてある。品揃えの豊富さをアピールしているものであろう。しかし、「モデル系」「人妻系」の部分はともかく、それ以外は、注記と写真(イメージ)が一致していない。「ロリロリ系」の女の子は、まあ強いて言えば「清純」そうに見えなくもないという程度、「OL」系に到っては、スチュワーデスのコスチュームだ。百歩譲っても、スチュワーデスを「OL」と呼び習わすのは無理だろう。仕事場、オフィスじゃないし。

 つらつらとチラシを眺めているうちに、物悲しくなってきた。だいたい、ここに映っている彼女たちはいったい、何者なのだろうか。もしかたしら、と言うより、まずほぼまちがいなく、自分の写真がそんなチラシに使われていることなど知るべくもなく、彼女たちもまた今日という日を生きているのだろうなと思うと、なんだかせつなくなって、胸がしめつけられるような気持ちになる。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月29日 (日)

無為の軽さ

 最近とみに具合の芳しくない無為を、夕方から動物病院に連れていかなければならなかったため、なんとなく気分が落ち着かず、日中は実質1時間ほどしか執筆の時間を取ることができなかった。

 その動物病院では、無為はすっかり「凶暴な猫」として有名になっており、カゴから出した途端にツメをとがらせて誰かれかまわず猫パンチをかませるのが非常に危険なため、あるときから洗濯用のネットにすっぽりとくるんでからカゴに入れて運ぶようになった。普段は車の運転ができる妻がその役を買って出ていたのだが、今日は仕事の都合で予約の時間にどうしても間に合わず、急遽僕が代行することになった。

 妻から聞いていたところによると、まずネットにくるむまでがひと苦労だという。くるんでしまいさえすれば、白いもこもこしたかたまりと化してしまうため、そのままカゴに入れればいいわけだが、その後にどんないやなことが控えているかすでに学習してしまっているだけに、ネットが見えた時点で激しい抵抗をするというのだ。

 しかし、今日、初めてやってみたところ、ことは信じられないくらいスムーズに進んだ。押し入れで寛いでいたのを掴み上げたときに一瞬「ぎにゃっ」と言って身をよじらせただけで、ほとんど抵抗にあうこともなく一瞬でネットにくるむことができた。ただ、ネットのファスナーを閉じている間に、ひと声だけ、「にゃっ?」となにか疑問のようなものを発していた。

 たぶん、僕にそれをやられるとは思ってもいなかったのだろう。事実上の不意打ちになっていたわけだ。2度目、3度目も同じ要領で行けるかどうかは、やってみないとわからない。

 1時間ほど待って、点滴を打ってもらった。もうかなり弱っていて、ほとんど自分では食べず、食べてもすぐに戻してしまうため、点滴が命綱になっている。明後日は獣医学の権威・東大病院で診てもらうことになっているが、回復に向かうかどうか、かなり妖しい雲行きになっている。体重も、いちばん太っていた頃より3割がた減ってしまった。抱き上げると骨張っていて軽くて、せつなくなる。

 デブだデブだと言っていたが、デブ猫だった頃がなつかしい。どんなにデブでもいいから、元気で生きていてほしいと思う。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月28日 (土)

特異な字

『シュガーな俺』販促用の手書きPOPを数十枚書く。書きながら、どうして自分はこんなに字がヘタなのだろうとつくづく思う。世界文化社担当U氏は、「ヘタウマ系でそれなりに味があっていいのでは?」と言ってくれるが、正直なところ、これはどっからどう見ても「ヘタ」以外のなにものでもない。

 僕の字がこんな風になってしまった原点がどこにあったかは、かなりはっきりと覚えている。中学2年のとき、同じクラスにいたSが、中学生のくせにえらく達筆な字を書く奴で、僕は彼の字に憧れていた。どうしたらああいう風に書けるのだろうと思って何度も模倣しているうちに、特異きわまりない字体が完成してしまったのだ。

 今から思うと、Sはたぶん習字などを習っていて、基礎がしっかりしていたのだろう。その上で、スタイリッシュに崩していたから、カッコよかったのだ。絵のヘタな人間がピカソの真似をしても子供の落書きにしかならないのと同じで、基礎もない状態でただサル真似したって、「達筆」になんてなれるはずがない。しかし、思春期から青春時代にかけてそういう字ばかり書いていたものだから、気がついたときにはもう、矯正不可能となっていた。

 大学を出て最初に就職した会社でのエピソードを思い出す。入社して、総務のある女性に紹介されたとき、「ああ、あなたが平山瑞穂さんね。セミナーへの参加希望ハガキにすっごく特異な字を書く人がいて、いったいどんな人なんだろうと思ったから、名前を覚えてたわ」と言われたのだ。まあ、逆にそこまで「特異」なら、作家としてはそう嘆く必要もないのかもしれないが。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006年10月27日 (金)

口が滑りました

『ドカベン』というマンガ(1〜573巻発売中)に山田太郎という高校生が出てくる。ああいうのが身近にいたら、僕は決して寛容になれないだろう。だいたい僕はああいう、ガタイばかりよくて寡黙で何考えてんだかわからない奴が大嫌いなのだ。あと、あいつ食いすぎ。シュガーになってもしらんぞ。警告はしたぞ山田。

 あ、なんかこのノリは「黒いシミ通信」っぽいな。こういうこと言ってるから僕のブログは「倒れるほどくだらない」とか言われるのかな。おっと、今日はいかんな。口が滑る。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月26日 (木)

差別される地上波

 9時ごろ、遅めの夕食を摂る。妻は仕事で遅いので、一人でスパゲッティを茹でる。村上春樹のように。ただし、村上春樹とは違って、ビールではなくてワインを少々飲む。その間、テレビをつけてたまたま映った画面をそのまま観ていたら、映画の「ターミナル・ベロシティ」をやっている。ナスターシャ・キンスキーが出ている。

 ナスターシャ・キンスキーは、学生くらいの頃、大好きな女優だった。あの大きな口が好きなのだ。あと、口をちょっと開けたときに、その大きな唇の間から齧歯類みたいな前歯が覗くところとか(そこだけ切り離して見るなら、シガニー・ウィーバーとかもけっこう好き)。ナスターシャ・キンスキーが出ているならちょっと観ようかな、と思いながら観ていたが、なんだか先の展開が読める。変だと思いながらしばらく観ていてやっと、以前にもテレビで1度観ていたことに気づいた。

