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2010年9月23日 (木)

ほええ……

 台湾で『汚點通訊』として刊行された、『ラス・マンチャス通信』の中国語版に対する感想らしきものがネット上に現れていたので、Googleの自動翻訳機能を使って日本語で表示させてみたのだが、もののみごとに意味がわからない。経験的に言って、GoogleにせよYahoo!にせよ、日本語への翻訳で最も意味不明な訳文になるのは中国語だということはわかっていたので今さら驚きはしないが、あまりのわからなさにちょっと泣きたくなった。こんな感じだ。

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 穏やかな内向的な私は、それは少年を主訴にするのは簡単です。 
シスター、人形のような知的で、静かで、美しい女性。 
私は、姉妹、一緒に両親と、もともと家だったとバラバラに陽気を行います。 
"患者する必要があります好きいない場合でも、"私の父は私に言った。
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 しかし総じて、この人が「ラスマン」をどうやら褒めてくれているらしいというそのニュアンスだけはおぼろげながらわかった。また、『忘れないと誓ったぼくがいた』の著者と同一人物とはとても思えない、という意味のことを言ってくれているらしいこともわかった。

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デビューは、"コミュニケーションにしみ、"ディアー富栄の仕事"は、 まあ、我々によると、決して忘れない (忘れて)バイバイを宣誓をれないとがいっくぼ"と、それの手と同じ作家から男性に想像は難しい。
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 この「まあ、我々によると、決して忘れない」の部分が、「ワスチカ」の台湾版『我們說好了,永遠不忘記』 である(なんだそのやる気のないタイトル)。

 で、この人はこのブログ「平山瑞穂の白いシミ通信」(自動翻訳後の表記では、「みずほ平山ミシのい通信白」)へのリンクも貼ってくれていたので、ためしにそれをクリックしてみたら、なぜかそれまで、この意味不明の訳文と同じ文体になっていた。たとえば前回の「吠えよオッサン」の冒頭部分は、こうなっている。

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吠ええよッオサン

 以前は、や電気自動車での人々はナぜのレストランがえるのか、その理由は、このひとつが成功しなかっtaのということがてに解決しようとテストみのを推論にバンドでだれかとの言葉しているのが嫌なナ感じを他の人を運ぶあっtaを。
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 いったいなぜこんなことになってしまうのだろうか。想像するに、この自動翻訳機能を使ってなにかを見ているときは、リンク先の言語が何語であったとしても、翻訳元の言語(この場合は中国語)に一度無条件に変換した上で、それをさらに日本語に直しているのではないかと思われる。それにしても、自分が書いた文章までこうなってしまうというのは、ちょっとしたトリップ感を味わわされる奇妙な体験である。

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2010年9月21日 (火)

吠えよオッサン

 以前、なぜ飲食店内や電車内で人が携帯でだれかと話しているのが不愉快な感じを他の人に与えるのか、その理由を論理的に解析しようと試みて今ひとつ成功しなかったということがあった。

 そのとき掲げた仮説は、デシベルがどうこうと言うより、話している本人が、「自分は今携帯でだれかと話してるんだ」ということをなんらかの意味で誇示する(たとえば、「俺はこうして仕事の指示を人に与えられるようなエラい立場にいるのだ」アピールなど)意図を持っているらしいときに、物腰や口調ににじみ出るその自意識が不愉快なのだ、というものだった(その証拠に、周囲を憚ってなるべく小声で話そうと試みている人には、あまり不快さを感じない)。

 しかし、それだけでは説明のつかないケースというものもあって、だったらその定義は十分なものではないということになる。今日またその「例外」的なケースに遭遇したので、後学のために(?)ここに書きとめておこうと思う。

 電車の中、というより、ホームに降りてからなのだが、どこかから「ワンッ、ワンワンッ」という犬の鳴き声のようなものが聞こえた。それは普通、駅のホームでは聞こえるはずのないものなので、僕の耳はそれを「異音」と認識し、いったいなんの音なのかと気になっていた。

