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2012年11月29日 (木)

a privileged creature

Window

 陽だまりを求めて移動していくクーの、朝イチの出発点。眩しそうに目を細めている顔が、ガラスに映っている。

 クーのこの姿は、朝露に濡れた葉っぱの上で日光を浴びながら、飛翔できるコンディションになるまで体内に熱を蓄積するためただじっとしている甲虫の姿を思わせる。

 しかしクーの場合、そうして陽だまりで熱を溜めたとしても、そのあとにすることといえば、蒲団に潜り込んで暗くなるまでぐうぐう寝ることくらいである。

 そんな風に生きたい、とは、僕は言わない。そんな毎日だったら、退屈で頭がおかしくなってしまうにちがいない。しかしそこでことさらに退屈を感じずにいられる感性こそが、猫という種族に与えられた特権なのだろう。

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2012年11月27日 (火)

解読されたカードの文言

 興味がない人にはまったく興味がないであろう、オランダ語ネタの続き。

 僕は2007年の夏に、ベルギーとオランダを訪れている。ともにオランダ語を話す国だが、当時はまだこの言語を勉強していなかった。だから、他の多くの人々同様、僕もまた、看板等を見るたびに、aaとかijといったなんだかものすごく見慣れない、よそよそしい感じのする綴りに恐れをなし、心細い気持ちになっていたものである(ちなみに前者は文字どおり「アー」、後者は通常「エイ」と発音する)。

 そんな中、ブルージュを訪れた際、ホテルの近くにたまたま市が立っていて、なんとなく、カードを何枚か購入することになった。誕生日を祝うカードなら自分でも使う可能性が高いので、それを探そうと思った。

 カードに印刷されている文言は、当然、大半はオランダ語である。まったく読めないのだが、なにかヒントは見つかるはずだと思った。ふと、猫の写真を背景にHartelijk Gefeliciteerd Verjaardag!と書かれたカードが目に留まり、これはきっと誕生日用のカードだと直感した。

 この直感にはなにか理由があるはずだと考えて、その謎の文言を眺めているあいだに、いくつかのことに気づいた。

 Gefeliciteerdの中のfelicitの部分は、英語のfelicitate(祝う)に似ている。そして、Verjaardagに含まれるjaarは、半端に知っているドイツ語のJahr(年、発音は「ヤール」)に似ている。さらに言うなら、それにくっついているdagは、英語のdayと、同じ意味のドイツ語Tag(ターク)を足して割ったような綴りだから、きっと「日」という意味だろう。

 この文言が、「年」に関わるなんらかの「日」を「祝う」内容であることはほぼまちがいがない。唯一気がかりなのは、それが誕生日ではなく、新年を祝う内容であることだったが、それはたぶん違うだろうという推測は立っていた。

 というのも、「新年」は英語ではnew year、ドイツ語ではNeujahr(ノイヤール)である。オランダ語だって両者と近縁の言語なのだから、「新しい」はきっと、newなりneuなりに近い綴りにちがいない。それが含まれていないということは、これは「新年」とは無関係な「年」を祝う文言であるはずだ。そう考えたのである。

 こうして僕は、そのカードを「誕生日のカード」と断定した上で購入したのだが、日本に持ち帰ってから長いこと、実際に使用する機会はなかった。というか、やはり文言に確信が持てないので、積極的に使う気持ちになれずにいるうちに、存在自体を忘れてしまっていたのだ。

 何年か経って、ふと引き出しの中にそのカードを見つけたとき、「おおっ!」と思った。その時点では、僕はオランダ語をいくぶん勉強していて、かつては謎だったその文言もスラスラ読めるようになっていたのである。そして僕は、自分の推測が間違っていなかったことを確認することができた。

