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2007年4月10日 (火)

しないわけにはいかない

 以前にもこのブログでちょこっと書いたことなのだが、僕は村上春樹の使う「〜しないわけにはいかない」が、多くの場合、なんだか胃の腑に落ちないのだ。用法として微妙に不適切な気がするのだ。「〜せざるをえない」の方がしっくり来るように思えるときもあれば、ここは「〜せずにはいられない」じゃないか、と感じるときもある。逐一実例を挙げるほどの時間的余裕もないので検証はナシにするが、かわりに、この3つの言い回しが、少なくとも僕にとってはどう違って聞こえるのか、という点についてだけ書いておこうと思う。

(1)〜しないわけにはいかない
 なんらかの、多くは義理や社会的文脈等の圧力により、それを避けることが居心地の悪さをもたらすような状況に対して使用する。たとえば、食事を済ませてからだれかの家を訪ねたのに、そこの家の人が来客にごちそうしようと腕によりをかけて手料理を用意してくれてしまっていたとき。食べないわけにはいかない。

(2)〜せざるをえない
 上記の「義理や社会的文脈等」にかぎらず、ほかに選択の余地がなくて、好むと好まざるとに関わらず、そうすることを避けて通れないような状況に対して使用する。たとえば、食事を済ませてからだれかの家を訪ねたのに、そこの家の人がキレやすい人で、その人に「俺の手料理が食えねえって言うのか。食うまで生きて返さねえぞ」と実弾のこめられたピストルの銃口を頭に押し当てられたとき。食べざるをえない。

(3)〜せずにはいられない
 外部からの圧力というよりは、内なる衝動によって、何がなんでもそれをしたいと切望するような状況に対して使用する。たとえば、食事をわざわざ一食分抜いておなかペコペコの状態でだれかの家を訪ねたのに、その家では1日中、「ルドイア星惑三第」の録画を流しっぱなしにしていて、大好きな天王星ららちゃんが画面にチラチラと映っている。食事なんかそっちのけで、観ずにはいられない。

 なお、「天王星らら」ちゃんはあくまで喩えである。この件について、角川書店のA氏と意見の交換をしているなどということは、決してない。

 話は戻るが、僕にはなんだか、村上春樹が上記(2)や(3)の場合もしばしば、「〜しないわけにはいかない」で統一してしまっているように思えてならないのである。思わずにはいられないのである。思わざるをえないのである。思わないわけにはいかないのである。

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コメント

確かに本を読んでると、その作家の言い回しが腑に落ちないことってありますねー。私の場合、特に「てにをは」の感覚が合わない小説はどんなにストーリーが面白くても2度と読み返せません。ストレスがたまってしまうんで。

まあ、こういうのは個々人の感覚にも依りますし、文脈も分からないので、ズレたコメントになってしまうかもしれませんが、今回の表現から私が受ける語感としては、(2)を(1)で言うと一歩引いた印象、(3)を(1)で言うと必要以上に意味を強めた印象を受け、
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私の想像↓
――店頭で
「この服を買わないわけにはいかないのよ」
(素直に「どーしても欲しい」って言え的表現)
――銃をつきつけられて
「まあそういうことなら従わないわけにはいかないかなあ」
(そんな悠長に構えてる場合じゃないでしょ的表現)
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ゆえに、ひょっとしてユーモアを込めた言い回しを意図したんでは…と憶測してみたのですがどうでしょう。

投稿: dahlia | 2007年4月11日 (水) 01時09分

 ということは村上春樹は、①義理や社会通念と、②もっと不条理な抑圧と、③自分の説明できない衝動とを、本質的に同じものだと考えてるのでしょうか。
 それはクールで格好良い達観に見えて、そして実は格好だけで中身がなさそうでもあり、でも中身なんてないという主張でもあるから矛盾はなさそうな立場に見え、なんか彼の小説から受ける感じと一致します。
 これは悪口ではなく、自分がそんな気分の時に読むと彼の小説はとても心地いいです。

 『冥王星パーティー』読みました。面白かったです。大好きな『ラス・マンチャス通信』とまったく違う描き方で、同じテーマを扱われているように私には読めました。
 端的に言うと、現実との折り合いの悪さ、ということになるのでしょうか。
 それを不条理なまでの悪意に満ちた世界(~せざるを得ない世界)という形で描かれた『ラス・マンチャス通信』も好きでしたが、それをリアルな現代に落とし込んだ『冥王星パーティー』で描かれる、世界のデザインの悪さは、読んでいて本当に切なくなります。

 いつも平山さんの作品は夜を徹して一気に読んでしまいます。面白さももちろんですが、どんなものを描かれても変わらない「読みやすさ」にいつも驚きます。
 昔は、「読みやすい作品なんて読み手の想像の域を逸脱しない駄作だ」くらいに思っていたのですが、そうではないことが分かりました。

 長々失礼いたしました。次回作を期待しています。

投稿: のびた | 2007年4月11日 (水) 01時21分

> dahliaさん
あはははは、おもしろいです! なんだか、そういうニュアンスで「〜しないわけにはいかない」を使うと、それ自体がきわめて村上春樹的な気がします。おそらく、実際にそういう使い方をしている場合もあるんじゃないかと思われます。ただ、それだったら文脈上そういう受け取り方をして、結果として気にならないと思うので、僕が気になるのはそういう用法以外の部分なんでしょうね。
まあ、おっしゃるとおり、最終的には個人の感覚なんですけどね。「てにをは」が合わない、というその感じも、よくわかりますよ。そういうのを最後まで読み通すのは、苦痛以外のなにものでもないですよね。

