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2007年7月31日 (火)

目指せオイルフリー

『株式会社ハピネス計画』についての「メンズノンノ」からの取材で、新宿京王プラザホテルへ。聞き手になってくださったライターのTさんは、僕が作中でひそかにこだわって凝りまくった(ただしストーリー展開上は瑣末としか言いようがない)「細部」にきっちり反応し、「あのへんは書いていて楽しかったんじゃないですか」と非常に嬉しい指摘をしてくださった。

 僕はさりげない細部にこそ、作品世界のリアリティと説得力が宿るのだという信念から、いつも細部を決しておろそかにせず、そこを造形することに並々ならぬ時間と労力を傾注しようと努め、またその孤独で地味な作業に無類の喜びを感じる方なのだが、その点に気づいてくれることはとても嬉しい。

 インタビューの後、小学館の担当Mさんと食事しながら、いつのまにか、「オヤジには、ダサいオッサンになるか、チョイ悪になるかしか取るべき道はないのか」というのが話のテーマになる。そんなことはない。「オッサン」も「チョイ悪」も脂ぎっているという点では同じだが、「脂ぎっている」という要素を除いた第3の道があるはずだ。たとえば、「枯れかかっている、脂気に乏しいインテリオヤジ」とか。そういうキャラになにかキャッチーな呼び名がないかと考えていて、Mさんが「オイルフリー系」はどうか、と提案した。それだ。オイルフリー・オヤジ。僕はそれを目指そうかな。

 明後日からのベルギー・オランダ旅行に先立ち、土曜日から川越の実家にクーニャンを預けている。大昔、故・無為を預けた際には、警戒心が強くてすぐに威嚇したり爪を出して引っかいたりする点が不評だったようだが、クーニャンはおおらかな性格で、人見知りもしないし、怒るということがまずない。そういう意味で、「今度はおとなしい猫だから大丈夫だよ」と言ってあったのだが、実際には、夜通し駆けまわったりして、年老いた父母の安眠を妨害したりしており、「どこがおとなしい猫なんだ、だまされた」と言われているらしい。だましたつもりはないのだが、「ちょっとやんちゃな猫だよ」程度のことは匂わせておくべきだっただろうか。

 旅行前にかなり前倒しでいろいろ片づけたつもりだが、「理想」から見るとまだいくつか積み残しがある。しかし、このへんで手を打っておくか。

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2007年7月30日 (月)

「ハピネス計画」発売

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 僕の5作目の書き下ろし長篇小説『株式会社ハピネス計画』が、今日、配本になった。都内一部書店では陳列を確認した。ただ、陳列状況については、ある時期からあえてあまりチェックしなくなった。粗略に扱われていたりすると、やはりそれなりにヘコむからである。人から耳に入ってくる、「こんなにいい扱いだったよ」という話だけを聞くようにしている。人はだいたい、いい話しか僕の耳には入れようとしないからだ。

 さて、これがどういう物語かというと……例によって、自分でそれをまとめるのはとてもニガテなので、比較的詳しく書かれている小学館HPのページのリンクを貼っておこう。

 小学館HP『株式会社ハピネス計画』

 それ以外に、作者として特に言っておきたいことがあるとすれば、今回はいくらか、『ラス・マンチャス通信』のテイストを意識的に採り入れたつもりである。 あそこまでグロテスクでへんちくりんだったり、魑魅魍魎が当然のような顔で跳梁跋扈したりはしないが、なんだかちょっとだけ軸のズレた世界とでも言うべきものが出てくる。

 しかし、「ラスマン」みたいな、「終わらない悪夢」的な後味の悪さはないと思う。そういう要素は、皆無と言っていいのではないかと思う。……と書いても、きっと想像できますまい。やっぱり書かなきゃよかった。これじゃ何がなんだかわからない。

 なんにせよ、読んでいただければ幸いである。ああ、なぜ自分の作品だとこうプロモーションが不器用になってしまうのだろう。

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2007年7月26日 (木)

「魅機ちゃん」連載開始

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 ちょっといろいろあってなかなか告知できなかったのだが、昨日発売の「IKKI」9月号より、僕の小説『魅機ちゃん』の連載が始まっている。すでにこのブログで何度か説明を試みてきたように、媒体がコミック誌だとは言っても、小説をコミック化したものとか、コミックの原作を僕が書いたとかいうことではなくて、小説そのものが誌面に掲載されているのである。ただし、『the山田家』などで知られる漫画家・阿部潤さんのイラストつきである。

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  それに、毎回、最終ページには、僕の小説をモチーフとして阿部さんに自由に描いていただく「スピンオフ(派生)・ショートコミック」がもれなくついてくる。これについては、僕自身、ラフの段階で見ただけで、その後どうなっているのか詳しくは知らず、完成品を見たのは実際に掲載されてからだった。タイトルが『ユカリコ』になっているのを見て、おおいに笑った。「ユカリコ」というのは、作品にチョイ役的に登場する小柄な女の子2人組なのだが、彼女たちを狂言回しとして固定することになっているようだ。イラストもさることながら、この最終ページが毎回楽しみだ。