 Hartelijk Gefeliciteerd Verjaardag!は、「ハルテルック・ヘフェリシテールト・フェルヤールダッハ」と読み、直訳すれば「心をこめて祝われた誕生日」、ひらたく訳せば「お誕生日おめでとう!」である(ついでにいえば、オランダ語で「新しい」はnieuw)。この瞬間の感動を、今でもまざまざと思い出すことができる。こういう体験こそ、語学を学ぶ醍醐味のひとつだろう。

 そんなわけで、件のカードは、晴れてその年の妻の誕生日に使用することができた。しかし、上記の文言を流暢に発音することは、今もってできない。特に「ヘフェリシテールト」の部分で、どうしてもつっかえてしまう。しつこいようだが、江戸時代や幕末期の日本人たちは、いったいこれをどう発音していたのだろうか。

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2012年11月26日 (月)

夢で出会うなんの変哲もない人々

 なるべくマメに夢日記をつけるようにしている。創作上の思わぬヒントになることもあるし、そうでなくても、一般的な描写力のトレーニングになるからだ。

 夢にはしばしば、現実には存在しえないものが、現実にはありえない配置で登場したりする。それを、仮に第三者が読んだとしても理解できるように客観的に描写するのはなかなか骨が折れるが、逆にいえば、それがクリアできるなら、どんな荒唐無稽な内容も文章で的確に描写することができるはずだと僕は考える。

 しかし、そうして夢で見たままのことを、正確を期して記録するように努めていると、実にしばしば、夢に「ある存在」が登場していることに気づく。その存在とは、「実在しないが、夢の中では知っているという設定になっている人物」である。

 それは職場の上司または同僚であったり、過去にどこかで会ったことがあるはずのだれかであったりする。目が覚めてから思い出すと見ず知らずのだれかなのだが、夢の中では、「自分はたしかにこの人を知っている。自分にとってこういう関係の人であったはずだ」と確信している。そういう人物が、ほぼ日替わりで無数に登場するのだ。

 彼らはいったい、誰なのだろうか。

 夢から覚めた直後には、その顔の造作もかなりはっきり記憶していて、もし道端で見かけたら「あの人です」と指差すことができるであろうほどである。彼らは実際に、現実世界のどこかに存在しているのではないか、と思う瞬間がある。その彼らが、なにかのかげんで僕の夢の中に紛れ込み、そこで僕と出会っているのではないかと。

 しかしまあ、彼らの多くは、仮に現実世界における所在が判明したとしても、特別に会いたいと思うような人々ではない。だからこの問題についても、これ以上深く考えるつもりはない。50がらみの、前髪をまん中で分けた、冴えない黒縁のメガネをかけた、ヒゲの濃い、まあまあ親切だが特別に話がおもしろいわけでもないという男のことなど、誰が深く追求しようと思うだろうか。

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2012年11月24日 (土)

なぜか決して聞き入れられない嘆願

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 週に1度、僕が掃除機を引きずって各部屋を巡回している間、クーはたいてい、キャビネットの上とか食器洗浄機の上などに避難して、こわごわとその様子を見守りつつ、ときどきさも不服げな声を出して僕を難詰している。掃除機の音が怖いのである。

 モーター系の騒音を嫌わない猫はいないが、うちの掃除機はダイソンなので、また音がことさらにすさまじいのである。掃除中はなんとなく音楽をかけっぱなしにしているのだが、ダイソンの稼働中ははっきりいってまったく意味がない。かなりの音量で流していたとしても、いっさい聞こえなくなってしまうからだ。

 しかしクーは、僕の掃除の手順をあらかた記憶しているものと思われる。吸引したホコリ(といってもその8割はクーの抜け毛なのだが)を排出するためにダストボックスを取り外していると、それを見て「終わったな」と判断するらしく、避難していた場所から降りてきて、僕のまわりにまといつきはじめる。

 まといつくのは、それまでが怖くて心細かったのと、掃除中は必然的に僕にかまってもらえないのでさびしかったのが原因だろう。ちょっと抱っこしたり撫でてやったりするとすぐに満足して、なにごともなかったかのように立ち去るのが常だ。

