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2012年1月25日 (水)

16年ぶりのアーヴィング

 ジョン・アーヴィングという作家の作品に長いこと触れていなかった。『有村ちさとによると世界は』でタイトルの一部を借用することまでしていながら(あれは、日本では『ガープの世界』として知られる"The World According to Garp"をモジったものである)、なぜか作品からは距離を置いていた。

 最近、ふと気が向いて『サーカスの息子』を読んだのだが、いったいアーヴィングを読むのは何年ぶりなんだろうと思って調べてみたところ、1996年に『サイダーハウス・ルール』を文春文庫で読んだのが最後だったということが判明した。実に16年ぶりである。

 以前は、「好きな作家は?」と訊かれればまっさきに名を挙げるほど大好きな作家だったのに、いったいどうしてふっつりと読まなくなってしまっていたのだろう。理由は考えても思い出せなかったし、たぶん、確たる理由などもともとなかったのだろうと思う。こんな風にして、人の気持ちというのは離れていってしまうものなのだ。

 しかし、16年ぶりに読んでみると、やはり文句なくおもしろい。自分はこの人の小説がものすごく好きなのだ、とあらためて思った。そしてもうひとつ、気づいたことがある。

 僕は自分の小説の登場人物たちを必ず、一定以上の愛情をもって描いている。主人公などのことだけを言っているのではない。それがたとえどんな役割を与えられている人物であろうと、つまり、ひどい悪人であっても、どうしようもない奴であってももれなく、心のどこかで愛しく感じているということだ。

 ときに僕は、ものすごく意地悪な視点を通じて、ある人物を描くことがある。そこに揶揄や冷笑や侮蔑しか感じないという人もいるかもしれない。しかし僕に言わせれば、そんな風に見える場合でさえ、それを描いている僕の中には一片の愛情があるのだ。

 そういう態度を僕はどこから倣ったのかと考えると、それはたぶん、ほぼまちがいなくアーヴィングなのである。この人の書く小説には、そういう意味での「愛情」が溢れている。だからといって、この人が実生活においても他人に対する愛情に溢れている人だとは必ずしも思わないし、僕自身、どっちかというとそれとは正反対のタイプの人間だと思うけれども。

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2012年1月24日 (火)

謝罪の過去形

 ある韓流ドラマを観ていたら、"정말 고마왔어"(チョンマル・コマワッソ)という台詞に対して、「今までありがとう」という字幕が付されていて、なるほどと思った。

「チョンマル・コマワッソ」は、直訳すれば「本当にありがたかった」くらいの意味である。「コマワヨ」が「ありがとう」だという程度のことは、旅行者向けの例文集にも載っているのではないかと思うが、「コマワ」の部分はもともと、"고맙다"(コマプタ)すなわち「ありがたい」という意味の形容詞の活用形である。これに「ッソ」という過去を表す接辞がついた形が「コマワッソ」なのだ。

 日本語の「ありがとう」も、元来は「ありがたく存ず」あるいは「ありがたく候」あたりから派生した表現だろうが、成句としてあまりにも定着してしまっているので、それ自体を過去形にするのはなじまない。「ありがたかった」と言う場合もあるが、なにやら仰々しい感じになってしまう。

 そういうとき、日本語話者が普通どう言うかというと、やはり「今までありがとう」だろう。「今まで」の部分によって、過去あるいは現在完了のニュアンスを添えた上で、成句としての「ありがとう」を使っているわけだ。

 一方、日本語でも、「すみません」については、「すみませんでした」というれっきとした過去形がある。しかし、「ごめんなさい」の過去形はない。本来の意味合いが形骸化しているとはいえ、文法的にはあくまで「免じてくれ」=「許してくれ」という命令形であることがその原因だろう(原理的にいって、命令形に過去時制はありえないから)。もしもこれを、意味を汲みつつ「ありがたかった」的にむりやり過去形にするとしたら、さしづめ「許してほしかった」とでもなるだろうか。

【用例】
「昨日の帰りがけ、倉庫の施錠を忘れたのは君かね?」
「許してほしかったです!」

 なんだか必要以上に言い訳がましく聞こえる。やはりこれは、実際の会話では使えまい。

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2012年1月12日 (木)

Even if you have to leave me

 もう、だってそれは「ありがとう」としか言えないよね?

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2012年1月 7日 (土)

トリツク島もなし

 ああもううんざりだな。解かれるべき謎、解かれることを待っている謎を解いて楽しいですか? そんなものが真の謎と言えますか? 東京タワーは赤いのがご自慢ですか?(『ぷりぷり県』by 吉田戦車)

 いやそれはいいとして、昔夢中で観たドラマ「ケイゾク」を十数年ぶりに観たら、トリックにけっこう無理があることに気づいてしまった。いや、トリック自体に破綻はないんだけど、そんなこと本当に可能なのか、という。

 たとえば、「4階の一番奥の部屋」という情報だけが与えられている状況で、本当はひとつ手前の部屋を「一番奥」と錯覚させるために、「あらかじめニセの壁を用意しておいて、ここぞというときにその壁をひとつ手前の部屋まで移動させる」ことでその錯覚を生み出させるってね、言葉で言うのは簡単だけど、それを松田美由紀演じるあの平凡な主婦がいったいどうやって1人で成し遂げるのかな、という。

 それをするには、最低、次の条件が満たされていなければならない。(1)当該のマンションの壁の仕様(サイズ、壁の材質など)がわかっていて、それを適切に業者に指示できる、(2)業者がそのオーダーに適切に応えられる、(3)そのニセの壁を当該のマンションに搬入するに際して、誰にも(というのは、業者にもマンションの住民にも)怪しまれない理由をでっち上げられる、(4)そのニセの壁は、女手ひとつで自在にスピーディーに移動させることができる。

 いやー、そうとうハードル高いですね。というか、事実上、これは不可能と言っていいでしょう。「もし仮にそのとおりにできるとすれば」、あの松田美由紀演じる主婦の犯罪は完全に近いものになったでしょうが、現実問題、そんなことはまずできないですよね。

 いや、特に「ケイゾク」が悪いと言ってるわけじゃないんです。あれは当時も楽しく観たし、今も楽しく観ている。ドラマとしては非常におもしろくて、僕自身もけっこう影響を受けた。でもそれはトータルとして見た場合であって、個々のトリックについてはかなりの無理を感じるのです。そしてそれは、「ケイゾク」に限った話ではぜんぜんない。

 ああいった作品の中で扱われる「トリック」って、かなりの頻度で、僕には「理論上可能なトリック」にすぎないものに思えるんです。理論上可能だけど、実際問題、不可能かそれにかぎりなく近いトリック。そこで一気に醒めてしまうものが、少なくとも僕にはある。そうじゃない人もいるのかもしれないけど、僕にはムリです。それに気づいてしまってからもなお、そのエピソードに関心を持ちつづけることはできない。

 でも、いいんですかね、それで。それでもいいって人が大勢いるんでしょうか。だとしたら僕は、入口で大きく間違っているのです。しかし仮に僕が間違っていることを認めるとしても、自分が陥っているその「間違い」を正す気持ちにはどうしてもなれないのです。

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