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2011年2月28日 (月)

what do you see?

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『偽憶』の中でもエピソードとして扱っていることだが、猫というのはなぜ、外を眺めるのが好きなのだろうか。外を眺めながら何を考えているのだろうか(たぶん、何も考えていないのだろうとは思うが)。

 クーは以前、リビングにあるテレビの上に乗って外を眺めるのが好きだった。たぶん、リビングだけは日中、レースのカーテンもかけていないため、透明なガラスから外の様子をクリアに見ることができたからだろう。しかし年末くらいに(というのはだいぶ遅ればせなのだが)地デジ対応のクアトロンテレビに買い替えたせいで、クーが乗っかれるだけの面積がなくなってしまった。

 当初は、戸惑ったような顔をしながらしかたなしにテレビ台の方に乗ったりしていたので、画面を遮ってしまって邪魔だったのだが、そこでは低すぎて外がよく見えないことに気づいたらしく、最近では僕の部屋のラックに乗っかってこうして外を見ている。レースのカーテン越しに、もともとあまりよくないらしい視力でいったいどれだけのものが見えているのか疑問だが、この姿勢のまま十数分じっとしていることもある。

 マンションだから外には出せない。こうして窓から眺める外の世界を自由に出歩くことは、この猫にはたぶん一生できないのだろうなと思うと不憫になる。でもたぶん、こちらが不憫に思うほどクーはそのことを気に病んだりはしていないのだろうなとも思う。クーはたぶん、かなり幸せに暮らしているのだ。終日一緒にいると、それがよくわかる。

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2011年2月25日 (金)

研ぎすまされるニュアンス

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 夕方、ベッドに寝そべって、蒲団はかぶらずに本を読んでいたら、クーが知らぬ間に音もなく枕元に来ていた。特に気にせずに本を読みつづけていたら、手の先で僕の肩を「カリ、カリ」と軽く引っかいた。

 通常ならそれは、蒲団に入って眠っている、あるいは寝ようとしている僕に、「蒲団の中に入れてくれ」と催促するときの仕草である。しかしそのとき僕は、蒲団をかぶっていなかった。かけ蒲団の上に体を横たえていたのだ。

 ためしに蒲団を自分の体の上にかけ直した上でその縁を持ち上げ、クーが入れる程度の隙間を空けてやったら、なんのためらいもなくススス……と中に入ってきて、一緒に寝るときにいつもそうするように、僕の右の腋の下に顔を埋めて丸くなった。

 ということは、クーのそのジェスチャーは、厳密には「蒲団の中に入れてくれ」ではなかったのだな、と気づいた。より正確に翻訳するなら、たぶんそれはこうなる。「一緒に蒲団の中に入ってくれ」。

 これはまさに、ガイドもなく未知の言語を習得していく過程と同じだ。

 たとえばジョン万次郎が、最初は「切る」="cut"だときわめてざっくりと覚えていたとする。しかし彼はやがて、経験を通じて自分の中のその語釈を補正する機会を繰り返しながら、同じ「切る」でも"slice"、"rip"、"shred"、"split"など、様態の微妙な違いからそれぞれ別の単語が割り当てられていることを知ることになり、その分だけ"cut"のニュアンスの精度を自分の中で研ぎすませていっただろう。

 しかし残念なことに、猫が駆使する言語はきわめて限定的で数も限られている。おそらく、全部数え上げても10種類あるかないかだろう。僕としては、クーが低い声で「んー」と言うときと、濁った声で「ギー」と言うときの違いがどこにあり、それぞれが正確にはどういうニュアンスを担っているのかを、飼っている間には解明したいと思っているのだが。

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2011年2月23日 (水)

吹き替えの怪

 そんなに熱心にではないが、テレビでときどき韓流映画やドラマを観る。韓国語は昔勉強したので、「……イニッカ、……ジマン、……テムネ、……イェヨ」といった構文の部分と、それ以外にちょこちょこと単語が聞き取れる。運がよければフルセンテンスの意味がわかるという次第である。

 ただ、これを吹き替えでやられるとものすごい違和感がある。ムズムズして気持ち悪くて、5分と観ていられない。洋画(この場合、主として欧米産の映画のこと)も僕は選べるなら字幕で観るのが普通だが、吹き替えでもここまでの違和感はない。原理的には同じことのはずなのに、この差はいったいなんなのだろう。