 僕としてもクーの静かな生活を脅かすのは本意ではないのだが、なにしろそのクー自身の抜け毛の量がハンパない。ダイソンは使用するたびにダストボックスを空にしなければならない仕様なので、「1週間でこれだけのホコリ(抜け毛)が溜まった」という事実をその都度目の当たりにさせられるのだ。それがわかっていながら、掃除機を使う頻度をあえて下げることは、僕にはとうていできない。

 クーにしてみれば、これまでにも「それはやめてくれ」と何度となく僕に嘆願しているのに、どうしてやめてくれないのだろうという気持ちかもしれない。クー自身も含めてみんなが快適に暮らすために、これはどうしても必要なことなのだ、とクーにわからせるには、どうすればいいのだろうか。

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2012年11月23日 (金)

a midnight tweet

 しかしそれは僕の知ったことじゃない。東京都23区内。二度あることに三度目はない。本は逃避の手段じゃない。そんなのだけが読書じゃない。さ、さわやかサンシャイン。ま、まじめな会社員。あ、安心公務員。夜中も見回り警備員。

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2012年11月21日 (水)

フリーペーパーの「かわいい」直筆文字

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 知り合いの書店員Uさんが、僕の新刊『僕の心の埋まらない空洞』をフィーチャーするフリーペーパーを作ってくださった。新潮社経由で、すでに一部の書店さんに置かせていただいているはずだ。

 Uさんのお勧めコメントのほかに、僕自身も直筆でメッセージを寄せている。また、中面はUさんからのインタビューということで、6つの質問に僕が答えている。かなり本音ベースだ。媒体が一般メディアだったら、ここまで踏み込んだ回答にはならなかったかもしれない。

 これだけの内容を、A4サイズ1枚の表裏に手書きで見栄えよくまとめるのは、たいへんな労力だったと思う。しかもUさんは、快く無償でそれをやってくださったのだ。本当に感謝している。特にこの小説は、誤解や曲解を受けやすい内容だと思うので、こうして側面からお墨つきをもらえるのは、心強いことこの上ない。

 ただ、直筆メッセージを求められたときは、一瞬どうしようかと思ってしまった。過去にもインタビュー等で似たような局面は何度かあったが、何度経験しても緊張してしまう。僕の字は、率直にいって、人が読むのに向いた形をしていないと思うからだ。

 しかし読めなければ意味がないので、通常文字を書くときの3、4倍の時間をかけて、僕なりに精一杯、せめてていねいに書いた。Uさんからは、「平山さんの字はかわいくて、女の私の方が男っぽい字だと思った」と言われてしまった。

 以前、僕がハングルで書いた文章を読んだ知り合いの韓国人からも、「平山さんの書くハングルはかわいい」と言われたことがある。どうやら、文字体系の如何を問わず、僕がなにかしら文字を書くと、そうなってしまうということらしい。

 ともあれ、このフリーペーパーを通して、僕がこの作品に込めた真意や意気込みが少しでも読者の方々に伝わり、それが本を手に取るきっかけになってくれれば嬉しい。

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2012年11月20日 (火)

「たまに来るおばさん」と化した妻

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 日中のクーは、天候にかかわらず概して不活性で、5分の4は惰眠を貪っているか、半醒半睡でダラダラしているかのどっちかである印象があるが、妻がたまたま休みで家にいるときは、そうともかぎらないことが最近わかってきた。

 妻は忙しくて、土日にも仕事が入っていることが多いから、日中、在宅していることはかなりめずらしい。今日はたまたま終日休みだったのだが、そうするとなぜかクーは興奮ぎみで、休むことを知らず何時間でも動きまわっている。必ずしも妻について回っているというわけでもなく、とにかくただずっと興奮しているのである。

