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2007年1月 5日 (金)

ドイツ語のアレ

 去年の正月に実家に帰った折、父からあるものを示された。『ラス・マンチャス通信』冒頭部分のドイツ語訳だ。もちろん、出版されているわけではない。大学教授であった父が指導したことのあるドイツからの留学生Hさんが、その後日本学の偉い先生になり、父から贈られた『ラス・マンチャス通信』を手すさびにちょっと訳してみたといういきさつだった。「子供たちに読んで聞かせたらたいへんおもしろがっていました」とのこと。

 僕はそれを持ち帰って、後日、ドイツのロッテンブルクという町に住むHさんに直接、お礼の手紙を出すつもりでいた。ところが家に帰ってみると、ドイツ語訳が印字された紙も住所の控えもない。置き忘れてきたかと思って父に訊いてみたが、こちらにはないから渡したはずだという。それきり、ドイツ語訳は行方不明になってしまい、お礼の手紙もなんとなく出しそびれてしまっていた。

 今年、実家に里帰りしたら、「そうそう、Hさんのあれ、渡してないよね?」と父。どうやら、1年前に「ない、ない」と僕が騒いだ一件はもう忘れてしまっていたらしい。しかし、話によると、「最近見かけた」そうなので、やはり、去年は僕が置き忘れていったわけだ。結局その場では見つからなかったのだが、今日になって、「その後見つかったから」と父から郵送で送られてきていた。

 僕はドイツ語はほとんどわからないが、単語などを拾って見当をつけるかぎり、単行本の最初のほぼ3ページ分に相当するようだ。ちなみに書き出しの一文、「陸魚はアレの一番お気に入りのおもちゃだった」は、こうなっている。

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Landfische waren Ares liebstes Spielzeug.
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 ラントフィッシェ・ヴァーレン・アレス・リープシュテス・シュピールツォイク、かな。なんだかこの、ドイツ語特有のシャキシャキした音感が、あの作品の色調には合っているような気がする。「日本のカフカになりたい」と(自発的に)言った覚えはないが、このようにドイツ語になってしまうとカフカっぽく見えてくるから不思議だ。

 "Landfische"は、英語で言えばさしずめ"land fish"で、意味的には「陸・魚」を忠実に移し替えたものだが、形の上では「陸魚」と同じように「単語」扱いになっている。こうして既成の語を組み合わせることで簡単に「造語」ができてしまうのは、日本語における漢字熟語の組成と似ており、ドイツ語の特徴として興味深いところだ。

 しかしよく見ると、「アレ」がそのまま"Are"(アレ)と音訳されていることに気づく("Ares"の末尾の"s"は、英語の"'s"と同じで、所有格を表す)。「アレ」をどう訳すかは、韓国語訳のときにも議論百出で大難関となった部分だが、Hさんはこれをどう見たのだろうか。いろいろ試みたあげく、意訳を放棄して単なる固有名詞として扱ったのか。それとも、初めから固有名詞だとしか思わなかったからただそのまま音を写したのか。

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コメント

あ、ちょうど良い機会なのでお伺いしてしまおう!

倉橋由美子の小説(作品名は失念。おそらく「桂子さんシリーズ」と呼ばれる作品群のどれか)に「ale」という単語が出てきて、意味は「猿」で昔のフランス語か何かということでした。なので、センセイの「アレ」にもそういう意味が込められているのかと思っていたのですが、どうなのでしょう?

投稿: ダレカ | 2007年1月 6日 (土) 01時14分

いや、そこまでの含みはなかったですねぇ、残念ながら。実際僕には、そういう多言語的な含意のある語などを作中にしのばせてひそかにニヤニヤするようなところもなくはないんですが(笑)、「アレ」に関しては、とにかくなにか、微妙な距離感を表徴しながら不穏な感じが出るように、ということを意識して選んだだけでした。

ちなみに、ダレカさんならあるいはお気づきだったかもしれませんが、「Hさん」のイニシャルが最初だけ「Bさん」になっていたことにさっき気づき、訂正いたしました……。

投稿: 平山瑞穂 | 2007年1月 6日 (土) 01時30分

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