合理的な生活
乾燥まで全自動でできる洗濯機を、やっと導入した。だいぶ前から考えてはいたのだが、どれを買うかなど具体的に検討するのが面倒だったり、その時間が工面できなかったりしたばかりに、延び延びになってしまっていた。これで、洗濯に関してはかなり省力化が図れる。夫婦共働きでしかも僕の方は兼業となると、やはり、家事の負担をいかに軽減するかというのは大きな問題になる。
ところで、今回これを導入するにあたり、「洗濯」という家事のどの部分が負担感の原因になっているのかということを、初めて分析的に考えてみた。洗濯をしなければ、と思ったときに必ずと言っていいほど頭をよぎる、「ああ、めんどくさいな」というあの感じ。それはどこから来ているのか。
汚れた衣類等の山を、柔軟剤が必要なものと洗濯のりが必要なものの2種に分け、洗濯機に放り込んで洗剤・仕上げ材をセットしてスタートボタンを押す。そこまでは、実際、たいした作業ではない。あとは脱水まで勝手にやってくれるし、その間、ほかのことをしていることもできる。問題はその後だ。
脱水が済んで、ドラムの内壁に遠心力でへばりついている衣類を、ひとつひとつほぐしながら取り出し、干すときの、また取り込んだ後の便宜を考え、下着類は下着類、シャツはシャツ、ハンカチはハンカチ……という風に同じ種類のもの同士をなるべくまとめて重ねるようにしながら、また、靴下などはちゃんと組になるように揃えながら籠に移動させ、大量の水分を含んで重たくなっているそれをベランダまで運び、ひとつひとつの皺をパンパンと伸ばしながらピンチハンガーなどにかけてゆく。そこが重いのだ。
それだけではない。一応、屋根つきのベランダではあるが、マンションの6階で風が強いので、干している間に雨が降ったらけっこう致命的だ。そういう天候上の問題も考慮しなければならない。また、今、洗ってしまったら、乾く前に陽が落ちてしまうが、この機会を逃したら今度いつ洗濯できるのか、といったタイミングの問題を考えるのも憂鬱だ。
たぶん、そうしたことが一緒くたになって想起されるために、「洗濯はめんどくさい」という気持ちを抱くのだろう。
ところが、自動乾燥機能までついている洗濯機を導入すると、そのあたりの問題がすべて解決してしまう。「洗濯」という家事において負担感を醸している部分が、ほとんどすべて消滅するわけだ。なんという素晴らしい文明の利器なのだろうか。
そりゃあ、よく洗剤のテレビCMなどで見かけるような、「一戸建ての広い庭で、さんさんと降り注ぐ太陽のもと、真っ白いシーツやシャツなどを干す」というあのやり方で乾かした方が、イメージとしては「幸せ」な感じだ。晴れた日にたっぷりと陽光を浴びて乾いた衣類の、日なたくさい、懐かしい匂いに対する愛着にも捨てがたいものがある。しかし、そういうのは畢竟、生活形態がどうであるかという問題に左右されるものなのだ。
とりあえず、生活領域の中でまたひとつ合理化が進んで、ほっとしている。そして僕は本質的に、こうした「合理的な生活」というものが性に合っているらしく思われる。
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