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2008年8月30日 (土)

ライフワーク

「その見かけ上の“凡庸”さの陰に隠されたものを読み取ることさえできずにいるのは、残念としか言いようがない」に近い文面をくりかえし推敲している夢を見て、うなされるようになりながら目を覚ました。

 まあ、元ネタは自分でだいたいわかっている。わかってるけどあえて言うまい。それにつけても本当に。じゃあいったいどうすればいいのかという。ああ言えばこう言う。ああ言えば上祐(古い)。

 形を変えて流し込んでいるのだ。流し込んでいるものは、実は同じなのだ。だから結局のところそれは、ひとつのライフワークみたいなものになっていくのだろう。たとえそこには永遠に到達できないのだとしても。夜空に光る黄金の月などなくても(スガシカオ)。

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2008年8月28日 (木)

若さゆえ

 若いうちはせいぜい虚勢を張って人生を謳歌するがいい、と僕はその若者を横目に見ながら思うのであった。若いということは、ある意味で無敵であるということである。そして自分がいかに無敵であるかということは、もはや無敵でなくなってからしか気づくことができない。若さとは、気がついたら過ぎ去ってしまっているものなのだ。

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2008年8月23日 (土)

ラスマン文庫版出来

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『ラス・マンチャス通信』の文庫版(角川文庫)が、そろそろ世に出回りはじめたようだ。

 オビに、森見登美彦さんから素晴らしい推薦の辞をいただいた(著者である僕の名より、むしろ森見さんの名前の方が大きいことについては、スルーしてください・笑)。

 また、非常に力の入った解説を大森望さんが寄せてくださり、恐縮することしきりである。解説の中では、この「白いシミ通信」からもいくつかのセンテンスが抜粋されている。自分で書いて公表しているものなのだが、あらたまって活字にされてしまうと、なんだか風呂上がりにパンツ一丁で涼んでいるところをスクープされたみたいで、なんとも気恥ずかしいものだ。ブログというのは、私的な領域と公的な領域の間のどこかに存在するものなのだということを、あらためて認識した次第である(ちなみに「パンツ一丁」云々は、あくまで比喩的表現である。僕はたとえ風呂上がりといえども、実際はパンツ一丁で涼んだりはしない。なにしろ、スクエアな人間なもので)。

 それにしても、僕はデビュー以来、いくつかの理由から、この「ラスマン風味」みたいなものを、意識的に封印してきたようなところがあるのだが、文庫化がきっかけで少しでもこの作品が市民権を得てくれればいいなと思っている。そして、再び、なんらかの形で、「ラスマン風味」を全開にした作品を発表できたらいいなと思っている。

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2008年8月20日 (水)

新連載『理想の人』

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 小学館のPR誌「きらら」で、長編『理想の人』の連載が始まった。今回は、どういう話だと言えば伝わるだろうか。最もミもフタもない言い方をするなら、「デスノートチックな話」である。もう少しもったいをつけた言い方をするなら、「『忘れないと誓ったぼくがいた』において僕が“泣ける純愛小説”の皮をかぶりながらひそかに行なっていた、“記憶”というものをめぐる一種の思考実験を、さらにドラマティックに深化させたもの」である。たぶん、その中間の、もっと普通に「おもしろそう!」と思わせられるような言い方があるはずだと思うのだが、自分では見つけることができない。僕は多くのものを、自分では見つけることができないのだ。ターミネーターが自らをterminateすることができないように。

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2008年8月19日 (火)

意味なき死

 だれかが死ななきゃ話が始まらないのか? そんなわきゃあないと思うが。僕は謎解きのためにまず最初にだれかが意味もなくパタパタ死んだり、「痴情のもつれ」だとか「遺産相続争い」だとかそういうくだらない理由でだれかが安易に殺されたりするのががまんならないのだ。いやしくも人が1人死ぬならそれ相当の理由と背景がなければ。それを描けないなら人の死なんて扱うべきではないのだ。

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2008年8月15日 (金)

スクエアな俺

 ところで昨日は、新潮社で約4年間担当をやってくれたGさんが編集長に昇進したのに伴い、後任のNさんとの顔合わせを兼ねた食事会だった。Gさんが事前にNさんに伝えていた注意事項のひとつは、こういう内容だったという。

「平山さんはとてもスクエアな人なので、何を伝えるにしても、変にお茶を濁したりせず、なにか理由があるならそれもきっちり明瞭にした上で、正確なところを伝えなければならない。平山さんは、すべてを正確に把握した上で、“だったらどうするか”と考えるタイプだから」

