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2011年3月24日 (木)

眉のない耳飾りの少女

 映画『真珠の耳飾りの少女』で、スカーレット・ヨハンソンは、フェルメールの同名の絵のモデルに似せるために眉毛を剃っているのだろうか。あの絵に関しては、モデルに眉がない(ように見える)せいで今ひとつよさがわからずにいたのだが、あのモデルにかなり似ているヨハンソンが動いているさまを見て初めて、「ああそういうことだったのか」と得心がいった。

 映画としてはたいへん地味な作りだが、僕はああいう地味な映画が基本的に大好きである。フェルメールと使用人グリートのプラトニックな、しかしかぎりなく官能的な関係性を描くことに専念し、それ以外の要素を大胆に捨象しているのがすばらしいと思う。そうすることによっていっそうエロさが研ぎすまされているからだ。

 また、おそらく明瞭に意識したものだろうが、光線の取り入れ方などが計算し尽くされていて、あらゆるカットがフェルメールの絵それ自体のように見えるのもみごとだ。ストーリーを無視して映像を眺めているだけでも楽しい、という稀有な映画のひとつである。

 ところで、本筋とはまったく関係がないのだが、作中であの絵のモデルになる、ヨハンソン演じるところのグリートは、字幕では「グリート」とされているし実際に役者も「グリート」と発音しているものの、本来は「フリート」ではないかと思う。"Griet"をオランダ語読みすればそうなるからだ。あれはオランダ語の人名としての「フリート」を英語読みしたものだろう。

 それを言うならあの映画自体が、オランダを舞台にしていながら、使用言語は英語オンリーである。英語で作られた映画には、一定量の割合でそういう作品が存在する。フランス革命を題材にしていながら全編英語とか、ナチスを題材にしていながら全編英語とか、そういうパターンだ。

 僕は以前から、ああいうのは当事者たち(英語圏の人、あるいはフランス語圏・ドイツ語圏の人)にどういう印象を与えるものなのかという点が非常に気になっている。日本人からすれば、それはたとえば清朝の物語を、あるいは李王朝時代の朝鮮の物語を、全編日本語で演じているようなものだからだ。

 ドラマ『蒼穹の昴』で西太后を日本人である田中裕子に演じさせておきながら、台詞はすべてアテレコで中国語にしたのは賢明だったと僕は思っている。でもなんとなく、僕が、あるいはアジア人がそう感じるほどには、英語圏以外の場所を舞台にした映画を英語で作っている人たちは、そのことに違和感を覚えていないような気がする。

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