 そして僕は思い出したのだ。そのときもたしか、「ナスターシャ・キンスキーが出ているなら観ようかな」と思って観はじめたことを。そういったささいなたぐいのことがらに関しては、忘れないと誓うぼくさえいない。

 わが家ではいまだにBSもCSもケーブルテレビも見られないので(理由は簡単だ。どうせ観る時間など作れないだろうと思って導入を見合わせつづけているのだ)、たまに気が向いて「テレビで映画でも観るか」と思ったとしても、それは要するに地上波に限られている。そうすると、たまに気が向いても、そのときやっているのはもう何度も観た映画だったりする。「TAXi2」とか「スピード2」とか「トゥルーライズ」とか。「トゥルーライズ」なんて、2ヶ月おきくらいに放映している気がするのだが。もう少し、地上波のラインナップを充実させてくれてもいいような気がするのだが。

 ところで、『ラス・マンチャス通信』の韓国版(ラス韓)が、驚いたことにいまだにじわじわと売れつづけて版を重ねているらしい。最後に聞いたときは4刷だったので、少なくとも5刷よりは多いということだ。向こうでは「アレ」が大人気だという話だったが、いまだにどうも腑に落ちない。一方、『忘れないと誓ったぼくがいた』の韓訳の方は、10月24日発売というのはやはり「予定」で、今、印刷しているところらしい。あっちの方がいわゆる韓流モードだと思うのだが、売れ行きにどんな違いが出るのか興味のあるところだ。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006年10月25日 (水)

冥王星の行方

 新潮社の担当Gさんと、次の書き下ろし『冥王星パーティー』についての打ち合わせ。しかし、先日送信した改稿版についてはほとんど気になる点もなかったようで、あとほんの少し、微調整をすれば入稿できる状態になるようだ。いずれにせよ、刊行は来年の3月と決まった。スケジュール的にはもっと早く出せるのだが、2月はたまたま新潮社が刊行ラッシュで、そこに混ぜて出すと営業的に不利だから、という判断によるものだ。

 そうすると、今回の『シュガーな俺』から数えれば5ヶ月ほど。Gさんいわく、1冊の単行本の賞味期限は6ヶ月ほどなので、あまり矢継ぎ早に出すと相殺されてしまってよくないとのこと。その意味では、5ヶ月というインタバルはまあ適正なのかもしれない。

 しかし私見では、1冊の賞味期限はせいぜい4ヶ月くらいではないかと感じる。ネット上での言及のされ方などを見ていて経験的に感得したところによると、ということだ。ただしそれは、僕の本が今のところそれほど売れていないからなのかもしれない。売れる本だったら当然寿命も伸びる。あまり売れない本は、4ヶ月も過ぎるともうほとんどの人が見向きもしなくなる。ような気がする。

 要は、売れればいいわけだ。「売れない、売れない」と言っているとますます売れなくなりそうなので、「売れる、売れる」と自己暗示をかけることにしよう。前向きに。闘争心を燃やして。アドレナリンを出して。あ、でもアドレナリン出すとインスリンに対する細胞の感受性が鈍って、結果として血糖値が上がるんだよな。シュガーな作家が闘うのは難しいな。

 ちなみにGさんは、短くなってしまった僕の髪型を見て「なんか、変」と言いつづけていた。あまりお気に召さなかったらしい。最終的には、僕のような顔立ちなら「長い方がいい」という結論が下された。自分でもうすうすそう思ってはいるのだが、寄る年波には勝てず、伸ばしていると髪がべたりと寝てしまって、薄くなっていることがバレやすくなる気がするのだ。歳月は日々に疎く、頭髪は日々に薄し。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006年10月24日 (火)

すごい映画

 ああもう10時を回っているではないか。時間はなぜこうも足りないのか。

「黒いシミ通信」時代に、池袋の某A書店は僕の本を冷遇している、とコメント欄かなにかに書いた覚えがある。「ワスチカ」が出たばかりの頃だ。仮にも新潮社が出している新刊書であるにもかかわらず、新刊コーナーには置いてくれず、少し奥まったところにある「日本文学」コーナーの目立たない片隅にかろうじて平置き、という状態で、配本直後にこりゃあんまりじゃないかと思ったのだ。しかし今回は、「新刊コーナーにあった」と友人から報告を受け、確認しに行ったところ、たしかに新刊コーナーの棚に2面出しで並べてくれている。

 もしかして、僕が文句を言っていたのが人づてに伝わったのだろうか(出版社の人などにも愚痴をこぼしていたし)。もしそうだとしたら、A書店の方、ご高配賜りまことに恐縮です。というか、新人に毛が生えた風情の者がエラそうに物言いしてすみませんでした。

 さて、昨日は書き切れなかったが、昨日、ジュンク堂で『シュガーな俺』にサインした後、シネマロサに行って、レイトショーを観た。「このすばらしきせかい」(沖田修一監督)という映画だ。

「このすばらしきせかい」オフィシャルHP

 いちばん最初のカットを見た瞬間、「あ、オチのない映画だな」と予感したとおり、オチらしいオチはない。しかし僕は、そういう話が実はかなり好きなのだ。と言うより、ヤマもオチもイミもない(それじゃ「やおい」だ)にもかかわらず、決して退屈しない、という絶妙な作り込みがなされたこうした作品は、映画か小説か漫画かといった形態の別を問わず、本当にすごいと思う。真の才能がなければできる芸当ではないだろうと。

 それはちょうど、かつて「イカ天」でたまとグランドイカ天キングの座を争うことになったマルコシアスバンプが、たまを評して「だってすごいんだもん」と途方に暮れたように言ったのと同じような意味で「すごい」のだ(細かすぎて伝わらない例の取り上げ方)。

 特に、自己破産して自殺未遂してしまったダメな叔父さんを演じている古舘寛治のナチュラルすぎる演技と間の取り方が絶品だ。

 興味があれば、そして、池袋でレイトショーという条件でもOKなら、いろんな人に観てもらって、反応を知らせていただきたい映画である。ただ、公開は今週の金曜までなので、ああ、もう明日から3日しかない。歳月はなぜこうも日々に疎いのか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月23日 (月)

「シュガー」サイン本

 なにかの手違いで、発売日に5冊しか『シュガーな俺』が入荷されなかったジュンク堂池袋本店、本日、本来発注した分の残りが届いて、同時にそのほとんどにサインをしてきた。「平山瑞穂」という署名だけ入っているものもあれば、ヘタクソなイラストが添えてある「あたり」もいくつかランダムに混ぜてある。それが「あたり」なのかどうかはよくわからないのだが。

