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2007年5月30日 (水)

セクシーな腹踊り

 今日は、原宿のある店で、チュニジア料理を食べ、チュニジアワインを飲みながら、ベリーダンスを観た。へそ出しのコスチュームで腰をクネクネさせて踊る、あのベリーダンスだ。ベリーダンスってのは"belly dance"ってことで、直訳すれば「腹ダンス」だが(「腹踊り」? そりゃ昔のサラリーマンの宴会ネタだ)、現地では「ラックスアラビー」(アラビアの踊り)と呼ぶそうだ。セクシーだった。

 踊り手さんたちは全員(たぶん)日本人なのだが、日本人には見えなかった。 ヘソ出しのアラビアンナイト風衣装のせいかと思っていたが、ステージが終わって遅い時間に空いているテーブルで「まかない食」を食べている私服の彼女たちを見ていても、やはり、日本人離れしていた。もしかしたら、遠い祖先にあっちの血が入っていて、だからそういう踊りに心惹かれたりするんじゃないか、という仮説を弄びつつ、グラッパによく似た食後酒を飲んでいた(しかし、名前を思い出せない)。

 一緒に行った連れから、「山崎」12年もののボトルをいただいた。もともと彼女の実家にあったもらいものを彼女が譲り受けたものだが、ウィスキーを飲みつけないので、開封してひとくち飲んだだけで放置してあったという。飲まないのなら譲ってほしいと言ったら、わざわざ持ってきてくれたのだ。

 開封したのは5年ほど前だという。今ちょっと舐めてみたところ、別にとりたてて質が劣化しているようにも思えないのだが、正直、これが正しい「山崎」の味なのかどうか、確信が持てない。なにしろ僕が「山崎」を飲むのは、ほぼ、泥酔してカラオケの「パセラ」に入り、そんなに酔っぱらっていても貫徹できるほぼ唯一の(デフォルトの)注文として「山崎・ダブル・ロック」をたてつづけに頼むときに限られているからだ。

 ちなみに先週の金曜日、僕は新大久保駅前の韓国料理屋でマッコリをしこたま(1人1甕計算)食らった後、池袋の「パセラ」に入って、推定1時間半、たぶん「山崎・ダブル・ロック」をリモコンで注文しながら過ごしたらしいが、そして、一緒にいた人の話によれば、トシちゃんとかマッチとか少年隊とか、往年のジャニーズ・ナンバーをノリノリで歌い倒したらしいが、その間の記憶がまったくない。誇張ではなく、もう、文字どおりまったく覚えていないのだ。恐ろしい。恐ろしい。

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2007年5月29日 (火)

パリ風スパムライス

 妻が一昨日、昨日の夕食のためにあさりを買ってあったのだが、昨日は諸般の事情で夜が外食になってしまい、あさりを消費することができなかった。もったとしてもたぶんギリギリ今日まで、しかし今日は妻の方が遅くなるので、僕が使わないとムダになる。だったら今日は、自分1人のためにあさりのワイン蒸しでも作ろうと思った。

 それで会社帰りにデパ地下に寄って白ワインをゲットし、帰ろうと思ったところ、先日、まずいウインナー缶を購入した売り場の前を通りかかり、ついスパム缶を買ってしまった。このブログで、そのウィンナー缶と並び称すべき存在としてスパム缶について言及したら、何人かの読者の方々から思わぬ「スパム擁護」の論陣を張られてしまったのを、なんとなく頭の片隅で意識していたのだ。

 そんなわけで今日は、ニンニクをきかせたあさりのワイン蒸しとサラダにスパムライス、という不思議な夕食になった。スパムライスというのは、僕が勝手に名づけた。要するに、あったかいごはんの上に、薄切りにして油を引かないフライパンで軽くあぶったスパムを乗せただけの代物である。「スパムにぎり」がうまいというご意見も頂戴しているが、あったかいご飯と相性がいいとも聞いていたので、さしあたってそっちを試してみたわけだ。

 うまい。単体で酒のツマミ風に食べると塩気が強すぎるが、ごはんと一緒に食べるとそれがほどよく中和されるし、脂っこさも気にならない。「ジャンクな感じ」は否めないが、ハナからそういうものだと思って食べればそれもまたよい。ただ、ワイン蒸しのために買った白ワインの残りもついでにグラスでちょっと飲んだので、トータルとして見た場合、かなり異様な食卓になっていただろうと思う。ああ、画像を撮っておけばよかった(僕にはどうもその手のマメさがなくて、そのせいでこのブログはほぼいつもテキストで黒々とした圧迫感のある見かけになってしまっているのだ)。

 しかし、それでふと思い出したのは、パリでときどき見かける、焼鳥などを食べさせる庶民的な日本料理店の話だ。数年前にパリに旅行に行ったとき、何度か街なかで見かけていながら僕自身はついに入らなかったのだが、パリ通のある知人が言うには、そういう店に入ると、「焼鳥定食」を注文した現地の人が、当然のように串から鳥肉を全部引き抜き、ライスの上に乗せて、たれと混ぜ合わせながら食べているのだという。

 そういう食べ方は、日本人から見れば奇異だが、東南アジアではけっこう普通な気がする。タイ料理店でもミャンマー料理店でも、よくそうやって、調理した肉類をごはんにかけて食べる形式の料理を見かける。考えてみればフランスは、ベトナムの旧宗主国だ。もしかしたら、ベトナム料理からの連想で、彼らは焼鳥定食をそのような形で食べるのかもしれない。

 その話を聞いた後、実はちょっとうらやましくなって、一度、自分でそれを試してみたことがある。近所の屋台でおじさんが売っている焼鳥を何串か買ってきて、平たい皿の上によそったごはんの上に、串から外した鳥肉を散らし、全体にたれをかけて食べてみたのだ。うまかった。焼鳥のこんな楽しみ方があったのか、と目からウロコの落ちる思いだった。

 今日のスパムライスは、それの応用だったとも言える。これで汁気があったら、もっといいのかもしれない。スバムはまだ大量に残っており、そして妻はおそらくまったく興味を示さないので、残りでいろいろ試行錯誤してみようかと思う。

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2007年5月27日 (日)

おろそかにできない部分

 実業之日本社「ジェイ・ノベル」向けの短編の手直しと、新潮社での次回作向けプロット作成で1日が終わる。毎回思うことだが、仕込み、つまり、何をいかに書くべきかを考え、執筆可能な形にブレイクダウンしていく過程が、いちばんキツい。そしてこの2ヶ月ほどは、いろんなものの「仕込み」に追われる毎日だった。未来への投資のつもりで頑張ったが、ボロ切れのように疲れ切ってしまってもいる。

 ところで、そのプロット作成の過程で、物語の主要な舞台となるある企業の名称を決めておこうと思い、業種からもっともらしい名前を考えてみたのだが、実在していたらマズいと思ってネットで検索したら、みごとに実在していた。都内某所にある有限会社のようだ。

 そこで、社名の一部だけすげかえて検索してみたら、それも実在している。社名ではなく、商品名だが、それでも使用は躊躇されるので、さらに一部をさしかえてみたところ、それもやはり、広島県の株式会社として実在していた。4度目にやっと、どうやら固有名詞としては存在していなさそうな社名を「発明」することができた。それはどうもイマイチな感じの社名なのだが、この際、しかたがない。

