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2007年4月30日 (月)

超近場行楽

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 連休中だというのにどこにも出かけていない。せいぜい、家で作ったお弁当を持って近所の公園に行ったくらいだ。新緑が目にやさしい。まあそれだけでもリフレッシュになったと言えないこともない。

 それにしても、休日の公園といえば犬の天下だ。5組に1組は犬を連れている。猫を連れている人は皆無。当然である。猫というのは、慣れない場所が苦手である上に、だだっ広い場所が大嫌いなのだ。嫌いというより、パニックを起こす。ずっと前、まだ無為が存命中に、一度、「いつも家の中ばかりでかわいそうだから、たまには広々とした公園にでも連れていってやろう」とよけいな親切心を起こして大失敗したことがある。

 カゴから出してやろうとしても、怖がって出てこない。なかば無理やり引きずり出したら、その場で表情と背中をこわばらせて固まっている。どう見ても喜んでいるようには見えないので、早々にカゴに戻して引き返した。まだ、大脱走しなかっただけマシだ。

 さて、緑も堪能したし、そろそろ帰りますか、となったところで売店を見つけ、人がソフトクリームを舐めているのがうらやましくなって、僕と妻とひとつずつ買うことにした。売店のレジのところには、観月ありさを大柄にしたような、常に冷静という感じの女性と、妙にオタオしているおばさんの2人がいた。

 観月ありさ似の店員は、最初に受けた印象のとおり常に冷静で、過不足のない動きで着々と仕事を進めているのだが、妙にオタオタしているおばさんの方は、何をするにもなんだかムダにオタオタしていて、結果として時間がムダにかかっている。ああいう、ムダにオタオタしているおばさんって、どうしてどこの店にも1人や2人いる(ように見える)のだろうか。

 某誌に掲載予定の短編を半分ほど書く。締切はまだだいぶ先だが、前倒しにできることは極力前倒しにして進めないと絶対に間に合わない。こういう勤勉さが小学生・中学生の頃に少しでもあれば、8月29日ごろになってムダにオタオタしなくても済んだのに。

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2007年4月27日 (金)

深夜の低血糖

 インスリンを打っていると、もしも眠っている間に低血糖状態になったとしたらどうなってしまうのだろうか、とときどき不安になる。そのまま気づかないうちに死んでしまうのではないかと。しかし人間の体というのは本当によくできていて、そういうときはちゃんと目が覚めるのだ。本能的に危険を察知するのだろう。たいていは、なにか不穏な夢などを見て夜中にふと目が覚め、気がつくと心臓がバクバクいったりしている。

 実はついさっき、それが理由で起きた。半端なタイミングでインスリンを打ってしまったのがまずかったようだ。以前にも何度かこういうことがあったから、そういうものなのだろう。別に腹が減っているわけではないが、調整のため少し食べて、落ち着くのを待っているところだ。この日記は27日分としてアップするので時間を書き換えておくが、実際の時刻は、今、28日の午前4時前……。

 さて、今日(27日)は、お茶の水で某読書サークルの会合だったのだが、帰宅してパソコンを立ち上げると、仕事関係のメールがいくつも来ていた。

 そのうちのひとつ。新作『株式会社ハピネス計画』(仮)が7月に刊行されるのに際して、小学館の文芸誌「きらら」で毎月やっている書店員さんとの対談企画に登場させてもらえることになり、その場所や日程が確定した。「対談」というのは初めてだ。いや、書店員さんは2名いらっしゃるそうなので、「鼎談」というのが正しいのだろうか。しかし、「鼎談」という語は今やあまり一般的ではないし、この字が読めない人もいるだろう。

 もうひとつ。同じく小学館の、コミック誌「IKKI」での連載企画(7月発売号よりスタート予定)で、コラボレーションを組む相方の漫画家さんが内定した。と思う。まだ詳細について詰めていないのでちょっと不安だが、僕個人としても絵柄や作風が非常に好きな人なので、このまま確定してくれると嬉しい。

 それと……ああ、だめだ。眠くてもう限界だ。低血糖状態もおさまってきたようなので、あらためて寝ることにしよう。

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2007年4月26日 (木)

Zuckerな俺

 角川書店「野性時代」編集部のAさん(アイドルの水星ららちゃん好き)、そんなAさんを「男ってほんとにバカね」と呆れマナコで見守る書籍編集部のTさんと、代々木のタイ料理屋で辛い料理を食べながら打ち合わせ。先日「野性時代」に掲載していただいた短編『桃の向こう』を皮切りとした今後の不定期連載について、大きな方向性のようなものを話し合う。

 グランドデザインのようなものがだいたい見えてきて、もう今すぐにでも書き始めたい気持ちでいっぱいなのだが、その前に片づけなければならない目先の課題は山積しているので、そういうわけにもいかない。大人はいろいろ我慢しなければいけないのだ。

 あいついで発表された『冥王星パーティ』と『桃の向こう』にはいくつかの共通点があるが、登場人物がなんらかの「屈託」を抱えているという点が最大のポイントなのではないか、という話になる。そして、考えてみると、出版業界に身を置いている人たち(特に編集者)というのは、たぶんほとんどが、なんらかの意味での「屈託」を抱えた人生を送ってきたのではないか。だから、編集者の人たちにそれらの作品の受けが概していいのも当然なのではないかと。

 一方、帰宅したら、ドイツからエアメールが来ている。このブログでも少し触れたことがあるが、大学で日本文学を教えていた父親のかつての教え子で、現在は祖国ドイツで偉い日本学のドクターになっているH・Bさんという人が、『シュガーな俺』に関心を持っていると知って1冊EMSで送っておいたのだが、それに対する礼状だった。

「1ページ目を翻訳してみました」と本文に書いてある。かつて『ラス・マンチャス通信』の冒頭部分をドイツ語訳して送ってくれたという経緯があるので、今回も同封してくれたのかなと思ったが、それは入っていない。なんとなく、入れ忘れたのではないかなという気がする。だとしたら残念だ。ちなみに、「糖尿病患者」をドイツ語では"Diabetiker"(ディアベーティカー)という。「糖尿病の」という形容詞は、"diabetisch"(ディアベーティッシュ)だ。おお、ドイツ語って感じだ。

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2007年4月24日 (火)

記憶にございません

 今朝、携帯を持って出るのを忘れたと思って帰宅したら、いつもそれがあるはずの充電器のところになく、近場を探しても見当たらない。

 昨夜いじった記憶はあるし、朝、マンションを出てわりとすぐに、持ってきていないことに気づいたので、間違いなく家の中のどこかにあるはずだ。固定電話から何度もかけてみるが、常時マナーモードに設定しているので、バイブレーションを感じ取るしかない。テーブルなど硬いものの上にあれば、かえって着信音を鳴らすよりも大きな音がするはずなので、音がしないということは、きっと柔らかいものの上にあるのだろう。