「これ、すっごく正しいと思いませんか?」とGさん。「いや、100%そのとおりです。すごく正しいですよ。ダテに僕の担当4年やってませんね」と思わず太鼓判を押してしまった。京都出身というNさんは、「どうしましょう、京都はまさに“お茶を濁す”文化が発達している土地柄なので……」と言ってビビッていた。

 や、大丈夫でしょう、たぶん。正確にわからないからと言って怒りはしません。ただ、理解できないと行動を起こせないだけですので(まあいわば、『プロトコル』のちさとの男版みたいなものだ)。

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2008年8月13日 (水)

黒いシミ

 ミック・ジャガーが「黒く塗れ」と叫んだ気持ちが、わかる瞬間がある。

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2008年8月10日 (日)

ラスマン文庫版予告

 8月25日発売予定の角川文庫版『ラス・マンチャス通信』、Amazonでもう書影がアップされていたので、サイドバーのリンクに加えておいた。カバーの装画は、若手ペインター榎本耕一さんの作品。単行本のときの田中達之さんのあれと同じく、既存の作品の中にたまたまピッタリのものがあった。終盤近くに出てくる「山荘」や、そこに棲む不気味だが力強いある生き物のイメージと重なり合う絵だ。

 しかし文庫というのはほんとにかさばらないな。文庫しか買わない、文庫でしか本を読まないという人たちの気持ちもよくわかる。

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2008年8月 8日 (金)

やおら語り出す僕

 9月に出る『桃の向こう』で、僕はたぶん初めて意識的に、「やおら」を「突然、不意に」の意味で使った。案の定、ゲラには、「“やおら”は“徐ら”と書いて“ゆっくり”の意なので、“不意に”ナドに替えては?」との校閲が入っていた。そこで僕はこう返した。「それは了解していますが、“やおら”は実勢、すでにほぼ“突然、不意に”の意味で使われているという感触を持っているため、あえて使用しました。ママにしてください」。

 僕は基本的に、ある言葉の使われ方が、当初は「誤用」であったとしても、その「誤用」の方がかえって普及してしまって一般的になってくれば、いずれかの時点で、もはやそれを「誤用」と呼ぶことが適切ではなくなるものだと思っている。もしもそれを未来永劫認めないとすると、同じ日本語でありながら、平安時代や室町時代と現代とで、言葉の形や意味合いや使われ方が異なっていること自体、説明がつかなくなってしまうからだ。その使い方が正しいかどうかというのは、たまたまそれが変わりゆく過程にあるときに問題になることで、実勢ですでに「勝負がついて」しまっている中で、「本来の」用法にこだわりつづけることに、僕は積極的な意義を見出すことができない。

 さらに言うなら、「本来」は「ゆっくり」の意味であった「やおら」を、ではどうして今、多くの人が「突然、不意に」の意味で使うようになったのか、という点に着目する必要があると思う。もしもそれが、「突然」あるいは「不意に」と意味合いの上でまったく等価であり、単純な入れ替えが可能であったとしたら、そもそも「やおら」という別の語をそこに充当する必要はなかっただろう。つまり、「やおら」には「やおら」の、他と取り替えのきかない、独自のニュアンス(の領域・持ち分)があるのだ。「やおら」と「突然」あるいは「不意に」は、ニアイコールでしかない。そしてある文章を書いているときに、「ここには“やおら”を使いたい、ここは“やおら”がいちばんしっくりくる」と僕が感じたとしたら、その感覚には必ず、意味があるのである。

 僕はおおむね、そのように考えている。その観点から言うと、「やおら」と同じく、「本来」は「ゆっくり」の意味であったのが、「突然、不意に」の意味で使われだした語として「おもむろに(徐に)」があるが、これはまだ、僕の中でギリギリ、「ゆっくり」の意を保持している。しかしどうだろうか。それはあくまで、僕の個人的な感覚であって、実勢はすでに逆転し、そろそろ勝負がつきはじめているのかもしれない。

 このへんの僕の立場については、かつて旧ブログ「平山瑞穂の黒いシミ通信」で長々と論じたことがあるのだが、先日、過去の記事のバックアップを取ったつもりで、誤って全部消去してしまった。言語考察部分と、先代の飼い猫「無為」についての記事だけでも取っておきたかった……。

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