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2008年8月 8日 (金)

やおら語り出す僕

 9月に出る『桃の向こう』で、僕はたぶん初めて意識的に、「やおら」を「突然、不意に」の意味で使った。案の定、ゲラには、「“やおら”は“徐ら”と書いて“ゆっくり”の意なので、“不意に”ナドに替えては?」との校閲が入っていた。そこで僕はこう返した。「それは了解していますが、“やおら”は実勢、すでにほぼ“突然、不意に”の意味で使われているという感触を持っているため、あえて使用しました。ママにしてください」。

 僕は基本的に、ある言葉の使われ方が、当初は「誤用」であったとしても、その「誤用」の方がかえって普及してしまって一般的になってくれば、いずれかの時点で、もはやそれを「誤用」と呼ぶことが適切ではなくなるものだと思っている。もしもそれを未来永劫認めないとすると、同じ日本語でありながら、平安時代や室町時代と現代とで、言葉の形や意味合いや使われ方が異なっていること自体、説明がつかなくなってしまうからだ。その使い方が正しいかどうかというのは、たまたまそれが変わりゆく過程にあるときに問題になることで、実勢ですでに「勝負がついて」しまっている中で、「本来の」用法にこだわりつづけることに、僕は積極的な意義を見出すことができない。

 さらに言うなら、「本来」は「ゆっくり」の意味であった「やおら」を、ではどうして今、多くの人が「突然、不意に」の意味で使うようになったのか、という点に着目する必要があると思う。もしもそれが、「突然」あるいは「不意に」と意味合いの上でまったく等価であり、単純な入れ替えが可能であったとしたら、そもそも「やおら」という別の語をそこに充当する必要はなかっただろう。つまり、「やおら」には「やおら」の、他と取り替えのきかない、独自のニュアンス(の領域・持ち分)があるのだ。「やおら」と「突然」あるいは「不意に」は、ニアイコールでしかない。そしてある文章を書いているときに、「ここには“やおら”を使いたい、ここは“やおら”がいちばんしっくりくる」と僕が感じたとしたら、その感覚には必ず、意味があるのである。

 僕はおおむね、そのように考えている。その観点から言うと、「やおら」と同じく、「本来」は「ゆっくり」の意味であったのが、「突然、不意に」の意味で使われだした語として「おもむろに(徐に)」があるが、これはまだ、僕の中でギリギリ、「ゆっくり」の意を保持している。しかしどうだろうか。それはあくまで、僕の個人的な感覚であって、実勢はすでに逆転し、そろそろ勝負がつきはじめているのかもしれない。

 このへんの僕の立場については、かつて旧ブログ「平山瑞穂の黒いシミ通信」で長々と論じたことがあるのだが、先日、過去の記事のバックアップを取ったつもりで、誤って全部消去してしまった。言語考察部分と、先代の飼い猫「無為」についての記事だけでも取っておきたかった……。

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