 そういう推理のもとに、何度も立ち位置を変えて10回くらい固定電話からかけた。7回目くらいで、かすかに「ブーン」という震動音らしきものが、どこか明瞭に特定できない方向から聞こえてきた。なにかの探知器でも操作しているような気持ちでさらに3回かけなおしてようやく、クローゼットの中の、Tシャツが畳んであるあたりに乗っかっているのを発見。着替えの最中に、なにかの拍子にそこへ置き忘れてしまったものと見える。

 しかし正直なところ、「昨夜いじった記憶はあるし、間違いなく家の中のどこかにあるはずだ」という認識は、それほど強固なものではなかった。「昨夜いじった」というのが、本当に「昨夜」の記憶であるのかどうか、にわかに確信が持てなくなってくるのだ。実際、記憶というものは、自分で思っているよりずっとあてにならないものだというではないか。

 そもそも、携帯をクローゼットの中に置いたのはほぼ100%僕自身がやったことにちがいないわけだが、それをしたときの記憶が、今の僕にはまったくない。たかだか12時間かそこら前に自分がしたことを、まるっきり覚えていないのだ。これは恐ろしいことだ。

 しかしそれも、前後不覚に酔っぱらって帰宅し、翌日目覚めたとき、ブログがいつのまにか更新されていることの恐怖に比べれば、ものの数ではない。しかもそれが、「殺していいよね?」みたいな穏やかでない内容だった日には……。最近はそれをやらずに済んでいる。済んでいることを自分で褒めてあげたい。

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2007年4月23日 (月)

晒し者の恐怖

 今日発売の「オズマガジン」(5/7号)のBOOKコーナー(p.124)に、『冥王星パーティ』についての僕のインタビュー記事が掲載されている。

 写真は新潮社社屋内で撮影されたものだが、ヒゲの青さがやや目立つ。朝、出勤前に剃って、勤務先で1日仕事してから駆けつけたので、すでにだいぶ伸びてしまっているわけだ。インタビューのときはほぼいつも同じ条件なのだが、今回にかぎってこんなに目立つのは、光線の加減だろうか。

 なお、このコーナーでは毎回、Yahoo!とのコラボで、インタビューに答えた人が提供するアイテムがチャリティーオークションに出品される。僕はサイン本を提供したのだが、なにぶんまだ無名もいいところなので、出品されたはいいもののいつまでも入札がゼロだったらいい晒し者ではないか、とビクビクしていたのだが、今チェックしてみたらさっそく何点かは入札があったようでほっとした。どこのどなたか存じませんがありがとうございます。

 ヤフオクと言えば、ときどき僕のサイン本などにプレミアム価格がついて出品されていることがあり、偶然そういうのを発見してしまうとやはりいたたまれない気持ちになる。「いやー、プレミアム価格で落札する人が出るほど僕は有名ではないので、それはちょっと……」とよけいな注進をしたくなる。

 このいたたまれなさって何だろう。なにかこれとよく似た気持ちになるものがほかにあるような気がする。たとえば、地元では知らない者がいない名士である伯父が、「うちの甥が校内図画コンクールで優秀賞を獲りまして!」と公衆の面前で得意満面に吹聴しているのを目撃してしまったときのような。……ちょっと違うな(第一、僕はそんな目に遭ったことがない)。

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2007年4月22日 (日)

膨張する自分空間

 池袋と目白の中間くらいにマンションを買った友人のもとに遊びに行く。その人は一人暮らしなので、3LDKのマンションは一見、広すぎるようにも思える。しかし意外とそうでもない。

 ダイニングキッチンと唯一の和室は、一応引き戸で区切られてはいるが、開け放てば空間的広がりとしてはひとつだ。それ以外にある2つの部屋は、寝室と書庫に充てられているようだ。本はかなりたくさん持っている人なので、書庫は本だけでほぼいっぱいになっている。つまり、1人だけでも、3LDKの空間をそれなりに使い尽くしているわけだ。

 僕自身も3LDKのマンション暮らしで、僕の場合は妻との2人暮らしだ。越してくる当初は、2人だけだと広すぎるのかな、と思っていたが、住んでみるとちょうどいいような気がしてくる。狭いとは決して思わないが、さりとて広すぎるとも思わない。1人だったとしても、同じ結果になったような気がする。

 しかしもしも、僕たち夫婦に子どもができて、いずれひと部屋を子どものために割くことになったとしたら、そのときはそのときだ、という気がする。たぶん、残された空間をうまく配分して、それなりに暮らしていくのだろう。実際、同じ間取りが並ぶうちのマンションには、子どもが1人2人いる家族も多く入居している。

 要するに、生活空間というものは、1人あたりに配分される面積がどれだけあるかにかかわらず、与えられたら与えられた分だけ、違和感なく膨張していくものなのではないか、ということだ。

 僕は現在、なかば「書斎」として1つの部屋を丸々与えられており、それは恵まれたことだと思っているのだが、実家にいる頃は、事実上3つの部屋を1人で使っていた。

 どういうことかというと、もともと僕の部屋として与えられていた6畳の部屋がまずあり、その隣の4畳半の部屋を姉が使っていたのだが、ある時期(実は法的には問題があったのだが、そうとは知らず)3階部分を建て増しして、その12畳の部屋を姉が使うようになったのだ。そうすると、もともと姉が使っていた4畳半の部屋が浮いたので、僕はそこに書棚を置いて、主としてコミック類をストックしはじめた。やがて姉が結婚して家を出て行き、建て増しした3階の部屋も空いたので、僕はそこにパソコンとシンセサイザーを置いて、もっぱら打ち込み作業用の部屋にした。そうして僕は、なしくずしに3部屋を占拠することになったのだ。

 その気になれば、すべての機能をひと部屋に収めることもできただろう。しかし、空いている、そして、いつでも利用可能な空間がほかにあるなら、機能をそれぞれ分離して、それぞれの空間にあてがえば、もっと快適だ。

 しかしもしも、この上さらに、2つ3つの部屋が追加されたとしたら、どうなのだろう。夢はいろいろと膨らむ。ひとつは「飲み部屋」にしよう。バーカウンターを設けて、洋酒やリキュールを並べよう。ひとつはAVルームにして、大きなプロジェクターを設置してホームシアター状態にしよう。しかし、そういう想像力もいずれ尽きる。どうしても、使い切れない部屋が出てくるにちがいない。