 まあ、3つ目までそれぞれ実在していたということは、その業種の社名としてふさわしい、いかにもありそうなものを自分が外さずに狙いえていたということでもあり、そこに慰めを見出せなくもないのだが、ほかのあらゆる仕事と同じく、小説執筆もまた「結果がすべて」なのであって、使えないアイテムならいくら編み出しても意味がないのだ。

 そして、小説執筆の陰には、ストーリーを考えたりすること以外にも、このような地道な努力が山のようにあるのだということを、たぶん多くの人は知らないだろう。作中に出てくる社名など枝葉末節であって、そこに特別な関心を払う読者などまずいないであろうからだ。

 しかし、だから社名など適当でいいのだ、ということには決してならない。そこをおろそかにしてしまったら、それはきっと、読者にバレる。要するにそれは、「もっともらしくなっていてあたりまえ」の部分なのだ。もっとらしいものになっていれば、「スルー」されるだけで、誰の注意を引くこともないだろうが、そのかわり、「こんなのありえないよ」とツッコミを入れられることもない。しかし、いかにもとってつけたような、あるいは無理のある名前だと、読者はそこに変に気を取られてしまい、最終的にはそれが、「この作品は作りがチャチだ」という評価に結びついてしまうかもしれないのだ。

 読者に安心して作品世界に浸ってもらうことのできる「本当らしさ」というものは、結局のところ、そうした細部の積み上げによってしか醸すことのできないものだと僕は思っている。そしてその作業が、僕は決して嫌いではない。嫌いではないのだが、消耗することに変わりはないのだ。

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2007年5月26日 (土)

知らないことは

 煙草を買ってくるけどついでになにか欲しいものはあるかと妻に訊いたら、「水」と答える。近所のスーパーで、専用の2ℓ入り容器に無料でミネラルウォーターをもらえるのだ。しかしその作業は僕にとってものすごく憂鬱なものなので、いかにも憂鬱そうな顔で黙り込んでいたら、「あ、いやならいいよ」と笑って許してくれた。

 何が憂鬱なのかというと、そのスーパーはマンションの前の国道の向かい側にあり、そこの信号の切り替わりがものすごく遅いので、行って帰ってくるのがなんだかものすごく面倒くさいのだ。もうひとつは、日ごろ水をもらってくるのはほぼ妻の役目で、僕自身はめったにその機械を使わないので、使い方が頭に入っておらず、たまの機会があるたびに、書いてある操作方法を見ながらおぼつかない手つきでもたもたとボトルをセットしたり洗浄したりすることになる。それがイヤなのだ。うしろに人が控えていたりすると、もっとイヤだ。

 しかし、妻になにかしら弁明をしなければと思って、「まず、道を渡らなくちゃいけないのがイヤだ」と理由を説明しはじめたら、「こっち側にあるじゃない」と言う。実はそのスーパーは、国道のこっち側と向こう側の両方にある。向こう側の店舗が後からできたのだ。水を無料でくれるサービスは、当初、そっちの新しい方の店にしかなかった。それがいつのまにか、こっち側の古い方の店でも始まっていたらしい。「え、いつからそのようなの?」と、動揺のあまりちょっとおかしな日本語で妻に訊ねると、

「いつからって、もうずいぶん前からだよ」
「どこにあるの?」
「ケーキ屋さん側の出口のあたり」
「ははー」
「もしかして、あの出口使わないの?」
「うん、その習慣がなかった。だから今までまったく気づいてなかった」

 道を渡らなくていいのなら、それだけでも負担感がだいぶ減ぜられる。それに、煙草はどっちみち、そのスーパーの中にある自販機で買うつもりだったから、結局、水ももらってくることにした。そんなかんたんなミッションも果たせないようだと、夫の名が廃るからだ。案の定、まずあるボタンを押さないと、注水口のあるスペースのドアが解錠されないことがわからず、機械の前でオタオタしてしまったりしたが、無事ミッションは達成。これからはもっと頻繁に自分でも利用して、操作に慣れようと思う。

 それにしても、「ケーキ屋さん側の出口」をそんなに長い間使っていなかったのは驚きだ。いや、たぶん、ときどきは使っていたはずだ。しかし僕は、そこに給水機があることに気づいていなかったのだ。なぜ気づいていなかったのかというと、その事実を知らなかったからだ。僕は、知らないことには気づくことができない人間なのだ。

 小学館「きらら」での、書店員さんたちとの対談記事の原稿をチェックする。本当は、ほかにもいろいろやらなければならないことがあるのだが、なんだか風邪っぽくてダルい。今日はもう少ししたら寝ることにしよう(努力目標)。

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2007年5月24日 (木)

過ぎ去りし時代の愛機

 燃えないゴミをまとめて、マンション共用のゴミ部屋(本当は何と呼ぶのか知らない。部外者が立ち入らないように施錠した部屋状になっているのでこう呼ぶ)に捨ててくる。

 独身時代に僕が買って、とっくに使わなくなっていた古いVHSのビデオデッキも一緒に捨てる。新卒で入ったパソコンソフトの会社を1年3ヶ月で辞める直前に、自由になるお金があるうちにという思いで買ったものだ。たしか2万円強で、並み居る機種に比べれば格段に安かったが、それでも当時の僕にはかなり思い切った出費だった。幸いなことにそのデッキはたいへん性能がよく、録画もきれいだったし、一時停止ボタンを押すとまるでデジタル画像のように鮮明な静止画をキープしてくれた。

 安かったのは、ソニーやパナソニックじゃなかったからだ。とにかく録画と再生ができて、なるべく安いものであれば、あとはぜいたくを言わないという方針で選んだ。聞いたことのないメーカーだったが、買ってからふと気になって「四季報」で調べてみたら(まだネットなどない時代だ)、ちゃんと東証一部に上場している。ただ、販売拠点がどうやら東南アジアやアメリカなど海外にあるらしく、国内ではほとんど知られていないようだった。実際、その後、そのメーカーの名を口にしても、たいていの人は「知らない」と答えた。

 安くても、日本では無名のメーカーでも、僕はこのデッキをとても気に入っていたし、愛用していた。しかも、いつまでも快適に使える。使いはじめて1年もするとなぜかどこかしらに不調がでてきて、修理に出してもまたすぐに別の問題が発生し、そのうち「買い替えた方が安上がりだ」という結論に至ってしまう一連の有名メーカー商品などより、よっぽど優秀(あるいは良心的?)だ。

 だからこのデッキには愛着があって、その後DVDつきの新しいものを買っても、なかなか捨てる気になれずにいた。最近、ハードディスクレコーダーつきのものを手に入れたので、やっと、もう処分しようという気持ちになれたのだ。ゴミ部屋の「燃えないゴミ」のコーナーに置いたとき、ちょっとせつなくなった。自由になるお金が乏しい中で、数奇な運命のもとにめぐり会った愛機。今まで、よく働いてくれてありがとう。お疲れさま。

 部屋に戻ってから、そのメーカーについての認識が間違っていなかったかどうか裏を取ろうと思って、たまたま手元にあった2006〜07年度版の「四季報」をひもといてみたが、なぜか索引にその社号が見当たらない。この十何年の間に社名変更したのだろうか。そう疑いながらネットで検索してみたら……。