 そして、自分が文字の形で描写したキャラクターたちがこうしてキュートな(ときにはおぞましい)イラストになっているのを見ると、つい欲が出てしまう。アニメになって動いているところを見てみたい、と思ってしまう。本当にそうなってくれればとても楽しいのだが。

 さて、これがどういう物語かというと、僕はどうも自分の作品のサマリーを文章化するのが苦手なので、内容については以下をご参照いただければと。

 IKKI編集部によるイッキ日記 

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2007年7月23日 (月)

目の前で

 午後7時ごろ、池袋駅のプリズムガーデンの前を通りかかったら、何やら人だかりができている。ここは地階と1階が吹き抜きになっているのだが、地階の人工噴水のあたりで、消防庁の人たちがネットを広げて、なにかを待ち受けるような顔をしながら上を見上げている。

 野次馬根性というものにおよそ欠けている僕は、普段ならなにかそういったことがあっても関心を示さず通り過ぎるところだが、今回は不意打ちというか、気がついたら意図せずその渦中にいたという感じで、まさに目と鼻の先でそれが起こっており、関心を持たないわけにはいかなかった。

 ネットを広げて持つ消防庁の人たちが見上げているあたりを覗いてみたら、1階の手すりからまさに若い女性が下に落ちようとしており、数人の警官がそれを押さえ込んで吊り上げているところだった。警官が彼女を引っぱり上げて保護した瞬間、見物人たちが一斉に拍手を浴びせた。

 何が起きたのか、途中から(というより、クライマックスしか)見ていないので、正確なところはわからないが、どうもその女性が、ここから飛び降りてやる、とかなんとか言ったのではないかと思う(もし、まったく違っていたとしたら、ごめんなさい)。もっとも、仮にそこから飛び降りたとしても、1階分の高さなどたかが知れているので、悪くても足の骨折くらいで済んでしまったのではないかと思われるのだが。

 みんながほっとして三々五々散っていく中、電車の乗り場に向かいながら、妙な話だが、僕は自分が今いるところは日本ではないのではないか、という感覚に襲われていた。偶然見かけたその光景が、理由はよくわからないが、なんとなく、日本離れしたものであるような気がしたからだ。ではどこの国だったら似つかわしいのかというと、よくわからない。でもなんとなく、タイとか? ドイツでもありかもしれない。ニュージーランドでもいい。という国の選択は、ほとんど恣意的なものなのだが。

「IKKI」連載の『魅機ちゃん』について、第2回のゲラが出たり校了になったりする時期が、8月2日からの1週間のベルギー・オランダ旅行と重なってしまうのではないか、ということに昨夜突然気づき、慌てて「どうしましょう」と担当のTさんに連絡したら、「それを見越して早めの進行にしております」とのこと。素晴らしい。

 そして僕は、旅行に出る前にとにかく少しでも片づけておきたいという気持ちから、すでに8月20日〆切の「野性時代」の短編を脱稿し、現在は同じく8月下旬〆切の『魅機ちゃん』第3回分を起稿している。このように原稿は着々と書いているが、なんだか気分がローだ。先週からずっとそうだ。いつになったらこの気分を抜け出せるのだろう。

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2007年7月19日 (木)

負け犬好き

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 ああ、なんだかいろいろと疲れてしまってブログの更新が滞っている。クーニャンの画像でも貼りつけてお茶を濁そう。

 ちなみにクーニャンの向かって右側にあるのは、『負け犬の遠吠え』の文庫版である。ハードカバーのときに人から借りて読んでたいそうおもしろかったので、文庫になったのを機に自分でも買って再読しようと思ったのだ。そして当時も今もそうなのだが、僕はどうも、「負け犬」と呼ばれそうな人や、「負け犬」的要素をひとつふたつならず持っている人とこそ、仲良くなりがちなようなのだ。読みながら、「こういう人、基本的に好きだけど……」と何度も思った覚えがある。なぜそうなのか、理由を考えてみようとしたこともあるが、めんどくさい。

 ああ、なんか今はなにもかもがめんどくさい。うっかり引き受けてしまったマーケティング会社からのアンケートに答えるのもめんどくさい。

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2007年7月16日 (月)

移動祝祭日

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 某短編を書き上げた。やはり、3連休だとかなり集中できる。しかし、ずっと家にいてクーニャンと過ごす時間も長くなるため、つい遊んでやってしまって、両腕ともひっかき傷ですごいことになっている。ビョーイ、ビョーイ、とジャンプしながら嬉しくて喉をゴロゴロいわせるので、「ビョイゴロフスキー侯爵」の異名を授けている(なぜ男性名?)。

 さて、画像は、僕の書斎……と言うとなんだかこそばゆいというかおこがましい感じがするのだが、まあとにかく主として執筆活動に使用している部屋の壁にかけてある、ホワイトボードである。デビューしてわりとすぐに買ったものの、最初のうちはろくに仕事もなかったのでほとんどあってもなくても同じ状態だったのが、ここのところ本当にスケジュール管理が切実になってきて、ようやく真に活用されるに到った代物だ。

