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2010年9月19日 (日)

言い忘れていた「好きだった作家」のこと

 WEB本の雑誌から「作家の読書道」の取材を受けたとき、30 年以上におよぶ自分の読書歴を振り返る形になったわけだが、吉行淳之介らへの傾倒について言及し忘れていたことに後から気づいた。高校2年くらいの時期だが、僕は吉行を始めとして庄野潤三、安岡章太郎など、いわゆる「第三の新人」と呼ばれた作家たちの作品を続けざまに読み、かなりの影響を受けていたのだ。

 中でも特に好きだったのが吉行淳之介だったわけだが、彼の作品には色街の女が出てくるものなど「大人の恋愛」を扱ったものが多く、ある程度の年齢に達さないとそのよさがわからないものがほとんどなのではないかと今では思える。高校生だった自分にはたしてそのよさがどこまでわかっていたのかは疑問だが、当時はたしかに「吉行が好き」と思っていたのだ。

 いったい吉行の何をもって「好き」と思っていたのか、そのあたりを検証する意味もあって、最近吉行の作品を再読している。今の自分の目から見ると、必ずしも手放しで「好き」と言える作品ばかりではないのだが、とにかく文章が一頭地を抜いてウマいのである。作風云々より、その文章のウマさひとつ取っても、自分には逆立ちしてもかなわないという挫折感を味わわされてしまう。

 たとえば、芥川賞受賞作となった『驟雨』の中の次の一節。

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 彼が地下へ降りて行ったとき、明るく照明された室内の片隅の椅子に、女はすでに坐っていた。地味な和服に控えめな化粧で、髪をうしろへ引詰めた面長な顔の大きな眼に、職業から滲みこんだ疲労と好色の翳がかすかに澱んでいた。
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 ちょっと出てこない一文である。直接の言及がないにもかかわらず、女の肌の質感やにおいまで、この場にありありとリアルなイメージとして立ちのぼってくるかのような名文ではないか。しかも吉行のすごいところは、この水準に達している文章表現がほとんど10行置きくらいの頻度で惜しげもなくちりばめられていることなのだ。

 こういう種類の惜しげもなさに、僕は憧れる。現代の大半の読者はスルーしてしまう部分かもしれないが、たとえそうであっても、文章表現の妙に労を惜しまない、サウイフ作家ニ、ワタシハナリタイ。

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