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2006年12月10日 (日)

1ヶ月の長さ

「長いようで短かった1年」といった言い方をよく耳にするが、前々から、あれには心理学的な裏づけがあると思っている。対象となるある一定期間について、どの側面に着目して振り返るかによって、同じ時間が長くも短くも感じられるということなのだと思う。

 特に、忙しかった場合はそうだ。やることは山のようにあるから、時間はどれだけあっても足りず、「瞬く間に」時が過ぎてゆく。しかしそれは同時に、短い間に非常にいろいろなことをこなした、つまり、密度の高い時間を過ごしたということでもある。その間に自分がやりとげたことをひとつひとつ思い出し、そのハードさを意識するときには、同じ時間が「長かった」と感じられるのだ。

 だからあれは、必ずしも単なる決まり文句なわけではなくて、そういう、実際に並行して感じている2種類の感覚を、正確に言語化したものなのではないかと思う。

 この1ヶ月、僕はものすごく忙しかった。目を閉じて開いたら、もう1ヶ月が過ぎていた、という感じだ。しかし同時にこの1ヶ月は、僕にとっておそろしく長い1ヶ月でもあった。

「今日で、無為が死んで1ヶ月だね」

 昨夜寝る直前に、妻にそう言われて愕然とした。1ヶ月? あれからたった1ヶ月しか経っていないというのか。にわかには信じられない。もう、はるか昔というのは大げさにしても、少なくとも半年は前のことに思える。しかし実際には、まさに無為が死んだ翌週の頭から、『シュガーな俺』についての取材がほぼ毎週のように入り、その間に次作『冥王星パーティー』の入稿前の手直しや、小学館向けの次々作の執筆に関する中間報告もしなければならず、それをしている間にまた別の取材の予定が入り……という日々だった。そしてそれは、ほとんど一瞬だった。

 いまだに、帰宅して最初にドアを開ける瞬間、そこに無為が出迎えに来ているものと期待してしまう。キッチンになにかの紙袋が置いてあったりすると、無為が座っているのだと思ってしまう。風呂から上がるとき、無為の水飲み用のカップの水を交換しなければ、と思ってしまう。無為はそこからしか水を飲まず、入浴中にシャンプーなどが入ってしまうといけないので、出るときに必ずカップを洗って新しく水を入れるのが習慣になっていたからだ。そのカップなんて、とっくに片づけてしまっているのに。

 それでもだんだん、喪失感は薄れていくのだろう。薄れてくれればくれるほど、気持ちは楽になるはずだ。それなのに、喪失感が薄れてしまうこと自体に、喪失感がある。気持ちが楽にならなくてもいいから、無為を失ったつらさを忘れたくないと思っている自分がいる。ああ、なんか自作のタイトルみたいになってきたが、それが今現在の僕の偽らざる心境なのだ。
 

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コメント

僕のこの1年は非常に忙しなく過ぎていったように思えます。父の介護から始まり、そして死。持ち家ではなかった実家の引き払いのために家の中の物を姉と3ヶ月誰もいない実家に通いつめて必死で片付けた事、そんな中での鬱病悪化、そろそろ復帰が近づいてきたときの糖尿病発症で復帰が延期、糖尿病が落ち着いてきて復帰できるかと思えば感染性胃腸炎になり、また延期。車検が近くなったので車を売ろうと思ったら事故車であることが判明し、行政書士の方と相談中。今年1年は本当に良い事がありませんでした。せめて今年最後の年末ジャンボ宝くじで高額当選しないかなあ。

投稿: ゾーン | 2006年12月11日 (月) 03時18分

心配ごむよう。半年たっても、一年たっても、二年たっても、いなくなった者のことは忘れられないものです。いないということが、最大の存在感として居座るのです。それは、ガン細胞と同じように増えてばかりで、減る事はないのです。ほんと、なんでいないんでしょね。

投稿: 山田 | 2006年12月12日 (火) 01時16分

> ゾーンさん
いやぁ、それはたいへんな1年でしたね……。さぞかし、長くかつ短かったことでしょう。僕はちょうどその、「そろそろ復帰が近づいてきたときの糖尿病発症」あたりからゾーンさんを知るようになったわけですよね。不謹慎な言い方かもしれませんが、なんだか感慨深いものがあります。「ああ、その部分だったんだ」という……。
しかし、「シュガー理論」によれば、それだけ悪いことが重なったならきっと近いうちにいいことがあるはずですので、どうぞ気を落とさずに。

> 山田さん
ほんと、なんでいないんでしょうか。なんで? 意味がわかりません。いないことが腹立たしいですよね。憤懣やるかたないです。フンマンヤルカタナフスカヤです。アレクセイ・セルゲイエヴィッチ・フンマンヤルカタナフスキー。とか言ってるうちに日々は過ぎてゆくのであろうな。でもやっぱり納得はできないのであろうな。

投稿: 平山瑞穂 | 2006年12月12日 (火) 01時39分

親父が他界して2ヶ月と12日ほどですが朝に晩に仏壇に向かい父に挨拶をするのですが、基本的に亡くなったというのが身内の事と思えない部分があって他人事と思っている自分が居る。先日、息子が父の墓参りに言ってきたと聞いても他人ごとの面持ちで聞いている。間をおいて改めて認識する次第。なんとも情け無い。でも何故か、まだそばに居ると感じている。無為ちゃんもまだそばにいますよ。これが偽らざる想いです。

投稿: 林 秀樹 | 2006年12月12日 (火) 16時51分

そのお気持ち、とてもよくわかります。そうなんですよ、どこか人ごとみたいに思ってしまうんですよね。死んだのはよその猫であって、うちの猫じゃない。だって、まだ家の中をうろうろしているし……とつい思ってしまう。本当はもういないのに。
でも、おっしゃるとおり、「そばにいる」と感じている間は、まだ本当にそばにいるんだと思うことにしています。無理して乗り越えようとか忘れようとかしなくていいんだと。夢に見てしまうときも、「会いに来てくれたんだ」と思うことにしているのです。
そういうのはもう、しょうがないですよね。簡単に割り切れる方がおかしいのだと思います。

投稿: 平山瑞穂 | 2006年12月13日 (水) 01時24分

数年前に可愛がってたペットを亡くしました。骨でもいいから逢いたかった。でもね 将来必ず会えると気づいた。今はそのときが楽しみ。
無為ちゃんは飼い主に思ってもらえて果報ネコですね。インターネットはね、天国にもつながってるのよ。キーボードが打てるネコ仲間にきっと見せてもらってますよ。ニフティとは言えないだろうな。ニャフティーね(笑)

投稿: りりこ | 2006年12月14日 (木) 21時47分

「ニャフティー」!(笑) さすがネーミングの天才、りりこさん。変な話ですが、僕が大好きな楳図かずお先生の『わたしは真悟』に、学習塾に置いてあるパソコンを通じて子供たちがあの世とこの世で通信をする、というエピソードが出てくるのを思い出しました。天国の無為に思いが通じていると信じて、ときどきこのブログにも無為の思い出を綴っていくことにしますね。

投稿: 平山瑞穂 | 2006年12月15日 (金) 19時18分

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