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2008年2月24日 (日)

魅機ちゃん第8回

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 阿部潤さんとのコラボ、『魅機ちゃん』の連載第8回が掲載された小学館「IKKI」4月号。タイ・レストランを舞台にしたエピソードの後編。

 なんか、山荘にでも行って1日中洋書でも読んでいたい気分である。

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2008年2月16日 (土)

在庫一掃セール

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 誠に残念ながら、僕のデビュー作にして第16回日本ファンタジーノベル大賞受賞作である『ラス・マンチャス通信』が、この3月をもって絶版となることが決定いたしました。

 文庫化のメドも、今のところ立っていません。最悪の場合、この作品は、このままひっそりとこの世から消滅していきます。

 皆様、今が買い時です。現在市場に出回っている分を買い占めてください。もう二度と手に入れられません。陸魚や稲河さん、次の奴や鬼、姉、由紀子、犬、頭の悪いヤンキー(※という表現は、本文中には存在しない)、パトリシア、ミス矢萩、小嶋亮作、そして「アレ」といった萌えキャラたちが今、なすすべもなく消え去ろうとしているのです。

 ちなみにこの作品について「マルケス」云々と僕自身は言った覚えがないにもかかわらず、あたかも僕がそのように僭称したかのように「マルケスには遠く及ばない」とか言われるのはなんだか不愉快だし釈然としないのです。とドサクサにまぎれて言ってしまうぼくがいた。

 

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2008年2月14日 (木)

拙社それがしにござる

When there's no getting over that rainbow
When my smallest of dreams won't come true
I can take all the madness the world has to give
But I won't last a day without you

あの虹をわたることができなくても
ほんのささやかな夢さえ叶わなくても
避けられぬこの世の狂気をやりすごすことはできる
でもあなたがいなければ、私は1日だってもたない
(The Carpenters・拙訳)

 ところで、僕は前から思ってるんだけど、「弊社」のかわりに「拙社(せっしゃ)」って言ってみたらどうなんだろう。意味的にはそう離れていないと思うのだが。

「御社が抱えておられるプロブレムは、拙社のご提供するソリューションによって氷解するものと思われます」

 つうかさー、クソ啓発でなにかが解決できるわけ? 啓発する対象がクソで、啓発しようとする側がクソじゃ、それはクソ啓発にしかならないと思うんですけど。クソがクソを啓発してもクソの自乗になるだけっつうかさー、クソをどれだけ積み上げてもそれはクソっつーかさー。クソは結局どこまでもクソだよね。

 あ、いかん、口が滑った。

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2008年2月10日 (日)

子どもだと思って……

 ケーブルテレビで再放送していた『まんがはじめて物語』を録画して観た。懐かしい。「クルクルバビンチョパペッピポ、ヒヤヒヤドキッチョの、モォ〜〜グタン!」という、タイムスリップ時の呪文(?)も、そういえば飽きるほどくりかえし聞いたなぁと思い出す。

 今回はたまたま、ハム・ソーセージの起源を説くもので、行きがかり上、原始人がマンモスを仕留めるシーンがあったのだが、そこで強烈な違和感を覚えた。男たちが石斧などで追いつめたマンモスの頭上から、女たちが巨大な岩を落としてとどめをさしているのだ。ありえない。女たちは洞窟の中で子育てに専念していたはずだ。近場で木の実の採集くらいはしていたかもしれないが、何日も、場合によっては何週間もかかったであろう狩りに女たちが同行していたなんて、考えられないことだ。

 しかしこの番組の放映は、1978年にスタートしている。時あたかも、フェミニズムが勃興して日本にも上陸していた頃だ。もしかしたら、その方面から思わぬ突き上げを食らうことを恐れて、あえて事実をねじ曲げてまで、男女恊働の図を描いてみせたのだろうか。いや、おそらくそうではあるまい。「そのへんはテキトー」だったのだろう。