 [PDF]シントム株式会社に対する債権の取立不能のおそれに関するお知らせ

 ああ、そんな……。そう、そのメーカーとは、「シントム」だった。2002年9月に上場廃止となり、2006年に破産してしまっていたらしい。まったく知らなかった。あんなに優秀なデッキを、あんなに良心的な値段で売ってくれるいい会社だったのに……。愛機を手放すこととあいまって、せつなさがいやましに高まってしまった。まちがいなく、ここでもひとつの時代が終わりを告げたのだ。

 このことをブログに書こうと思った時点で初めて、愛機の画像を撮っておくのだったと悔やんだ。今からゴミ部屋に舞い戻って、袋の口を開けてデッキだけ取り出し、画像を撮ってくる気持ちにはさすがになれない。それでも僕は、あの優秀なデッキと「シントム」の名を、決して忘れないだろう。

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2007年5月23日 (水)

楽しんだ代金

Wiener

 ワインのおともにチーズでも、と思ってシェーブルやら白カビチーズやらを物色しているとき、たまたま近くの棚にあったこれが目に止まり、なぜか抗いがたい衝動を感じてつい一緒に買ってしまった。

 見るからにまずそうである。

 パッケージからしてだいたい想像はついていたのだが、蓋を開けてみると、なんというのか、パテ状にすりつぶしたなにかの肉(なんの?)を押し固めて、指のような形に成型した上でザクザクと切断したようなものが入っていて、黄色っぽい脂ぎった汁にほぼ上まで浸っている。しかもそれが、垂直に隙間なく並んでいるので、取り出すのに難儀する。とにかくどれか1本を力ずくで引き抜こうとすると、柔らかいのですぐにボロボロと崩れてしまう。缶から取り出すためには、必ずどれか1本が犠牲になるようにできているらしい。

 ウィンナー・ソーセージというより、皮をむいたウィンナーの水煮、と呼んだ方が近い。

 その色合いや質感、簡単にくずれてしまう柔らかさ、また、缶を開けた瞬間に漂ってきた匂いからして、それに最も近い既知のものは、モンプチの猫缶だと思った。それも、牛肉などをパテ状にしたやつ。去年の秋に死んだ無為は、当初このタイプの缶詰が好きではなかったのだが、ほかのものに飽きてきたあたりでたまに出すと、目新しさが食欲をそそるのか、そのときだけは貪るように食べていたものだ。それに酷似している。

 食べてみたところ、まずい。まったく見かけどおりにまずい。無為が食べていたパテ状のモンプチに、塩味だけつけた感じだ。もちろん、僕は実際には、モンプチを自分で食べてみた経験はない。しかし、きっとそれは、この「ウィンナー・ソーセージ」から塩味だけ除いたようなものであるにちがいない、と確信した。

 とにかく、缶から取り出す際にいくつかの破片に分かれてしまった1本だけはたいらげたが、残りを最後まで食べ切れる自信がない。もったいないから食べようと努力はするだろうが、なんとなく、「今日はやめておこう」「明日食べればいい」と先延ばしにしているうちに、結局ダメにしてしまいそうな予感がある。

 バチ当たりな話だが、まあ、これを買った¥140(安い!)は、店の棚でこのパッケージを見た瞬間に感じた「あ、なんかこれ食べたい!」という衝動と、それを満たした瞬間のワクワク感を楽しんだ代金だった、ということにしておこう(実は以前、「スパム」の缶詰でも、僕はまったく同じことをやらかしている)。

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2007年5月22日 (火)

おこりで死にたくない

 はしかの流行で早大までほぼ全学休講と知って驚いている。「早大全学休講」とかいう文字を見ると、まるで自分の知らないうちに学生紛争が激化していたかのような錯覚に襲われて、空恐ろしくなる。ときどき、世の中の動きに対してほとんどまったく無関心になり、新聞はおろかテレビニュースも含めて、一定期間、報道という報道に完全に背を向けてしまうことがある僕にとって、それはあながちありえないことでもないのだ。

 ところで、はしかといえば、だれかがなにかに一時的になりふりかまわず夢中になったりすることを「はしかにかかったようなものだ」と喩えて言う古典的なフレーズがあるが、よくよく考えると「はしか」というのはやまと言葉だ。「麻疹」という字を充てることもあるが、それは漢方だかなんだかが入ってきてから当てはめたものにすぎないだろう。

 ふと興味をもって広辞苑で調べてみたら、江戸時代の仮名草子である『浮世物語』にはすでに用例がある。もっと遡れるような気がするのだが、語源がよくわからない。はしか? それを言うなら、「おこり」というのもやまとことばで、なにやら恐ろしげな感じがする。これは普通、「瘧」という字を充てるが、マラリアを指すことが多いという。

「マラリア」と言われれば、少なくとも何だかわかるし、現代なら対処法も確立しているので、それほどビビることもないかもしれないが、「おこり」だったら怖いし、とてもイヤだ。なんだか原因もよくわからないまま高熱が出て、衰弱して、「必死の加持祈祷も虚しく」ただ死んでいくだけ、というイメージがある。そんな風にして死んでいくのはイヤだ。しかしそれでも、昔の日本人が、西洋医学の知識もないまま、はしかは「はしか」、おこりは「おこり」と、おそらくはいくつかの特徴的な症状から弁別して、それぞれに名前をつけていたというのは興味深い。それでもやはり、「おこり」で死にたくはない。「マラリア」で死ぬのもイヤだけど。

 ああ、なんかオチのない話になってしまった……。

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2007年5月21日 (月)

子どもの恐怖

 昨日就寝前に、実業之日本社向け書き下ろしを結局ちょっと書きはじめてしまったため、頭が冴えてしまってなかなか寝つけず、朝方ようやくまんじりしたときにすごくめんどくさい内容の夢を見た。なにかの必要があって、英文を作成している。その中で、「甘党としては現実的」という表現をどうしようかと悩む。「甘党」という言葉は、その夢の中では"sorbitist"だということになっている(どうやら、甘味料の名称からの連想らしい)。だから全体では、"sorbitistically realistic"でいいのかな、と考えている。そこで目が覚めた。ちっとも休息を取った気分になれない。

 さて、夕食を摂る間、BSで「BBC地球なんとか」という番組を観ていた(すでにお気づきのことと思うが、僕はたいていの場合、その日見たものでさえ番組名を覚えていない)。そこで、氷河がいかにして動いているかを、映像の早送りで示しつつ、「2万年前の地球は氷河時代でした」というナレーションを流していた。

 それを聞いた瞬間、僕は思い出したのだ、自分が小学生の頃、「地球は再び氷河に覆われる!」とかいう記事を子ども向けの科学雑誌かなにかで読んで、夜も眠れないほど怯えていたことを。

 というのも、その記事はなんだかやたらと扇情的な書き方をしていて、「ある科学者によれば、1979年には地球は再び氷河期に入るという」みたいな内容で、1979年というのはほんの数年後だったのだ。どうしたって逃れようがない。「氷河期になっちゃう、怖い、怖いよう!」と夜中に泣き出して、父親にさんざんなだめられてようやく眠りに就いたりしていたのだ。

 今となっては、その記事の信憑性がいかほどのものだったのか確認のしようもない。ほとんどガセだったという可能性もある。しかし、「1979年には地球は再び氷河期に入る」というのが仮に事実であったとしても、そんなの実は憂慮すべき事態ではないのだということは、そのときだって冷静に考えればわかったはずだ。

 いつから「氷河期に入る」と見なすかは解釈の問題であって、実際に「氷河期に入」ったとしても、入ったその瞬間に地球上が氷で覆われてしまうわけではない。それは何百年・何千年というスパンで徐々に変化していく性質のもので、僕がこの世で生きているたかだか100年にも満たない期間には、事実上、何も変化が起きていないに等しいだろう。現にあれから30年ほどが過ぎ去った今も、外は氷に覆われるどころか、むしろ地球温暖化で平均気温は上昇しているほどだ。

 そう、それだ。「再び氷河期に入る」とか言っておきながら、同時に地球温暖化が進んでいる。そのことにはいったい、どういう説明をつけるつもりなのか。小学生の頃よりはだいぶ冷静になった僕は、今日の番組のどこかでそのことに対する明瞭な説明をしてくれないものかと期待してナレーションに耳を傾けていたのだが、提示された説明は以下の通りだった。

「地球は再び、氷河時代に突入するかもしれません。しかし現在、地球は、温暖化で気温が上昇しつつあります」

 それだけかよ!

