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2010年1月29日 (金)

若かったあの頃

 今回ははっきり言って長い。たぶん、このブログ開闢以来最長の記事だろう。だから、興味のない話題だと思ったら読んでくれなくてもいい。あるきっかけで思い出した、5年近くも前のできごとである。僕は基本的に、これを「過ぎたこと」として書こうと思う。自分の中で、やっとそれが「過去」になったということだ。

 当時僕は、はてなダイアリーで「平山瑞穂の黒いシミ通信」というブログをほぼ毎日更新しており、コメントもトラックバックもフルに受けつけていた。ある日の記事についたトラバをなにげなく辿っていったら、一個人のものと思われるブログに導かれ、読んでみたら、その中で僕のブログがけなされていた。いわく、「作家のくせに、こんな倒れるほどくだらないブログを書く人がいたのか。ブログはうまく使えば優れたプロモーションのツールになるが、これでは負のプロモーションになっている」。

 おぼろげな記憶なので、文言は上記のとおりではなかったかもしれないが、意味内容としてはこれと大きく外れていなかったと思う。正直、目を疑った。こんなあしざまに言われるほど「くだらない」ブログを自分が書いていただろうか、という思いもあったし、そういう悪口を書くのはいいとして、それをわざわざトラバという形で本人に知らしめようとするその神経が、僕の常識・良識をもってしては理解できなかったのだ。

「平山瑞穂の黒いシミ通信」に書いたテキストは、一度、誤操作によってすべて削除してしまったと思っていたが、実はまだ残っていたことが最近わかった。記憶を頼りに、「くだらない」とこき下ろされた当の記事を探り当てることができたので、以下にその全文を転載しよう。2005年9月19日づけの記事である。

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[考察] ちっちゃな頃から悪ガキで

 民主党の前原誠司新代表のカラオケにおける愛唱歌は谷村新司の「昂」、代表選で惜敗した菅さんは「ギザギザハートの子守唄」だという。けっこう年輩の人で、やはり「ギザギザハート~」をカラオケの十八番にしている人を僕はほかにも知っているが、どうしてあの歌が一定年齢以上の人をそこまで惹きつけるのだろうか。

 これはまったくの臆測なんだけど、彼らには「悪ガキ願望」みたいなものがあるのではないか。社会的に成功してしまった人ほど、「こう見えても昔はワルだったんだよ」とか「悪ガキのああいう気持ちがわかる時代が俺にもあったんだよ」という形で自己を再定義したがる傾向があったりするんじゃないか。

 と書きながら思ったんだけど、「悪ガキ」ってのももうすっかり使われなくなってしまった言葉だな。チェッカーズがあれを歌った時点で、すでに現役の言葉ではなくなりつつあったような気がする。「悪ガキ」と言うとイメージ的に思い浮かぶのは本宮ひろし的世界だが、そういう世界観自体がだいたい1980年代あたりを境に急激に退潮し、消滅していってしまったのではないか。

 かく言う僕自身、中学生くらいの頃は問題を起こしまくっていたわけだが、僕の場合それは、「悪ガキ」という語が内包するような爽快さとは無縁の、文字どおりの「問題」ばかりで、「悪ガキ」というよりは「問題生徒」って感じだったと思う。僕の頃は校内暴力とかイジメの問題がクローズアップされはじめた時期で(一応言っておくと僕はそのどちらにも与していないが)、学校やその周辺における「悪」の形が一気に陰湿化したのもその頃からだ。

「あの頃は悪ガキだったよ」という述懐はノスタルジーを伴った牧歌的な一種の自慢話になりうるが、僕ぐらいの世代の人がそんなことを言い出しても、どこか嘘くさく感じられてしまうのだろうなぁ。

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 以上である。今読み返しても、これのいったいどこが「倒れるほどくだらない」のか、申し訳ないがどうしてもわからない。思わず膝を叩きたくなるほどおもしろいことを言っているわけでもないだろうが、これが特筆するほど「くだらない」記事だと言えるだろうか? 言ってはなんだが、もっと「くだらない」ブログを書いている人間はほかに山ほどいる。その中で、なぜ僕のこのブログがことさらに狙い撃ちされなければならなかったのか。

 正確には覚えていないが、そのトラバを送ってきた彼(仮に男性とさせてもらう)はたしか、僕が「悪ガキ」という語について「チェッカーズがあれを歌った時点で、すでに現役の言葉ではなくなりつつあったような気がする」と書いたことについて、「チェッカーズだってそれをひと時代前の風俗のパロディとしてネタ的に扱っていたと思う」といった意味合いの言葉でケチをつけることから始めていたと思う。しかし、僕に言わせればそこからしてまず見当違いだった。