 しかしまぁ、そんな余った部屋をどうするかについて悩まなければならないような立場にはまずならないと思うので、これはばかげた空想というものだろう。

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2007年4月21日 (土)

それはDNA

 何に感動するか、あるいはしないかは、結局のところ、DNAによりけりなのだろうか、と最近よく考える。それに反応するDNAを持っているかどうかなのだ。

 ときどき、なにかの映画(あえて何とは言わない)を観て映画館から出てきたばかりの人たちにカメラを向けて、ホヤホヤの感想を聞いて、それ自体をプロモーションにしているような例に出くわすことがある。たいていは、「すっごい感動しましたー!」「もう、泣けちゃってぇ……」「自分もこんな恋愛ができたらいいなって思いました!」など、感無量という感じで涙ぐんだり頬を紅潮させたりしている。「うっそあれで泣いてんの? マジすか?」と思うし、少なくとも自分の周囲はみんなその僕と似たり寄ったりの反応なのに、一方では手放しで「大感動!」になっている人たちがいる。

 そんな映画(あるいは小説)でも、もう展開が読めていて「あーはいはい」って感じであったとしても、とりあえず、結末まで到らないとなんとなく落ち着かない気がして、不承不承最後までつきあうハメになることがしばしばある。まさに「落ち」「つかない」。オチがつかないとスッキリしないという、ただそれだけの理由で。そしてそういう場合はほぼ100%、「あーはいはい」と思った通りの展開になる。感動できない。まったく感動できない。それでも、一方では感動して涙を流している人がいる。

 これはもう、DNAがなせるわざ以外のなにものでもない。それ以外に説明することができない。種の多様性を保つために、「いろんな人がいる」ということだ。DNAのしわざなら、もう何も言えない。ああ、あなたはそれで泣ける人なんですね、と言って引き下がるしかない。

 そしてもちろんそれは、逆の場合にも言える。

 僕の小説を読んで感動するかしないかは、DNAによるのだ。僕が意図したこととまったく逆の受け取り方を読者のだれかがしたとしても、それに対して唖然としたりムカついたりしてはいけないのだ。「え? うっそマジすか? 僕のまわりの誰もあれをそんな風には取ってないんだけど。ねぇねぇ冗談だよね?」と思うようなことがあったとしても、それはその人の、正確にはその人が持っているDNAの持つ感想なのだ。

 ……と考えると、何を言われても腹は立たない。だってそれは、しょうがないことではないですか。

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2007年4月20日 (金)

間抜けなPASMOデビュー

 定期券を買うタイミングというと、だいたい月末くらいになる。先月がちょうど買い替えの時期だったのだが、翌月が4月だということをうかつにも忘れていた。売り場に最も客が殺到するシーズンではないか。せめて、いつもより1週間ばかり早く買って「継続」にしておけばよかったのに、気づいたらもう、どの売り場にも長蛇の列が……。

 とにかく並ぶことが大嫌いな僕は、その間損が出るのを覚悟で、ほとぼりが冷めるのを待つことにしたのだが、なかなかほとぼりが冷めない。折しも、PASMOとスイカの互換性も果たされていたので、とりあえずスイカを使って通勤していた。僕の場合、職場には私鉄で数駅、JRに乗り換えて数駅なので、全部スイカで行ける。しかし数日それをやったら、その快適さに味をしめてしまい、今さら定期券をいちいちパスケースから出して「通過」させる気になれない。

 そんなわけで、昨日ようやく新たに買い替えた定期は、PASMO定期券になった。今日から使う予定でいたのだが、地元駅の改札前に来たとき、「そうすると、これまで使っていたこのスイカはどうすればいいのだろう? まだ残額が1000円弱残ってるし」と考えた。考えた結果僕は、「とりあえず、残額がゼロになるまでこれで通勤して、使い切ったらPASMO定期券を使おう」という結論に達し、改札にこれまで使っていたスイカをかざした。

 こういうところが、自分はバカだなとつくづく思う。本当にバカだと思う。PASMO定期券を使えば、その分の出費はまったく不要だったではないか。残額なんて、別の機会に使えばよかったのだ。

 帰りの時点ではさすがにそのことに気づいていたのだが、帰宅前に神楽坂の新潮社に寄る用があった。勤務先は高田馬場なので、東京メトロ東西線で1本だ。東西線の改札を抜けるときに、ためしに定期券機能ではなくてPASMO機能を使ってみるつもりでPASMO定期券をかざしたら、なぜか「定期券使用」と表示され、チャージ金額が減らない。機械の方がなにか間違って認識しているのでは、と不安になったが、神楽坂で降りるときには、ちゃんと規定の料金分チャージが減っていた。

 なるほど、「高田馬場駅」は、改札内への入場時点では、JRでも東西線でも西武新宿線でも、「高田馬場駅」としてしか認識されていないのだ。だから、僕のようにもともと定期券の範囲内に「高田馬場駅」が含まれている場合は、実際には違う路線でもその時点では「定期券範囲内」と認識され、チャージも引かれないのだ。「出場」のときに初めて、どの路線を使用したかが確定的情報となるわけだ。うまくできている。そして、そういうプログラムなら組めそうだ、とプログラマーでもないのにふと思った。

 それで今日は何の用で新潮社に行ったかと言うと、『冥王星パーティ』についての「anan」からのインタビューに応じるためだ。本についての話ももちろんあるのだが、「おすすめ本3冊」を挙げて、それを勧める理由も言わねばならない。実は先日、「オズマガジン」からのインタビューでも「おすすめ本3冊」を挙げたところだったので、とっさに別の3冊など思いつけるだろうか、と心配だったが、ちょっと考えたらスラスラ出てきた。

 問題は、読んで感銘を受ける端から、それがいかにいい本であったかということをどんどん忘れてしまうことなのだ。考えてみればもったいない話である。これからは、よかったと思った本については忘れないようにしようと思ったぼくがいた(こればっかり)。

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2007年4月19日 (木)

謀略ジャイアントパンダ

 妻がBSかなにかで録画した「パンダ子育て日記」みたいなやつを観る。みたいなやつ。すでにお気づきと思うが、僕が自分から能動的になにかを録画予約したりすることはほとんどない。しかし、人が「こういうの録った」と言うと、けっこう興味を示して観たりする。今回のは、中国の四川省で試みられているパンダの人工繁殖の様子を詳しく追ったものだった。おもしろかった。

 というか、パンダ可愛すぎる。なぜパンダはあんなにかわいい形と模様をしているのか。あの可愛さはいったい何のためなのか。いずれ種として絶滅の危機に瀕したとき、「種が違っていたとしてもなにか可愛いものを可愛がりたがる」という人間特有の性向に訴えかけ、効率的に保護してもらうことを見越していたとしか思えない。事実、人間はマンマとその術中にハマり、パンダを手厚く保護している。

