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2008年11月27日 (木)

それは疑問なのか

 ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリングの『ディファレンス・エンジン』が早川文庫から復刊されたので、上下巻とも問答無用で購入し、まもなく読み終わるところである。

 僕はこの小説の存在だけ知っていて、ずっと読みたいと思っていたのだが、その頃はちょうど絶版で、どこでも手に入らない時代だった。でもどうしても読みたかったので、原書を買って読んだ。かなり長いので、読みはじめるときはちょっと躊躇したし、洋書を辞書なしでスラスラ読めるほどの語彙力はないので、ほかにもいろいろやるべきことはある中、毎日何ページかずつ、じわじわと読んでいくよりほかになかったのだが、ペーパーバックで383ページ、終わりまで読み切った根気については、自分のことながら称賛に値すると思っている。

 そして今、黒丸尚さんの翻訳を読みながら、「あ、たしか、川べりのボロっちい家で娼婦と寝るんじゃなかったっけ」とか、「ああ、この後、たしか変なビラをローラーで壁に貼ってる奴がいるんだよな」などと場面場面の記憶が呼び起こされ、それが正確なので、自分がおおむね正しく読解していたことを知ると同時に、「人は文章を読むとき、それが何語で書かれているかにかかわらず、文章というよりは“概念”を読んでいるのだ」ということに気づかされる。

 それにしても僕は、黒丸さんが「?」の代用として使っておられる「……」に、どうしても慣れることができない。日本語の文章の中に、外来の記号である「?」や「!」が混入することを避けようとされている(ちなみに「!」は、省略するか、もしくは小さい「っ」で代用されているようだ)のかなと推測するが、「……」にはそれ自体にももともと意味というか役割(沈黙、言いよどみ、不同意、躊躇など)があるため、いちいち「なにか含みがあるのかな」とつい脳が勘ぐってしまうわけである。

 ただ、「?」や「!」がやたらたくさん入っている日本語文は、たしかにあまり美しくない。僕自身は、特に「?」については早々に屈服して、それを入れないと台詞の意味合いが一意的に定まらないと思われるときは躊躇なく使ってしまっているのだが、なにかうまい解決法はないものだろうか。たとえば、疑問文の文末には、必ず「か」を添えるとか。

「私のこと嫌いか」
「なんでそんなこと訊くのか」
「ううん。ただ、気になって。嫌いじゃないのか」
「あたりまえじゃないか」
「“あたりまえじゃないか”って、あたりまえであるか否かを私に訊ねているのか」
「何を言ってるのか。それは疑問なのか」
「だから、疑問かどうかを訊いてるんじゃないのか」
「ああもうわけわかんねぇ。やっぱこれは使えなくねか」
「どこの方言か」

 無理だな。

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