 イラストは、シュガーゆかりのなにかだ。インスリン注射器とか、肉とか酒とか肉とか酒とか。あ、メシも描けばよかった。

 ほかにもいろいろ書きたいことはあるが、今日はもうタイムアップだ。また別の機会に。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2006年10月22日 (日)

プチ燃えつき

『シュガーな俺』発売と同時にプチ燃えつき状態になってしまったらしく、ブログの更新もできずにいた。

 金曜日は発売を記念して飲み友達と祝杯を上げ、その足でよく行く池袋のバーTierramにお邪魔する。ここでは、僕の既刊書2冊もそっと棚にディスプレイしてくれており、毎度お世話になっているので、今回は1冊、マスターの矢島氏に謹呈させていただいた。

 しばし仕事の手を止めて、冒頭の何ページかを黙読した矢島氏、ふと、「この1行については、証言できますね」と言いながら、以下の一文を朗読する。

  ただ、酒は、飲んでいた。たぶん、普通でない量を。

 矢島氏は、その点に関してはまさに、生き証人である。

 さて、その『シュガーな俺』だが、一部店舗の入荷が遅れていたり、なぜか発注した数量が入らなかったりとご迷惑をおかけしてしまっているようで、申し訳ないかぎりである。僕自身はと言うと、今日、所用で池袋に出かけた折、リブロの新刊コーナーに4面出しで展開されているのを確認して、「ああ、やっと新刊らしくなってきた」と胸を撫で下ろしたところだ。

 しかし、店舗前で李家幽竹さんがサイン会をやっておられたため、お客の皆さんは『シュガーな俺』どころではなかったようだ。ここでは以前、中村うさぎさんのサイン会にもエンカウンターしたことがある。リブロでのサイン会とのエンカウンター率、高し(だから何というわけではないが)。

 今日は、『シュガーな俺』献本先へのメール書きなどに追われる一方、近所に比較的最近できた、おしゃれな焼き肉屋みたいな外観の美容室に行ったら終わりになってしまった。店主のお兄さんは、『シュガーな俺』のタイトルを聞いた後に、僕が「実は糖尿病なんですよ」と言ったら、「あっ、そういうタイトルですか!」と大受けしていた。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月19日 (木)

『シュガーな俺』発売

 明日10月20日、書籍版『シュガーな俺』が世界文化社から発売されます。ただし、出荷するのが明日ということなので、地域や店舗によってはまだ入荷していない場合もあります。都内大型書店などでなければ、来週以降の方が確実かもしれません。『忘れないと誓ったぼくがいた』のとき、少々フライングしてしまって、一部の方々にご迷惑をおかけしてしまったようですので、その点はあらかじめお断りしておきます。

 今回はネットで無料連載中の書籍刊行ということで、連載を読んでくださっている方々の何割くらいがお金を払って本を買ってくださるのか、見当もつきません。「連載を読むのはまどろっこしくて苦手」「パソコンの画面で長い文章はちょっと……」という理由で、本が出るのを待っていた方もいらっしゃるでしょうが、律義に連載第1回から追ってくださっている方もおられるでしょう。できれば本も買っていただけると嬉しいのですが、その後も、ときどき連載ページにお越しいただけるともっと嬉しいです。シュガーフレンドの皆さんの書き込みもありますので、それを読むつもりでぜひ、お願いいたします。

 ちなみにこの小説は、あるショートエッセイが原型になっています。3年前の秋、作中で触れている糖尿病の「教育入院」というのを終えて出てきた直後に、入院中のエピソードを中心にまとめたものでした。タイトルは、その時点ですでに『シュガーな俺』でした(もう、これしかない、と思ってました)。当時はまだ作家デビューもしていなかったので、コピーしてまわりの人たちに読んでもらったのですが、これが思いのほか好評で、いつかちゃんとした作品にしようとそのときから心に決めていました。

 小説の形を取ることになるとは、そのときの僕には予想もできませんでしたが、結果としてはそれが正解だったと思っています。実体験の数々が、虚実入り乱れるエンターテインメントとして、なかなか据わりのいいものに仕上がったのではないかと自負しております。

 そんなわけで、皆様、どうぞよろしくお願いいたします。

| | コメント (15) | トラックバック (1)

2006年10月18日 (水)

歳の効用

 結婚記念日なので、東京ドームホテルの中のレストランで妻とささやかな食事をする。糖尿病患者であることを考慮に入れてもなお「ささやかな」と呼べるかどうかはともかくとして、社会通念上のレトリックとしてあえて表現するなら「ささやかな」食事だ。結婚して、もう、満9年になる。歳月の過ぎるのがいかに早いか、そして、結婚した時点の自分や妻がいかに若かったかを思い知る。

 ところで、今日はバイキング形式だったのだが、お子様連れの客も多く、そういう場での子供のふるまいを観察していると、子供というものがいかに「見えていないか」がよくわかる。この料理が欲しいと思ってトングに手を伸ばしていると、平気でそこに割り込んでくる。「割り込んでいる」という自覚はまったくないようだし、そもそも、僕という大人が自分より先にその料理の前に立っていて、今まさにトングに手を伸ばしているところだという状況把握が、まったくできていないように見える。

 もちろん、子供のやることだから、別に腹を立てるわけでもない。ただ、「ああ、見えていないんだな」と思うだけだ。視点の高さも違うし、僕の手の動きなどは彼の視界の中では周辺で起こっていること(したがって、無視していいレベルのこと)に過ぎないのだろう。自分も子供の頃はこうだったのだろうな、と思う。自覚もないまま、たぶん多くの大人の既得権益を剥奪したり、利益を逸失させたりしていたのだろうな、と。そしてその都度、「まあ、子供のやることだから」と大目に見られたりしていたのだろうな、と。

 歳を重ねることから引き出される利点のひとつは、いろいろな立場を理解できるようになることだ、と思っている。たとえば、子供の頃、あてにならないとか理不尽なことを言うとかいう理由で軽んじたり蔑んだり憎んだりしていた先生が、今思えばたかだか25、6歳の若造か小娘に過ぎなかったのだ、と気づく瞬間。そりゃあムリもないだろう、自分がその年齢のときのことを思えば、あのときのあの先生よりもっと子供っぽいふるまいをしたかもしれない。今の僕にはそう思えるのだ。

 それでもなお、許せないと思う大人がいる。38歳になった僕の尺度から見ても、やっぱり許せないと思う、遠い日の記憶の中の大人が。そういう人のことは、きっと許す必要もないのだろうと思う。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年10月17日 (火)

ありえない台詞

 たとえばだが、小説の登場人物がこんな台詞を吐いたとしたら、どうだろうか。

「1987年に、ブラジルでこんな事件があった。9月13日のことだ。放射性物質を密封して医療用に用いることがあるんだけど、ある医療機関がこれを廃棄業者に売却したんだ。廃棄業者は、それを運搬しやすくするために、まずのこぎりでバラしたんだよ。ところがその密封線源には、50.9ベクレルものセシウム137が含まれていたんだね。解体した現場付近には、目新しい遊び道具を探している子供たちがいた。どんな結果になるかわかるかい? 近隣住民のうちの4名が、4.5から6グレイ以上の放射線に体外および体内被曝して5週間後に死亡、10名は危険な状態に陥り、22名が集中治療の必要に迫られたんだ」

 こんな台詞、ありえねー、って思いませんか?

