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2011年2月14日 (月)

歴史上のジョー

 映画『あしたのジョー』を劇場で観た。僕にはなぜかあの手の、「まさかの実写版映画化」モノにかぎって、ちゃんと劇場で観る傾向がある。過去の例を挙げれば『ヤッターマン』とか『魁!!男塾』とか『逆境ナイン』とか。

 それはともかく、『あしたのジョー』はそうとう本気で作った映画と見え、隙がなかったし、映画として普通におもしろかった。役者としての山下智久を見直すきっかけにもなったと思う。香里奈演ずる白木葉子の、「見てるとなんだかイラッとする感じ」も、原作を忠実に再現していてよかった。

 最も感心したポイントのひとつは、泪橋を越えたところにあるドヤ街を精緻に構築していたことだ。わかりやすくするために、原作の設定より10年ほど遡った時代のそれを再現したということだが、非常によくできていた。そして僕はそれを見ながら思ったのだ、これはもはや「時代劇」なのではないかと。

 昭和40年代生まれの僕は、リアルな記憶としてはもはやその情景を思い出すことができなくても、親の世代が実際に見聞もしくは経験したものとして、それらを想像の射程内に入れることがどうにかできる。しかし次の世代、つまり現在20歳前後の若い人々にとってはどうなのだろうか。彼らにとってそれは、「自分たちの親の世代がかろうじてリアルに思い浮かべられる過去」であって、自分たち自身にとってはもはやまったく無関係ななにかに成り代わりつつあるのではないか。

 もしそうだとするとそれは、時代劇で江戸時代なり室町時代なりの街並を象ったセットと本質的に変わらないものとして受け止められている可能性がありはしないか。それはたしかに「かつて日本にあった風景」ではあるが、彼ら自身が体感しているリアリティと地続きのものではないのだ。

 そんなことを考えながら僕は、香川照之演じる、原作とあまりにそっくりな段平のとっつぁんを観ていた。それにしても、ワーナーマイカル系のポップコーンは2人いてもSで十分だ。なんでああいう局面で本家と同じスペックを採用するのか。もっと日本人向け仕様にしていいと思うのだが。Sで十分ですよ。わかってくださいよ。

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