 数秒後、階段へと向かう僕の正面から、携帯を耳に宛てがった、犬のような顔をしたオッサンが近づいてきた。「犬のような顔」というのは、言葉だけで表現するのは困難なのだが、頭頂部が禿げていて、頭の両サイドにだけ髪が伸びている様子が、黒い垂れ耳を持つ種類の犬に見えたということなのかもしれない。

 犬の鳴き声のようなものを出す犬みたいな顔のオッサン? そりゃあいくらなんでもできすぎだろう、きっとこれは、タイミングがたまたま絶妙だったことから来る錯覚なのだ、そうにちがいない。僕は自分にそう言い聞かせながら彼とすれ違ったのだが、その瞬間、彼が携帯に向かってかなり大きな声でこう言っているのが耳に入った。

「うんっ、うんうんっ」

 そうかこれか。これがちょっと離れたところからは「ワンッ、ワンワンッ」に聞こえたのだ。

 しかし「ワンワン」という犬の鳴き声は、「鳴き声」というよりどちらかというと「吠え声」に近い。つまりその犬みたいな顔をしたオッサンは、「吠える」ような調子で通話相手の人(人、なのだろうと思う。たぶん、犬ではないだろう)に向かって応じていたわけで、たぶん今回の僕は、その人間離れした発声の仕方に対して反応してしまったのだろうな、ということで納得がいった。

 まあ、携帯で話していて声が遠かったりすると、ときにはそうなってしまうものだということはわかる。でも僕の見立てだと、そのオッサンはきっと普段から吠えるようにしゃべる人なのだ。そのことと、顔が犬に似てしまっていることは、無関係ではないのではないかとすら思うのである。

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2010年9月20日 (月)

旅の恥をかき捨てる日本人

 あえてタイトルは挙げないが、高級ホテルを舞台にしたイギリスのドラマを観ていたら、客室係の女性に特別なチップを払ってストリップティーズ風に下着姿で部屋の中を掃除させる常連客というのが出てきた。東洋人ではあるが、日本人の目から見ると少なくとも生粋の日本人のようには見えない。でもきっとこれは日本人だという設定になっているのだろうな、と思っていたら、どうやらそうらしいということが後にわかった。

 これは、海外で旅の恥をかき捨てている「お金に余裕のある日本人」像として、ひと頃からすっかり定着してしまったステレオタイプである。同じ日本人としてたいへん嘆かわしくまた恥ずかしく思うものだが、実数はともかく、そういう日本人の姿が実際に目立っているというのは否定できない事実なのだろう。

 もっとも、羽振りのよかった日本も今では没落しつつあるから、こんな余分なチップを払えるほどふところの潤っている日本人も最近は激減してきているのかもしれない。ただ、「メガネで出っ歯でカメラを構えている日本人旅行者」と同じく、一度定着してしまったイメージというのは、そう簡単に覆るものではない。あと何十年、海外の映画やドラマでこうした日本人が描かれつづけるのだろうか。

 ちなみに、その常連客が予想どおり日本人だという設定になっているということがなぜわかったかというと、彼が「ミスター・マツイ」と呼ばれていたからだ。ここでまた脱力してしまった。そんなところで自分の苗字が引き合いに出されるとは、松井秀喜選手もいい迷惑というものだ。しかしまあ、その客が「ミスター・ミフネ」でなかっただけまだマシと言うべきかもしれない(「マトリックス・レボリューションズ」で英雄的な活躍をしながら名前で脱力させる「ミフネ船長」とは違って)。

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2010年9月19日 (日)

言い忘れていた「好きだった作家」のこと

 WEB本の雑誌から「作家の読書道」の取材を受けたとき、30 年以上におよぶ自分の読書歴を振り返る形になったわけだが、吉行淳之介らへの傾倒について言及し忘れていたことに後から気づいた。高校2年くらいの時期だが、僕は吉行を始めとして庄野潤三、安岡章太郎など、いわゆる「第三の新人」と呼ばれた作家たちの作品を続けざまに読み、かなりの影響を受けていたのだ。