 ひとつには、慣れの問題があるだろう。「日曜洋画劇場」などで吹き替えの洋画を観て育った世代だ。白人や黒人が画面に出てきて「やあエリック、パーティーは楽しんだのかい?」「んあ〜ぁ悪くなかったさ、ジェシーのやつがあんな騒動さえ起こさなきゃな」などとおなじみの声優の声でしゃべるのは、すっかりあたりまえのことになっているのだ。「君の言ったとおりになったな、クレア」「え〜〜ぇそうね(※ちょっと疲れたような調子で)、でもひとつだけ違うところがあるわ」だとか、そういうのにあまりにも馴染まされているのだ。

 だから、字幕で観ていたとしても、このキャラクターでこの台詞なら、きっと吹き替えだとあの声優を使ってこんな感じで読み上げさせるんだろうな、ということが容易に想像できてしまったりするくらいだ。

 韓流についてもいつも吹き替えで観ていればいずれは慣れるのかもしれないが、たぶん、理由はもうひとつある。演者がわれわれ日本人とほとんど見かけが変わらないということである。

 アジア系の人種でなければ、もともと見かけが違うので、吹き替えも「そういうもの」という一種の諦念のもとにすんなり受容できるのだが、パッと見は日本人のようなのにあきらかにアテレコで、しかも声優の声だけは洋画の吹き替えでしばしば耳にしているのと同じ、という点に、たぶんこの違和感のもうひとつの理由があるのだろうと思う(そういえば、カンフー映画などの吹き替えにも、かなり近い違和感を僕は覚える)。

 実は、(「バイオハザードIII」に変な日本語の看板が出てくるとすれば)「バイオハザードIV」には、ものすごく違和感のある日本語の台詞がある。観ていてすぐにはその違和感の理由がわからなかったのだが、台詞自体が変というより、それをしゃべっている声が変だったのだ。日本人の兵士役の会話なのだが、そこだけどうやらアテレコになっているようなのだ。

 つまり、役者本人の声ではなく、日本人の声優がその部分だけ別に吹き込んでいるのである。役者たちは、おそらく日本人でさえないか、少なくともネイティブの日本語話者ではなかったのだろう。それ以外の部分は英語で普通に役者自身がしゃべっているのにもかかわらず、そのシーンでだけ突然、いかにも吹き替えという雰囲気の日本語が聞こえてくるので、「あれ、字幕で観てたんじゃなかったんだっけ?」と一瞬幻惑されてしまったのだ。

 ただそれは、僕が日本人だからこそ気になった点なのだと思う。英語話者はおそらくそれを、ただ単に「どうやら日本語らしい」としか思わないだろう(変な日本語の看板が出てきても「日本語の看板だ」としか思わないであろうように)。

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2011年2月22日 (火)

ガリガリ博士

 高校生の頃、友だちの一人が落合信彦氏の著作の熱烈な読者で、僕にはまったく興味の持てなかった国際的な陰謀話などを会うたびに延々聞かされてうんざりしていたことがあった。興味を持とうとしても無理なので、ただ「へえ、そうなんだ」と聞き流すのが通例だったのだが、ひとつだけ気になっていることがあった。

 彼はリビアの国家元首を「ガタフィ大佐」と呼んでいたのだ。

 国際ネタには疎かった僕でも、「カダフィなんじゃないかな」と疑問に思う程度のおぼろな知識はあったのだが、なにぶん自信がない分野の話だし、本質的に興味もないので、それも結局毎回聞き流していた。

 要するに彼は、「ガタフィ」と最初に間違って覚えてしまったので、その後落合氏の著作で何度、あるいは何十度「カダフィ大佐」という文字を目にしたとしても、脳が勝手に補正して「ガタフィ大佐」と読んでしまっていたということなのだろう。

 その気持ちはわからなくもない。先日このブログで触れた「スーザン・ソクタグ」=「スーザン・ソンダク」と似た理由からだ。「ダク」という音には、日本人はなじんでいる。「濁点」「混濁」といった既成の語があるからだ。しかし「タグ」という音は、日本語の中には存在しない(外来語としての「タグ」を除いて)。

「カダ」も同じだ。「ガタ」なら「ガタガタ」とか「がたつく」、「山形」などの例があるが、「カダ」という音を含む日本語はたぶん存在しないと思う(たとえば「オカダ」という人名にはそれが含まれるが、ネイティブの日本語話者ならこれを無意識に「オカ/ダ」と分節しているはずだから、これは該当しない)。