 いや、あながち冗談で言っているのではない。本当にそうなのではないかと僕はかなり本気で考えている。あの可愛さは、彼らの種としての生き残り戦略にほかならないのではないかと。そう思ってしまうほど可愛いのだ、パンダは。「どういうことなんだ! なんだそのザマは! 可愛いにもほどがある!」と難詰してしまいたくなるほど、可愛いのだ、パンダは。

 なにしろあんなに動きの鈍い、弱そうな生き物だ。種の存続を守るためには、なにかこう、思いもかけない裏ワザみたいなものを使うことを余儀なくされていたとしても不思議ではない。

 だいたい、あの「垂れ目模様」は何なのか。普通、生き物がなにかああいった模様をつけるのは、本当は小さい目を大きく見せたりするのが目的と言われている。つまり、威嚇ということだ。しかし、あの垂れ目が「威嚇」になっているとでも言うのか。あのなさけない垂れ目模様が? むしろ、「わたしらには敵意はありましぇーん」と自らアピールしているようなものではないか。

 そりゃ、人間以外の動物に対しては、それなりの効果があるのかもしれない。「大きさ」だけがものをいう世界観の中では(人間でもたまにそういう人がいるくらいだから)。しかし普通の感覚を持った人間が見ると、あれについては、「何それ威嚇? 冗談だよね。だって超弱そうじゃん! リアル目よりむしろ弱くなってんじゃん!」と言わずにはいられない。言わざるをえない。言わないわけにはいかない(村上春樹)。

 しかも、子パンダってずいぶん長いこと、はいはいもろくにできないほど未成熟みたいだし。ぬいぐるみ? あれは野生動物としてはかなり珍しいことなのではないか。立ち上がろうとして短い足をモタモタと動かしているんだけど、床が滑ってしまって何度も失敗しているあのザマ。可愛すぎる。驚異的に可愛い。いーや絶対策略だ。それ以外に考えられない。あれは、「毛むくじゃらで無力なものに弱い」という人間の性質を当て込んでいるのだ。絶対そう! と、今日その録画を観ながら確信した。恐るべしパンダのサバイバル戦略。

 それはそうと、「小説すばる」から依頼されていたコラムのゲラがfaxで届いていた。掲載は5月17日発売の6月号になる予定だ。これもまた、こうして書いておかないと忘れてしまいそうなぼくがいた。

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2007年4月18日 (水)

雨の神田

 JR神田駅で降りて、早川書房へ。一昨年の暮、デビュー前に書いたあるファンタジー長篇を「SFマガジン」のS編集長に読んでいただいて以来、1年と4ヶ月ぶりだ。その長篇については、ここをこうすれば出版できると思う、と具体的な指示までいただいていたのに、その後、あまりに忙しくて、事実上放置状態になってしまっていた。

 なにしろ、それはほとんど書き直しに近い大がかりな直しになることが予想されたからだ。気持ちはあったのだが、そのための時間をどうにも工面できなかった。僕の方はそういう認識でいたのだが、S編集長はS編集長で、その後あまりに忙しく、自分が話を停滞させてしまったのだと思っておられたようだ。いや、これはやはり、どっちかというと僕の責任だろう。

 今回は基本的に、その仕切り直しという位置づけの打ち合わせだったのだが、長篇の手直しにすぐには取りかかれそうにないという状況は変わっていないので、その前にひとまず、短編の作品集を出すことを想定しつつ、不定期に「SFマガジン」誌上に短編を発表していくのはどうかということになる。

 しょっぱなは今のところ、7月発売号になりそうな気配だ。短編集は、既に発表している2編(『野天の人』『全世界のデボラ』)がそうであるように、SFというよりは「スリップストリーム」系が中心になりそうだが、なにぶん、まだ先の話なので、今の段階で確定的なことはあまり言えない。

 S編集長は、活字の形で読めるものはほとんどゲラのみという超多忙な生活の中、『冥王星パーティ』も読んでくださっていたので、たいへん恐縮する。とてもよかったと言ってくださった。ただ、男性が読むと、身につまされすぎてつらいかもしれないとも言う。しかし、それを言うなら女性も女性で身につまされる人が多いようなので、これは基本的に「つらい」本だということなのかもしれない。その「つらさ」をいいと思うかどうかは、年齢や性格によるのかもしれない。

 JR神田駅は、今日も雨だった。前に行ったときも雨だった気がする。

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2007年4月17日 (火)

嬉しい呪い

 濃い飲みだった。

「濃い」のことを「こいい」と言う人がいる。それは文法的には誤っているのだが、心理的には非常によく理解できる。理解しないわけにはいかない。理解せざるをえない。理解せずにはいられない(しつこい)。だって、そうでもなけりゃ、その「濃さ」に対する感嘆の気持ちを、どこでアクセントとして表現すればいいのか。

 それはさておき、濃い飲みだった。言いたいことは山ほどあるが、とりあえず、今現在のこの酔っ払いの僕でも言葉にできることだけ言葉にすると、あるたいへん読書家な人が、ちっともまったくぜんぜん売れていない『冥王星パーティ』を、かなり手放しで褒めてくれたのがすごく嬉しかった。

 しかし彼女は同時に、こうも言うのだ。「あ、でも、ダメだな。あたしがこれだけいいと思うってことは、売れないな。あたしがいいと思うものは売れないんだよ」。

 呪いかよ。

 でも嬉しいのだ。呪いでも嬉しい。読書家な人が褒めてくれるのは、嬉しい。

 ほかにもいろいろ言いたいことはあるが、今の僕の能力ではそれを言葉にすることができない。今の僕でなくてもそれはできないかもしれない。できないかもしれないなのでしないかもしれない。

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2007年4月16日 (月)

駆逐される僕

 お昼どき、いつ行ってもたいていはすいているそば屋がある。ほぼカウンターオンリーだが、いわゆる立ち食いそば屋よりは小綺麗な見かけだし、すいていると言っても別にまずいわけではない。特別うまいというわけでもないが、まあこの値段ならこんなものだろうという程度だ。

 その店でとっとと食事を済ませ、少し先まで歩いて、やはりいつもほぼすいているカフェでゆっくりコーヒーを飲みながら読書をするのが、週に1回くらいはたどるコースのひとつになっていた。ちなみにそのカフェがほとんどいつもすいているのは、喫煙席がないからだと思う。僕は喫煙者であり、店内禁煙というのは望ましくないのだが、必ず席を確保できるという利点と比べると、煙草は必ずしも吸えなくてもかまわないと思う。

