newsという単語に複数形は存在しない
お知らせが2つ。
まず、先日紹介させていただいた、インスリンの会社であるノボノルディスクファーマの関連サイトclub_dmで、僕の体験談の後編がアップされた。
もうひとつは、先日の「別冊文藝春秋」に引き続き、連載開始のお知らせである。朝日新聞出版の季刊文芸誌「小説トリッパー」で、今月発売の夏号より、長編小説『出ヤマト記』の連載が始まった。
これも詳しく説明してしまうとネタバレになる恐れがあるので、最小限のことしか言えない。19歳の女の子が、どことも知れない異国をたった1人でさまよう物語である。この作品はある意味で、「ラスマン」に近い立ち位置から書いているつもりだ。しかし、何をもって「ラスマン的」と見なすかについては、人によってかなり偏差があるように見受けられる。
ともあれ、ここに来てようやく僕は、「大きな物語」を書く準備が整ったようだ。僕は必ずしも、大きさそのものを是とはしない。一見したところ大きなことが何も起こっていないように見えるその中で、実はなにかが起きているということをいかに描き出すかが小説の使命のひとつではないかとさえ思っている。しかしそのことは、物語が大きくなることを排除するものでは決してない。
ところで、聖書の「出エジプト記」の原語が単なる"Exodus"であることを知ったときは、新鮮な驚きを感じたものである。この説明がましい意訳ぶりには、どこかしら洋画の邦題に近いものを感じさせられる。
たとえば「未来世紀ブラジル」だって、原題はただの"Brazil"なのだ。しかもあの作品の場合、タイトルの"Brazil"は劇中でくりかえし流されるテーマ曲のタイトルであるにすぎず、舞台がブラジルというわけでさえない(明言はされていないがたぶん違う)。邦題も単なる「ブラジル」の方が数段カッコいいと僕は思うのだが、それでは集客力が見込めなかったのだろう。どんな世界にもオトナの事情というものがあるのだ(たぶん聖書にすら)。
ついでながら、僕はオトナの事情を解さない人と読解力のない人が嫌いだ。そして往々にしてこの2つの属性は、同一人物の中に共存する。
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