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2009年12月27日 (日)

非社交的であること

 アメリカ製のできのいいTVドラマを観ていていつも感心するのは、登場人物がどれだけたくさんいても、それぞれの人物の周囲をめぐるサブプロットが非常にていねいに描かれていて、誰ひとりとしておろそかにはされていないことだ。「そういえばあいつらはその後どうなったのかな」と気になりだしたあたりで、ちゃんとその人たちのその後を描くエピソードが挿入されたりする。そしてそれが、物語全体との有機的なつながりを維持している。みごととしか言いようがない。

 先日、「きらら」での連載原稿の最終回分が校了になった『理想の人』は、僕の作品の中では異例と言っていいほど登場人物の多い小説であり、チョイ役も含めれば30人以上が名前を持った人物として登場する。メインキャラクターだけ数えても十数人にはのぼるだろう。この人たちを物語の中でいかに配置し、最後までいかに活躍の機会を与えるつづけるかという面において、慣れない僕は並大抵でない苦労をさせられた。

 それはひとつには、個人としての僕が決して社交的な人間ではないこととも関係している気がする。一定以上の密度を持った恒常的なつきあいを持続できる人の数が、規模としてあらかじめ定められていて、それを随意に広げることができないのである。その「規模」というのは、せいぜい10人前後がいいところだ(実勢を考えれば5、6人かもしれない)。無理に広げれば、1人1人に対して目が行き届かなくなり、いつのまにか何人かを完全に視野から追いやってしまっていたりする。20人に増えたと思っていたのに、気がついたら結局そのうちの10人としかつきあいを続けていなかった(構成が若干変わっただけで、規模は変わっていなかった)、といった具合だ。

 しかしそれを言うなら、「社交的な小説家」などというものがどれだけいるだろうか。そういうタイプの人もいるにはいるが、どちらかといえば少数派だと思う。社交が好きなくらいなら、小説なんて書いていないだろう。人間には興味があるが、どちらかというと外から眺めていたいのだ。外から眺めていてさえ、数が多すぎるとしばしば存在を忘れてしまうくらいなのだから。

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