 人は結局、未知の単語に触れたとき、意識的か否かはさておき、自分がすでに知っているなんらかの語に関する記憶や慣れを援用しながらそれを覚える傾向があるということなのだろう。かく言う僕自身、「カリガリ博士」のことを長らく「ガリガリ博士」だと思い込んでいたくらいなのだから(それはむしろアイスキャンディーの名称にふさわしい)。

 さて、僕が不本意にも落合氏の著作の要約を日々聞かされていたあの頃からすでに四半世紀が過ぎたわけだが、彼はその後、誤りを正す機会をどこかで得ただろうか。それとも、データの書き換えはなされないまま、今でも堂々と「ガタフィ大佐」と言っているのだろうか。

 そしてこのことを思うとき、当時も今もリビアの国家元首でありつづけている大佐が、いかに権力の座に長々と腰を据えているかを思い知らされるのである(一応時事ネタらしい)。

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2011年2月20日 (日)

ケツまくってます

 小学館のPR誌「きらら」で新連載が始まった。タイトルは『ルドヴィカ』、今月発売の3月号から、今のところ月イチで15回前後を予定している。昨年5月に単行本化された『マザー』(連載時のタイトルは『理想の人』)の連載が終わったのが去年の2月号だったから、ちょうど1年ぶりということになる。

 今回初めて、主人公(=語り手)が作家、という設定にチャレンジしている。オートフィクションとも称された『シュガーな俺』のような特例は別として、僕は基本的に、作家である自分と丸カブリするような人物を主人公に据えることはこれまで避けてきた。それでなくても主人公というものは、読者の中で著者自身とダブらされることが一般的に多いと思うので、作家なんて設定にしたら何を思われるかわかったものではないと思っていたからだ。

 それに、作家自身が作家を主人公にするというのは、なにか芸がないというか、「その世界しか知らないんじゃないの?」などと思われそうでイヤだという気持ちもあった。

 しかし考えてみれば、そんなのは自意識過剰というものだし、そういう臆測や詮索をいちいち恐れていたら、そもそも小説など書けはしない。今回、あえて作家を主人公にするにあたって、そのへんはいさぎよくケツをまくったつもりでいる。どうぞ、思うさま僕と主人公をダブらせながら読んでいただきたい。

 どうせ作家なんて嘘つきなのだ。「これだけは本当だ」と言いながら平気で大ボラを吹いている場合もあるし、都合が悪くなれば「それはあくまでフィクションだから」と言って逃げるのが常套手段なのだ。

 というわけで今回は、作家・伊豆浜亮平が主人公である。「過去五年間、一本もヒットが出ていない作家」という設定である(ってマンマじゃん)。その売れない作家たる伊豆浜が、生活費の足しにするために請け負っている女性週刊誌のライターとしての仕事を通じて、若き天才ピアニスト・荻須晶と知り合う。荻須は「鍵盤王子」の異名を持つ超イケメンで、伊豆浜はこの男をイケ好かない奴と思うが、相手にはなぜか気に入られてしまう。それをきっかけに、伊豆浜はしだいに抜き差しならない立場へと追い込まれていくことに……。

 ざっくり言えばそんな話である。連載第1回分だけ、「webきらら」で読むことができるので、リンクを貼っておこう。ご興味があればご一読を。

『ルドヴィカ』連載第1回

 

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2011年2月17日 (木)

ありえない駅名

 今さらながら「エイリアン3」を観ていたら、リプリー中尉が漂着する囚人ばかりの惑星の溶鉱炉の壁だか扉だかに、○で囲った巨大な「鉄」の字が書かれていた。それを見て、彼らほんとにこういうのが好きだよなと思った。まあ溶鉱炉だから鉄は当然関係してくるわけだが、現実の日本の溶鉱炉ではそんなあたりまえのことをわざわざ大書きしたりは(たぶん)しない。

 彼ら(欧米の映画製作関係者たち)がそういう形で日本語とか漢字とかを画面に登場させるのを好むとすれば、僕は彼らが作った映画の中のそういう部分を見つけるのがとても好きだ。比較的最近のヒットといえば、「バイオハザードIII」の終盤に一瞬だけ映り込む東京の様子だろう。

 道路の中央のラインを挟んで両側に「芝浦」「品川」と書いてあるのはまだいいとして(それはいったいなんの標示になっているというのか。方向を示す矢印さえないのに?)、ゾンビたちがうろうろしている東京メトロの入口に書かれた以下の文言は、何度見ても拍手喝采を贈りたくなる。