 普段、僕と2人きりのときには寝ているはずの時間帯にずっとそれをやっているのだから、疲れないはずがない。事実、夕方くらいになるとたいてい、力尽きたようにぐっすり眠り込んでいて、そのまま夜遅くまで起きてこない場合も多い。

 思うに、「日中から妻がいる状態」は、クーにとって一種の非日常として受け止められているのではないか。いわば、親戚のおばさんが遊びに来ているときみたいな。クーはたしかに妻にもなついてはいるのだが、そのなつき方は、飼い主に対するものというより、「たまに来る仲のいいおばさん」に対するそれであるように見えることがあるのだ。

 妻はそれをさみしがっている。仕事でほとんど家に居着かず、子どもに今ひとつなついてもらえないお父さんのような気分なのだろうと思う。

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2012年11月19日 (月)

蘭学事始

 断続的にオランダ語の勉強をしている。断続的なので、覚えた端からまた忘れてしまい、少し戻ってやり直すという二度手間三度手間の繰り返しなのだが、綴りと発音の関係については、ブランクを置いてももはや忘れなくなった。

 ただそれは、「この綴りならどう読むか」を説明できるというだけのことで、必ずしも、単語を見れば即座に正しく発音できるというわけではない。オランダ語の発音は、(ドイツ語など近縁の言語になじんでいる人でなければ)日本人にはかなり難易度が高いと思われる。

 ところが、幕末期、まだ英語が日本に浸透していなかった頃、欧米列強との外交交渉などの席では、中継ぎ用の言語としてオランダ語が使用されていたと聞く。当時の日本で最も知られていたヨーロッパの言語が、オランダ語だったからだ。

 たとえばアメリカと交渉するときには、まず英語を先方の通訳がオランダ語に訳し、それを日本側の通詞が日本語に訳す。逆の場合は、日本語→オランダ語→英語という階梯を踏んだという。

 それでいったい、どれだけ正確な意思疎通が図れていたのだろうか。ただでさえ、翻訳の翻訳でニュアンスの違いなどが不可避的に発生しそうなのに、発音の違いという障壁もある。なにしろ日本は、オランダ語を解する人間がいたとはいっても、蘭学の「ターヘル・アナトミア」の時代である。

 あの書名はそもそも俗称だそうだが、「ターヘル」の原語がtafel(ターフェル=オランダ語で「表、テーブル」の意。英語のtableに相当)であることはほぼまちがいない。つまり当時の日本では、heの音とfeの音が区別されていなかったと思われる。

 それだけではない。当時の日本人が聞いて「ヘ」と聞こえたであろう、あるいは聞こえたかもしれないオランダ語の音には、he””fe””ge””che(後半2つは喉音)の少なくとも4種があると思う。もちろん、ほかにも、日本人には区別しづらい音の組み合わせが、母音も含めてたくさんあっただろう。

 当然、誤解に次ぐ誤解のオンパレードだったはずだ。それでいて、欧米列強から押しつけられた条約の不平等さを正確に認識していた日本側の当局者たちに対して、僕は賛辞を惜しまない。そしてほんの一瞬でもいいから、オランダ語を介して行なわれていた他国との交渉の様子を、この目で見てみたい。

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2012年11月18日 (日)

おおらかな大人になりきれない

 住んでいるマンションにはエレベーターが1基しかないので、他の住民とかち合うことは頻繁にある。しかし僕は、可能なかぎりその機会を避けようとして、自分が乗ろうとしたときにエレベーターが稼働中だと、それだけで乗るのを断念して非常階段に切り替えてしまったりする。6階なので、下りはともかく上りは少々つらいのだが、それでもだれかと一緒になるよりはマシだと思ってしまうのだ。

 われながらおとなげないなと思うが、住民と出くわすのを避けたいことには理由がなくもない。専業になってからは、平日の日中にマンションを出入りすることが多くなった。その姿を、ほかの住民に見られたくないのである(僕が作家であることを知っている人は、マンションにはたぶん1人もいない)。