 僕は、チェッカーズが、というより、彼らをあのような形で売り出した側が、「悪ガキ」的世界をネタとしてフィーチャーしていたということはもちろん了解した上で、当時でさえ「すでに」そのようにネタとして扱われるほど、「悪ガキ」という語が「現役の言葉ではなくなりつつあった」というまさにそのことを指摘しようとして上記の文言を書いたわけであって、その文意はまともな読解力を持った人になら自然に読み取れたはずだ。彼は僕を批判しているつもりで、まさに僕が言おうとしたことを結果として自分で言い直していたのにすぎない。

 逆に、彼は僕のブログが「くだらない」とする理由を、ほかにはいっさい具体的に例示していなかったと思う。つまりそれは、実のところ「批判」ですらなかった。ただ言いがかりをつけているのに近かったと思う。

 そんな見当違いなケチをつけているという時点で、彼がまともな反論等に値する人物ではないということははっきりしていたはずなのだが、僕はついむきになってしまった。

 いや正確には、この時点でむきになったわけではないのだ。もちろん腹は立ったが、ここで仮にもプロの作家が、ブログの一読者に食ってかかったら沽券に関わると思って、歯ぎしりしながらスルーしたのである。しかし、彼の揶揄はこれに留まらなかった。

 しばらくしてまた同じ人物の同じブログからトラバが飛んできたので、見ない方がいいと思いながらつい見てしまったところ、今度は彼は、これも正確には覚えていないが、たしかどこか海外のポータルサイトのトップページから作家のブログが読めるようになった、といった内容のネット上のニュースかなにかを紹介する中で、「平山瑞穂さんは参加しない方がいいです(笑)」とひとこと書いた上で、ごていねいに僕のブログへのリンクを貼っていた。

 あきらかに、「作家とはいっても書いているブログは倒れるほどくだらないから」という意味を込めたあてこすりである。これには僕も、堪忍袋の緒が切れた。特に末尾の「(笑)」に含まれるおちょくりが、僕の怒りボルテージを一気に沸点にまで高めてしまったのだ。

 それでつい、彼のブログのコメント欄に、「どういう意味でしょうか」と(よせばいいのに)書き込んでしまったところ、彼は待ってましたとばかり、「先日から失礼なトラックバックを送ってすみません。平山さんの作品はまだ拝読していませんが、ブログにはくだらないことを書いてらっしゃるようなので云々」とのレスをつけてきた。そこからはもう、泥仕合である。

 結局、「あなたが僕のブログにどんな感想を抱こうがそれはあなたの勝手だし、それをあなたがご自分のブログ等に書くのもあなたの勝手だが、それをわざわざ本人のブログにトラックバックという形で知らしめるのは、人をくさしておもしろがっているようにしか思えない。今後、こうしたトラックバックはいっさいご遠慮願いたい。わざわざ知らせてこないかぎりは、あなたがどこで僕のことを悪く言おうがいっさい関知しない。たまたま目に留まってしまったとしても見なかったことにする」という趣旨の長文のコメントを書き込み、彼が「はあ、わかりました」と答えたことで、この問題は一応の終息を見た。

 取り合うべきではなかったと思う。毅然として無視するべきだったのだ。そんなみっともない対応をしてしまったことを今では心底悔やんでいるが、しかし同時に今でも、「無理もなかったな」と思う。僕はまだ「プロの作家」という立場になって日が浅かった(1年も経っていなかった)し、ネットの世界についても初心者に近く、ネット上に飛び交うさまざまな形の悪意に対して免疫がなかったのである(白状すれば、今もってたいして免疫がついているわけでもない)。

 彼は僕の猛烈な反撃にさすがに憮然としながらも、一応約束は守ってくれたようで、その後、不愉快なトラバを送ってくることはなくなったが、彼がネット上に放った僕についての言及が「たまたま目に留まってしまった」ことは、実は何度かある。ひとつは「作品はともかく、ブログが倒れるほどつまらない」というもの(悶着の後、どうやら本も読んではくれたらしい。しかも、作品については必ずしも悪い評価ではなかったようだ。そこは彼の公平な部分として評価してもいい)、もうひとつは、「平山瑞穂にブログがつまらないとトラバしたら目につくところで悪口書くなと言われた」という内容のtwitterだった。

 今でも彼が僕のブログをチェックしているのかどうかは知らない。仮にこのブログを読んだとしてどんな感想を持つかも関知するところではない。また、こんな風にことさらに彼との悶着を取り上げることは、それこそ彼の思うツボなのかもしれない。いずれにせよ、これは彼に向かって言うわけではないのだが、当時の僕が本当に言いたかったのはこういうことだ。

 当時も今も、僕は兼業の作家である。月曜から金曜までは、フルタイム、会社員としての仕事もしている。その上、年間2、3冊は単行本を刊行できるほどの量の小説を書いている。それだけでも労力としてマックスに近いと思うのに、さらにブログまで書いているのだ。しかも例の一件があった当時は、ほぼ毎日更新していたし、おまけにコメント欄での応酬まできっちりやっていた。