  夜空雪風(※駅の名前らしい)

  考楽火月星
  Zatoichi Square

 夜空雪風駅! 座頭市広場! なんとも素晴らしいではないか。その上の漢字の羅列に至っては、まったく意味不明である。

 昔ならいざ知らず、今は向こうで映画周辺の仕事に就いている日本人もたくさんいるだろうし、そんなのちょっと裏を取れば済むはずのことなのに、それでもこういうヘンテコな日本語がいつまでも死に絶えないとはどういうことなのか。もはや、わざとやってるのかな、としか思えない。

 少なくとも、僕はウケている。もっとどんどんやってほしい。

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2011年2月16日 (水)

やはり乗るクー

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 先日購入したファックス(もういいからこの表記で固定することにした)兼コピー機を載せるためのレーザープリンタ用キャスターつきラックを通販で購入した。それが今朝届いたので、さっそく組み立ててファックス機を設置したところ、さっそくクーが上に乗っていた。

 クーは仕事をしている僕をそばでじっと眺めるのが好きらしく、今まではデスクの前に置いてあるDVDラック(だが、実際には半分本棚として活用している)の上に乗るのを好んでいたが、今日組み立てたラックは、ファックス機を載せるとちょうどデスクくらいの高さになり、その上にクーが乗ると目線の高さが僕自身とかなり近くなる。それが気に入ったのか、今日だけでも5回くらいその上に乗ってじーっと僕を見ていた。

 このファックス機と専用のラックを導入したことで仕事環境は劇的に快適になったが、おかげで部屋がおよそ3分の1ほど狭くなってしまった気がする。本棚から溢れている本がざっと見積もっても軽く100冊は超えているので、本棚も増設しなければならないし、部屋の中でもうつぶせるところが窓しかない。どうしたものか。

 それにしてもこのクーは、メガネザルかなにか、ジャングルに棲む原始的な霊長類みたいな顔をしていて、あまりかわいくない。それでもアイアイよりはましだ。

 このあいだ、夜間に長い指を使って虫を捕食しているアイアイの映像をテレビで観たが、びっくりするくらいかわいくなかった。かわいくないどころか、悪魔にしか見えなかったと言った方が近い。この生き物がどうしてあの「♪アーイアイ、アーイアイ、おさーるさぁんだよー」という愛らしい歌の素材になりえたのか、理解に苦しむと思った。

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2011年2月14日 (月)

歴史上のジョー

 映画『あしたのジョー』を劇場で観た。僕にはなぜかあの手の、「まさかの実写版映画化」モノにかぎって、ちゃんと劇場で観る傾向がある。過去の例を挙げれば『ヤッターマン』とか『魁!!男塾』とか『逆境ナイン』とか。

 それはともかく、『あしたのジョー』はそうとう本気で作った映画と見え、隙がなかったし、映画として普通におもしろかった。役者としての山下智久を見直すきっかけにもなったと思う。香里奈演ずる白木葉子の、「見てるとなんだかイラッとする感じ」も、原作を忠実に再現していてよかった。

 最も感心したポイントのひとつは、泪橋を越えたところにあるドヤ街を精緻に構築していたことだ。わかりやすくするために、原作の設定より10年ほど遡った時代のそれを再現したということだが、非常によくできていた。そして僕はそれを見ながら思ったのだ、これはもはや「時代劇」なのではないかと。

 昭和40年代生まれの僕は、リアルな記憶としてはもはやその情景を思い出すことができなくても、親の世代が実際に見聞もしくは経験したものとして、それらを想像の射程内に入れることがどうにかできる。しかし次の世代、つまり現在20歳前後の若い人々にとってはどうなのだろうか。彼らにとってそれは、「自分たちの親の世代がかろうじてリアルに思い浮かべられる過去」であって、自分たち自身にとってはもはやまったく無関係ななにかに成り代わりつつあるのではないか。

 もしそうだとするとそれは、時代劇で江戸時代なり室町時代なりの街並を象ったセットと本質的に変わらないものとして受け止められている可能性がありはしないか。それはたしかに「かつて日本にあった風景」ではあるが、彼ら自身が体感しているリアリティと地続きのものではないのだ。