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2007年5月20日 (日)

往生際の悪さ

 深夜あるいは明け方の吐き気が、ようやく治まった。

 たぶん胃酸過多だろうということだったが、胃酸過多でないとすると原因は何が考えられるかと訊いてみたら、「横隔膜というのはこういう形をしていて」と言ってその女医さんは、両手の人さし指と中指を井桁のように組み合わせて説明してくれた。「普段はそれがこのように収縮して、胃の入口を塞いでいるんです。でも、胃の入口付近になにかデキモノができていると、これがうまく閉まらなくなる。そのせいで、長時間横になっていたりすると、胃の内容物が逆流してくるんですね」。疑問の余地のない、きわめて明快な説明だ。

 とりあえず、胃酸を抑える薬と吐き気止めを処方されて、その後ずっとまじめに、1度も欠かさずに飲んでいたが、毎晩毎晩、午前3時〜4時の間くらいに、必ず「逆流」してきて目が覚めてしまう。1度そうなると、横になるなりすぐに逆流してくるので、落ち着くまでしばらく起きていなければならない。

「薬は10日分お出ししておきますが、効きが悪いようならすぐに胃カメラを飲みにきてくださいね」と言われていた。言われていたのだが、そしてこれはあきらかに「効きが悪い」状態だよなと思ってはいたのだが、もしも「デキモノ」ができているのだとしたら、その事実が白日のもとにさらされてしまうのがいやで、病院に行くのを先延ばしにしつづけていた。

 それに、もしも胃の入口の「締まりが悪く」なっているのが原因だとしたら、夜でなくても長時間横になっていれば逆流してくるはずだし、逆に言えば、横になってさえいなければ吐きそうにはならないはずだ。ところが、休日の昼間に2、3時間昼寝をしていてもなんともない一方、横になっていなくてもときどき、特に空腹時などに、胃がムカムカすることもある。ということはやっぱり胃酸過多なんだ、そうにちがいない、と自分に言い聞かせていた。

 結果として、8日目あたりからにわかに調子がよくなって、今は薬を飲まずにいてもなんともない。やはり、なにかのかげんで胃酸が一時的に暴走していただけなのだろう。結果としては、胃カメラを飲むまでもなかった(らしい)ということだ。

 ただ、今回のことでつくづく、自分の往生際の悪さを思い知らされた。思えば、僕が糖尿病にかかり、食前血糖値が300を超えるほど重篤な状態になるまで放置していたのも、これときわめて酷似した理由によるものなのだ。あきらかな異状を感じていながら、「宣告」されるのが怖くて受診を先延ばしにしていた結果なのだ。1度それで懲りているはずなのに、また同じ過ちを繰り返そうとしている。人間というのはどうしてこう、真実を知ることを恐れるのだろうか。ほうっておいたらもっとひどいことになるかもしれないとわかっているにもかかわらず。

 ひとまずほっとしたが、あいかわらずやるべきことは山積みだ。今日は「anan」のインタビュー記事の校正を見て、実業之日本社での書き下ろし用の下調べをしたら終わってしまった。「マトリックス」に出てくるアレが欲しい。脳にダウンロードするだけで、ディスク1枚分の知識とかを一瞬で習得できるアレ。

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2007年5月17日 (木)

セレブな無名作家

 ココセレブのインタビューを受けるため、目白のイタリアン・カフェに。店内が騒々しかったため、屋外の席に陣取るが、線路沿いなので、数分置きに電車の音が轟きわたっていた。ちゃんと録音されていただろうか。

 インタビュアーのT氏はライターさんだが、同時に出版社の社長さんでもある。12年間もカンボジアに滞在したという経歴の持ち主だそうで、そっちの方のお話もおもしろそうだったのだが、それはまたの機会に譲る。

 これまで、インタビューもいろいろ受けてきたが、たいていは、直近に出した本についての取材だ。先日の「きらら」での書店員さんとの対談は、既出の全作品についてだったが、それでもやはり、「書いた本について」というトピックが中心になっていた。しかし今回は、作家としての僕に対する質問がいくつかあった後に、ネットについて、ブログについて、とやや異質な質問が続き、その点で興味深かった。

 なお、T氏はこのインタビューに先駆けて、僕のブログを全部、もう、あらいざらい全部、読んでくれていたらしく、そのことに驚愕した。去年の8月からスタートしたこの「白いシミ通信」だけならまだしも、はてなダイアリーでやっていた旧ブログ「黒いシミ通信」も全部だ。僕のブログはたたでさえテキスト量が大目な上に、ほぼ毎日更新なので、「全部」というと、たぶん軽く単行本3、4冊分はあるかと思う。

 ご本人いわく、もちろん、インタビューの準備という意味もあったのだが、単純に共感できるところが多くて思わず読んでしまった、ということらしい。T氏は僕の3、4歳上だが、ほぼ同世代と言ってよく、育ってきた文化的環境がきわめて近い。カラオケで沢田研二を歌うなど共通点も多いようだ。おまけに、もともとはてなダイアリーをやっていて後にココログでアカウントを取得したとか、そんな思いもかけない点までなぜかシンクロしている。絶対に話が合うはず、と盛り上がり、今度ぜひご一緒しましょうということになった。楽しみである。

 ちなみに、ポーズを取っての写真撮影は店内の一画で行われた。ほかの席では、普通にお客さんたちが談笑している。「こんな、人がたくさんいるところですみません」と言われたが、そのへんはもうすっかり慣れてしまって、まったく動じなくなった。なにごとも慣れである。ただし、だからと言って、カメラに向かって自然に「柔和な笑顔」が作れるわけではない。それとこれとは別問題なのである。

 インタビュー記事の掲載は、6月7日予定とのこと。このブログのサイドバーにもリンクが貼ってある「ココセレブ」のトップページからアクセスできる。ちっとも「セレブ」じゃないんですがね。

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2007年5月16日 (水)

美しい鬼太郎

 ウエンツ瑛士主演の映画「ゲゲゲの鬼太郎」を観る。鬼太郎役にイケメン君を起用するという発想はまったくなかったので度肝を抜かれたが、観てみたら意外になんら違和感がなかった。もっともあれは、劇場版「銀河鉄道999」で鉄郎がいきなり原作とはかけはなれたイケメンになっていたことと似た事情も背景にはあるのだろうけれど。