 レジに並びながら、僕の前にいるこの2組があの席とあの席を取ってしまったら満席になってしまうのではないか。コーヒーを受け取ったはいいが、座る席がなくて店内をさまようことになるのではないか。と気を揉むような状況(昼食後くらいの時間帯のカフェというのはたいていそんな状況なのだが)だと、めげそうになる。そんな心配を絶対にしなくていいという点が好ましくて、僕はそのカフェをよく利用するわけだ。そしてそこでゆっくりコーヒーを飲むためには、食事は早めに済ませたいところであり、そのためにはそのそば屋が必要ということなのだ。

 眠いせいか、なんだか回りくどい書き方をしてしまっているが、とにかくそんなわけで、僕はそのそば屋をある意味で愛用していた。ところが最近、そこに行くと、たいていは満席かそれに近い状況である。「それに近い」というのは、カウンターのひとつやふたつは空いているのだが、先に陣取った客が自分のバッグを隣の席に置いてしまっていたりして、結果として埋まっている状態、ということだ。

「すみません」と言えば空けてもらえるだろうし、空けるべきだと思うのだが(というか、店内がガラガラならまだしも、ある程度混んできたのならその時点で自発的にバッグを膝の上などに退避させるべきだと思うのだが)、それをするのが僕はイヤなのだ。そんなことをせざるをえない、しないわけにはいかない、せずにはいられない状況がイヤなのだ。

 そして僕は思う。なんでこんなに混んでいるのか、と。ついこの前来たときにはガラガラだったのに、と。そして僕は気づく。学校が始まったのだ。彼らはたぶん、ほとんどが学生なのだ。そしてこの店は、安いのだ。忘れていたが、非常に安い店なのだ。

 僕は安いという理由でその店を愛用していたわけではない。ただ単に、後に立ち寄るカフェでの時間をなるべく多く確保できるために手早く食事を済ませたいとの目的を持っているという条件下で、いつ来てもよけいなストレスを感じずに席を確保できる点がいいと思って、そこを選んでいただけなのだ。しかし本来、安い店に学生などが殺到するのは自然のことわりなのだ。それが資本主義の仕組みなのだ。僕は駆逐されるしかないのだ。尻尾を巻いて逃げるしかないのだ。

 そして僕は逃げる。ああ、逃げる逃げる。

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2007年4月15日 (日)

お約束は大事

 妻がBSだかなんだかで録画していた「少林サッカー」を観ようと言う。だいぶ前にテレビでやっていたのを観たことがあったが、あらかた忘れてしまっているし、ああいう荒唐無稽な話は基本的に好きで、ときどき猛烈に観たいと思う。せっかく録ったのなら観ようということになる。

 冒頭がいきなり陰惨なシーンで、そういう描写が好きではない妻が引いている。

「ねぇ、この映画って楽しい映画じゃないの?」
「いや、これは香港映画のお約束で、最初の方に必ずこういう“暗い過去”の描写があったりするんだよ。そして復讐を誓う彼、みたいな。途中からはバカバカしいコメディタッチになるし、基本的にハッピーエンドだから安心して」

 やがて僕が言ったとおりの展開になり、妻も安心して続きを観始めた。その後も、主人公たちがひどい目に遭うシーンが折々に現れ、そのたびに妻が一瞬イヤな顔をするのだが、そのうちパターンが読めてきたらしく、「これは要するに、こいつらが後でこっぴどくやり返される伏線なわけだね?」と気にしなくなった。

 そのとおり。主人公たちがひどい目に遭えば、必ず、その後に意趣返しのシーンがある。それこそが香港映画のお約束だ。そして、「お約束」というのは本当に大事なものだと思う。

 ところで、あの映画におけるチャウ・シンチーのキャラクターをあらためて観察していて、なんだかだれかに似ていると思い、しばらく考えていてわかった。『逆境ナイン』の不屈闘志だ。あの、本質的に明るくて前向きで、なおかつ天然で、男女関係の機微に関しては異様なまでにニブい感じ。「少林サッカー」の背景にはたとえば「キャプテン翼」などの日本のコミックの影響が濃厚に見て取れるが、「逆境ナイン」を翻案した映画なども香港ベースで作ってくれるといいのになぁ、と思った。

 さて、その一方で、「小説すばる」から依頼されていたコラムの原稿を送信した。コラムなどは、当然のことながら、字数がわりと厳密に制限されている。たいていの場合、言いたいことを全部書いてしまうと、圧倒的に文字数が多すぎる。削って削って、制限内に収めることになる。それはつらい作業だが、そうすることによって研ぎ澄まされる部分もある。そしてその作業が、僕は嫌いではない。

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2007年4月14日 (土)

たとえ幽霊でも

 夢にひさびさに、無為が出てきた。去年の11月に死んだ猫だ。これまでもちょくちょく、夢に見ることはあったが、いずれの場合も、無為はまだ死んでいないことになっていた。でも今回は、夢の中でも僕は無為が死んでいることを知っていて、それなのにここに無為がいることは「ありえない」と思っている。だったらこれは、無為の幽霊なのかもしれないと思う。そう思っても、怖くはない。そして、飼えるならこのまま、幽霊なのかもしれない無為を飼いつづけたいと思っている。

 無為が僕の胸の上に乗ってきて、嬉しそうに喉をゴロゴロいわせているところで、目が覚めた。夢だったと知ってさびしく思っているうちに、また眠ってしまった。そして、同じ夢の続きを見た。無為はひどく太っていて、床の上に平べったく這いつくばると、まるで三毛模様の座布団のようだった。その背中を撫でているうちに、再び目が覚めた。

 立ち直れないくらい、寂しかった。

 ペットも含め、すごく近しく、そして大好きだった存在が、死んだ後に本当に幽霊となって現れたとしても、怖いと感じることはないのではないかと思った。そのまま、自然に共存していけそうな気がする。でもきっと、そんなことは、起こらない方がいいのだろう。

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2007年4月12日 (木)

シュガーなキムタク

 この2日間で、実にいろいろなことがあった。

 とりあえず昨日。映画監督のA氏と、某制作会社の人々と池袋でお会いする。どれもまったく具体化している話ではないので、今までは特に書かなかったのだが、実は、『シュガーな俺』を映像化したいという話が、すでに4社から来ている。A監督たちは、そのうちの一勢力というわけだ。

 A監督も含め、お会いした人たちが、僕よりひと回り前後歳上であるにもかかわらず、見た目も中身も非常に若々しいことに驚く。こういう業界の特徴なのだろうか。制作現場の今むかしをめぐる、臨場感溢れるエピソードの数々や、業界の裏話など、たいへん楽しませていただいた。