 日曜日や祝日などを意味する赤い○はマグネットになっていて、月が変わるたびに移動させる。そして今月の最初の日曜日は2日ではなくて1日だし、たしかにちゃんとそのようにセットしたつもりだったのだが、気がついたらこうなっていた。1日のところにセットしたと思っていたのは、もしかしたら記憶違いだったのかもしれない。そう思ってあらためて1日のところにずらしておいたのだが、次に見たらまた画像のようになっていた。

 やがて、下手人がクーニャンであることが判明した。このホワイトボードの下には、ブックエンドを立てて、ちょっとした書類や雑誌を立てかけてある。その上に乗って、赤いマグネットをいじっていたのだ。1ヶ月ちょっと飼っていてこれまでそんなことはなかったので、最近、その存在に気づいたのだろう。そして猫というのは、1度目をつけたものには、飽きるまでくりかえしちょっかいを出す習性がある。

 ただ、不思議なことに、「1」のところにある○は必ず「2」に、「8」のところにある○は必ず「11」に移動させている。直しても、また同じようにいじるのだ。それがクーニャンにとって、審美的に最も望ましい状態だということなのか、それとも、数字によってなにかを伝えようとしているのか。

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2007年7月14日 (土)

ジャンル分け不能

 台風が猛威を振るう中、僕の短編『会ったことがない女』が掲載された「ジェイ・ノベル」(実業之日本社)8月号が発売された。表紙に、「異色恋愛小説」とある。担当のTさんに、そういう触れ込みでいいかどうか事前に打診を受け、異存はなかったのでそれにしてくださいと答えたが、実際、ほかにどうにも称しようのない小説だと思う。

 だいたいにおいて僕の小説は、強いてジャンル分けしようとすると困ってしまうようなものがほとんどなのだ。5作目の書き下ろし『株式会社ハピネス計画』もそうだろう。小学館からの紹介文では「ノンストップ・エンターテインメント」とされているが、これも、「どう言ったらいいのか」と悩ませた結果のフレーズではないかと僕は思っている。

 その『株式会社ハピネス計画』がAmazonに書影つきで登場していたので、発売はまだ半月ばかり先だが、サイドバーにリンクを貼っておく。

 この表紙イラストは、まだうら若いアーティスト、大槻香奈さんの手になるものだ。描き下ろしを依頼する予定になっていたところ、既存の作品にたまたまピッタリのものがあったので、それを使用させてもらうことになったと聞いている。

 この、印象的な少女の顔立ちが、作中のヒロインである「藤原たまり」という少女=女のイメージと驚くほど通じ合っており、装幀のラフを初めて見たときにはぎょっとして言葉を失った。『ラス・マンチャス通信』の表紙絵が田中達之さんのあのイラスト(画集にも収録されている既存作品だった)になった経緯と、よく似ている。

 大槻さんのイラストは、少女の秘めた情念を浮き彫りにしつつ、あくまでポップでスタイリッシュ、という感じの作風が多いようで、HPに掲載されている作品群を眺めるだに、たいへん心惹かれるものがある。機会があればいつか、原画を間近に見てみたいと思っている。

  大槻香奈さんの公式サイト

 ああ、しかしなんだか今日の僕は文章がヘタだな。僕の脳の中の文章エンジンが金属疲労を起こしているという感じだ。とっとと寝よう。

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2007年7月12日 (木)

イヤな目覚め

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 クーニャンのドアップ。猫が怖いという人は、たぶんこういう顔が邪悪に見えて怖いと感じるのであろう。

 夜の間は一応おとなしくしていて、朝になると起こしてくれるのはいいのだが、少しばかり時間が早すぎる。一昨日は午前6時20分、今朝は5時40分だった。あと1時間かそこら遅く起こしてくれるとちょうどいいのだが。

 しかも、起こし方がとてもイヤなのだ。ちょっと前までは、手足のどこか露出しているところにじゃれついたり噛みついたり、ということが多く、それも十分にイヤだったのだが、ここ1週間ほどは、どうしたわけか、僕のお尻を掘るのである。

「お尻を掘る」というのはどういう状態かと言うと、タオルケットの下に潜り込んで、僕のお尻とパンツの隙間にぐいぐい手を突っ込んできたり、股ぐらのあたりを爪で引っかいたりするのだ。僕はなにやら、貞操の危機めいた不穏なものを感じて、きわめて不快な気分で目を覚ますことになる。ベッドに入ったのがそのわずか3時間前だったりするのに。

 いったい僕の股間の何が、クーニャンをそれほどまでに惹きつけるのか、さっぱりわからない(ちなみに、妻は同じことを1度もされたことがないそうである)。

 しかし、ちょっと前に妻が指摘していたように、最近は前ほどウンコくさくなくなってきたし、ウンコをする際には腰を浮かせぎみにしてするようになってきた。毛繕いも、ちょっとやるとすぐに飽きてしまうようなのだが、少しずつ、マメにやるようになってきている。そうしたことというのは、成長するとともに自然に身につけていくことなのだろうか。

