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2011年3月27日 (日)

別れがこんなにつらいとは

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 明日3月28日から6日間、イギリス旅行に行く。4年ぶりの海外である。本来、年に1度くらいは海外に行きたい人間なのだが、あまりに多忙でどうしても日程を確保できずにいたのだ。震災前に予約していたもので、なにも放射線の危険に晒されている日本から逃げ出そうというつもりはないのだが、結果としてはいいタイミングになったかもしれない。飛行機の運航が不安定なので、最悪当日になって欠航が決まるかもしれない、などと旅行会社から直前まで脅されていたが、どうにか確定したようだ。

 ロンドンのみのツアーで、1日だけ近郊(ストーンヘンジなど)をめぐるオプショナルツアーに参加する。実質3日しか動ける日がないのでかなり慌ただしい行程だが、行けないよりはマシだ。シングルモルト好きの僕としては、本当はアイラ島をはじめとする蒸留所めぐりなどもしてみたかったのだが、日程の都合で今回はかなわない。某バーのマスターに教えてもらった、ソーホースクエアにあるというウィスキーショップでがまんするつもりだ。

 旅行に際して、クーは川越の実家に預けてきた。ただ、意外と人見知りする猫だけに、未知の環境にすぐに馴染めるかどうか心配だったので、土曜日から僕も一緒に泊まって様子を見た。トイレやエサ場などはわりとすぐ覚えたようだが、なぜか父を異様に警戒する。足のにおいを嗅いではウ〜と唸っている。クーを飼いはじめて約4年、唸り声を聞いたのはたぶん初めてなので驚いた。いったい父のにおいのどこがそれほどまでに神経を昂らせるのだろうか。

 夜は、クーが安心できるように、僕に宛てがわれた部屋にしばらく一緒にいたのだが、そのうち出て行ってしまった。僕も知らぬ間に眠り込んでいたが、午前4時前にふと目覚めたら、腿のあたりに重みを感じた。手を伸ばしてみたら、いつのまにかクーがそこで丸くなっていた。その後トイレに行って戻ってきたら、毎晩そうしているように僕のベッドに入ってきた。見知らぬ環境で心細くて僕を頼ったのだろうが、今晩から僕はいないのだ。それを思うと不憫でならない。

 一夜明けて、今日の日中はわりとごきげんにしていた。冷蔵庫やその隣のストッカーに登るのが気に入ったらしく、何度も登ったり降りたりしていた。父や母にも慣れてきたようで、母にだっこされても抵抗しなくなったし、父にも短時間なら体を触れさせるようになった。たくさんある階段(実家は3階建て)も楽しいらしく、顔立ちにもいつものほがらかな雰囲気が戻ってきた(猫が無表情だというのは嘘だと思う。差が激しくないだけで、感情が読み取れるだけの表情はまちがいなくある)。

 これなら大丈夫そうだな、と一応安心して実家をあとにしてきたが、さっき母と電話で話したところ、僕がいなくなってからはそれがわかったらしく、3階のベッドの下に潜り込んだまま、いくら呼んでも出てこなくなってしまったという。おなかがすいたのか一度だけ下りてきてエサ場をうろうろしはじめたが、与えたエサを食べ終わったらまた3階に引っ込んでしまったと。

 以前よりは時間に余裕のある暮らしぶりになったが、クーを置いていく際のこのうしろ髪を引かれる思いが原因で、結局海外旅行に行く頻度はこれまでと変わらなくなりそうな予感がする。

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2011年3月24日 (木)

眉のない耳飾りの少女

 映画『真珠の耳飾りの少女』で、スカーレット・ヨハンソンは、フェルメールの同名の絵のモデルに似せるために眉毛を剃っているのだろうか。あの絵に関しては、モデルに眉がない(ように見える)せいで今ひとつよさがわからずにいたのだが、あのモデルにかなり似ているヨハンソンが動いているさまを見て初めて、「ああそういうことだったのか」と得心がいった。