 それにしても愕然とさせられたのは、すでに完成しているにもかかわらず、公開されていない映画というものが、業界全体で300ほどもあるという事実だ。配給元が決まらないなどさまざまな理由があるようだが、関係者は本当に浮かばれない気持ちだろう。そう言えば、「映画化決定!」と帯に刷られていたはずなのに、その後その映画が公開されたという話を一向に聞かない、ということがときどきある。あれはもしかして……と思ったら、「それ、たぶんそうですよ」とのこと。

 しかし、公開されていないだけで、「映画化された」こと自体は事実なのだから、「不当表示」には当たらないだろう。だったら「シュガー」に関しても、「A監督、映画化を構想中!」と帯に入れてしまっても「嘘ではない」のではないか、とみんなで笑った。

 あくまで仮定の話だが、著者としては、主人公の片瀬喬一を誰に演じてもらいたいか、と訊かれ、(何人かの読者さんのご意見も踏まえつつ)「うーん、稲垣吾郎ですかねぇ。コミカルな役とかけっこううまいし」と答えたら、A監督が不意に真顔になって「いや、SMAPだったらキムタクでしょう!」。なにか、明瞭な確信をお持ちのようだ。考えてみもしなかったが、「糖尿病患者のキムタク」も、観てみたい気がする。意外に器用に演じてくれそうだ。

 しかしまあ、これも「獲らぬタヌキの……」である。まず映像化自体が実現してくれないことには。

 それと、今日。小学館の担当Mさんより連絡があり、書き下ろし『株式会社ハピネス計画』(仮)の刊行が、7月下旬に決定したという。そうすると、それと連動する「IKKI」での連載も、おのずと7月からスタートということになるだろうか。あまりのんびりはしていられない。

 あと、僕の短編『桃の向こう』が掲載された「野性時代」5月号が、今日、発売された。大学生の「痛い」恋愛を描いた作品だ。少し、『冥王星パーティ』とカブる要素があるかもしれない。

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2007年4月10日 (火)

しないわけにはいかない

 以前にもこのブログでちょこっと書いたことなのだが、僕は村上春樹の使う「〜しないわけにはいかない」が、多くの場合、なんだか胃の腑に落ちないのだ。用法として微妙に不適切な気がするのだ。「〜せざるをえない」の方がしっくり来るように思えるときもあれば、ここは「〜せずにはいられない」じゃないか、と感じるときもある。逐一実例を挙げるほどの時間的余裕もないので検証はナシにするが、かわりに、この3つの言い回しが、少なくとも僕にとってはどう違って聞こえるのか、という点についてだけ書いておこうと思う。

(1)〜しないわけにはいかない
 なんらかの、多くは義理や社会的文脈等の圧力により、それを避けることが居心地の悪さをもたらすような状況に対して使用する。たとえば、食事を済ませてからだれかの家を訪ねたのに、そこの家の人が来客にごちそうしようと腕によりをかけて手料理を用意してくれてしまっていたとき。食べないわけにはいかない。

(2)〜せざるをえない
 上記の「義理や社会的文脈等」にかぎらず、ほかに選択の余地がなくて、好むと好まざるとに関わらず、そうすることを避けて通れないような状況に対して使用する。たとえば、食事を済ませてからだれかの家を訪ねたのに、そこの家の人がキレやすい人で、その人に「俺の手料理が食えねえって言うのか。食うまで生きて返さねえぞ」と実弾のこめられたピストルの銃口を頭に押し当てられたとき。食べざるをえない。

(3)〜せずにはいられない
 外部からの圧力というよりは、内なる衝動によって、何がなんでもそれをしたいと切望するような状況に対して使用する。たとえば、食事をわざわざ一食分抜いておなかペコペコの状態でだれかの家を訪ねたのに、その家では1日中、「ルドイア星惑三第」の録画を流しっぱなしにしていて、大好きな天王星ららちゃんが画面にチラチラと映っている。食事なんかそっちのけで、観ずにはいられない。

 なお、「天王星らら」ちゃんはあくまで喩えである。この件について、角川書店のA氏と意見の交換をしているなどということは、決してない。

 話は戻るが、僕にはなんだか、村上春樹が上記(2)や(3)の場合もしばしば、「〜しないわけにはいかない」で統一してしまっているように思えてならないのである。思わずにはいられないのである。思わざるをえないのである。思わないわけにはいかないのである。

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2007年4月 9日 (月)

つけあわせることもなく

 都内某所にある宝くじ販売店の横を通りかかったとき、「当店から3億円が出ました!」という看板が目に止まった。同じような趣旨の看板は、ときどき別のところでも見かける。そのたびに、なんとなく疑問に思いつつ素通りしてしまっていたのだが、今、あらためて、その疑問が何であるかについて考えてみた。

 あれはいったい、プロモーションになっているのだろうか。

 近い過去にすでに3億円分の当たりくじが出てしまっているのだとしたら、近いうちにその同じ店から再びそんなビッグな当たりくじが出ることは、確率論的に言ってむしろありそうにないことなのではないか。それとも宝くじというのは、なにかそういうシステムに基づいて運営されているのだろうか。「そういう」というのはつまり、えーと、なにか、要するにそういう、なんというか、偏って配分されるというか、1度当たりが出たところからは出やすくなるような。

 いやもしかしたら僕は今、ものすごく世間知らずなことを言ってしまっているのかもしれない。なにしろ僕は、記憶しているかぎり、生まれてこのかた宝くじというものを買ったことがない人間なのだ。それというのも、買ったはいいがきっと当選番号が発表される頃には買ったこと自体を忘れてしまっていて、番号を突き合わせることもなく、数年後にゴミとなって発見されるであろうことが最初から目に見えているからだ。

 書店くじ、というのも、よく無駄にしてしまう。もらったときは、「覚えておこう」と一応思っているのだが、数ヶ月後、この、財布の中をパンパンにしている紙の束はいったい何なんだ、とイライラしながら抜き取った中に、へりの部分がたわんだり裂けたり汚れたりしている、とっくに発表になった(そして今ではもうその結果を辿れない)書店くじが何枚も出てくるという始末だ。そんなことを考え合わせても、やはり、僕のような人間は、宝くじは買わずにおくことが賢明だろう。

 ところで、これも前から疑問に思っていることなのだが、ときどき、「データをつけあわせる」と言う人がいる。しかし、あれはおかしいのではないか。データは「突き合わせる」ものなのではないのか。「つけあわせる」のは、野菜などなのではないか。つけあわせのデータにソースをからめてお召し上がりになればいいのか。その場合の「ソース」は、"sauce"ではなくて"source"なのか。
 
 

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2007年4月 8日 (日)