 まあ仮に、たとえばこの例なら、放射線事故などについてのエキスパートが語り手なのであると仮定しよう。しかしもしそういう人であったとしても、人数や日付や放射性核種の崩壊量(ベクレル)までソラでペラペラ言えるほどすべてのデータを暗記しているものだろうか。なにか、その事故に対してよっぽどの個人的なこだわりでも持っていないかぎり、あるいは、ごく稀に実在するらしい、一度読んだ文章は即座に暗記できてしまう特殊な能力の持ち主などででもないかぎり、そんなことはありえないのではないか。そしてもしそういう設定ならば、彼がそういう人であるというエクスキューズを、なんらかの形で作中に示すべきなのではないか。

 小説の書き手としての僕はつい、そういう部分でのリアリティにこだわってしまう。にもかかわらず、必要な情報はなんらかの形で作中に織り込まなければならない。そういうところでつまずいている人間に、小説の量産はできないと思う。まあ、正直なところ、量産する必然性もないわけだが。

 しかし、どうなのだろう。純粋な好奇心で知りたいのだが、読者の人たちというのは、上記のようなウソくささというのを気にしないものなのだろうか。話としておもしろければ、素通りしてしまうものなのだろうか。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2006年10月16日 (月)

処分されるアート

 最寄り駅からマンションまで続いている商店街に、仮店舗用の貸しスペースみたいなところがあって、数日〜1週間単位で売り主および商品が入れ替わっている。今は、額入りの絵画(現物なのか、複製なのか、たぶん両方)を所狭しと並べて売っている。それはいいのだが、通りに向けて貼り出した手書きの看板の文字が、

「世界のアート大処分市」

「世界のアート」を「大処分」されてもなぁ、と思いつつ、いつも前を素通りしている。ちらっと見る限り、二千円程度の小さな額から揃えてあるようで、もしかしたら掘り出し物もあるのかもしれない、と思わないでもないのだが、どうしても、そのスペースに足を踏み入れて物色してみようという気持ちになれない。

 同じスペースで、ちょっと前までは女性用下着を大売り出ししていた。通りにはみ出さんばかりに立てかけられたパネルにも、色とりどりの下着がちりばめられていた。こんなところで立ち止まって、「どのパンツがいいかな」と選んだり手に取ってみたりする女性客がいるのだろうか。そんな素朴な疑問を、妻に投げかけてみた。

「不適切な喩えかもしれないけど、あれはまるで、レンタルDVDショップで、アダルトコーナーを外から見える位置に設置してるようなもんなんじゃないかな」
「適切な喩えだよ! 同じだよ、それと! あんな状態で買う人いないよ!」

 実際にその仮店舗に1人でも客がついたのかどうか、僕は知らない。ただ、けっこう豪胆でなりふりかまわない人々が多い土地柄なので、僕が想像しているよりはずっと満足の行く売上を達成した上で、その売り主は去っていったのかもしれない。もしもそこまで見越した上でロケーションを選んでいたのだとしたら、僕などがあれこれと論評するのはいらぬお世話というものだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月15日 (日)

無言の抗議

_2

 先週とまったく同じシチュエーションを撮ったみたいに見えるが、今日、たまたま同じシチュエーションになったところを撮ったものである。くどいようだが、猫は基本的に日だまりがあれば幸せそうなのだ。

 ところで、最近、無為のトイレ周辺で奇怪なできごとが起きる。おしっこがほぼ全部、トイレの容器の外にされているのだ。前からたまに、ポジショニングを誤って、一部を外に出してしまうことはあったが、そういうレベルの話ではない。わざと外にしたのだとしか思えないほど、みごとな水たまりができている。

 ここ1週間の間に、妻も僕も二度ずつそれを片づけているので、かなりの頻度だ。最近、具合が悪くて薬漬けになっているから、それがなにか関係しているのだろうか。そう思って2人とも心配していたのだが、仮に病気や薬が関係しているとしても、どう関係すればそうなるのか見当もつかない。おしっこの量が増えるとか、色がおかしいとかならわかるが、トイレの外にしてしまうというのはいったい……。

 二人で首を傾げている間に、僕がふと思いついた。

「いやがらせ……?」
「あっ……そうかも!」

 もうかれこれ1ヶ月以上、毎日薬を飲ませている。このごろはもういいかげんあきらめの境地に達したのか、逃げ回ることもないが、それでも妻と二人でむりやり薬を飲ませた後は、ものすごく不愉快そうな顔をしている。もしかして、そういう虐待(※本人の視点による)に対するささやかな意趣返しとして、あるいは無言の抗議として、文字どおり「わざと」、無為はおしっこを容器の外にしているのではないか。

 と二人で推測しているまさにそのとき、無為が僕たちの目の前でトイレの容器に入って、小用を始めた。ちゃんと中にしている。そして終わった後は、念入りにチップをかき寄せて埋めている。

「ちゃんと中でしてるじゃん」と妻。
「今は僕らが見てたからじゃないの? いやがらせは見えないところでやるんだよ」

 そう言えば、昔、妻がまだ一人暮らしのアパートで無為を飼っていた頃、ちょっと長い間留守にして帰ってくると、トイレットペーパーが全部引き出されてトイレの床に散乱しており、随所にツメの跡がついていたという。遊びでやったにしてはあまりに派手過ぎるし、普段はトイレットペーパーなどに関心を示さないので、「あれはいやがらせだったにちがいない」と妻は踏んでいた。

 そうなのだ。猫はいやがらせをする動物なのだ。そしてそのいやがらせの方法がまた、あきれるほど的を射ているというか、人間様にとって効果てきめんなのだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月14日 (土)