 考えてみれば、人間だって同じだ。子どもの頃は、一応毎晩風呂には入っていても、体の隅々まであまりちゃんと洗っていなかった気がする。しかし今は、洗う工程が一から十まですべて決まっていて、そのうちのひとつでも省くと、なんだか落ち着かない気持ちになる。クーニャンからも、そうしていつかウンコ臭さが完全に消える日が訪れるのだろうか(まだやや懐疑的)。

 今日は、「メフィスト」向けのエッセイのゲラを戻した。ほかにもやりたいことはいろいろあるが、ああ、もう11時ではないか。

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2007年7月11日 (水)

取材のお礼

 今日は、あるきっかけで知り合った人に、執筆の材料としていくつか訊きたいことがあったので、あつかましくも取材のお願いをして、いろいろと話を聞いてしまった。

 作中で取り上げることについて取材が必要だと感じたときに、「誰に訊くか」というのは非常に頭の痛い問題だ。今回のように、比較的身近に訊ける相手がいればまあなんとかなるが、知り合い関係にそのこと(特定の業界・仕事の具体的内容など)を知っている人が1人もいない場合は、人づてに適任者を探すか、ともすればまったく縁もゆかりもない人に飛び込みでお願いせざるをえなくなる。

 もっとも、今はまだラクなのだ。曲がりなりにも作家の肩書きがあるから。仮に相手が作家としての僕をそれまでは知らなかったとしても(悲しいことに往々にしてそうなのだが)、作家であるという事実に偽りはなく、そうすると相手もわりと協力的になってくれる。アマチュア時代は、それさえないのがつらかった。

 それでもかつて、もう12年ほど前だが僕は、当時住んでいた実家の近所の写真館に、飛び込みで取材のお願いをしたことがある。写真館を舞台にした小説を書こうと思っていたからだ。自分は実は作家を目指して小説を書いており、今回こういう趣旨でこんな小説を書いて、どこそこに応募するつもりでいるので、できれば話を聞かせてほしいと率直に頼んだら、忙しい中、そこの店主さんは2時間くらい割いてくれて、僕の細かい質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれた。

 せめてものお礼に、と持参したウイスキーの瓶を手渡そうとしたら、「出世したら持ってきてくれればいいから」と言って、受け取ってくれなかった。

 僕は彼から聞いた話を自分なりに最大限に生かして写真館の物語を書き、B賞に応募したが、その作品は1次予選にも通らずに敗退した。せめてそれが受賞して本になってくれたら、晴れ晴れとした気持ちであらためて彼のところにお礼に出向けたのに。

 さて、今現在の僕は、「出世した」と言える状態だろうか。一応、プロの作家にはなったものの、まだまったく無名だ。あらためてお礼に行かなきゃと思いながらなかなかそれが果たせずにいるのは、自分のあまりの無名さが引け目になっているからなのだ。しかしこういうことは、先延ばしにしていると結局そのまま機を逸してしまい、後で(たとえば、その店主さんがすでに亡くなっていたと知ったりして)ひどく悔やむことになるのがならいだ。

 へんにもったいをつけず、せめて今年中を目標にして、ふらりと訪れてみようかと思っている。既刊の4冊の小説に、ちょっとした贈り物でも添えて。

 小学館「IKKI」での連載『魅機ちゃん』第1回と、同じく小学館での書き下ろし『株式会社ハピネス計画』の両方が、今日、相前後して校了となる。8月発売の「メフィスト」掲載のエッセイも、ゲラが出ている。しかし、今月末発売号に掲載されるものと思っていた「SFマガジン」向けの短編が、諸事情で9月発売号掲載になっていたと知って、ショックを受ける。

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2007年7月10日 (火)

たしかに凶器になるが

 8月2日出発のオランダ・ベルギー旅行の代金を今日、入金した。これで確定だ。ああ、ようやく海外旅行に行ける。

 ところで僕は、1型糖尿病になってインスリン注射器を常時携行するようになってからすでに2回、飛行機で海外に行っている。バリ島と韓国だ。機内でも食事は摂るため、当然、注射器も機内に持ち込むわけだが、「これ、事前申告しなくていいのかな」となんとなく気になっていた。しかし、へたに申告して、「使用するときだけアテンダントに声をかけて持ってきてもらい、済んだらまた預ける」みたいなことになったらめんどくさいな、という思いもあり、2回とも、特に何も言わずに搭乗した。

 荷物検査のときにはその都度緊張したが、いざとなれば、それが何であってなぜ必要なのかくらいは英語でも説明できると思って、ほうっておいた。不思議なことに、2度とも、しかも行き帰り、注射器に関してはまったくノーチェックで素通りできた。だから、特に「注射器状の物体」についてはチェック項目に入っていないのかな、と思っていた。

 しかし、インスリン注射器は、悪用する気がありさえすれば、はっきり言ってかなりの凶器になる。針が鋭いから、というのもあるが、それよりはむしろ、中身だ。1本の注射器には普通、3mlのインスリンが入っている。3mlというとごくわずかなようだが、僕が1回に使用する量はその20分の1以下の量である。それでも、打ったまま食事をしないでいれば、たちまち低血糖状態に襲われ、意識を失ってしまうほどの効果があるのだ。まして僕は、自力ではインスリンをほとんど分泌できない。その僕でさえ、そうなのだ。健常者にインスリンを打つなら、もっと少ない量でもっと劇的な効果が出るだろう。