 とにかく、映画としてはきわめて上質なエンターテインメントという感じで、僕自身が水木先生をこよなく敬愛しているという個人的な事情を度外視しても、なんら掛け値なく、素直に人に勧めたい優れた内容だった。何より、キャスティングが素晴らしい。田中麗奈の猫娘が色っぽくてよかった。井上真央ちゃんの熱のこもった演技も胸を打った。

 みんなよかったけれど、「天狐」役の小雪が、短い場面ながら非常によかった。なんというか、彼女はああいう、人間離れした存在を演じた方がしっくり来るような気がする。人間ではない、神々しいものをごくあたりまえのように自然に演じているところがいい。

「イロモノ」だと思ってなめてかかると手痛いしっぺ返しを食らうであろう出色のできだ。まだの方はぜひ、ご家族・お友達とお誘い合わせの上、観賞してほしい。

 大泉洋扮するねずみ男が最後の方でもらす「あの世保険」ビジネスのアイデアは、たしか原作のどこかにも出てきていたと思う。久々に原作(テレビアニメとのタイアップ的に描かれた『ゲゲゲの鬼太郎』というより、貸本時代の復刻版であるダークな『墓場の鬼太郎』)を読み返してみたいと思ったが、漫画本関係はあまりに多くて、埋もれてしまってどこにあるかわからない。

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2007年5月15日 (火)

雑誌の匂い

 結局、昨夜のうちに某短編を書き終えてしまった。だから、今日も眠い。

 職場から帰ってきたら、明日発売予定の「小説すばる」の掲載誌が届いていた。p.229の「月刊バイト自慢」というコーナーに、僕がコラムを寄せている。パラパラとめくっていたら、わりと近いページに、日本ファンタジーノベル大賞の受賞者として1年先輩の渡辺球さんが短編を寄せていて、びっくりした。

 ところで、「小説すばる」のページをめくっている間、なんだか懐かしいような気持ちになって、この正体は何だろうと考えてみたところ、「匂い」であることに気づいた。紙の匂いとインクの匂いが混ざったものだ。子どもの頃、叔母の家のトイレで嗅いだ匂いだ。というのも、叔母の家のトイレにはいつも、文芸誌を中心とした雑誌がたくさん並んでいたからだ。

 子どもの僕が匂いを嗅いだのが、「小説すばる」であったのかどうかはわからない。この手の文芸誌はたいてい似たような匂いがするからだ。ただ、今、ためしに「野性時代」の匂いを嗅いでみたら、それとは違うことがわかった。ついでに「小説新潮」や「小説現代」はまた別の匂いがするのかどうか検証してみたかったが、新しい号が手持ちにないので確認できなかった(この匂いは、たぶん数ヶ月で消えてしまう)。

 ちなみに僕は、けっこう「本の匂いフェチ」だ。雑誌だけでなく、書籍であっても、読みはじめるときにまず匂いを嗅いでしまう。自分の好きなタイプの匂いだと、おおいに満足する。ただ、書籍の場合は、店頭に並んでから購入するまでに比較的長い時間が置かれていることが多いため、たいていは匂いが薄くなっている。その意味では、雑誌の方が「嗅ぎがい」があってよい。

「小説すばる」のような文芸誌ではなく、グラビアページの多い雑誌だと、また別の匂いになる。紙質が薄い週刊誌と、比較的上質な紙を使った月刊誌でも、また匂いが異なる。

 電車の中で、だれかがめくっている雑誌の匂いが漂ってきて、その匂いに反応して「羨ましい」と思い、思わず売店でなにか雑誌を買ってしまうことすらある。そうでなければ、「あ、今漂ってきたこの匂いは、僕が読んでいるこの雑誌から発しているものかな」と思い、ページに鼻を近づけて嗅いでみると違っていて、実は隣の人が読んでいる別の雑誌が発生源だったと気づき、妬ましくなったりする。

 国際線の飛行機に乗ったとき、シートに無料で配布されている海外の雑誌からしばしば嗅ぐことのできる、あのちょっと酸っぱい匂いも、僕は嫌いではない。なんだか"magazine!"という感じがしていいのだ。"Oh, now I'm reading a magazine! Wonderful!"って感じで(意味不明)。

 ああ、気づいたら「雑誌の匂い」論議になってしまっている。

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2007年5月14日 (月)

週明けの不機嫌

 某短編を昨夜かなり遅くまで無理して書いていたため、今日はもう眠くて死にそうだった。土日に稼ごうと思っていても、結局ほかの雑事にかまけてしまったり、平日の疲れを癒すためについ惰眠を貪ってしまったりして、本格的に取りかかるのが日曜の夕方などになってしまう。そうすると、一応、ある程度は「土日で稼いだ」という事実を残したいばかりに、そこから無理をしてしまうわけだ。

 そうやって眠い状態で新しい週がスタートすると、基本的に不機嫌で、ささいなことに超ムカついたりする。帰りの電車で隣に座った若造が、足をだらしなく広げて1.5人分取っている。膝のあたりが接触してきて気持ちが悪いので、それをよけようとして不本意ながら自分の足の幅を狭くすると、狭くした分だけさらに広げてきやがる。また膝が接触して気持ち悪いので、膝を揃えて女座りみたいに反対側へずらすと、さらにその分だけ広げてきやがる。おまけに息がギョーザ臭い。キレる寸前だった。

 自分の駅に着いて立ち上がったとき、ドアが開いたらギリギリまで待って、閉まる寸前にそのだらしなく開いた膝にケリを一発お見舞いしてソッコー逃げてやろうかと一瞬画策したが、幸か不幸かそいつも同じ駅で降りた。そいつは駅から外に出ると、「路上喫煙禁止」のステッカーが貼られた商店街でためらいもなく煙草に火をつけた。天誅が下ればいいと思う。しかし僕らはあまりに無力なのだ。たいていの場合、うしろからこっそり睨みつける程度のことしかできない。

 帰宅したら、小学館から『株式会社ハピネス計画』(確定)の出版契約書が届いている。こうして、ひとつの本が着々と形になり、刊行までの道のりを歩んでいくさまを眺めるのは、何度経験してもわくわくする。それで少しだけ機嫌が直った。その勢いに乗じて、「野性時代」での不定期連載の素案をまとめて送信。今日はもうこれでいいだろう。十分だろう。

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2007年5月13日 (日)

よいまずさ

 夕飯は冷やし中華だった。妻が突如、「冷やし中華食べたい!」という衝動に駆られたためだ。実は妻の帰りが遅かった昨夜、僕は1人で近所のジョナサンに行って冷やし中華を食べたのだが、具材を買ってきた妻の嬉しそうな顔を見て、それは言わずにおいた。

 ところで、突如「冷やし中華食べたい!」という衝動に駆られたという妻の心情は、よく理解できる。突然食べたくてたまらなくなるメニュー、というのがいくつかあって、冷やし中華はまちがいなくその中で重要な位置を占めている。それはたぶん、僕たち夫婦だけの問題ではなくて、日本人なら、あるいは、日本の食文化圏に生活している人なら、かなりのパーセンテージであてはまるのではないだろうか。

 なんか文章が変だな。「日本人、あるいは、日本の食文化圏に生活している人のかなりのパーセンテージが共有している感覚なのではないだろうか」。まだダメだな……。「パーセンテージ」にこだわるのがいけないのかな。たとえばこれでどうだろう、「日本人、あるいは、日本の食文化圏に生活している人なら、すんなり首肯する向きも少なくないのではないだろうか」。うーむ……。

