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2010年2月 2日 (火)

忘れていたその人

 正月に川越の実家に行ったとき、父親が、戦後まもない頃の貧乏学生時代に進駐軍経由で大学に寄付されていた本を今でも持っていると言って、書斎から洋書を山のように出してきた(ただし一部、僕が学生時代に買って家に置き忘れていったものが紛れ込んでいたが)。中には、それで人でも殴り殺せそうなほど巨大で重いランダムハウスの英英辞典もあったが、実家にいる頃、僕はそれを父親が入手した経緯も知らずに何度か引かせてもらっていたものである。

 ところでその英英辞典の巻末にある"ENGLISH GIVEN NAMES"という付録を見ると、JamesだとかEmilyといった英語圏の人名が男女別・アルファベット順に並べられており、それぞれの名前の由来(ギリシア語起源かラテン語起源か、もとの意味は何かなど)を手早く調べられるようになっている。瑞穂はきっと興味あるだろうと言うので、とてもあると答えた。もともと「語源マニア」でもある上に、今は小説に外国人を登場させる際、名前に困ることがあるからである。父は、後日、そのページだけコピーして送ると約束してくれた。

 先日、約束のコピーが届いたのだが、そこに父の手書きのメモが添えられていて、「サリンジャーの好きな短編に出てくる“エズメ”という女性名が気になっていたが、この人名辞典で引いてみたら“エスメラルダ”だったと知って感動した」という意味のことが書いてあった。なるほど、"Esme"の項には、"short for Esmeralda"とある。

 父が言っているサリンジャーの短編とは、『ナイン・ストーリーズ』に入っている「エズミに捧ぐ ---愛と汚辱のうちに」のことである。僕が持っている新潮文庫版の野崎孝氏訳では「エズミ」となっているが、父が読んだのはたぶん大昔の角川文庫から出ていた、サリンジャーの短編の選集に収録されていたものだと思う。高校生の頃、僕もそれで読んだ記憶があり、そっちはたしか「エズメ」と表記していたはずだ。

 実際、原題は、ネットで調べたかぎりでは" For Esmé ----with Love and Squalor"となっており、これを素直に読めば「エズメ」の方が正しいのではないかと思う。そしてランダムハウスの付録でも、("e"の上にアクサン記号こそついていなかったが)発音記号は「エズメ」と読ませるようになっていた。

 まあ(有村ちさとじゃあるまいし)発音のことはともかくとして、それを受け取ってから、そういえばサリンジャーも久しく読んでいないなぁ、今年のどこかで暇を見つけて読み返してみるかなぁ、となんとなく思っていた。なにしろサリンジャーは、高校時代の僕が最も影響を受けていた作家の1人なのである(「ご多聞に漏れず」という感じだが、そこはまだ高校生だったということで大目に見てほしい)。「ライ麦畑」は、原書や村上春樹訳も含めもう計8回くらいは読んでいるから、ほかの短編にしよう、などと考えていたその矢先、当のサリンジャー逝去のニュースが入ってきた。

 なんという暗合であろうか。サリンジャーのことなどここ10年近く(くどいようだが村上春樹訳のあれを読んだときを除けば)存在自体ほぼ忘れていたというのに。

 しかし亡くなったとなればやはり、追悼的になにかが増刷されたりフィーチャーされたりするのだろうか。そうなると、ヘソ曲がりな僕としては「ほとぼりが冷めるまで」やり過ごそうとし、結果としてそのまま忘れ去ってしまうことになるのだろうなぁ。今度サリンジャーを思い出すのはいったい何年後になるだろうか。

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