 その場合の「致死量」がどれくらいなのか、正確な知識はないが、たとえば3mlをすべて一気に注入したら、血糖値はたちまちゼロに近づき、ブトウ糖を点滴でもしないかぎり、まず、命がもたないだろう。実際、僕が処方されているインスリン注射器には、劇薬を意味する「劇」の字が刻印されている。こんな恐ろしいものを、本当に無造作に機内に持ち込んでいていいのだろうか。

 と思っていたら、今回は旅行の申込書に持病の申告欄があって、糖尿の場合、特にインスリンを機内に持ち込む場合には、どうもそこに書かなくてはいけないらしい。で、それを書いて申し込んだら、「(糖尿病のお客様へ)お伺い書ご記入のお願い」というのが届いた。しかもなんだか、「英文カード(Diabetic Data Book)」だとかを用意していかなければならないようだし、航空会社にも規定の用紙を提出しなければならなくなる場合もあるようだ。ああ、めんどくさいことになってきた。悪用なんか絶対しないからカンベンしてほしい。

 そういえば、だいぶ前に人から聞いた話で、真偽のほどもさだかではないのだが、かのジミ・ヘンドリックスは糖尿病だったが、どこであれ注射器を使っているとまちがいなくドラッグだと誤解されるので、機内ではインスリンを打つことができなかったという。あの時代の注射器なら、現在のような「一見マーカー」みたいなペンシルタイプではなかっただろうから、誤解を解くのはよけいに困難だっただろう。それに彼の場合、インスリンと見せかけて実はドラッグを打っている、なんてこともおおいにありそうだし。

 ペンシルタイプでも、機内で使うときにはかなり神経を使う。本当はトイレに行って打ちたいのだが、飛行機のトイレというのはなぜか、使いたいときにいつも"OCCUPIED"になっているのだ!(だから、たいていは毛布の下で人に見られないようにコソコソ打つ。)

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2007年7月 9日 (月)

不気味さの質が同じ

 藤永茂氏の新訳によるコンラッドの『闇の奥』を読んだ。実はこれに先立つこと数ヶ月の時点で、同じ藤永氏の論考『「闇の奥」の奥 コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』というのを読んだのだが、そのとき、小説本体の方も藤永氏の訳ですでに出版されていることを知って、いわば遡る形で読んでみたわけだ。

 これまでは、定訳的に岩波文庫から出ている中野好夫氏による訳しか読んだことがなかった。そして『闇の奥』と言えば、フランシス・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』が下敷きにした話として有名で、そもそもは僕もそれを入口としてコンラッドの小説世界に触れたわけだが、旧訳はなんだかひどく読みづらい印象で、正直なところ、内容をあまり把握できなかった記憶がある。

 今回は、非常にすんなりと頭に入ってきた。それはもちろん、小説に先んじて副読本的な論考の方を読んでいたからという事情にも負うところがあるだろうが、「ああ、こういう話だったのか」と初めて腑に落ちたというのが正直なところだ。

 藤永氏の論考は、コンゴ河流域を舞台にした『闇の奥』や、またそれをベースとして舞台をベトナム〜カンボジアに移した『地獄の黙示録』が、いかに西欧中心の植民地主義的な偏った思想に彩られているかということを検証した労作で、それ自体非常に興味深く読ませていただいたが、それはそれとして今回、『闇の奥』を読み返していて、あらためて気づいた点がいくつかある。

『地獄の黙示録』には、当然のことながら、『闇の奥』に対応する登場人物や対応する場面がいくつも存在するわけだが、『闇の奥』のわりと最初の方に出てくる短い場面が、今回、初めて僕の注意を引いた。

 フランスの汽船でコンゴ河の河口を目指しているとき、主人公マーロウたちの一行は、沖合に停泊したフランスの軍艦が、小屋ひとつ見当たらない森林に向かって八インチ砲を撃ちまくっているところに出くわす。船客の1人が、どこかここからは見えないところに「敵の陣営」があるのだと説明するのだが、「はじめの感じ(つまり、その軍艦が、何もないところにむやみやたらと砲弾を撃ち込んでいるという印象)は消えなかった」とマーロウは言うのだ。

 これはあれじゃないか。『地獄の黙示録』の中でも僕が大好きな場面のひとつである、あれじゃないか。「米軍最後の拠点」であるドラン橋に、ウィラード大尉たちのボートがさしかかる夜のあの場面。情報収集のため岸に上がったウィラードが、コンクリート壕だかの中を歩いて「指揮官は誰だ」と呼びかけつづけるが、兵士たちからは「俺だ」「あんただろ?」など、ろくな返事が返ってこない。ただ、暗闇の中にやみくもに機関銃の弾丸を撃ち込みつづけるだけの兵士。最後に会った兵士に、ウィラードが慎重に訊ねる。

"Do you know who's in command here?"(ここの指揮官が誰だか知ってるか)
"......Yeah"(ああ)