 いや、こんなところでつまずいていてもしかたがない。とにかく、おそらく多くの人がときにそう思ってしまうであろう料理というものがいくつかある。ごくオーソドックスなラーメン(なるとや海苔が載ってるやつ)や、カレーライスなどもその仲間なのではないかという気がする。

 そしてもしも冷やし中華が食べたいと思ったのであれば、家で作るにせよ、外に食べに行くにせよ、このシーズンならたいていは容易にその願いを叶えることができる。しかし僕はときどき、「大学のとき“第一学食”で食べたあのまずい冷やし中華を今食べたい!」という衝動に駆られることがあり、そればかりはかんたんに叶えられることではないので、少々困る。

 あらかじめ茹で上げて冷やしておいたせいで固まってしまっていて、引っ張ろうとすると全部くっついて皿から持ち上がりそうになる麺を、たれで少しずつほぐしながら口に運んでいくあの感じ。あの「くっつき具合」や麺の「伸び具合」を忠実に再現するのは、なかなか難しいのではないか。

 それに、仮にその絶妙の「具合」を家で再現できたとしても、それはすでに僕が食べたい「“第一学食”のまずい冷やし中華」ではなくなってしまっている気がするのだ。ああいうのは、ほかに選択の余地なくそれを食べている(食べさせられている)という条件があって初めて得られる「よさ」なのだ。まずいものにもそれなりのよさがあるが、わざわざまずく作ったものにその「よさ」が備わっているとは限らない、ということなのだ。

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2007年5月12日 (土)

不動産屋とのバトル

 最近、土日になるときまって、不動産屋からの電話がかかってくる。たぶん平日も日中はかかってきているのだろう。会社はたぶん毎回違うのだろうが、「○○不動産と申します」という第一声を聞くとその瞬間に電話を切りたくなる。用件はどこも判で押したように同じ、「1DKのマンションを資産運用目的で買わないか」という誘いだ。住んでいるところの近隣に、再開発でマンションがボコボコ建ったらしい。

 興味がないのですぐに断るのだが、彼らは一様にきわめて執拗で、なかなか解放してくれない。これでも昔よりは、そうした勧誘を断るのが上手になったのだが、培ってきたそのスキルが通用しないのだ。

「いやすみません、そういうの、考えてないんで……」
「これまで考えておられなかったのを、これを機会にお考えいただくってことで!」

「すいませんが、今ちょっとたてこんでるので、これで失礼しま……」
「たてこんでおられないときならよろしいでしょうかっ?」

 まさに「ああ言えばこう言う」、本当に、どう言って電話を切ったらいいのか。今日の人も、「興味ないんで」と僕が10回くらい言っても引き下がらず、しまいには「いやもうほんとカンベンしてくださいよ!」と怒気を帯びた声で言ったらやっと「そうですか」と言って解放してくれたのだ。

 いっそ相手の返事を待たずに一方的にガチャンと切ってしまえばいいのかもしれないが、なんだか人としてそれはやりたくない。それに、こっちがちょっときつい口調で断ったりすると逆ギレする人もたまにいて、その人の放った捨てぜりふのせいでその後半日気分が悪かったりするので、できることなら、紳士的に、しかし決然と、その気がないことを知らせ、それをわかった上で引き下がってほしいと思うのだ。

 彼らの苦労もわかる。彼らにはそれが仕事なのだろうし、ノルマとかもあるのだろう。だから、電話をかけてくるなとは言わない。しかし、引き際は迅速に見極めてほしい。長引けば長引くほど、おたがいにとって不愉快になるだけではないか。それとも、「こいつは脈がある、押せば落ちる」と相手に思わせてしまうなにかが僕の側にあるのだろうか。

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2007年5月10日 (木)

鼎談は「ていだん」と読む

 小学館の文芸誌「きらら」での恒例のコーナーである書店員さんたちとの対談(前にも言ったように、正確には「鼎談」)を行なうべく、渋谷の某ホテルへ。既刊4作に加え、7月に小学館から出る新作『株式会社ハピネス計画』(今まで「仮」と表記してきたが、これで決定、のようだ。ですよね、Mさん?)についても、それぞれ話題にのぼる。通常、インタビュー等を受けるとしても単独の作品についてだから、今回のように全作品について論じ合うのは初めてだ。非常に楽しい経験だった。

 対談(鼎談)が終わってからは、担当のMさんと打ち合わせというか反省会というか食事というか。17日までの戻しを指定されていたゲラを今日戻してしまった。僕は仕事を溜めるのが嫌いなのだ。Mさんは、僕との打ち合わせに行くというと、上司の人から「あまり飲んだくれないように」と釘を刺されるらしいが、今日はスタートが遅かった分、それほど飲んだくれずに済んだ気がする。たぶん。

 ああ、なんかもっと言いたいことはいろいろあるのだが、今日の僕にはこれが限界だ。ちなみに吐き気について言うと、今はおさまっているようだ。今は。でもね。たぶん。きっと。 

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2007年5月 9日 (水)

誰に口きいとんのや

 連休明けから、夜中や明け方に吐き気で目が覚め、慌てて跳ね起きることを繰り返している。大丈夫かな、と思って再び横になり、ウトウトしかけると、また喉元になにかがせり上がってくる。おかげで、ろくに眠れない。日中はわりと平気だし食欲も普通にあり、痛みなどもないのだが、眠れないのは困るので、今日、病院に行ってみた。

 たぶん胃酸過多だろうとのこと。しばらく薬を飲んで様子を見てみることになった。基本的に無理な生活が祟っているのだろうが、なんだか糖尿病以外にもしょっちゅう病院のお世話になっている気がする。現状、痛みはおさまっているものの、実は椎間板ヘルニアだし。

 なお、今日行ったのは駅前の総合病院なのだが、待合室で本を読みながら呼ばれるのを待っているとき、去年の4月ごろにそうしていたときのことをふと思い出していた。風邪で熱が出たのだが、たぶん日ごろの過労が災いして、1週間以上熱が引かなかったのだ。

 糖尿病患者としてかかっているのとは別の病院なのだが、因果関係がないかどうか確認するため、一応、尿や血も採られた。その日は、ちょうどその結果が出る日でもあった。初対面の医師は内科の診察室勤務だが、専門は内分泌系、つまり糖尿の専門医だ。彼は僕のヘモグロビンA1cの数値を見ると顔色を変えた。

「A1cが7.4ですよ」
「はい」

 そんなことは知っている。かかっている糖尿病専門クリニックで、ちょっと前に検査結果を聞かされたばかりだ。過労による肉体的ストレスから、インスリンの効きが悪くなり、数値が悪化に転じていた矢先だったのだ。

「7.4って、これ、かなり悪い数値ですよ」
「そうですね」

 そんなことはわかっている。しかし今日は、糖尿病のことでこの病院に来たのではないのだ。熱を下げてほしいだけなのだ。だいたい、発熱すると血糖値はものすごく高くなる。だからこそ、まず熱を下げてほしいと言っているだけなのだ。

「A1cって、過去1、2ヶ月間の血糖コントロールの状態がわかる数値なんですよ」
「はあ」
「検査の前日だけズルをしてもバレちゃうんですよ」
「……」
「それが7.4なんですよ。正常な人はこれが5.5以下なんですよ」
「あんた」
「は?」
「あんた、俺様を誰だと思ってんだよ。世界初(?)の糖尿病小説『シュガーな俺』の著者なんだけど。あんたがさっきから並べてる御託を知らねーとでも思ってんのかよ。あぁ? モグリかあんた。顔洗って出直してこいやぁっ!」