シュガー漬けな1日

 書籍版『シュガーな俺』の、書店に置いてもらう著者手書きPOPを書き、出版契約書に署名し、献本先リストをまとめるという、シュガー漬けの1日となる。毎回忘れているが、刊行前後というのはけっこう忙しいのだ。なんとなく、入稿が済んだ時点で、「もう手が離れた」と思ってしまいがちなのだが。

 書店用POPはこれまでにも何度か書いたことがあるが、何度書いても慣れない。本質的に字が下手(というより、「異形」とよく言われる)な上に、自作を売り込むコピーを考えるのがものすごく苦手なので、消耗するわりにお世辞にも出来栄えのいいものとして仕上げられない。

 まして、そのPOPが立てられた売り場を目にしてしまったりすると、赤面して脱兎のごとく逃走したくなる。皆さん、仮にどこかで見かけても、どうかあまりしげしげと見ないでください(それじゃPOPの意味がないぞ)。

 一方、先日ショップジャパンに頼んでおいたスイブルスイーパーのバッテリー2個が、午後早くに届いた。毎週土曜日は掃除の日なので、やれやれ間に合った、と胸を撫で下ろしたのだが、結果としてそのバッテリーを今日使うことはできなかった。忘れていたが、最低8時間は充電しないと使える状態にならないのだった。しかし掃除の予定を明日に延ばすと、ほかの予定に影響が出るので、やむなく、ほとんど充電できなくなっている古いバッテリーのまま掃除を敢行。

 住戸中をどうにかきれいにして、コーヒーを片手にひと休みしながらメールチェックをしたら、ショップジャパンからメルマガが来ている。だから、メルマガの配信を「希望しない」にチェックつけてフォーム送信したじゃん! やっぱり、そうなのだ。前回も、きっと僕はちゃんと「希望しない」にチェックをつけていたのだ。希望の有無にかかわらず、メルマガを送るという方針なのだ、あそこは。だったらなんで希望の有無を訊ねるんだろう。意味不明だ。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2006年10月13日 (金)

韓国のシュガー

 韓国在住の翻訳者キム・ドンヒさんより、『忘れないと誓ったぼくがいた』の韓国語版の発売が一応10月24日に決まったらしいと連絡を受ける。なにか、まだ若干流動的な「予定」というニュアンスだったが、まあ近いうちに出るのは間違いないだろう。そして、版元Studio Born-Free社では、早くも『シュガーな俺』の翻訳出版について検討を始めてくれているらしい。ありがたいことだ。

 以前、もし『シュガーな俺』というタイトルを韓国語にするとしたらどうなるだろうか、という話を、キムさんとしたことがある。まったく逐語的に訳せば「シュゴハン・ナ」になる。「シュゴ」が「シュガー」、「ハン」は日本語で言う形容動詞連体形、つまり「〜な」に相当する要素、「ナ」が「俺」である。しかし、これではさすがに意味が通らないだろうという。

「私だったら、そうですね、“タルコマン・ナエ・インセン”とでも訳すでしょうか」

 そう言って彼女が挙げた試訳は、日本語にすれば「甘ったるい僕の人生」とでもいった意味になる。なるほど。と、当時も納得していたのだが、いよいよ実現となりそうな運びになってきたとき、やはり、向こうで翻訳を出すならこのタイトルがいいのではないか、という話になりつつある。

 ちなみに糖尿病のことを英語では"diabetes"(ダイアビーティース)、糖尿病患者のことを"diabetic"(ダイアベティック)という(もともと、まったく同じ綴りのラテン語、ディアベーテースが、まさに「糖尿病」という意味で先に存在していたようだ)。それ自体に「糖」の含意はないので、『シュガーな俺』というタイトルは、英語圏の人には今ひとつピンと来ないだろう。

 しかし、韓国では「タンニョッピョン」、つまり「糖・尿・病」をそのまま韓国語読みした語で言い習わされているので、彼らはもう少しは日本人と近い感覚でこのタイトルを理解できるところにいる。もっとも、漢語の使用例は日本と同様多くても、それを漢字で表記する習慣がないので、「タンニョッピョン」という語を使う韓国人が、実際にどこまで「糖」という構成要素を意識しているかは、僕の想像の及ぶところではない。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

2006年10月11日 (水)

読書メモ

 昨日言いそびれたが、僕の原稿「小説における文章表現とは ---『ラス・マンチャス通信』、そしてブログ小説」が掲載された、學燈社『國文學』11月号がもう発売になっているはずだ。書店で確認はしていないが、そのはずだ。

 Amazonで買った本が、どんどん山積みになってゆく。今日も6冊ほど、注文していた分が届いた。着々と消化してはいるのだが、読める時間は日々限られている。そう長くはかからない通勤時間と、勤務先での昼休みだけだから、1日にせいぜい1時間半ほど取れたらいい方だ。年間だと、がんばっても100冊程度だ。

 もっと読みたいと思うが、もっと読みたいのは単純により多くの知識・情報を得たいと思うからであって、冊数自体には何の意味もない。読んだ冊数を誇るのはくだらないことだと思う。クソ本だけ読んでいればいいのだったら、数で勝負できる。しかし、クソ本を1,000冊、10,000冊読んだところで、ゴミの堆積にしかならない。ゴミはどれだけ積んでもゴミのままだ。量が質を凌駕することは、ありえない。

 ただ、意義ある読書をしたとしても、読んだ内容を右から左へと忘れていってしまうのもまた事実だ。そういう知識や記憶は、驚くほど早く失われる。忘れないといくら誓ってもすぐに忘れてしまうぼくがいた。だから最近は、極力、かんたんな読書メモを取るようにしている。気になることが書いてあるページをマーキングしておいて、後でそのページ番号と、そこにおおむね何が書いてあったかのサマリーだけ、メモ程度に残しておくのだ。

 直後なら、メモを見ただけで内容を思い出せる。時間が経って忘れてしまっても、ページで参照できるので、比較的すぐに、めざす情報にアクセスできる。ここで凝り過ぎると、たとえば、「気になる文章を抜粋」などしていると、きっと途中でそれが負担になってやめてしまう。なにごともほどほどがいいのだ。全部を覚えていようとする必要はない。そんなの、どうせ不可能なのだから。

 

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月10日 (火)