クリーニング屋での消耗

 衣替えのシーズンなので、近所のクリーニング屋が混んでいる。並ぶことを思うと、行く前から憂鬱で憂鬱で、クリーニングに出すものや、ついでにそのそばにあるリサイクルごみ回収ボックスに出すもの(ペットボトル、牛乳パック、発泡スチロールの食品トレイ)を紙袋にセットして、いつでも出ていける状態なのに、並ぶのがいやなばかりにぐすぐずと本を読んでみたりしてつい先延ばしにしてしまう。

 並ぶのがいやなのは、ひとつにはロケーションが悪いからだ。そのクリーニング屋は、マンションの隣のスーパーの出入り口に出店している。スーパーの出入り口は二重の自動ドアになっているのだが、そのドアの間に、横向きにカウンターがある状態なのだ。しかも狭い。

 だから、カウンターの前にはせいぜい2、3人しか並べず、その後に続こうとすると、カウンターの端から直角に伸びていくしかない。しかしそうすると、スーパーに出入りする人の通り道をモロに塞いでしまうことになる。それを避けるためには、通り道になる幅だけ空けて、出入り口スペースの(クリーニング屋のカウンターがある方とは)反対側の壁際で待機して、カウンター側に空きができた時点で初めてそちらに詰める、という方法を取るしかない。

 少なくとも、僕はそう思っているし、いつもその流儀に則っている。社会通念に照らして、僕はこのやり方が間違っているとは思わない。いや、(1)カウンターの前が狭い、(2)そのうしろはスーパーの客の通行の邪魔になる、という2点の条件を考慮するなら、ほかにいったいどういう手があるというのか。

 僕はそう考えているので、自分がクリーニング屋を利用する目的で、その、二重の自動ドアに挟まれた空間に入ったときには、必ず、カウンターの前以外に、つまり、反対側の壁際あたりに、なにかを待っている雰囲気の人がいないかどうか確認してから、どこに並ぶかを決定するようにしている。

 その人が、かさばる衣類を詰め込んだバッグらしきものを持っていれば、もう迷うまでもなくその人の後ろにつく。そういうものを持っていない場合でも、「受け取りのみ」という場合がある。迷うときは、「並んでらっしゃいますか?」とひとこと訊いてみる(ただ単に、買い物を終えて出てくる連れを待っているだけかもしれないから)。

 しかし、僕がいつもそうしているからと言って、ほかの誰もが同じようにしてくれるとはかぎらない。

 今日、僕がその魔のゾーンに入ったときは、ちょうど、カウンター側にすでに3人並んでいたため、反対側の壁際で待機せざるをえない状況だった。そうして数分立っていたら、スーパーの中から、ショッピングカートを持った比較的若い奥さんという感じの女性が出てきて、そこで立ち止まった。彼女は僕を上から下まで見て、それから意を決したように、ポケットから受け取りの半券を取り出しながら、通行の邪魔になる位置に平然とカートを据えて、クリーニング屋の列に並んだ。

 ちなみに僕はそのとき、ワイシャツやスーツでパンパンに膨らんだ紙袋を提げていた。その僕の姿を見ていながら、どうして彼女は、「この人は違うだろう」という判断に到ったのか。ハナからそうした意識がないなら、まだしかたがないと思う(どっちみち頭には来るけど)。しかし彼女は、はっきりと僕を上から下まで見たではないか。パンパンの紙袋だって、視界に入らないはずがないではないか。

「あの、すみません、並んでたんですけど」と笑顔で(※意図どおり「笑顔」と受け取られたかどうかはともかく)言ったら、彼女はすぐに「あっ」と言って順番を譲ってくれたので、わかっていて割り込んだわけではないのだろう。

 少し考えてから、僕は理解した。彼女には、そこに並ぶと通行の邪魔になるかもしれない、という発想がないのだ。だから平気でそこにカートを据えることもできたし、逆に僕が反対側の壁際に立っているのはそれを避けるためなのだと考えることができなかったのだ。その結果、「この人はいかにもクリーニング屋に来たっぽい荷物を手にしているけど、並んでいるわけではなさそうだから、奥さんを待ってでもいるのだろう」と考えたのだろう。

 しかしそれでは、もしも彼女が、カートと体で通行の邪魔をされる立場だったとしたら、どう感じたのだろうか。そういう人は、それを「邪魔だ」と感じないのだろうか。

 などということをつらつら考えて消耗しながらも、投票にはちゃんと行ってきた。しかしその結果は、僕にとって、きわめて残念なものだった。No need to ask the reason why.(John Lennon)

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2007年4月 7日 (土)

スパゲッティを茹でる

 村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。ずっと前に読んだ気になっていたのだが、どうも読んでいないような気がして、第1部を読んでみたら、途中までは覚えがあったが、途中からまったく記憶がないので、やはり、少なくとも読み切ってはいなかったようだ。

 そして僕は、この人の作品を読むたびにいつも、相反する2つの気持ちを同時に感じる。ひとつは、ああ、やっぱりこの人はすごいな、好きだな、という気持ち。そしてもうひとつは、この人の作品のある部分が自分は大嫌いなのだ、という気持ちだ。

 しかし、何が大嫌いなのかを、うまく言葉にすることができない。主人公がしょっちゅうスパゲッティを茹でてることとか、ビールを飲んでることとかもなんだかイライラするのだけど、それだけではない。強いて言えば、彼(村上春樹の主人公は、結局、毎回同一人物だと僕は思っている)がいつもなんらかの意味で「当事者であることから逃げている」その感じが気に食わないのだろうか。しかしたぶん、だからこそ、村上作品はこれだけの支持を得ているのだろう。読者側がそのことを自覚しているかどうかは別にして。

 なんだか疲れてしまって、ほぼ1日中、何もできなかった。……といったことを、なんだかしょっちゅう書いている気がするが、やるときはやっているのだ。たぶん、もともと体力があまりないので、テンションを持続的に高い状態に置いておくことができないのだろう。

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2007年4月 5日 (木)

現金な黒猫

 月曜日に高田馬場の戸山公園でさささやかな花見をした。途中で、器量よしな黒猫が警戒しながら近づいてきた。2年前に同じ戸山公園のたぶん同じベンチで花見をしたとき、近寄ってきた黒猫に似ている。しかし、同じ猫だとしたら、サイズが小さすぎる気がする。しかも2年前に見かけた黒猫は、あきらかに孕んでいた。もしかして、あのときの猫の子だろうか。僕の経験から言うと、黒猫は必ず黒猫を産む。何匹か産んだ仔猫のうちの1匹は必ず黒猫なのだ。