 映画としてはたいへん地味な作りだが、僕はああいう地味な映画が基本的に大好きである。フェルメールと使用人グリートのプラトニックな、しかしかぎりなく官能的な関係性を描くことに専念し、それ以外の要素を大胆に捨象しているのがすばらしいと思う。そうすることによっていっそうエロさが研ぎすまされているからだ。

 また、おそらく明瞭に意識したものだろうが、光線の取り入れ方などが計算し尽くされていて、あらゆるカットがフェルメールの絵それ自体のように見えるのもみごとだ。ストーリーを無視して映像を眺めているだけでも楽しい、という稀有な映画のひとつである。

 ところで、本筋とはまったく関係がないのだが、作中であの絵のモデルになる、ヨハンソン演じるところのグリートは、字幕では「グリート」とされているし実際に役者も「グリート」と発音しているものの、本来は「フリート」ではないかと思う。"Griet"をオランダ語読みすればそうなるからだ。あれはオランダ語の人名としての「フリート」を英語読みしたものだろう。

 それを言うならあの映画自体が、オランダを舞台にしていながら、使用言語は英語オンリーである。英語で作られた映画には、一定量の割合でそういう作品が存在する。フランス革命を題材にしていながら全編英語とか、ナチスを題材にしていながら全編英語とか、そういうパターンだ。

 僕は以前から、ああいうのは当事者たち(英語圏の人、あるいはフランス語圏・ドイツ語圏の人)にどういう印象を与えるものなのかという点が非常に気になっている。日本人からすれば、それはたとえば清朝の物語を、あるいは李王朝時代の朝鮮の物語を、全編日本語で演じているようなものだからだ。

 ドラマ『蒼穹の昴』で西太后を日本人である田中裕子に演じさせておきながら、台詞はすべてアテレコで中国語にしたのは賢明だったと僕は思っている。でもなんとなく、僕が、あるいはアジア人がそう感じるほどには、英語圏以外の場所を舞台にした映画を英語で作っている人たちは、そのことに違和感を覚えていないような気がする。

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2011年3月23日 (水)

なるべくか絶対か

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 昨日・今日あたりからようやく平常モードに戻ることができたようだ。東京23区内はたいした被害もなく、僕の家も本棚が2つ倒れた程度だったので、被災地の人々には申し訳ないのだが、それでも毎晩眠りは浅く、常に心がこわばっていたせいか、疲れがなかなか取れない。

 倒れた本棚のひとつはどうせ近々買い替えようと思っていた矢先だったので、落ちた本は部屋に積み上げたままだ。ただ、通販で注文した後継の本棚は、在庫があるにもかかわらず、4月にならないと配送してもらえないらしい。トラックが出払っているからだろうか。もっとも、野積みした本の山に囲まれた生活にもすっかり慣れてしまったのだが。

 画像の段ボールは本棚の上に置いてあったもので、これがパソコンのキーボードを直撃して、「2/ふ」のキーが吹っ飛んだ。さいわい本体の機能にはなんら障害が生じていないが、震災の2日前にふと不安になって書きかけの書き下ろしのバックアップをUSBメモリにコピーしておいたのは、虫の知らせだったのか。

 大きな地震が初めてだったクーは、最初の大きな揺れの際、恐怖のあまりおしっこをチビってしまい、その後もちょっと大きめの余震が来るたびに尻尾をタヌキ状にしていたが、今はこのとおりその恐怖もすっかり忘れてしまっているようだ。猫には常に「現在」しかない。

 仮に災害に見舞われたら、やはり自分自身も含めて人命を救うことが優先で、ペットの安全は二の次にせざるをえない。可能なかぎり助けたいが、どうしようもないときもあるだろう。妻とそんなことを話していたその晩、眠っている間にちょっと大きな揺れが来た。

 僕は自分の腋の下で丸くなっていたクーをとっさに抱き上げ、庇うような姿勢を取った。揺れはすぐにおさまったが、クーが怯えているようだったので、落ち着くまで膝の上で撫でてやっていた。闇に目が慣れてくると、クーが瞳孔の開ききったまっ黒なまん丸い目で僕をじっと見つめていることがわかった。