サイン本とワイン

 会社帰りにフラリとジュンク堂書店池袋本店に寄って、もうすっかり顔なじみになっている3F文芸フロアのK海さんをつかまえ、『忘れないと誓ったぼくがいた』の在庫十数冊にサインを書かせていただく。あそこにサインを書きに行く際は、いつも4Fのカフェコーナーに隣接した個室に通され、飲み物をごちそうしてくださる。そして僕はいつも、グラスワインの赤を頼んでしまう。いろんな意味でダメ人間だなと思う。

「高校生の頃、80キロカロリーダイエットっていうのが流行っていて、ちょっとやってみたんですけど、よくわからなくてやめちゃったんですよ」とK海さん。
「ああ、それはきっと、基本的に食事療法と同じだと思います。80キロカロリーっていったら、食事療法における“1単位”ですから。ぜひ、『シュガーな俺』を読んで勉強して再挑戦してみてください!」

 いや、本当にそうなのだ。「食事療法」(本来は「食餌療法」)というのは、"diet"の訳語なのだから。もとは同じものなのだ。いわゆる「痩せるダイエット」の方が、「食事療法」の応用なのだ。

 その『シュガーな俺』書籍版だが、発売(10月20日)以降の世界文化社によるプロモーションについて、懸案になっていたことがバタバタと決まってくる。いよいよ秒読みという感じだ。

 一方、たびたびの改稿で刊行が伸び伸びになっていた『冥王星パーティー』については、最新バージョンを読んだ新潮社担当Gさんより、「すっごくおもしろかった」との評をいただく。まだ多少の微調整は必要になると思うが、今度こそどうにか本にできそうな雰囲気だ。原稿を何度も直していると、しまいにはよしあしの判断が自分ではつかなくなってくる。今度もダメ出しされたらどうしようかと思っていたので、かなりホッとした。

 それにしても、長かった。書きはじめてからここまで来るのに、1年8ヶ月もかかってしまった。その間に、なんだかひどく歳を取ってしまったような気がする。
 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2006年10月 9日 (月)

1年後のスイブル

__

 無為の食欲が回復したようにはあまり見えないが、咳き込むことはほとんどなくなったし、吐いてしまう頻度も減ったように見える。そして何より、こうして日だまりがあれば、それだけで幸せそうにしている。猫は基本的に、日だまりがあれば幸せそうなのだ。

 ところで、去年の秋にショップジャパンで購入したスイブルスイーパー、もともとバッテリーが1個ついているところ、交互に充電しながら使えるように、バッテリーだけ1個余分に買っておいたのだが、約1年経過後、両方ともすでに耐用限度を超えたらしく、ほとんど充電できなくなっている。意外に寿命が短かったな、と思いながら、バッテリーだけ新たに2個取り寄せることにした(それで送料込みで1万円近くになる。本体はたしかに安いが、維持費のことを考えるとそうおトクな買い物でもないような気がする)。

 ちなみに、ショップジャパンからネット経由でなにか買うときは、まず「会員」にならなければいけない。本体を買ったとき一度会員になっているはずだが、その後のメルマガがあまりにウザかったので一度キレて、ショップジャパンから来たメールを残らず削除してしまったため、顧客番号の控えもなくなっていた。問い合わせれば教えてもらえるようだったが、めんどうだったので新たに会員登録をした。こういう客は困った存在なんだろうなと思いながら。

 それにしても、あのメルマガはウザい。多すぎる。そもそも、最初に登録したとき、メルマガの配信を「希望しない」と答えたつもりだったのだが、勘違いだったのだろうか。たぶん勘違いだったのだろう。いずれにせよ、ウザいなら配信中止の登録をすればいいのに、それさえめんどうで放置していたので、わりと最近までメルマガが届きつづけていた。今回の新規登録時には間違いなく「希望しない」にチェックをつけたので、もしこれでまたメルマガを送ってくるようなら、希望の有無にかかわらずとりあえず配信している、ということなのだろう。

 だいたい僕は、アンソニーとテリが絶妙の夫婦漫才(夫婦じゃないんだけど)で紹介しているスイブル・スイーパーが欲しいと思っただけで、その他の「便利グッズ」だとかシェープアップ商品だとかに関心があるわけではないのだ。欲しいときはこっちから勝手に探すのでほっといてほしいと思う。という僕はつくづく、広告の作り手から見るとイヤな存在なのだろうなぁということが、勤務先で広告の作り手だったこともある僕にはよくわかる。

 それにしても、去年、初めてスイブルスイーパーについて不用意にもブログ(黒いシミ通信)で言及したときは、その後「スイブルスイーパー」経由でのアクセスが恐怖心を抱かせるほどの勢いで殺到して、「ごめんなさいごめんなさいっ、そんなつもりじゃなかったんです!」と土下座して謝りたい気持ちになったものだが、今は少し落ち着いて、事情も変わっているのだろうか。

 そういう人たちがいらした場合のためにひとこと言っておくなら、いくつかの難点はあれど、あれはいい商品だと僕は思っている。その証拠に、購入から1年が過ぎた今もなお、バッテリーを買い足し、今後も使用しようという意志を示しているわけで。ただ僕は、「じゃあ今度はこの商品どうスか?」「今なら○○もついておトクですよ!」としきりに呼びかけられるのが嫌いなだけなのだ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006年10月 8日 (日)

センスの違い

 妻と2人、遅い出発で国営武蔵丘陵森林公園に向かい、2時間ほど過ごして帰途に就く。そんなんでも、ゴールデンウィークに「日光猿軍団」を観に行って以来の夫婦行楽だ。双方とも本当に忙しくて、機会をなかなか作れない。

 そろそろ出口へ向かおうとして、妻がトイレから出てくるのを待っている間、近くの芝生で、おもちゃのテニスラケットで遊んでいるカップルに目を奪われる。特に、女性の方。たぶん25歳前後だろうと思うのだが、まず服装が、こういうアウトドアな環境におよそそぐわない。深い前スリットが入った、わりにタイトなオフホワイトのワンピースに、焦茶色のアンクルブーツ。男性の方も、妙にシャキッとした濃紺のジャケットを羽織っている。

 で、テニスラケットを持っているといっても、2人でひとつのボールを打ち合うというよりは、ちょっと離れたところでそれぞれ別のボールで遊んでいる。しかし、ときどき女性の方が、ラケットを抱えたままスキップしながら男性の方に駆け寄ったりしている。その、なんというか、年齢に似合わぬはしゃぎっぷりが、森林公園という空間では異彩を放っている。