 そんなことを考えながら僕は、香川照之演じる、原作とあまりにそっくりな段平のとっつぁんを観ていた。それにしても、ワーナーマイカル系のポップコーンは2人いてもSで十分だ。なんでああいう局面で本家と同じスペックを採用するのか。もっと日本人向け仕様にしていいと思うのだが。Sで十分ですよ。わかってくださいよ。

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2011年2月11日 (金)

卑猥な機械

 9日づけのブログで新しいファックス機について言及したところ、たてつづけに2名の知人からまったく同じ趣旨のことを言われた。いわく、「ファックス」と書くと"fucks"と言っているみたいで卑猥な感じがするが、その点についてはどう思うか、という問いかけである。

 この2名の意見は氷山の一角ではないかという気がするので、「ファックス」という表記についての僕の考えをここに書き留めておきたい。

 実は、少し前までの僕は、この技術、すなわちファクシミリについて言及する必要がある場合は、"fax"と書くことが多かった。「ファックス」を"fucks"みたいと思ったことはなかったが、表記としてなんとなくダサい気がしたからだ。

 しかし一方で僕は、日本語の文中で、他の表現方法があるのに必然性もなく英文字を使用するのは極力避けるべきだという考えの持ち主でもある。

 これはもっぱら小説を書くにあたって適用している原則なのだが、ちょうどくだんのファックスの記事を書く少し前に、某社との校正のやりとりで、「文中の“ユーチューブ”は"YouTube"でなくていいのか」という指摘を受けた際、上記のとおり僕なりの「原則」を提示して訂正を拒否したといういきさつがあったばかりだった。それに則ればこれも"fax"ではなくて"ファックス"だよな、と考えた結果、今回は「ファックス」と書いたのだ。

 中には「ファクス」と書く人もいるが、それはなんだか大江健三郎氏が"sex"のつもりで使用するアレみたいで気持ち悪い。それに、話し言葉では明瞭に"fakkusu"と発音しているのに、表記との間にズレがあるのは望ましいことではないのではないかという気持ちもある。

 ただし、今回の質問を投げかけてきた知人の1人は、「ファクス」と表記すると同時に、発音の方も「何食わぬ顔で」"fakusu"にしてしまっているそうである。なるほど、そういう手もあったか。

 しかしまあこんなことを気にするのはどうせ僕自身をはじめとするごく一部の人々と有村ちさ(以下略)

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2011年2月 9日 (水)

過去の自分に贈りたい

 デビュー以来6年強使用したファックスが老朽化して仕事に支障を来すようになったので、思い切って業務用のファックス兼コピー機の中古を購入した。今後、B4を恒常的に受信する必要が発生するし、外出中などに用紙切れを起こしたとき、メモリ受信の容量が小さすぎて、すぐいっぱいになってしまうこれまでのストレスフルな状況を脱したかったからだ。

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 デカい。業者から事前に渡された情報でサイズはわかっていたつもりだが、いざ現物を目の前にするとその大きさに圧倒されてしまう。大きさがわかるようにクーでも載せてから写真を撮ろう(先日、蘆江の煙草盆のとき同じことをやったが)と思いながらケータイのカメラ機能を立ち上げ、ふと本体を見たら、載せるまでもなくクーが自らすでに乗っていた。

 これでどんな大量のファックスが来ても安心だし、コピーが必要なとき、自前の機械でインクジェットの遅さに苛立つ必要も、わざわざ近所のコンビニやスーパーに行って硬貨を投じながら1枚ずつコピーしてくる必要もなくなるので、とても嬉しい。もしもこれを、アマチュア時代の自分にプレゼントすることができたら、と思う。当時、ワープロで書いた自分の小説を人に読んでもらうために、何十回コピー屋に通ったことか。

 ところで、メールでのやりとりやら見積書・注文書の受け渡しなどはずっと、某業者のK氏という人との間で行なっていた。商品の納入も自社便で直接やってくれるとのことで、「作業員が伺います」とK氏は言っていた。

 今日になって、台車に現物を載せて訪れた作業員の人はとても感じがよくて親切で、「今後技術的なことでなにかありましたら私宛てにご連絡ください」と最後に言ってくれてだいぶ安心したのだが、渡された名刺を見たら「K」とあった。

「作業員」って、Kさん自身だったんだ……。

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2011年2月 8日 (火)