 この、兵士の答えがいい。一拍置いて、正気を保っているふりをしながら余裕の表情で答えるあの黒人兵士。この場面が、僕はなぜだかゾクゾクするほど好きなのだ。

 先に挙げた『闇の奥』の軍艦の一節と、このドラン橋の場面は、間違いなく対応していると思う。中野訳のときにはまったく見落とすか読み流していたが、この2つの場面が帯びているなんともいえない不気味さの質は同じだ。もっとも、軍艦の場面は、1ページにも満たない、きわめて短い場面だ。そこを読み飛ばさずにきっちり反応して脚本に取り込んだコッポラの慧眼に、今さらながら喝采を贈りたい。

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2007年7月 8日 (日)

目分量の正確さ

 日販が出している情報誌「新刊展望」から依頼されていた、『株式会社ハピネス計画』についてのエッセイを書き上げる。文字数だけ見て、「だいたいこんなもんだろう」と見当をつけながらベタ打ちで書いてみて、「33字×44行+15字×14行」という指定レイアウトに後から流し込んでみたら、1行の過不足もなくピッタリで、自分、天才じゃないかと思った。

 なにかこれと似たことが過去にもあった、と思って考えてみたら、あれだ。食事療法の鬼と化していた頃に、「1単位(80kcal)」分のトリもも肉(60g)を、1gの狂いもなく包丁で切り出せていたことがあった。10回中7回くらいは誤差がゼロだったので、あれはもはや完全に習得したスキルだったのだと思う。「〜だった」と過去形で言っているのは、最近は忙しすぎて自分で料理することがほぼなくなってしまっているからだ。今やったら、たぶん腕がナマっていて、だいぶ誤差が出てしまうのだろう。しかし、食事療法なんて実はだいたいでいいのだ。

 午後になって、IKKI編集部から、『魅機ちゃん』連載初回分のゲラが届く。ゲラと言ってもイラスト入りなので、通常の小説のゲラとはだいぶ様相が違う。阿部潤さんのイラスト部分を(印刷時の)実寸で見るのは初めてなので、感激もひとしお。

 あいかわらず、ページがどういう状態になっているのか、文字だけで伝えるのは非常に困難なのだが、毎回、イラストがどこにどれくらい入ってくるかといったあたりは基本的にフィックスで連載を進めるので、小説部分の文字量にかなり厳密な制限がある。しかも、全6話を予定しているうちの1話分のエピソードを毎回「前編」「後編」に分けて載せていくので、「前編」の切れ目がいかにも続きを読みたくなるような場面になっていることが望ましい。今回は偶然、ちょうどいいところで切れているが、第2話以降はそれを意識してペース配分していかなければならない。

 思えば続き物のコミックを雑誌に連載している漫画家さんなどは毎回そういうことをやっているわけで、ましてそれが週刊ベースなどだと、もう、息つく暇もなく常にネームの配分や回の切れ目に気を配りつづけている状態なのだろう。その心労たるや想像を絶するものがある。コミック連載の世界を一瞬垣間見て、恐れをなしているといったところだ。

『魅機ちゃん』の連載は、そのあたりで毎回苦労しそうだ。「新刊展望」のエッセイを書いたときの「ピッタリ」度合いが、単なる偶然ではなく、身についたスキルであればいいのだが。

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2007年7月 5日 (木)

物ごころ

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 あまり猫ネタばかりに偏るのもどうかと思いつつ、仔猫のうちからさまざまな生態をここに書き留めておけば、貴重な成長の記録にもなっていいのではないかと思い直した。というのは、言い訳がましく聞こえるだろうか。まあ、半分は言い訳だ。

 トロいと思っていたクーニャンだが、ここ1週間ほどで、僕か妻のどちらかが帰ってくると時をおかず一目散に駆け寄ってきてお出迎えすることを覚えた。逆に朝、出かけるときは、以前ならなにかオモチャで遊ぶのに熱中していて、僕らが出て行くことにも気づいていない様子だったが、やはりここ1週間ほどの間に、僕か妻のどちらかがカバンを持って玄関に向かうと、「キーキー」鳴いて足もとにまとわりつくようになった。

 それどころか、僕らがドアを開けると、一緒に出て行こうとする。それを掴んで家の中に放り込むようにして、やっと出勤できるのだ。その応用編なのか、今日、僕が帰宅してドアを開けたら、ドアのすぐそばで待ち伏せしていたらしく、一瞬で外に出ていってしまった(なんとなくそうなる予感があったので、すかさず手を伸ばして捕獲したので事無きを得た)。少しは知恵もついてきたということだ。

 夜、僕らが就寝した後はどうしているかというと、最初の頃は、どこか別のところで勝手に寝ているか、そうでなければ寝ようとしている僕や妻の手や足をかじったりして、遊ぶことを要求していた。しかしここ数日は、おとなしく僕と妻の間に横たわっている。僕がなかなか寝つけなくて水を飲みに行ったりすると、ついてきてそばにちょこんと座っているが、僕がまたベッドに戻ると、クーニャンも同じ位置に戻って横になる。