 後で、駅に向かうバスに乗ったら、すぐそばの席に彼らがいた。間近に見ると、どうも日本人ではないらしい。話している言葉は聞こえなかったので確信は持てないが、男性の方の髪型やメガネのセンスから推測するに、韓国人っぽい雰囲気だった。それでなんとなく、納得がいった。芝生の上ではしゃぐ彼らのあの感じ、あれは日本人の感じではなかった。服装がアウトドア風でなかったのは、もしかしたら、宿泊先である東京のホテルから、日帰りで行ける軽い行楽スポットとして突発的にここを選んだ結果だったのかもしれない。

 そういえば、去年の暮に旅行で沖縄に行ったとき、首里城などいくつかの場所で、何度か不思議な恰好の女性を見かけた(同じバスツアーの別のバスに乗っていたようだ)。ある男性と新婚旅行っぽい雰囲気で連れ立っており、顔立ちは思わずはっと目をみはるほど可愛いのだが、服装が不思議なのだ。

 タオル地のジャージ(?)の上下。しかも全面ピンク。少なくとも、旅行に行く際にそういう恰好をしている女性というのを、僕はほかで見たことがない。不思議だなぁ、と思っていたところ、たまたま近くを通りかかったら、彼女は中国語をしゃべっていた。

 なまじ顔立ちが似ていて、ちょっと見には日本人と見分けがつかないだけに、ちょっとしたふるまいとか、着ているもののセンスなどがあからさまに異なっているという事実に、軽い幻惑を覚えてしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 7日 (土)

予約受付開始

 學燈社『國文學』11月号の掲載誌が届く。特集「わかりやすい文章応用力」の一部として、僕の原稿「小説における文章表現とは ---『ラス・マンチャス通信』、そしてブログ小説」が掲載されている。発売は休み明けの10月10日なので、ご興味のある方はどうぞご一読いただければと。

 また、ふと気づくと、もうAmazonで『シュガーな俺』書籍版の予約受付が始まっている。

 Amazon シュガーな俺

 その気になれば全文無償でネット小説として読める、という条件があるとき、値段のついた本として売り出された同じものの売上に、なんらかの形で影響が出るのだろうか。そのへんはよくわからない。もちろん、1人でも多くの人に買っていただきたいなとは思うけれど。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年10月 6日 (金)

ブライな俺

 昨日は小学館のMさんと池袋で新作(『シュガーな俺』の次の次に出る予定)に関する打ち合わせ。その後なぜか、同じ小学館のYさんをむりやり呼び出して、気がついたら午前3時半。

 今日は一応出社したものの、気息奄々。それにもかかわらず、夜には飲みの約束があったので、大雨の中渋谷へ。

 それが終わって池袋に戻ってきたとき、今日飲む予定だと聞いていたジュンク堂池袋本店の皆さんがまだ飲んでいることを知り、突然合流。行ったことがない店への行き方を電話で教えられたが、僕が方向音痴なのは自明のことなので、絶対に簡単には辿り着けないだろうと思われていたらしく、意外なことに一発で店がわかって入っていったとき、まさかそんなに早く僕が現れるとは思っていなかったらしい一同、驚いていた。

 しかし店の場所がすぐわかったのは、偶然と執念のなせるわざだろう。

 それにしても、さすがに疲れた。糖尿病患者じゃなかったとしても、かなりヤバいスケジュールだ。気がつくと「無頼派」みたいになっている。別にそれがしたくて作家になったわけではないのだが。しかし僕自身が実際問題なにかの患者であるかどうかには関係なく、ヘルシーでスマートな生き方なんてクソ食らえだ、とつい思ってしまう。そう思ってしまう時点で、僕はなにかが終わっているのでしょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年10月 4日 (水)

言葉遣いなど

『シュガーな俺』書籍版カバーの色校正が届く。前にちょっとカバーについて触れた時点で見せられた超インパクトの強い案が、その後斥けられてしまい、最終的にはずいぶんトーンダウンした形になってしまったが、「万人受け」という観点から見たら、こちらの方がいいのかもしれない。

 ところで、それはそれとして、僕は思うことがあるのだ。正しい言葉遣いをするに越したことはない。しかし、いくら言葉遣いが正しくったって、人を感動させることができなければなんの意味もないのだ、それが文章表現についての教本かなにかででもないかぎりは。多少、言葉遣いが変だからといって、それが何だと言うのか。文章のセンスそのものに光るものがありさえすれば、そんなことはささいな瑕疵になってしまう。たとえば、「朴訥な」というべきところを、1冊の長編小説の中で10回以上にわたって「朴訥とした」と書いていたとしても。

 と今書きながら愕然とする僕。「朴訥とした」という、僕には誤用としか思えない活用をしても、僕が現在使っているこのiBookはそれを訂正しないのだ。つまり、「朴訥とした」をひとつの文節として認め、スルーしてしまっているのだ。なんということだ。「朴訥とした」は、今では「適切な用法」として一般に認められているのか。

 あ、それともこれは、「朴訥」をひとつの名詞と見なし、「朴訥」(名詞)+「と」(格助詞)+「し」(動詞)+「た」(助動詞)と解釈しているってこと? 「朴訥とした」(形容動詞・連体形)ではなくて? iBookの考えていることはわからない。会話できない。

 まあ、そのことはいい。「朴訥」の扱いだけでなく、ほかにもいくつか変なところがあったりしてもだ。それでもトータルとして感動できたってことは、その作品が優れているということなのだ。まぁ、編集者がもうちょっとそのへんはチェックしてしかるべきだったんじゃないかと思わないでもないとしてもだ。

 感動できる小説は、世に少ない。感動できる小説を書きたいと思う。という素直な気持ちにさせるこの小説は、優れた小説なんだと思う。あえて書名は挙げないけれど。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006年10月 3日 (火)

無為、逃走

 頭の抜針(ばっしん)をした。いや、正確にはなんというのかいまだに知らない。その器具の名称も知らないし、器具自体、この目で見たわけではない。それどころか、今朝まで頭皮に食いついていた3本の金具も、ついに目で見る機会はなかった。ただ、ときどき痛がゆさを感じて指先でそっと触れると、そこにあからさまに金属的ななにかがあることだけはわかり、機械人間にでもなってしまったかのような気分になっただけだ。