I'm an alien, I'm a legal alien

 平日、日中の公園に棲息している人々は、ざっくりと以下3つのカテゴリーに分類されることがわかった。

 (1)赤ちゃん連れのお母さんたちの集団
 (2)大声でおしゃべりするお年寄り(主として男性)の集団
 (3)不審者

 以上のうち、(3)はたいてい、単独で行動している成人男性である。ネクタイでも締めていれば、営業回りの途中でたまたま立ち寄っただけなのかなと思うが、そうでないとどうしても、なにがしか「不審」な目で見てしまう。でもそうすると、僕自身もそこにカテゴライズされるのかな、と思ったりもする。

 しかし今日、日中にデパ地下で買い物して支払いをしている最中、「自分は違うな」と思った。つまり、そうは見られていないだろうということだ。なぜそのときそう思ったのかはわからない。根拠はないけど、本気で思ってるんだ(レミオロメン)。

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2011年2月 7日 (月)

陽だまりに溶ける

 よく晴れた冬の日の窓辺で、猫とひとかたまりになりながら陽だまりに寝転がっていること。これにまさる幸せな時間がほかにあるだろうか。あまりに幸せすぎて、それが絶対に得られない暗黒の生活を反作用的に頭に思い描いてしまわずにはいられなくなる。たとえば、だれかを殺して逃走しつづける生活だとか。

 しかし「幸せなことは長くは続かない」というのは、たぶんそれ自体が神話なのだ。よく考えれば、そんな風に見なさなければならない具体的な根拠が必ずしもあるわけではない。たまたま長く続かなかったときに「やっぱりな」と思うだけで、長く続いているときはそれが長く続いているという自覚さえないのだ。

 だからなるべく、今目の前にある幸せをかけ値なく満喫できるような性格になりたいと思う。「出会った頃はこんな日が来るとは思わずにい」られるような性格でありたいと思う。

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2011年2月 6日 (日)

鶏ガラな床

 10年前、今のところに越してきた当初、まちがえて1回だけ入ってしまったラーメン屋の前を昼どきに通りかかったら、前を歩いていた男性が立ち止まって一瞬だけ中を覗き、すぐに思い直したように立ち去っていく現場を目撃してしまった。

 以前、「まちがえて入ってしまった」と思ったのは、入店するや否や、その荒んだ雰囲気や、店内に充満する饐えたようなにおいに見舞われたからだ。それでも出て行くのは気が引けてなにがしかの注文をしたのだが、それを待っている間、従業員が、古くなった鶏ガラスープかなにかを巨大な鍋から厨房のコンクリートの床に直接ザーッとぶちまけているのを見てしまった。

 もちろん排水はされるようになっているのだろうが、彼女はそれをしながら、あきらかに、床に散乱した野菜くずなどを一気に洗い流す役目をもスープに負わせていたと思う。そして結局はそのスープが、店内を満たす胸をムカつかせるようなにおいの原因になっていたのではないかと。なにかが根本的に間違っていると思ったが、そのときの僕には、とにかく出されたものを一刻も早くたいらげて退散することしか頭になかった。それから10年、僕はただの一度もその店には寄りつかずにいた。

 立ち去った男性のあとをならって、僕も一瞬だけ店内を覗いてみた。暗くて、無人の止まり木がいくつも並んでいるのだけがガラス越しにぼんやりと見えるので、営業していないのかと思ったが、入口に掲げた電光掲示板は誇らしげにメニュー内容を告げている。こういう店の経営は、いったいどういった人々が支えているのだろうか。その好奇心だけで、僕はうっかり店内に足を踏み入れそうになったが、ギリギリのところで自制が働いた。

 結果があらかた読めることにむやみに首を突っ込まなくなったことが、たぶん僕の成長を物語っているのだろう。「不惑」からはほど遠いとしても、「前よりはいくぶんマシになった」という点に変わりはないのだ。歩みはカメでも着実に(家庭教師のタートル先生)。

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2011年2月 3日 (木)

お役所の半端サービス業

 ある手続きを取るために区民事務所に行った。事前に区のホームページで調べたところ、その手続きに必要な書式はPDFファイルで提供されており、それをプリントアウトして使ってもいいとあったので、現地での所要時間短縮のため、プリントアウトしてあらかじめ必要事項を記入してから届け出に臨んだ。

 窓口で応対した年配の女性職員が、その同じ書式の複写式になっている用紙を差し出そうとしているので、「あ、それ、PDFファイルをプリントアウトしたものを持ってきてるんですが……」と言ったところ、「いえ、この届け出はこの用紙でないと……」と言い出したので、思わず「だったらなんでホームページでPDFファイルが提供されてるんですか、おかしいですよね?」といきなりケンカ腰で食ってかかってしまった。

 僕が取り出した用紙を見たら、同じ書式であることがわかったようで、「あ、それで受けつけます」と慌てて答えたので、もしかしたら「PDFファイルをプリントアウト」などという言い方をしたのがまずかったのかなと思い直した。

 お役所というとどうしても、「平気な顔で二度手間三度手間をかけさせるところ」という先入観があるのでつい過剰反応してしまったのだが、最近はサービス業化が進んでいるらしく、それ以外の局面では総じて処理もスムーズだったし、職員の感じも悪くなかった。印鑑が必要とホームページに書いてあった別の手続きでも、用紙の「印」のところに実際に捺印しようとしたら、「ご本人のご署名があるので捺印はけっこうですよ」と言われ、署名が印鑑を差し置いて効力を発揮するようになったとはめざましい進展ではないかと思った。

 それにしても、区のホームページで一部書式のPDFファイルを提供している以上、窓口でその単語が引き合いに出されるかもしれないことくらい、想定していてしかるべきではないのか。もっと言うなら、本人の署名がある場合実際には捺印が不要なら、ホームページでの記述にも修正を加えておくべきではないのか。処理スキームの見直しは不断に行なう必要があるのではないか。それをしない組織は結局のところいずれは機能不全を起こしたり業務の冗漫化を招いたりするのではないか。といったビジネスっぽいことを口走っている僕はいったい何者なのか。

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2011年2月 2日 (水)

実在しない生物を認識する脳

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 今年の年賀状に使用した画像である。クーの耳部分だけウサギとすげかえて合成したものだが、加工元がたまたまクーとよく似た毛色のウサギ画像だっただけに、忙しい中ヤッツケで作ったにしては、接合部分がほとんどわからないほどサマになっていた。それでも僕としては、「干支にちなんで飼い猫の画像に手を加えたのだ」ということが当然伝わるだろうという見込みのもとに、あえてこれを使ったわけである。

 ところが正月に実家に行ってみたら、父親が「クーちゃんってこんな耳だったっけ?」と言っていたので驚いた。こんな形の耳を持った猫がいるわけがないではないか。父親はほんの数ヶ月前にクーの現物を見ているから、顔がクーだということは認識できたものの、耳については「なんか変だ」としか思わなかったようなのだ。

 ただ、驚きはそれに留まらなかった。あとで知ったことだが、その年賀状を送ったある家庭では、「平山さんってウサギなんか飼ってたんだっけ」などと言われていたらしい。逆のパターンである。たまに飲みに行く新宿の店にも同じ年賀状を送っていたのだが、そこでもやはり、画像は普通に「ウサギ」として認識されていた。

 みなさん、しっかりしてください。猫の耳は三角だし、ウサギの目は真っ黒でしょう? こんな生物は地球上に存在しないでしょう?

 とはいえ、それは僕がこの画像を合成した張本人であるから確信していることなのであって、人の認識というものは思いのほかもっとぼんやりとしたものなのかもしれない、とも思う。考えてみれば僕だって、ナマケモノを見れば「ナマケモノ」と認識できるかもしれないが、ではそのナマケモノとサルは具体的にどこがどう違うのかと問われても、とっさには答えられないかもしれないわけで。

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2011年2月 1日 (火)

孤独の影

 人はどれだけ長い間一人きりでいられるものなのだろうか。孤独に強い人間と弱い人間がいるが、僕はどちらかといえば後者だろう。孤独を愛する人間と思われがちだが、それは誤解だ。僕はただ単に、つきあいたい人としかつきあいたくないだけなのだ。そしその「つきあいたい人」の種類が、あまり多くないだけなのだ。

 単純に、群れることが好きではないというのもあるだろう。居合わせた人間の数が多くなればなるほど居心地の悪さを感じ、自分の存在を消してしまいたくなる。そのいたたまれなさを吹き飛ばそうとして、不器用にはしゃぐふりをした結果、ありもしない人格を付与されて往生したこともある。

 しかしそれも昔の話だ。人は歳を取ると、避けられないものをたくさん抱えていきもするが、同時に避けたいものを巧妙に避ける術も身につけてゆく。たとえば、子どもにとって、集団行動が苦手であることは命取りともなりうるが、今となってはそんなことは問題にもならない。子どもには逃げ場がない。僕は当時、あの地獄をどうやってしのいでいたのだろうか。

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