 たしかに、その回のテーマは「いかにしてハムやソーセージが作られるようになったか」であり、原始人たちがマンモスをいかにして狩っていたかというのは、本筋とは関係のない部分だ。しかし、子どもにウソを教えちゃいかんのではないか。どうせ視聴者は子どもだと思ってナメていやしまいか。当時、あれを見て誤解した子どももいたのではないか。それに、お姉さん(岡まゆみ)、どうしてモグタンをピクニックに連れていってやらないのか。あんなに行きたがっているのになぜ、「どうしよっかなぁ〜」なんていじわるするのか。かわいそうではないか。

 で、Wikipediaを見て初めて知ったんだけど、モグタンって獏なの? モグラかと思ってましたよ。
 

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2008年2月 7日 (木)

アジア的まどろっこしさ

『忘れないと誓ったぼくがいた』の、タイでの翻訳出版が決まったらしい。契約書が届いていた。『魅機ちゃん』でタイの人々を登場させたところへ、タイムリーな話だ。タイ文字はずっと前にちょっとだけかじってすぐに挫折したのが最後で、さすがに読めないが、あの字で訳されている状態を見るのは楽しみである。

 ちなみにその「ワスチカ」は台湾版も進行中で、この間、表紙のラフがデータで送られてきていた。台湾版のタイトルは〈我們説好了,永遠不忘記〉、なんだか微妙にニュアンスが違うような気もするが、「それ系」の小説だということは見ただけでわかる。「それ系」っていうのはつまり、〈在世界中心呼喊愛情〉系ってことだが。

「ワスチカ」はこれで、韓国、台湾、タイに上陸。あれそんなに普遍性があるのかなぁ。と思いつつ、ひとつだけ推測できるのは、あれはたぶん欧米文化圏ではウケないだろうなということだ(事実、一度英訳の話が出かけたが、ポシャってしまった)。高校生にもなっていながら、あのもどかしい男女関係(と作者自ら言うのもなんだが)。あれはやはり、アジアならではの「奥ゆかしさ」という文化的背景あってこそのまどろっこしさなのだ。たぶん。

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2008年2月 6日 (水)

フリンデン

 ところで僕は大学時代に「フリンデン」というキャラクターで漫画を描いていた。体を「フリンフリン」と力なく振ると、頭の両脇から垂れ下がっている振り子状の物体が振られて、頬を「デン、デン」とでんでん太鼓のように叩くのだ。フリンデンというのは、実は「脱力し、意気沮喪し、失意の底に沈んだ悪魔」であり、頭の両脇の振り子状の物体というのは、悪魔の頭についているあの角が芯をなくして垂れ下がったものなのだ。絵柄をお見せできないのが残念だ(「お見せできない」というのは、技術的に不可能ということではなくて、「あまりにお粗末なので憚られる」の意)。

 ほかにも当時よく使っていたキャラクターは、「ふくろう そして/あるいは ドラえもん氏」というやつだが、これについては大昔に黒いシミ通信で紹介したような気がする(しかも画像つきで)。「ふくろう そして/あるいは ドラえもん氏の生活と意見」という4コマ漫画をよく描いていた。そして「ふくろう そして/あるいは ドラえもん氏」は38歳という設定になっていた。38歳って、今の自分より若いじゃん。自分、オヤジじゃん(今ごろ気づいたのか)。

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2008年2月 4日 (月)

軌道嫁

 こんな新聞の投書欄みたいなことを書くのは本意ではないのだが、最近どうも、街なかなどで、他人との接触を厭わない人が増えてきたような気がする。「厭わない」のは、こちらを物、もしくは夾雑物としか思っていないからなのだろう。彼らは、まさにそういう動き方をする。人の軌道を読まず、ただ自分が進みたい方向に進みたいスピードで直進してくる。怖い。知らねー奴と体が接触するとキモチ悪いと僕は思うので、極力避けようとするのだが、避けようとして動いたところにまた別の「軌道を読まない」奴がつっこんでくる。ああもうカンベンしてくれ。