 本来、夜行性の猫も、人間と一緒に暮らしていると、生活様式が人間に似通ってくるものだが、クーニャンにもすでにその萌芽が見られる。しかも、故・無為はただ、「夜、二人が寝ている間は、自分も寝室でおとなしくしている」という習慣を守っていただけである節があるが、クーニャンの場合は、そのまま実際にぐっすり眠り込んでしまうこともあるようだ。

 あまりに静かなので逆に心配になって、そっと撫でてみると、そのうち微妙に目を覚ましてゴロゴロいいはじめる。しかし概して眠りは深いようで、よく明け方などに僕が寝返りを打つと、いつのまにか僕の背中にぴったりくっつい寝ていたらしいクーニャンを押しつぶしそうになる。その「ぐにゃ」という感触に驚いて僕の方は目を覚ましてしまうのだが、クーニャンはまったく気づかずに眠り呆けている。

 だんだん(猫としての)物ごころがついてきたのはいいが、とにかく細かいことを気にしないというか、豪快というかズボラというか……。その大ざっぱさが命取りにならなければいいのだが。

 そして、少しばかり(猫としての)物ごころがついたとは言っても、クーニャンはやはり、猫というよりは犬かネズミかクモザルにより近いような気がする。

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2007年7月 3日 (火)

ほっとけない(byみの)

 お姉さんが自転車の後ろに積んだ箱に"Yakult"と書いてあるのを見ると、どうしても心の中で「イェイカルト」と読まずにいられない。コンビニの"Sunkus"の看板を見るとどうしても「サンカス」と読んでしまう。職場の近くにある某施設に"Apex"と書いてあるのは、あれはほぼまちがいなく「アペックス」と読ませたいんだろうけど、僕には「エイペックス」としか読めない。まあそれを言ったら便器などの"INAX"だって「アイナックス」だ。

 といったあたりは「英語圏」的問題なので特に目立つのだが、最近は「フランス語圏」的問題もなおざりにできない。以前、旧ブログ「黒いシミ通信」でさんざん取りざたさせてもらった"Moisteane"問題、つまり、あれを「モイスティーヌ」と読ませるのはどうやったって不可能で、英語式に「モイスティーン」と読ませるか、フランス語的に(無理はあるが)「モワストアーヌ」と読ませるかのどちらかだろう、という問題もそうなのだが、そしてもうこういうネタをブログで書くのは(いろんな意味で)やめようと思っていたのだが、ああ、どうしても見過ごしにできない例がここに!

 某B社のお菓子、レーズンサブレーの「レザーノ」、"Raisino"と書いてそれはないでしょう、いくらなんでもそれはない。

 いや、わかりますわかります、英語で言うところのレーズン、つまり干しぶどうは"raisin"と書き、これはその同じ綴りのまま、フランス語で「ブドウ」一般を指す「レザン」になる。たしかに、"raisin"の発音は「レザン」だ。しかしだからと言って、そのつづりに"o"を加えれば「 レザーノ」になるというものではない。それはフランス語の綴りと発音の関係における法則を完全に無視している。"raisino"をもしフランス語風に読ませたいなら、「レジノ」になるはずだ。まあ、もし商品っぽいゴロのよさを出したいとしても、せいぜい「レジーノ」。

 フランス語ではたしかに、"in"の綴りを「アン」と読む。しかしそれは、その綴りがある特定の条件下に置かれたときに限られた話なのだ。少なくとも、後に母音が続く場合には、"n"が後続の母音に引き寄せられて新たなシラブルを形成するため、その時点で"in"という単位は"i"と"n"に分離し、"i"は「イ」でしかなくなる。"raisina"なら「レジナ」だし、"raisini"なら「レジニ」だ。「レザーナ」でも「レザーニ」でもない。

 ああでもこんな話、誰も興味ないんだろうな。やっぱ書かなきゃよかった(と思ってるならアップするな自分)。

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2007年7月 2日 (月)

健診にビビらない

 職場の健康診断。こういうところも、サラリーマンはラクでいい。黙っていても毎年、日が設定されて、半義務的に健診を受けざるをえなくなる。そうでないと自分で受けに行かなければならないわけだ。つい、「今年はいいや」「来年行けばいいや」と先延ばしにしているうちに、取り返しのつかないことになってしまいそうだ。

 思えば糖尿病が発覚したのも、職場での健康診断だった。正確には、成人病検診だ。

 僕の職場では、というより、僕の職場が加盟している健保では、なのか、34歳までは健康診断、35歳で一度「節目検診」といって成人病検診と同じラインナップの検査を受け、36歳〜39歳まではまた比較的簡素な健康診断に戻り、40歳以上から毎年成人病検診になる。間で一度「節目検診」を行なうのは、35歳というのが、ちょうど内臓などにガタが出始める頃合いに当たり、そのあたりで一度診ておいた方がいいという考えに基づくものらしいが、僕はまさにそのタイミングでズバリ、糖尿病を宣告されてしまった。

