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2011年9月11日 (日)

その瞬間の記憶

 図抜けてショッキングな事実を知ったときは、それを知った瞬間の状況まで長期にわたって記憶している確率が高い、といった内容の記事をどこかで読んだことがある。まさにそのとおりであり、10年前、「それ」を知った瞬間のことを、僕は今でも鮮明に覚えている。

 今住んでいるマンションに引っ越す直前の時期だった。小さな沓脱ぎの先の玄関ドアを開けると、庇も何もなくいきなり外、というアパートだった。おかげで、ドアを薄く開けて手を伸ばしさえすれば、外の郵便受けから新聞を取り込むこともできたのだが、朝は慌ただしいので、朝刊は先に家を出る僕が出がけに郵便受けから引き抜いて食卓に放るのみで、会社から帰宅するまではトップ記事の大見出しにさえ目を通さないのが普通だった。

 しかし、その日は違った。一面に掲げられた巨大なカラー写真と巨大な大見出しが、いやおうなく目に飛び込んできたからだ。

 思わず「えっ……?!」と大声を出しながら紙面を数秒間凝視してしまったことを覚えている。「どうしたの?!」と驚いて近づいてきた妻に、僕は言葉もないまま新聞を手渡した。2本の超高層ビルが炎上しているその写真が、現実に起こったことなのだというのが信じられなかった。それがあまりにも、ハリウッド製SF映画の一場面に酷似していたからだ。

 当時は(今も基本的にはそうだが)テレビを観るという習慣がほとんどなかったので、僕にとってはそれこそが第一報だったのだ。その点は妻も同じで、僕同様、「えぇっ?!」と叫んだきり言葉を失っていた。もっと詳しく知りたい、と激しく思ったが、すぐにでも駅に向かわないと確実に遅刻する時間だった。あのときほど、新聞の見出しにうしろ髪を引かれる思いに駆られたことはない。

 あれからもう10年も経っているのだという事実に、少々愕然とさせられている。すでに、あの事件をリアルタイムで経験していない世代が小学生くらいになっているということではないか。「未曾有のできごと」というのも、こうして少しずつ歴史のひとコマとなっていくわけだ。

 それを知った瞬間のことをまざまざと覚えているという意味で、この10年であれに匹敵するものといったら、それこそ半年前の震災くらいしかない(もっともあれについて言えば、僕はそれを「知った」というより、リアルタイムでその場に居合わせてもいたわけだが)。東北地方を津波が襲う悪夢のような映像をテレビで観ているときに覚えた、「これは本当にこの日本で今現在進行中のできごとなのか」という感覚は、9・11の第一報に触れたときのあの非現実感とかぎりなく近いものだった。

 しかしその震災についてもまた、やがて「それをリアルタイムで経験していない世代」が生まれ、育っていくことになるのである。その世代の人々は、「9・11」と「3・11」をつなぐ日付上の奇妙な暗合を、どう捉えるのだろうか。

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