 ビールのつまみとしてコンビニで買ってきた焼鳥はすでに食べてしまっていたので、おでんの具を小さくちぎって放ってみた。猫にとって特に興味のないはずのちくわぶ(炭水化物)でも、だしの匂いにつられるのか、けっこう食べている。玉子をちぎってやると、もっと喜ぶ。だんだん近づいてきて、警戒しなくなった。抱き上げて膝の上に乗せると、そのまま下りずに、焼鳥が刺さっていた串に鼻を近づけてクンクン匂いをかいだりしている。

 去年の11月に愛猫の無為を亡くして以来、リアル猫にリアルに触れるのは、考えてみれば初めてだ。僕は嬉しくってたまらなくて、何度も何度もその背中や頭を撫でてしまった。毛並みがいいので、どこかの飼い猫か、あるいは戸山公園周辺に棲息する地域猫なのだろうか。

 と思っていたら、その猫は突然、僕たちに向かってひと声、「にゃっ!」と鋭い声で鳴くなり、僕の膝から飛び降りて、50mほど先にある別のベンチに向かってまっしぐらに駆け寄っていった。見ると、ベンチには帽子をかぶったおじさんがいる。そのおじさんに対しては最初からまったく警戒していないようなので、もしかしたら地域飼い主の1人なのかもしれない。黒猫は、おじさんからもなにかをもらって嬉しそうにしていた。

 そうすると、最後のあの「にゃっ!」というひと声は、あえて日本語に翻訳するなら何だったのだろうか。

(1)ありがとう。もう行くね!
(2)おじさんが来たから、あっちに行くよ!
(3)おじさんが来たから、あんたらもういいや!
(4)てめーらろくなもんくんねーからつまんねーってんだよ! あっち行くぞゴルァ!

 ああ、(1)であってほしい。せめて、(2)であってほしい。しかし、真意は何であるにせよ、何も言わずに去ってしまうよりは感心だと言っていいのではないか。一応、挨拶らしきものを残して去ったのだから。

 その後まもなく、おじさんは去り、黒猫は、たまたま通りかかった若いカップルに対してしなを作っていた。なかなかたくましい、というか、現金な猫だ。そして、自分が可愛いということを十分に自覚したふるまいをしている。ように見えた。

『忘れないと誓った僕がいた』に、8ヶ月ぶりに増刷がかかった。じわじわと売れつづけているらしい。結局、僕はそういうタイプの作家なのかもしれない。実業之日本社向け書き下ろしのプロットについては、基本的にOKが出た。もう、書きはじめてしまってかまわない状態だ。しかし、今、そういう作品がいくつも並行している。時間をうまく配分しなければ。

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2007年4月 4日 (水)

老いてなお

 昨日は昨日で書きたいことがあったのだが、あまりに遠くて忘れてしまったよ(沢田研二)……ではなくて、たまたまココログがメンテ中だったので書けず、かわりに今日書こうと思っていたが、結局あまりに遠くて忘れてしまった。

 今日は新宿で飲んでおり、2軒目に入った店でもっぱらシングルモルト系のウィスキーを矢継ぎ早に頼んでいたのだが、バーテンさんの1人がたいへん若い人で、なんだか僕に対して非常に愛想がいい。その愛想のよさが、なんとなく怪しい感じだ。

 店を出てから、連れの女友達に、「彼はゲイじゃないだろうか」と言ってみたところ、

「そう思いました! っていうか、彼、平山さんのこと好きですよね。つうか、あの男、私のこと完ムシしてたんですけど! コースターの置き方も“バンッ”って感じで、私に対してはすっげーぞんざいだったんですよ。“おまえ帰れ”って感じで。私、一応、女なのに、私のこと完ムシで男の平山さんにラブかよって思って、正直ちょっとムカついてました。つうか、女として軽くヘコんだっていうか」

 昔からわりとそっちの人に好かれやすいきらいはあったのだが、40歳近くなった今でもまだそんなことがあるとは。なんというか、ちょっと嬉しいような、複雑な気分だ。

 あ、昨日書こうと思っていたことを思い出した。しかしもう遅い。もうなにもかもが遅すぎる。

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2007年4月 1日 (日)

不機嫌な花見

Photo_5

 近所の都立公園に花見に行った。あまりの陽気にもう葉桜状態だが、白っぽい花びらの間に点々と若葉の緑が混ざっている感じが、僕は決して嫌いではない。そんなわけで、あえてもうすっかり若葉状態の柳と並んでいるところを撮った。

 花見と言えば、新卒で入った会社(現存せず)で、入社して間もない頃に、突然、「よしっ、花見行くぞ!」と先輩社員に声をかけられて、新人たち一同、千鳥ケ淵に連れて行かれたことがある。混み合った中をざっと一巡すると、先輩は「よしっ、飲みに行くぞ!」と言って僕たちをそのまま居酒屋に連行した。

 その間、たぶん僕は、ものすごく不機嫌そうな仏頂面でひたすら押し黙っていた、と思う。なぜなら当時の僕は一種の原理主義者で、「定時を1分でも過ぎたらそれはもうプライベートな時間」であり、「いかなる理由ありとも会社のためにその時間を割くいわれはない」という堅い信念を持っていたからだ。前もってわかっていればまだ覚悟のしようもあったが、当日の6時(定時)近くになっていきなり宣告され、有無も言わさずに拉致されたのが腹立たしくてならなかったのだ。

 しかし今は、もう少し大人としてふるまえなかったかな、と反省している。先輩はあくまで、善意でそうしてくれたわけだ。新人たちのお目付け役的な役割を仰せつかっていたし、たぶん、「今日が満開」とその日になって知って、急遽「あいつらを連れていってやろう」と思い立ったのだろう。

 考えてみれば、たとえば私的な友人関係において、だれかが善意でしてくれたことが、実は微妙にアダになっているようなことはよくある。しかしだからと言って人は、不機嫌に黙り込んだりはしないものなのではないだろうか。善意に基づくものなのだとわかっていれば、結果に対してではなく、その善意に対する感謝の気持ちから、にこやかにやりすごそうとするだろう。

 会社という空間においてだって、本質的にはそれと同じ構造があるはずなのだ。結局、最終的には個人対個人の関係に還元できるわけだし。……と考えられるようになった僕は、新卒時代よりは少しはオトナになったようではあるが、この歳になると、そうやって上からなにかを「強制」されることもなくなってくる。だから局外者の立場に立ってものが言えるだけなのかもしれない、と思わないでもない。

 実業之日本社向け書き下ろしのプロットがほぼまとまった。あとは、付録としてつけるために本文のサンプルをいくらか書いておこう。僕の場合、それがないと、往々にして作品のよさをわかってもらえないからだ。

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