 ともあれ、これで治療終了だ。「きれいな傷ですね」とのこと。醜い傷跡が残ることもあるまいが、スキンヘッドにする予定は今のところないので、あまり関係がない。

 一方、無為は、あいかわらずときどき吐いたりしているし、食欲もあまりない。しかし、3度も病院に連れていき、そのたびに処方される薬の種類もひとつずつ増えていくだけあって、吐気はだいぶおさまっているように見える。それより何より、これは初めからそうなのだが、胃液を吐いたりしているわりに、機嫌はすこぶるよさそうなのだ。飼い猫の機嫌がいいか悪いかは、ちょっと顔を見ればわかる。妻も同感しているので、僕の「希望的観測」ではないと思う。

 それでも、薬を飲ませるのはやはりいやがる。僕が無為の体を押さえている間に妻が口をこじあけて錠剤を喉の奥に放り込むという、もうすっかり習熟してしまった共同作業だが、それをされた後、無為はたいてい、特に妻に対して腹を立てている。ときには、わざわざ僕の背後に回り、つまり、僕を盾にして、妻のことを恨みがましい目で睨みつけたりする。「いやなこと」をするのは妻であって、僕がその妻の行動に関与していることには、どうも気づいていないらしいのだ。

 と思っていたら、今朝は違った。3種類の薬を飲ませるのはなかなか困難で、妻が手間取っている間に、体の自由をきかなくさせている僕の両手の存在に気づいたらしい。心ならずも錠剤を嚥下してしまった後、無為は妻にも僕にも背を向けてたたたたっと走り、押し入れの中に隠れてしまったのだ。「隠れる」と言ったって、たまたま開いていた襖の隙間から、ごちゃごちゃとものが詰め込んである物陰に半端に身を潜めただけで、「身を隠している」ことにはまったくなっていないのだが。

 マンションの中じゃ、ろくな逃げ場さえない。本当に不憫だ。そして、そんなに怒っていたくせに、僕が会社から帰ってくるなり「にゃーん!」と歓迎の声を発しながらドアまで駆け寄ってくるのが、また輪をかけて不憫でならないのである。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006年10月 2日 (月)

煙草は有害

 ニフティさんから、『シュガーな俺』連載ページのアクセス集計などをまとめた月例レポート(9月度分)を送っていただく。固定読者の方が増え、少し落ち着いてきた結果なのか、アンケート欄への記入件数は、先月よりだいぶ少なくなっている。ただ、あいかわらず8割強の方が「面白い」を選んでくださり、またなんらかの感想を書き込んでくださってもいる。嬉しいかぎりである。

 今回は、糖尿病専門ではないけれど「医師」だという方からの書き込みがあり、「おっ!」と目をみはったのだが、その方はセレクトボックスから「面白い」を選んでくださってはいるものの、感想欄で少々苦言を呈されていた。「教育が目的なのだとしたら、煙草の有害さについての記述が少な過ぎる」と。おっしゃるとおりです。

 ただ、この作品はどちらかというと、エンターテインメントとしてドラマ部分も楽しみながら、糖尿病について少しでも多くの人に知ってもらいたい、という気持ちで書いたもので、「教育」などと大それたことをもくろんだものではないのです。患者の方が「そうそう、そうなんだよね」と共感してくださり、予備軍の方が「自分も気をつけないと」とビビってくださり、特に問題のない方が「糖尿病ってそういうものだったのか」と知ってくださればそれで本望という。「糖尿病」やら生活習慣やらについて意識するきっかけのひとつにでもなってくれればいいなという。

 くだんの医師の方がわざわざこのブログまで来られることはたぶんないだろうなと思いつつ、もしこれを読まれていたとしたら、そんなわけですのでどうぞひらに。

 それにしても、あまり意識はしていなかったが、「煙草の有害性」についての記述が少なかったことは、今現在、僕自身が結局喫煙から離脱できていないことと関係があるだろうか。あるだろうな。患者の皆さん、煙草は有害ですよ! 患者じゃなくても有害ですよ!(取ってつけたような警句)

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006年10月 1日 (日)

俺なんか

 最近、小学校などで一緒だったけれどその後交流が途絶えている人から、思いもかけずこのブログにコメントをいただくことが多い。その関係で、ふと思い出したことがある。

 高校2年のとき同級生だったある人が、よく「俺なんか」と言っていた。ただこれだけ聞くと、「(俺なんか)どうせダメだよ」といったへりくだりのニュアンスを思い浮かべることと思う。僕も最初は自動的にそういうニュアンスで聞いていたのだが、文脈的にしっくり来ないことが多いので変だと思っていた。

 ところがある日、体育の授業で、バスケットボールの模擬試合をやったときのことだ。彼と僕は同じチームだった。そしてスポーツがからっきし(死語)ダメな僕は、バスケの場合にはただボールを追っているフリをしてコートの中を無駄に走り回っているだけだったわけだが、そのことはまぁ措いておくとして、いよいよ次が僕たちのチームの出番となったとき、例の彼がこう言ったのだ。

「次、俺なんかだよね」

 そのとき初めて僕は理解した。彼が使う「なんか」は、この場合、「複数」を表しているのだと。つまり、「俺なんか」というのは、「俺たち」「俺ら」の意味だったのだ。

 しかし、そういう「なんか」の用法は、ほかに聞いたことがない。どこかの方言なのだろうか。ちなみに僕は当時、埼玉県南部のとある私立高校に通っており、彼も住所は埼玉県内だったはずだ。ただ、それが彼の住んでいる場所の方言であるとはかぎらない。たとえば彼のお父さんなりおじいさんなりが、そういう方言を使う地方の出身で、彼の家庭ではそういう使い方をするのがあたりまえだった、ということなのかもしれない。

 意味がわかってからもなお、彼がその意味で使う「俺なんか」に僕はどうしてもなじむことができず、聞くたびに違和感を覚えていたものだが、同時に僕は、当時こんな分析もしていた。

 普通、「謙譲」の意味で使う「なんか」が「複数」の意味でも使われるとすれば、逆もあるのではないか。ちょっと考えてみて思い出したのは、万葉集で山上憶良が詠んだ有名な一首だ。「憶良らは今は罷らむ子泣くなむ……」。あの歌における「憶良ら」は「憶良たち」ではなく、「私、憶良めは」だ。自分の名に接尾辞「ら」を添えることによって、謙譲の意を表しているのだ。そうすると、くだんのクラスメートが使う「俺なんか」の「なんか」も、それと似た言語意識によって説明ができるのかもしれない。

 ただし、その後の人生においても、僕はこれと同じ用法の「なんか」に遭遇したことが一度もない。いったいどこの方言なのだろうか。それとも、それは彼個人が間違って覚えていた用法に過ぎなかったのだろうか……。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »