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2012年11月12日 (月)

今日の反省(約1,500字)

 近所のスーパーのレジで、受け取ったおつりを財布に入れようとしたとき、まったくの不注意で、100円玉をひとつ床に落としてしまった。

 ころころと転がっていくその行方を目で追ってはいたのだが、そのときはポイントカードやらレシートやらを手にしていて、このまま追っていってもどうせ拾うことができないと思ったので、ひとまずそれらをきちんとしまい直してから、おもむろに(※文字どおり「徐に」、すなわち、「ゆっくりと」の意)100円玉が消えたと思われる方向に向かった。

 隣のレジで会計処理を待っている若い男性が、まさに足もとに転がってきた100円玉に気づき、拾い上げようとしているところだった。「あ、すいません、それ、僕の……」と言いかけたのだが、僕に背を向けていた男性は気づかずに、レジに立っていた従業員にそれを渡した。

 僕の声が特別に小さかったとは思えない。彼のうしろに並んでいた数人の客が、一斉にこちらを見たからだ。最悪、レジの従業員は気づいてもよかったはずだと思う。僕が何を言おうとしているのかまではわからないにしても、客の1人がなにかを訴えているということくらいは。少なくとも、その姿は視界に入っていたはずなのだから。

 しかしその、見るからに気のきかなそうな男性従業員(経験的にいって、スーパーでレジを打っている男性従業員の多くは気がきかない)は、「あ、すいません」と言いながら男性客からあたりまえのように100円玉を受け取り、あたりまえのようにそれをレジスターの引き出しにしまってしまった。単に、店のお金が落ちていたものと解釈したらしい。

 そして彼は、言いかけた台詞を最後まで言う機会を封じられて立ち尽くしている僕のことは一顧だにせず、男性客の会計を続行した。僕は結局それ以上食い下がれず、しかも、なまじっかうしろに並んでいる何人かからの不審げな視線も集めてしまったばかりに、いたたまれない思いでその場をあとにした。

 たかが100円、されど100円である。人生いろいろ、100円もいろいろである(古い)。問題は、金額の多寡ではない。あとになって、どうしてあのとき、せめてもうひとこと、「今の100円は僕のだと思います」と従業員に食い下がることができなかったのだろうと考えた。

 ひとつには、それが絶対に僕が落としたものであるという確信が、今一歩のところで持てなかったからだ。そっちに向かって僕の100円玉が転がっていったことはまぎれもない事実なのだが、それはもしかしたら、レジカウンターの下かどこかに転がり込んでしまい、それとは別に、たまたま男性客の足もとに100円玉が落ちていたのかもしれないではないか。

 もうひとつは、僕の声に反応して一斉にこちらを見た人々の視線に気圧されてしまったからだ。もちろん、そのとき男性客なりレジの従業員なりも一緒にこっちを見てくれれば、僕も臆することはなかったと思うのだが、彼ら2人に無視されたことによって、僕はその他の人々の目に、単なる不審者として映ってしまっているように思えてならず、その雰囲気を払いのけてまで100円玉の所有権を主張する胆力を、その場では発揮することができなかったのだ。

 いや、それを言うならそもそも僕は、最初に100円玉が転げ落ちたとき、なりふりかまわず走ってそれを追うべきだったのだ。そうすれば、「今、私はお金を落として、それを追いかけているところです」というアピールにもなったはずだ。なんとなくそれがカッコ悪い気がして、ほんの数秒といえどタイミングを見計らってしまったことが、すべての元凶だったのだ。

 この損な性格を叩き直そうとこの20年ほど努力を続けてきたつもりだったが、今もってこのザマとは。みすみす所有権を放棄してしまった100円玉に思いを馳せながら、自らに猛省を促したい。

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