「なんだか平山さんの旦那さん、最近よく平日の日中にこのへんをうろうろしてるみたいだけど、仕事ないのかしら」「スーツ姿でいるところもめっきり見なくなったし、こんな時世だけにリストラでもされちゃったとか?」「でも本人にはちょっと訊けないわよね」「それにしてもずいぶん長くない? 歳も歳だし、ずーっと仕事が見つからないのかもね」「奥さんも働いているから生活はなんとかなるのかもしれないけど、お気の毒に」

 そんな風に勝手に想像されているかもしれないことが耐えられないのである。もちろん、自意識過剰だということはわかっている。仕事だって、どこかに通勤しているにしても、土日が休みとはかぎらない。しかし、一瞬「あれ?」と思ったことがある住民は、まちがいなく存在すると思うのだ。

 顔を合わせれば二言三言口をきく程度にはなじみのある間柄なら、妙なタイミングで出くわしたときに、「実は最近、在宅の仕事に切り替えまして」などと言い訳をすることもできるが(実際、何人かにはそうした)、そうでもないと、自分から言うのも変だし、相手からはもちろん何も訊いてくれないので、「こう思われてるかもしれない」と思っていても手の施しようがない。まるで、ツッコミ待ちの姿勢を取っているのに誰にもツッコんでもらえずにいる芸人のようではないか。

 さっきも、避けようのない形で住民とエレベーターで一緒になってしまい、瞬間的に身構えた。しかしよく考えたら、今日は日曜だからそんなことを気にする必要はないのだ。というか、普段だって本当は、そんなことを気にしてもしかたがないのである。

 そういうことを気にせずにいられる性格になりたい。そういうおおらかな大人を目指そう。僕が大人になったらなんになろうかなんて、いまでも考えてしまう。可笑しいだろ(斉藤和義)。

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2012年11月17日 (土)

that's exactly the way she should and would like to be

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 クーが赤いブランケットを使用している本来の状態。深夜、書斎で仕事をしていてふと、クーがいないな、と思うと、まっ暗なリビングで、こうしてソファの上にセットされたブランケットの上でじっとうずくまっていたりする。何時間そうしていたのか、と思う。寒くないのかな、とも思う。たぶんクーは、「この上にいればいつでも暖かい」と思い込んでいるのだろう。

 いざ僕が就寝するときには、クーをこのブランケットから引きはがして、寝室に拉致していくことにしている。クーはたいてい、「ぎー」とか「ぎわー」などと不満げな声を出して抗議するが、僕がベッドに入るや否や、「そうだった」と思い出したような顔をして、いそいそと僕の腋の下に潜り込んでくるのである。

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2012年11月16日 (金)

先生、シリツをして下さい

 先日アップされた「3 SPECIAL BOOKS」の1冊に、僕はつげ義春の『ねじ式』を挙げている。もはや古典となったこの不条理漫画については語りたいことが山ほどあり、それだけで1冊の書物になるほどなのだが、まあそれは置いておこう。

 それよりこの漫画は、1998年に、石井輝男監督によって実写で映画化されている。映画化の事実は当時から知っており、これは観ないわけにはいかないだろうと思っていたにもかかわらず、ささいな怠慢から観逃してしまっていた。それを、14年が過ぎた今、ようやくJ:COMオンデマンドで観ることができた。

 主演は浅野忠信で、つげ義春の自伝的な要素と作品世界が渾然一体となったような内容である。ソダーバーグ監督の映画『KAFKA/迷宮の悪夢』に近い手法と言っていいだろう。ただ、タイトルにもなっている『ねじ式』については、作品全体をほぼ原作に忠実に実写化した上で作中に取り入れており、それが映画のクライマックスにもなっている。

 この、『ねじ式』そのものを実写化した部分が、小学2年生以来の『ねじ式』ファン(※「3 SPECIAL BOOKS」でのコメント参照)にとっては、もうたまらなく楽しかった。