 拙著『シュガーな俺』では、主人公・片瀬は、妻にせつかれる形で自分から病院に検査を受けに行って発覚したことになっているが、そこの部分はちょっとだけ現実の僕が辿った経緯と違っている。ただし、糖尿病の疑いがその何ヶ月も前からあった点は同じだし、その「節目検診」も、本来は1ヶ月ほど先の予定だったのだ。ただ、どうも怪しいというので上司にかけあってみたら、人事部に話を通してくれて、1ヶ月予定が繰り上がったという次第だった。

 だから、「あらかたそうだろうと踏んでいた」という点は、小説と同じだ。そして、それにもかかわわらず、「糖尿病です」と宣告された瞬間には、脳がそれを事実として受け入れるのを拒んだ、という点も、やはり小説と同じだ。

 検査結果を僕に知らせた女医さんの決然とした口調が、今も鼓膜に蘇る。「糖尿病です」。「〜の疑いがある」とか、「〜ではないかと思われる」ではなく、「〜です」。完全な言い切りだった。空腹時血糖値として、ありえない数値だったわけだ。だから、精密検査をするまでもなく、「糖尿病です」と断言せざるをえなかったのだろう。

 一度こういう大きな内臓疾患をやってしまうと、変な話だが、その後の健康診断はあまり怖くなくなる。もちろん、膵臓がダメになった後、今度は肝臓が、心臓が、腎臓が……ということは十分にありえることなのだが、「すでに病気だし」と思うと、なんというか、肝が据わってしまうのだ。

 採血も昔は大嫌いで、順番が回ってくるだいぶ前から憂鬱だった。たいてい、採血の前に血圧を測定するのだが、その後に控えている採血がいやなあまり、血圧が尋常でなく跳ね上がってしまうのではないかと危ぶまれるほどだった。それが今は、なんとも思わない。今までどれだけこうして血を抜かれたことかと思うと、屁でもない。ああ、ラクだラクだ。

 だからと言って、それが糖尿病になったという事実の不運さに見合うとはとうてい思えないが。

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2007年7月 1日 (日)

ほのかに臭いんですけど

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 つい猫ネタにしてしまうが、飼い主バカ状態ということでご容赦いただきたい。

 ご覧のとおり、ようやく猫らしい顔立ちになってきた。もらった直後は、いつも両目を見開いていて、しかも焦点も合っていない感じで、もしもこれが、仔猫だからなのではなくて、この猫自身の個性の一部なのだとしたらどうしようと心配になっていたものだが、杞憂だったようだ。僕の手などにじゃれつくときも、体を低くして獲物を狙うように上目遣いに睨むなど、肉食獣らしい獰猛な態度を見せるようになり、まずは正常に成長しているのだなと胸を撫で下ろしている。

 ただ、性格がおおらかという点は天性のものらしく、いまだに怒ったところを一度も見たことがない。故・無為などは気難しい猫だったから、ちょっとこっちがおなかを触ったり、顔の近くで不用意に大きな声を出したり、誤って尻尾の一部を踏んづけてしまったりすると、親の仇みたいにキバを剥いて「シャーーーーッ」と威嚇したり「ニギャーーーッ!」と絶叫したりしていたものだが、クーニャンはどういじろうが何をしようがいつもゴロゴロいっている。おなかなんてもう、触り放題だ。

 ただ、ひとつ困っているのが、性格のおおらかさが裏目に出ているのか、ときどきほのかにウンコくさいことだ。見たところ、おしりの穴近辺はきれいにしているようなのだが、たぶんその周囲の毛が微妙に汚れているのだろう。無為はトイレでウンコをする際、トイレのチップにお尻が直接触れないよう、細心の注意を払っていたものだが(トイレのへりに片足をかけたりしていた)、クーニャンは、見ているといつも、チップにぺったりとお尻をつけてしているようだ。しかも、日ごろ、毛繕いをあまり入念にやらない。その結果のほのかなウンコくささだとすると、飼い主としてはいったいどうすればいいのだろうか。

 単にウンコくささを回避したいだけなら、ときどき濡れティッシュなどでお尻の周辺を拭いてやれば済むことだが、それに慣れてしまったら一生それをやってやりつづけるハメになる。できれば自分で清潔に保つことを覚えてほしいのだが、猫でもない僕や妻が、猫であるクーニャンにそれをどうやって教えてやればいいというのか。

 妻が言うには、「最初の頃よりはちゃんとお尻のまわりも舐めるようになってるよ」とのことなのだが、僕は「ほんとかな」と疑っている。基本的に、「多少(自分が)ウンコくさくても気にしない」という性格だとしたら、一向にそれを覚えないのではないだろうか。

 さて、今日は、「野性時代」での不定期連載という形を取る連作短編の2作目(5月号に掲載された『桃の向こう』の系列作品)に着手した。〆切はまだまだ先だが、とりあえず、「こんな感じで」という調子が掴めないと安心できないからだ。10枚分ほど書いてみて、ああ、これならイケるな、と思った。少し安心できたので、実業之日本社向けの書き下ろしにひとまず戻ろう。

 こういう「仕込み」に当たる部分は、土日にやるに限る。ラインを作ってしまえば、書き足していくのは平日、会社帰りでもできるからだ。そういう意味で、土日はものすごく重要なのだと最近気づいた。

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