 いや、後半は創作である。そのときの僕は熱で意識もモウロウ、病院まで自力で来るのがやっとというありさまで、言い返したり弁明したりする余裕はとてもなかったのだ。第一、2006年4月現在、僕はすでに『シュガーな俺』の執筆に取りかかってはいたが、まだ本にすらなっていない。

 まるで僕が、血糖値のことなど考えもせずに好き放題な暮らしぶりをしているダメ患者であるかのように決めつけるあの口ぶり、今思い返しても腹立たしい。しかし、今日かかった先生は別の人だった。いつか軽く意趣返しができればいいのだが、むこうはもう僕のことを覚えていないだろう。

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2007年5月 8日 (火)

今回はご縁が

 妻が疲れ切っていてごはんを作れないというので近くのイタリアンの店に行く。ああいう店はえーとなんていうのかな、「イタリアン居酒屋」? なんか違うな。まあとにかくそういう店に行く。もう10年越しで通いつづけている店だが、久々に行ったらスタッフがほぼ一新されて平均年齢が若くなっている。自分が歳を取ったことを実感した。

 さて、その帰り道、なんのかげんか、僕の就職活動中の話になった。システム・エンジニアを目指していた頃の話だ。T京電力系のシステム会社の、SEとしての適性テストを受けた。バブルの真っ盛りで、なおかつ「2001年には情報処理技術者が27万人不足します」とかいう神話がまかり通っていた時代だ(その算定基準は?)。

 しかし、結果を教えてくれることになっていた日になっても、連絡が来ない。たぶんダメだったのだろうなと思いつつ、2、3日様子を見てから、一応電話をかけてみて、結果がどうだったのかを訊いてみた。電話に出た女性が、すごく申し訳なさそうな口ぶりで、「あのう、今回はご縁がなかったということで……」と言った。

 ちなみに、SEの適性テストというのは、今はどうだか知らないが、当時はごく簡単な計算問題みたいなもので、それで「不適格」と見なされて落とされることは普通ありえないと言われている。僕の場合、その時点ではまさにその適性テストしか受けていなかったわけだから、よっぽと適性がなかったものと見える。

 そのテストに落とされたという事実が信じられず、また受け入れがたかったということもあったのだろうが、それ以前に僕は、こういう場合における社交辞令とか決まり文句といったものに、驚くほど通じていなかった。「今回はご縁がなかった」ということは、「次回はご縁があるかもしれない」ということなのだろうか。「次回」というのはいつあるのだろうか。一瞬、そんなことを本気で考えてしまった。

 しかし、僕がそこで、「では、“次回”のチャンスはいつなんでしょうか」といったマヌケきわまりない質問を彼女にせずに済んだのは、ひとえに、彼女があまりに申し訳なさそうにそれを言ったからに尽きる。こんなに申し訳なさそうにしているということは、要するに僕は不採用ということなのだな、ということがさすがにわかったわけだ。いくら世間知らずでも。

 日本語はそうした婉曲語法みたいなものが非常に発達した言語だ。それについてとやかく言う人もいるし、その言い分も理解できるのだが、これはこれで優れた文化なのではないかと僕は思っている。ただ、それが有効に機能するためには、両者の間で同じ認識がコードとして共有されていなければならないわけだが。

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2007年5月 7日 (月)

社会人慣れ

 連休が終わった。結局、昼夜逆転をうまく解消できなかったので若干睡眠不足だが、睡眠不足などいつものことだ。意外にスムーズに平常モードに復する。

 若い頃、というのは、社会人になりたての頃は、連休明けなんてもう会社に行きたくなくて、出社拒否寸前だった気がする。そうでなくても、毎週土日はボロ布のように疲れ果てていた。どうしてあんなに疲れていたのかと今になって考えると、それが「社会人であること」それ自体による疲れだったのだ、ということがなんとなくわかってくる。

 仕事がどうこうというより、「社会人であること」によって、僕は気力・体力のほとんどを使い果たしてしまっていたのだ。その頃より今の方が体力自体は乏しくなっているはずなのに、今はその頃よりもっと有効に時間を活用しつつ休み明けにさっと起きて出社することもできているのは、ひとえに「社会人であること」に慣れ、そこで消耗する分が目に見えて減ってきたからなのだ、きっと。

 まことに歳月は日々に疎く、虎穴に入らずんば虎児を得ないものでございます(『シュガーな俺』p.199より)。

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2007年5月 6日 (日)

パンケーキの真実

 まだ予約を取ってはいないが、ブリュッセル・ブルージュ・アムステルダムの3都市を回るほぼフリープランの手ごろなツアーが見つかった。これでかなり実現に近づいた。連休中の成果のひとつと言っていいだろう。

 ところで、「地球の歩き方」を読んでいたら、オランダには「パネクック」(pannekoek)なるものがあるらしいと知った。一種のパンケーキのことだ。なるほど、オランダ語も英語と同じゲルマン諸語に属するだけに、パンケーキ/パネクックと音が似ているな、と思った瞬間、僕はそれまで自分が陥っていた重大な錯誤に気づいた。

 パンケーキって、「パンみたいなケーキ」のことじゃなかったんだ!

 いや、それを「錯誤」と呼ぶのは正しくないかもしれない。なぜなら僕は、日本語の中で普通に外来語として使う「パンケーキ」が"pancake"であることを必ずしも明瞭に認識したことがなかったからだ。ただ漠然と、「パンみたいにふかふかしてるからパンケーキ」なのだろう、というレベルで納得してしまっていたわけだ。

 それが誤りであることにどうやって気づいたかというと、こうだ。

(1)「パネクック」って「パンケーキ」と音が似てるな。
(2)ってことはきっと、"panne"の部分が「パン」、"koek"の部分が「ケーキ」に当たるわけだな。
(3)そーすっと、"panne"="pan"か、なるほど。
(4)いや待て、「パン」って英語では"pan"じゃないだろ。"bread"だろ。日本語で言うところの「パン」はポルトガル語かなんかじゃなかったか?
(5)じゃあ英語の"pan"って……あっ、「フライパン」("frying pan")の「パン」だ!
(6)"pan-cake"、おおっ!