 原作はおそらく軽く200回くらいは読んでいて、ほとんどすべてのコマ、すべての台詞を暗記しているので、映画の方も、ほとんどすべてのコマ、すべての台詞をこれでもかとばかりに原作に忠実になぞっているのが観ているだにわかり、そのあまりの忠実さ(例:主人公が立ち寄った産婦人科の女医が、「わかりました ではお医者さんごっこをしてあげます」と言うときのポーズなど)に、何度も笑ってしまった。

 石井監督の、原作に対するリスペクトのほどが伝わってくる。このあまりの忠実さがかえって興ざめだったと言う人もいるかもしれないが、僕の意見はそれとは違う。いつかだれかが一度はこうしなければいけなかったのだ(もちろん、これとは違ったアプローチもあっていいとは思うけれど)。

 それにしても、J:COMオンデマンドは、観終わったあとに満足したかどうかを訊かれ、答えると回答者全体の「満足度」が星1つ〜5つで表示されるのだが、僕が「満足した」と答える映画に限って、全体の満足度は2か3と低く、満足しなかった場合はむしろ4か5のことが多いというのはどういうわけなのか。

 まあ、もううすうすわかっている。僕は世間のほとんどの人々、少なくとも多数派の人々とは意見が合わないのだ。僕の樹には誰もいないみたいだ。きっと丈が合わないんだろうってこと(ジョン・レノン)。

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2012年11月15日 (木)

Misunderstanding all you see

 主人公に最初から最後までまったく共感できなかった------これは、僕の最新刊『僕の心の埋まらない空洞』について書かれる感想の中で確実に何割かを占める、典型的なパターンのひとつだ。

 そういう感想が一定割合に達するであろうことは、ハナから覚悟の上だった。あれは、心やさしい登場人物が心暖まる交わりを通じて心安らぐ結末を迎えるような、癒しや慈しみや慰めに満ちた物語ではない。むしろ、ことさらに読み手の心を逆なでするだけしておいて、そのままなんの手当てもなく突き放してしまうような話だ。

 ただ僕は、上記のような、「全否定」型の感想を目にするたびに、これは少々怪しい、と感じずにはいられないのだ。

 まず、この場合の「主人公」とは誰を指しているのか。本書には、主人公が明瞭に2人いる。不倫のあげくストーカーと化して、相手の女性を死に至らしめてしまう被疑者・鳥越昇と、その供述に誠実に耳を傾けながら、いつしか知らぬ間に影響を受けていってしまう堅物の検事・荒城倫高である。この2人は、少なくともスタート地点では、対極的な存在として登場する。

「主人公」が鳥越のみを指すのであれば、わかりやすい。この男は供述に名を借りて、身勝手としか言いようのない自己弁明を延々と繰り広げる。それに対する嫌悪感というのは、むしろ人として抱いて当然のものだろう。しかしもし、その同じ嫌悪感が、荒城に対しても等しく向けられているのだとすると、少しばかり首を傾げたくなる。

「全否定」をする人たちは、まず鳥越に対して激しい嫌悪感を抱き、その嫌悪感に圧倒された結果、「こうなると荒城もいやだ、なにもかもいやだ」というアレルギー反応のようなものを起こしているのではないか。そしてなぜそれを彼らがそこまでいやがるかというと、それが彼らにとって「見たくない、直視したくないもの」だからであるという可能性がありはしないか。

 直視したくないから、意識が全貌を捉える前に慌てて蓋をして、見なかったことにしているのではないか。そして「まったく共感できなかった」のひとことで、自分の中でなにかが確実に動いたという事実そのものを封印しようと試みているのではないのか。「直視したくない」と感じるということは、心の中になにがしか、触れてほしくない部分があるということにほかならないのではないのか。それは、「共感」とは呼べないまでも、一種の「共鳴」の可能性とは違うものなのか。