> のびたさん
「①義理や社会通念と、②もっと不条理な抑圧と、③自分の説明できない衝動とを、本質的に同じものだと考えてる」……素晴らしい仮説です。非常に納得できます! いや、僕も悪口として同意しているのではなくて、それこそが村上作品の本質なのかもしれないと。いや、僕が今、文学部の学生だったら、そういう切り口で村上春樹論を書きますよ(笑)。

さて、「冥王星」、読んでくださってありがとうございます。「ラスマン」とのそうした比較は、ほかの人からもときどきされるのですが、著者としては、「ああ、この人はわかってくれている!」ととても嬉しくなります。装いはまったく違いますが、たしかにそうですね、「現実との折り合い」の問題が焦点かと。でも、だからこそ、人生は生きるに値するのでしょう。ってなんか大げさな話になっちゃってますが。
「読みやすさ」についての(昔の)ご意見ですが、僕も昔はそう思ってました。ただ、「読みにくく」書くのってなんだか消耗するので(笑)、結果としてこういうスタイルになったってとこでしょうか。

投稿: 平山瑞穂 | 2007年4月11日 (水) 02時01分

皆さんのコメントを拝見すると、とてもわかりやすいですね。わたしですと、村上春樹はいわゆる「分裂気質」らしいということで、それで外界(世界)そのものに違和感を抱いている、居心地が悪い、ゆえに何かするときは「~させられる」「~しないわけにはいかない」というように感じるのだと思っていました。

投稿: ダレカ | 2007年4月11日 (水) 03時44分

おはようございまーす。
今日は、すでに起きて、朝からカレーを作っていまーす。(^-^)
この前、テレビでおいしいカレーの作り方をやっていて
それが、カレールーの箱の裏に書かれた分量とやり方をきっちり守ること・・・
というものだったので、そうゆうものなのかぁ・・・とあらためて
作ってみているところです。(汗

ところで、今回の日記、すごくおかしくって噴出してしまいました。(笑
なるほどなぁって。春樹さんの言葉遣いって独特なものがありますよね。
一時期、春樹さんの小説によく出てくる「やれやれ」という
言葉を使うのが自分の中ではやっていたんでですが
周りの誰も「やれやれ」なんて使わないものだなぁ・・・とあらためて思いました。
心の中では、使うのかもしれないけれど。
では、今日も一日、平山さんもお仕事がんばってくださいねー。応援してます!

投稿: 果歩 | 2007年4月11日 (水) 05時12分

> ダレカさん
分裂気質!(笑) いや、たしかに、そう考えるといろいろツジツマが合ってしまいますね。先日の「性的虐待」にせよ、ダレカさんの切り口は斬新でハッとさせられます。しかし、「世界への違和感」ってまるで「ラスマン」ですね。まあ実際、あれも風野先生(もう1人の春樹)には早い段階でそういう指摘をされてましたけど。

> 果歩さん
朝からカレー……お元気ですね(笑)。しかし「分量をきちんと守る」ってけっこう難しいですよね。箱の裏に書いてあるのって「10人前」とかじゃないですか。実際はその半分とか25%しか作らなかったりするので、具材などはどうしても「キリのいいところ」にしてしまいがちだし。

ところで、「やれやれ」は、このブログでもたしか一種のギャグとして使ったことがあると思います。「やれやれ(村上春樹)」みたいに。あと、春樹で目立つのは、「オーケー、わかった」ですね。「オーケー、おいしいカレーを作るには分量を守ること。それはわかったよ。でも、ライスの部分はどうすればいいのかな。僕はまだあなたにそれを教えてもらっていないと思う」とか。

投稿: 平山瑞穂 | 2007年4月11日 (水) 17時46分

さすが、作家ですね!
私は村上春樹はほとんど読んだにもかかわらず、そういった点は全然気にしたことがありませんでした。
一種独特な言い回しが多いので、その言い回しは”そういうもの”として受け取っていたのかもしれません。というと、かっこいいけど、ただ単に読み過ごしてただけなのか。

投稿: | 2007年4月12日 (木) 00時14分

いや、香さんもきっと、個別に反応してはいなくても、「春樹っぽいな」とは感じながら読んでこられたはずだと思います。そういう意味で、「文体のある」作家なんですよね、彼は。僕自身は、あまりそういうのがないような気がします。ない方へ、ない方へと向かっているというか。……と自分では思ってるだけで、実際には頻出する独特の言い回しとかあるんだろうと思いますけどね。

投稿: 平山瑞穂 | 2007年4月12日 (木) 19時28分

センセイの場合は、「本質的」というのが頻出単語ですね。でてくると、「ああ、センセイだな~」と思います。もしかして、どの作品でも必ず出てきているかも?

投稿: ダレカ | 2007年4月13日 (金) 00時48分

さすがダレカさん……。そのとおりです、それは頻出単語です。意識して使っていたわけではないのですが、言われてみるとはっきりと自覚があります。いや、ほぼ間違いありません、おそらく、少なくとも長篇作品においては必ず使っているでしょう。「本質的に」、僕はその語が好きなのですよ(笑)。
ちなみに「本質的に」を逐語的に韓国語に直すと「ポンジルチョグロ」になるんですが、普通にそういう言い方をするのか、またするとして、日本語でそう言うときとニュアンスも変わらないのか、ということが気になって、僕の作品を韓訳してくれているキムさんにわざわざ確認したことまであるほどなのです(日本語とほぼ同じ意味合いだそうです)。

投稿: 平山瑞穂 | 2007年4月13日 (金) 01時22分

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