 そのとき僕は、「無理!」と心に叫んでいた。この猫を置いて逃げるなんて自分には絶対にできない。自分の命すらもかえりみず、この猫を助け出すために無謀なことをやらかしてしまうだろう。結果として、クーも救えず、自分も死んでしまうかもしれないとしても。

 妻は、きっともっと冷静だと思う。僕はいつかこの猫のためにとてつもなく危険な状態に自分を追い込むことになる気がしてならない。

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2011年3月 3日 (木)

歴然たる猫ブログ宣言

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 これまで僕は、クーに関する記事をこのブログで書くことにあまり積極的ではなかった。それは、僕自身のクーに対する溺愛っぷりから推して、単なる飼い主バカっぷりを恥ずかしげもなくさらけ出すだけの結果に終わるのが目に見えていると思っていたからだ。

 しかし考えてみたら、いったいそれの何が問題なのか、という気もする。見かけばかり取り繕っても、僕がクーを溺愛していることは歴然たる事実ではないか。そんなわけであえて宣言しよう。僕はこのブログが「飼い主バカの猫ブログ化」することを選択肢として排除しない。

 もしも僕が今後、クーの画像ばっかりいくつも並べて、「おなかすいたニャ〜」とか「お水ゴクゴク」とか「おしっこはお行儀よく」「でも砂はかけニャいで逃走ニャ!」といったテキストしか書かなくなってしまったとしても、どうか寛大に見逃してほしい。

 ところでほとんど関係ないのだが、「歴然たる」という形容動詞は、どこか英語のようだと僕は高校生の頃から思っていた。"rekizental"と綴るとたいへんそれっぽい。そしてこれを、「レカゼノォ」という感じで発音すると、さらにそれっぽい。"I'm rekizentally doting on Koo."のように、副詞形にして文章に組み込んでしまうと、もう見分けがつかない。

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2011年3月 2日 (水)

清潔正社員

 ここしばらく、じわじわと部屋の整理整頓や模様替えをしたり什器備品の入れ替えをしたりしている関係で、処分しなければならない大きめの不要品がたまりつつある。

 それで、これまではマンションの郵便受けに「不用品回収」といったチラシが入っていても邪魔だとしか思わなかったのだが、にわかに関心を持ってちゃんと見るようになっている。その中で、こんなコピーが目に留まった。

  清潔で元気で明るい正社員がお伺いします。

「元気」とか「明るい」はともかくとして、「清潔で」が気になる。清潔は必須条件ではないのか。ことさらにこう書かれてしまうと、実は清潔ではないこともあるのではないか、これは悪天候で船がしばしば座礁する難所であったアフリカ大陸の南端を「喜望峰」と呼んだのと似たメカニズムによる形容なのではないかと。

 ついでに言うと、「正社員」とあえて限定するのはいかにも現代の世相を反映している感じがするが、こういう書き方はいわゆる非正規雇用の人々に対して失礼なのではないだろうか。まるで、「正社員」でなければ信頼できる仕事をしてくれないとでも言わんばかりではないか。

 自分ならどう書くかというと、せいぜい「元気で明るいスタッフがお伺いします」程度かな。しかし実際のところ、やたら元気で無駄に明るいような人に来られてしまっても、(自分がまったくそうではないだけに)なんだかいたたまれない気がする。

 ではこれでどうだ? 「そつのない有能なスタッフがお伺いします」。少なくとも僕はそういうのが大歓迎なのだが、それはそれで無用な不安を煽るかもしれない。そこを補うなら、こんな感じでどうだろう。「決して感じが悪いわけではないが、無駄口は叩かず、しかし疑問点には親切かつ過不足なく答えられるだけの知識とスキルを持ち、淡々と的確に仕事をこなす有能なスタッフがお伺いします」。

 いやこれはコピーじゃない。単に「僕が来てほしいと思っているスタッフの種類」だ。

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