 まあこれはあくまで、著者としての希望的観測を含んだ、そしていくぶん穿ちすぎの想像にすぎない。たぶん、本当に文字どおり、ただ「まったく共感できない」という人もいるだろう。ただ、そういう理由でこの本が、望ましからざるものとして遠ざけられてしまうのは、とても残念な気がするのだ。

 目を閉じていれば、生きていくのはたやすい(ジョン・レノン)。

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2012年11月14日 (水)

たとえ世界が白くかすんでも

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 日販「新刊展望」12月号の「おもしろ本スクランブル」というコーナーで、書評家の三橋曉さんが、僕の新刊『僕の心の埋まらない空洞』をご紹介くださっている。三橋さんには、先日刊行された『マザー』文庫版に解説をいただいたのにひきつづき、お世話になりっぱなしである。いつかなんらかの形で恩返しができれば、と思うが、前途茫洋である。四面楚歌の背水の陣である。

 ところで、その同じ書評の中で、小田雅久仁さんの新刊『本にだって雄と雌があります』(新潮社)も取り上げられている。今まさに僕が読み終えようとしている本なので、不思議な暗合を感じた。これは、三橋さんがおっしゃるとおり、「マジックリアリズム満開の傑作」である。この国にはまだ、このような奇書中の奇書を刊行する余地があったのだ、と思ってとても心強い気持ちになる。

 さて、クーだが、この猫は、周囲の明るさに関係なく、わりと常時黒目がち(前にも言ったが、猫の目で外から見えている部分は、実はもともとすべて黒目である。ここで言っているのは、黒く見える瞳孔部分が目の中で占めている割合のこと)な印象がある。

 しかしこのように、陽射しが強い時間帯に窓の近くに連れていって白日のもとに晒すと、瞳孔はさすがにちゃんと細くなり、外観が爬虫類系のそれに近づく。ということは、だ。ということは、周囲が明るいにもかかわらず瞳孔が開きっぱなしであるように見えるとき、クーは意図的にそうしているのだろうか。

 もしもそれが意図的だとすれば、理由は、「その方がかわいく見える(=かわいがってもらえる確率が高い)」ということをクーが経験的に知っているからだとしか考えられない。

 しかし、周囲が明るいにもかかわらず瞳孔を必要以上に開いていたら、目の中に光を過分に取り入れることになり、視界はまるで、ドラマや映画で「しあわせだったあの頃」を表現する映像上の特殊効果のように、全体がまっ白にキラキラと輝いて、ものの輪郭もろくに見定められなくなっているはずだ。

 眼底検査を受ける際、瞳孔を開きっぱなしにする点眼薬を打たれたことがあるので、どんな状態かはおおよそ想像がつく。かつて僕は、その効果が途絶えないうちに、劇場に「キル・ビルVol.2」を観にいって、大後悔したことがあるのだ。字幕はほとんど読めないわ、血しぶきは無駄にキラキラと輝いて見えるわで、入場料をほとんど無駄にしたようなものだった。

 そんな不自由に甘んじてでもなお、いっそうかわいがってもらおうとするクーの愛玩動物根性に、一種の畏敬の念を覚える。ある意味で、クーは日々、全身全霊で自分の仕事(かわいがってもらうこと)に勤しんでいるのだ。

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2012年11月13日 (火)

人間はどこに?