 ここまで来て、「じゃあ、フライパンで焼くケーキだからパンケーキ?」と一瞬思ったのだが、それはたぶん違うだろう。"pan"には「平たい皿、底の浅い鍋」といった意味もあるから、「平皿のように平たいケーキ」ということなのだろう。

 いや、こんなことはもしかしたら常識なのかもしれないが、僕は今日初めて気づいたのだ。というか、そういうものとして「初めて認識した」というか。「初めて認識がそこに及んだ」というか。「まったき認識の光が初めてそこをあまねく照らし尽くした」というか。くどいな。

 正直、この同じ「漠然とした錯誤」に陥っている人は、日本中にくまなく存在するような気がするのだが。それともそんなマヌケは僕だけなのだろうか。

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2007年5月 5日 (土)

一種の昼夜逆転

 休日が何日か続くとすぐに昼夜逆転してしまい、夜眠れなくなるので、それを一気に解消しようとして、昨夜はほとんど一睡もしないまま朝の5時台に起き出し、朝食後、6時から11時くらいまで活動したのだが、そのあたりで眠気に抗えなくなって仮眠を取り、14時頃遅い昼食を摂ってからもまだ眠くて、17時頃まで昼寝をしてしまった。

 その後再度起き出して部屋の掃除などを済ませ、20時過ぎから4時間ほどにわたって活動したので、合計9時間ほど活動したけれどその間に5時間ほどの睡眠を挟んでいる計算になる。やってみると意外と快適で、もしも専業作家ならそういう生活パターンもアリかなと一瞬思ったのだが、これも結局「昼夜逆転」の1亜種に過ぎない。生き物としての性向を無視したパターンなので、きっと体にはよくないのだろう。

 それで今日1日何をしていたのかというと、主として新作『株式会社ハピネス計画』(仮)のゲラを見ていた。集中して校正したのであらかたは終わっているのだが、実はまだひとつ大きな課題が残されている。しかし今日はもうぼろ切れ状態なので無理だ。

 もうひとつは、夏の旅行についての下調べだ。基本的に土日なし・連休も事実上なしの生活を送っていると、むりやりにでも休みを取らないといつまでも休養できない。早めに予約を取るなりなんなりしないと、いつもいつもその機会を見送ることになってしまう。今年の夏は絶対に海外に行く。何がなんでも行く。しかし、その予定を立てるための時間を工面することすら、なかなかかなわないのだ。

 今のところ、オランダとベルギーをまわる予定。ある旅行会社にざっくりとした問い合わせのメールを送ったが返事が来ない。連休中だから営業していないのだろうか。しかし、旅行会社が連休中に営業していないなんてことがありえるだろうか。ああ、早く返事をおくれ。でないとまた機を逸してしまう。

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2007年5月 3日 (木)

二つの世界の狭間で

 勤務先で、今年は男子4名・女子2名の新人を採用した。連休明けから各部署に配属になるのだが、昨日までは研修期間で、締めは僕の所属している部署での研修だった。最終日である昨日、終業のベルが鳴って間もないくらいのタイミングで、女の子2人が揃ってやってきて、サインをしてくださいと言う。手にはそれぞれ、僕の本を持っている。一方は『冥王星パーティ』、もう一方は『シュガーな俺』だった。

 僕が職業作家であることは勤務先でもオープンにしているので、彼女たちが知っていることは別に不思議でもなんでもない。しかし、社内でおおっぴらにサインをせがまれることというのはほとんどないし、するとしても、もうなじみのある親しい相手だったりするので、ちょっと意味合いが違う。今回のようなケースは初めてであり、なんだか異様に照れ臭くて、仏頂面で超無愛想な対応をしてしまい、後から悪かったなと思った。

「やあ、君たち、さっそく僕の本を読んでくれたんだね。ありがとう。これからは、仕事上でも、また作家としてもよろしく頼むよ! アハハハハハハ……」

 などとサワヤカに返せればよかったのだが(どういうキャラ?)。

 サインをすること自体はもういいかげん慣れているので、どこかよその場所で言われたのなら、照れ臭く思うこともなかっただろうと思う。場所が社内になっただけでどうしてこんなに照れ臭いのか、と考えていて、自分が自分で思っていた以上に、会社にいる間は「一会社員」でいるらしいことに気づいた。そしてまわりにいる人たちは、おおむねその「一会社員」としての僕の顔しか知らない人たちだ。その中で、とっさにモードの切り替えができないということなのだ。

 そういえば、年明けに、ある取引先の人から会社宛てに年賀状をもらったときも、「最近は平山様のブログを拝見するのが日課になっております」とさりげなく書き添えられていて、それまでそんな話はいっさいしたことがなかったので、一瞬、ビビりまくったというひと幕があった。

 その人が言うには、「なにかの雑誌の記事で偶然知っていたのだけれど、これまで話題に出しそびれていた」とのことなのだが、もちろん、それは十分にありえる話なのである。にもかかわらずビビったのは、会社の仕事という文脈でのみ接点を持っている人が、作家としての僕のブログを読んでいるという事実がなんだか照れ臭かったからなのだ。「ゲ、あれを読まれてるわけ?」と思ったのだ。別に、読まれて困るようなことは何も書いていないはずなのだけれど。

 しかし、作家で兼業、というのはまったく珍しいことではなく、同業の人で日中はどこかに勤めているというケースは、ざらにあるはずだ。彼ら・彼女たちもやはり、似たような局面に立たされることはあるのだろう。もっとも、本名で活動している僕のようなケースは、ちょっと珍しいのかもしれないが。

 さて、4連休の初日だが、狙いすましたかのように、7月に小学館から出る予定の『株式会社ハピネス計画』(仮)のゲラが宅配便で届く。いや、ちょっと前に、「3日にお届けしてもよろしいでしょうか……」という打診はあったので、知ってはいたのだ、今日届くということは。それでもやはり、いざ届いてしまうと、なんだかちょっとゲンナリする。

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2007年5月 1日 (火)

振り込み詐欺

 フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んでいる。村上春樹訳のやつだ。この作品を読むのは、原書も含めて4度目になるのだが、そのあたりの経緯を説明していると長くなるので今日は割愛。

 それより、瑣末なことなのだが、その訳文中に「押し込み強盗」という語が出てきたとき、ここ1、2年の間モヤモヤとぼんやり疑問に思っていたことがやっと解消されたような気がした。それは「疑問」という明瞭な形を取る以前のモヤモヤだったので、自分の中でも設問として設けることができずにいたのが、それがやっとはっきりした、ということだ。

「振り込め詐欺」という言葉、これがなんだか僕は気になっていた。新聞などで読む分にはなんら疑問もなく素通りしていたのだが、テレビなどでこれを誰かが発音しているのを(それほど身を入れずに、なにかの片手間に)聞いているとき、僕はいつも、それをなにか別の語と微妙に混同し、結果として文脈を追えなくなっていたような気がする。それがどうも、「押し込み強盗」だったような気がするのだ。

 言うまでもなく「振り込め詐欺」の「振り込め」は「どこそこの口座に金を振り込め」という「命令文」だ。あえてその感じを出しながら表記するなら、「“振り込め!”詐欺」ということだ。頭ではそれがわかっているのだが、「振り込め詐欺」というようにひとつながりの単語として発音されると、「押し込み強盗」と同じ成り立ちの語であるかのように一瞬錯覚してしまうのである。

 しかしもしそうなら、「振り込め」ではなくて「振り込み」になるはずではないのか。ただ、「振り込み詐欺」では、なんだか意味が通らない。まるで詐欺師自身がお金を振り込んでくれるかのようだ(そんな親切な詐欺師になら、いくらだって騙されたい)。それはありえないだろう。でも、だったらいったい、あの、テレビで言ってる「振り込め詐欺」っていったい何なんだ!

 ……とこのあたりで僕の前意識(※フロイトの用語で、「無意識」よりも意識に近いところにある領域)的思考はストップし、気がつくとなんとなくイライラしている、という次第なのである。

 その、イライラの原因が今日、わかった。しかしこうして文章にしてみると、これってなんだか限りなくどうでもいい話のような気がする。それによく考えると、そもそも「押し込み強盗」という言葉自体、現在はあまり使われていないような気がする。それもこのモヤモヤの原因の一端を担っていたのではないかという気がする(ちなみに、原書に当たってみたら、「押し込み強盗」は"burglar"だった)。

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