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2009年1月27日 (火)

日本語ができるということ

 今日、ある人に、「平山さんはそんなに日本語ができるのに、その上英語など外国語もいろいろできてすごい」という意味のことを言われて、思わず噴いた。

「日本語ができる」と言われたのは、たぶん生まれて初めてである。しかし僕には、彼女の言わんとするところがたいへんよくわかった。彼女は、日本語を、持って生まれた、使えてあたりまえの「ことば」としてではなく、英語やイタリア語や韓国語やウルドゥー語と横並びに存在する、独自の文法体系・語彙体系を備えたひとつの「言語」として捉えた上で、その「言語」としての「日本語」の運用能力のことを指してそう言っているのである。

 たしかに、あらたまって見回してみれば、日本語を母語とする人たちの中にも、あまり「日本語ができない」人というのが、けっこうなパーセンテージで存在すると思う。自分の考えていることを、明晰な言葉に変換できない人。論理的な説明することができない人。誤解の余地のある言い回しを平気で使ってしまう人。一方的な思い込みによる、「言わなくてもわかるだろ」的な以心伝心幻想に大幅に依存して、自分の考えを逐一言語化する努力を惜しむ人。

  わたしは、以心伝心など信じない。伝えたいことがあるなら、それはその都度、言葉にすべきなのだ。(『プロトコル』p.66)

 上記、有村ちさとの独白は、そのまま僕自身の信条でもある。しかし、いざそれをしようと殊勝な努力をしても、あるいは、本人はちゃんとそうしているつもりでも、それが実効性のある行為として機能していない場合がある、というか、そういう人がいると思う。そういう人は、要するに「日本語ができない」のであって、それはもう、どうしようもないことなのかもしれない。

 なお、日本語の運用能力はともかくとして、「英語など外国語もいろいろできてすごい」の部分は、ほぼ、彼女の買いかぶりである。僕は「つまみぐい」はたくさんしているが、「話せる」レベルまで達した外国語は、ひとつとしてない。だからせめて、いちばん得意な「日本語」をもっとできるようになりたいと思っている。それが、物心ついて以来の、僕の見果てぬ夢なのだ(嘘)。

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