 その制約の中で、ブログを書くことにいったいどれだけの時間と労力を割けるというのか。毎回おもしろいことを書ければそれに越したことはないが、僕の仕事は「ブログを書くこと」ではない。それでも極力、なにがしかおもしろいことを書かねばと思って時間を工面し、わずかな余力を振り絞って書いた記事を、どうして「倒れるほどくだらない」などとけなされなければならないのか。ましてそれを、まるで公開処刑のように、自分のブログへのトラバという形で知らされるなんて、理不尽にもほどがあるというものではないのか。

 スルーすればいいのだ、と人は言うだろう。しかし、心情的にどうしてもスルーできないことだってある。作家だろうがなんだろうが、人の子にはちがいないのだ。

 もしも僕が、それこそ村上春樹ばりにネームバリューのある作家だというのなら、それもやむなしとしよう。大勢が支持しているものをあえてこき下ろして自分の独自性を主張しようとするヘソ曲がりは必ず何%かは存在するものだし、ごく一部のそうした連中に心ない攻撃をされたところで、すでに確立された名声は揺るぎもしないからだ。それはいわば、「有名税」みたいなものにすぎない。

 しかし、あきらかに知名度の低い、その分、地べたを這いつくばって悪戦苦闘している立場の人間を標的に、なにかをくさしたりけなしたりして、つまらないことで優位に立ったつもりになり、悦に入っているような手合いを、僕はどうしても許すことができない。これは何も僕自身についてばかり言っているわけではない。YouTubeのコメント欄などを観ていても常々感じることだ。

 たとえば、少しでも知名度を上げようと努力している、あまり有名ではない芸能人が自らアップした動画に、「誰だこのブス」「キモい」などというコメントを平気でつける連中。そう言うおまえはいったいなにほどのものなのか、と言いたくなる。そう思うのは勝手だが、それをわざわざ本人に知らしめて何が楽しいのか、と。相手が一般人でさえなければ何を言ってもいいと思っているのか、と。せめて、地べたを這い回るこの思いを自分で味わってからものを言え、と。

 なお、彼のもうひとつの指摘、つまり、そうした「くだらない」ブログが「負のプロモーション」になっているという点についてだが、では逆に問いたい。作家にとって、ブログを作家としての本業に寄与する「正の」プロモーションにするには、いったいどんな記事をどんな風に書けばいいというのか。

 ブログを作家としてのプロモーションの道具にできるなんて幻想を、僕はとっくに捨て去っている(2005年当時はまだそれを信じていた。今から思えばなんとナイーブだったことか)。今でもこうして何日かおきに更新しているのは、「僕はまだ消え去ったわけではない、現在も活動中である」という旗印を掲げる目的のためでしかない。あるいは、ふと「平山瑞穂」という作家に興味を持ってくれた人が、ネットでその名前を検索したとき、手っ取り早い情報源としてこのブログを活用してもらえればいい。それで十分だと思っている。

 毎回もっと時間をかけて、もっともっと「おもしろい」文章を書けば、読者を増やすことはできるだろう。しかし、そのとき増えるのはあくまで「僕のブログの読者」であって、僕の著作の読者ではない。僕のブログをおもしろいと思ってくれたからといって、その人がお金を出して僕の本を買ってくれるとはかぎらないのだ。いや、誓ってもいいが、いたとしてもそれは少数派だろう。彼らは、「タダで読めるおもしろい文章」を求めているだけなのだ。「課金」されるとなれば、大半は蜘蛛の子を散らしたように一瞬で退散していくにちがいない。ネットというのはそういうものだ。この5年間で、その程度のことは僕も学んだ。

 書きながら思ったが、この問題はどうやら、僕の中でまだちっとも「過去」になどなっていないらしい。しかし少なくとも、冷静に語ることができるようにはなったと思う。いつか、こんな長文の記事を書いたこと自体、笑い話として思い出せるような立場になれたらいいと願う。

 願うのは勝手だろう。


〈1/31追記〉
 念のためだが言い添えておく。僕は、ネットで自分のことを悪く言われたこと自体を云々しているのではない。そんなのは避けられないことだし、それを恐れていたら作家活動などそもそもできない。僕が「許せない」と言っているのは、正当な批判とも思えない、ただ言いがかりをつけてくさしているような揶揄的な内容の記述をネットにアップし、それをわざわざトラックバックのような形で本人に知らしめようとする(そしてそのことで優位に立とうとする)さもしい根性のことだ。

 上記記事をまともに読めばそんな趣旨は自然に了解できるはずであり、あえて解説するまでもないが、残念ながら僕はネットに触れる人々全員の読解力をそれほど信用しているわけではない。まあ、どうせこんな慎重な予防線を張らねばならないほど、このブログの読者は多くないと思うが。

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