 中でも特に好きだったのが吉行淳之介だったわけだが、彼の作品には色街の女が出てくるものなど「大人の恋愛」を扱ったものが多く、ある程度の年齢に達さないとそのよさがわからないものがほとんどなのではないかと今では思える。高校生だった自分にはたしてそのよさがどこまでわかっていたのかは疑問だが、当時はたしかに「吉行が好き」と思っていたのだ。

 いったい吉行の何をもって「好き」と思っていたのか、そのあたりを検証する意味もあって、最近吉行の作品を再読している。今の自分の目から見ると、必ずしも手放しで「好き」と言える作品ばかりではないのだが、とにかく文章が一頭地を抜いてウマいのである。作風云々より、その文章のウマさひとつ取っても、自分には逆立ちしてもかなわないという挫折感を味わわされてしまう。

 たとえば、芥川賞受賞作となった『驟雨』の中の次の一節。

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 彼が地下へ降りて行ったとき、明るく照明された室内の片隅の椅子に、女はすでに坐っていた。地味な和服に控えめな化粧で、髪をうしろへ引詰めた面長な顔の大きな眼に、職業から滲みこんだ疲労と好色の翳がかすかに澱んでいた。
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 ちょっと出てこない一文である。直接の言及がないにもかかわらず、女の肌の質感やにおいまで、この場にありありとリアルなイメージとして立ちのぼってくるかのような名文ではないか。しかも吉行のすごいところは、この水準に達している文章表現がほとんど10行置きくらいの頻度で惜しげもなくちりばめられていることなのだ。

 こういう種類の惜しげもなさに、僕は憧れる。現代の大半の読者はスルーしてしまう部分かもしれないが、たとえそうであっても、文章表現の妙に労を惜しまない、サウイフ作家ニ、ワタシハナリタイ。

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2010年9月17日 (金)

美の均衡を崩す要素

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の映画「21グラム」を観た。ユニバーサルチャンネルで予告編をやっていて、なんとなく好きな映画っぽい気がしたので(それはもしかしたら単に、「21グラム」が「魂の重さ」と言われていることを知っていたからにすぎなかったかもしれない)、予約録画しておいて、時間ができた今、なんら予備知識がないままに観たのだが、僕は主人公である学者の妻役である女優が気になってしかたがなかった。

 基本的には美人と思われるのだが、その美の均衡を崩す要素が、顔のどこかにある。でもむしろ僕は、その要素こそが好みで、気になるらしいのだ。彼女が横向きになったときに、その「要素」がなんであるかに気づいた。唇が、なんというか、ちょっと突き出ているのである。ああ、なんかこの口元、すごく好きだな、と思った。なんでこんなに好きなのかな、と。

 で、エンドロールでキャスティングを観たときに、「ああ!」と思った。シャルロット・ゲンズブールだったのか!

 僕は特にシャルロット・ゲンズブールのファンというわけではなく、彼女の出世作と言っていい「なまいきシャルロット」も観たことがない。ただ、それと変わらない時期、つまり1980年代の中盤に彼女が発表した曲「レモン・インセスト」の入っているCDは愛聴していた。その曲のタイトルに暗示……というより「明示」されているとおりの、お父さんセルジュとの意味不明なイチャイチャっぷりについてはとりあえず不問に付すとして、彼女のウィスパーボイスがたまらなく好きだったからだ。

 で、そのCDのジャケット写真がまだ少女時代のシャルロットで、それを見ながら僕は常々こう思っていたのだ。「意外とおへちゃな顔なんだな。特にこの、ちょっと突き出た口元のあたりが美の均衡を崩してるよな。でもこの口元、僕は好きだな」と。

 結局のところ、自分が好きだと思う顔、なかんずく、「好きだ」と思わせる特定のパーツの特徴に関して言えば、好みというものは一貫していて、自覚しているかいないかにかかわらず、否応なく反応してしまうものなんだなと激しく痛感した。それ以外にも僕は、「アヒル口」がほぼ例外なく好きだったりするし(シャルロット・ゲンズブールのそれも、「アヒル口」のバリエーションのひとつであるかもしれない)。

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