 それが、「最近の若い連中」に限定されているならまだわかる。実際、感触としては、比較的若い世代にそういう人が多いようだ。しかしそれに限定された話では決してなく、僕と同世代、あるいは僕より上の世代にも、そういう人が増えているような気がするのだ。つまりこれは、「共時的」に進行している事態なのである。

 軌道を読んでほしい。頼むから軌道を読んでくれ。頼むから静かにしてくれ(レイモンド・カーヴァー)。号泣する準備はできていた。世界の中心で愛を叫んだけもの。

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2008年2月 3日 (日)

表記のルール

 3月に実業之日本社から刊行される予定の書き下ろし『プロトコル』のゲラを見ていた。

 ゲラにおいて校正の人が見るポイントのひとつに、「表記のブレ」がある。同じ言葉をあるときは漢字で書いていたり、ひらがなで書いていたり、といった表記を統一すべくチェックをかけるのだ。書き手というのは、特に長編の場合、場所によってけっこう意図せずにバラバラの表記を取ったりしてしまうものなので、その作業は苛烈を極めるだろう。

 ただ、言い分がある場合もある。自分の中ではルール化されており、それを前提に見ていけばほとんどブレがない、というケースだ。たとえば僕は、「続ける」「始める」は必ず漢字で書くが、「〜しつづける」「〜しはじめる」はひらがなで書く。「食べ続ける」と書くより、「食べつづける」と書いた方が、見た目がうるさくないと感じるからだ。

 しかし、校正をする人にとってはそんなの知ったことではないので、同じ「ツヅケル」がある場所では「続ける」、ある場所では「つづける」になっていれば、それらすべてに無条件にチェックを入れて、「どちらに統一しますか?」と示唆してくるわけである。その都度僕は、「これはこういう法則で使い分けているのでママにしてください」と説明する。

  ゲラを見るたびに、そうしたやりとりをめんどうくさいなぁと思っていたのだが、今回、校正をやりながら、「そこまで法則化されてるんだったら、最初からそれを版元に渡しておけばいいんじゃん」と気づいた。校正をする人にも前もってそれを渡しておけば、おたがいの手間が省ける。校正の人には、僕が意図せずにその自分ルールにそむいて別の表記を取ってしまったところがないかどうかを見てもらえばいいのだ(もちろん、その他、単なる誤記なども含めて)。

 ほかの作家さんがどうしているのかは知らないが、同じことに気づいてそういうルール表を作っている人もいるのではないかと思う。もっと言えば、たぶん、それはプログラム化できる。原稿をデータ状態でそのプログラムにかければ、別途登録しておいた「ルール」に従って、自動的に表記のブレを補正する、というやつだ。あるいは、ルールと異なっている部分をエラーリストとして出力するだけでもいい。そういうソフト、需要は絶対にあると思う。だれか作ってくれないだろうか。

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2008年2月 1日 (金)

80年代のトラウマ

 1973年生まれの友人が、よく僕をからかって、「平山さんは80年代にいまだに囚われている」と言う。たしかに僕は、1981年に中学に入学し、大学3年生のときに1990年を迎えたという意味で、ティーンエイジがすっぽり80年代に収まっているコアな世代である。かといって80年代に囚われているという自覚もないのだが、カラオケでだれかがレベッカとかを歌っているのを聴いたりすると、「カッコいいな」と思ったりする。当時は興味がなかった、というよりむしろ毛嫌いしていたのだが、今聴くと「これはこれでカッコよかったのだな」と思う。それがまた、アレンジから何から、ものすごく80年代的なフォーマットに貫かれていて、「そうそう、そこでギターソロ! そうそうこのピュンピュンいうキーボード! そうそう、ここのスネアは電子ドラムの“ズクバーン!”じゃないとね!」と「期待どおり」で嬉しくなってしまう。ということは、当時、それを避けて通っていたつもりでも、実は僕は「80年代的なるもの」の洗礼をしっかり受けていて、今になってそれがトラウマのようにぶり返している、ということなのかもしれない。

 ということを湯上がりに急に思いついたので書き留めておく。

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