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 小説執筆のための取材で、担当の編集さんとともに、羽田空港が目と鼻の先にある都内某所を訪れた。

 そこには日中、かなりたくさんの人がいるはずなのに、外を歩いているかぎり、およそ人の気配が感じられなかった。建物は隙間なく密集しているし、その間を碁盤の目のように区切る舗装道路のそこかしこに、車は無数に停めてある。つまり最低、その無数の車と同じ数だけの人は、この中のどこかにいるはずである。でも、その姿はどこにも見えない。

 まるでゴーストタウンのように、通行人というものをまったく見かけないのだ。大通りにはかまびすしく車が走っているが、それすら、ただ「車が動いている」というだけで、運転席は無人であるかのような錯覚に囚われてくる。

 人のいる痕跡だけは随所に見られるのに、肝腎の人の姿が見えない光景というのは、どうしてこうも背筋をぞっとさせるのだろうと思った。

 いちばん近いのは、楳図かずお先生の大作『わたしは真悟』の扉絵に使われていた一連のイラストである。都市の風景。ビルがあり、鉄橋があり、舗装されたゴミひとつ落ちていない道路がある。そこに停められている車もある。それにもかかわらず、それらを背景に存在していてしかるべき、あたりまえの人間たちの姿がない(かわりに、なぜかそこで遊ぶ、そこに存在するはずのない美しい少年と少女の姿がある)。

 自分が知らないだけで、この東京には、まだまだ秘境や異境がざらに転がっているものなのだ。そんなことを思いながら、帰路、生涯で初めて乗る路線のバスで大森駅に向かった。


【注記】

 実際にはその「異境」も、一歩建物の中に入れば大勢の人がいて、外観から勝手に寄る辺ない気持ちになっていた者にとっては拍子抜けさせられるほど親切に、あれこれ案内していただいた。お仕事の手を休めて快く取材に応じてくださった方々、この場を借りてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

 

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2012年11月12日 (月)

今日の反省(約1,500字)

 近所のスーパーのレジで、受け取ったおつりを財布に入れようとしたとき、まったくの不注意で、100円玉をひとつ床に落としてしまった。

 ころころと転がっていくその行方を目で追ってはいたのだが、そのときはポイントカードやらレシートやらを手にしていて、このまま追っていってもどうせ拾うことができないと思ったので、ひとまずそれらをきちんとしまい直してから、おもむろに(※文字どおり「徐に」、すなわち、「ゆっくりと」の意)100円玉が消えたと思われる方向に向かった。

 隣のレジで会計処理を待っている若い男性が、まさに足もとに転がってきた100円玉に気づき、拾い上げようとしているところだった。「あ、すいません、それ、僕の……」と言いかけたのだが、僕に背を向けていた男性は気づかずに、レジに立っていた従業員にそれを渡した。

 僕の声が特別に小さかったとは思えない。彼のうしろに並んでいた数人の客が、一斉にこちらを見たからだ。最悪、レジの従業員は気づいてもよかったはずだと思う。僕が何を言おうとしているのかまではわからないにしても、客の1人がなにかを訴えているということくらいは。少なくとも、その姿は視界に入っていたはずなのだから。

 しかしその、見るからに気のきかなそうな男性従業員(経験的にいって、スーパーでレジを打っている男性従業員の多くは気がきかない)は、「あ、すいません」と言いながら男性客からあたりまえのように100円玉を受け取り、あたりまえのようにそれをレジスターの引き出しにしまってしまった。単に、店のお金が落ちていたものと解釈したらしい。

 そして彼は、言いかけた台詞を最後まで言う機会を封じられて立ち尽くしている僕のことは一顧だにせず、男性客の会計を続行した。僕は結局それ以上食い下がれず、しかも、なまじっかうしろに並んでいる何人かからの不審げな視線も集めてしまったばかりに、いたたまれない思いでその場をあとにした。

 たかが100円、されど100円である。人生いろいろ、100円もいろいろである(古い)。問題は、金額の多寡ではない。あとになって、どうしてあのとき、せめてもうひとこと、「今の100円は僕のだと思います」と従業員に食い下がることができなかったのだろうと考えた。

 ひとつには、それが絶対に僕が落としたものであるという確信が、今一歩のところで持てなかったからだ。そっちに向かって僕の100円玉が転がっていったことはまぎれもない事実なのだが、それはもしかしたら、レジカウンターの下かどこかに転がり込んでしまい、それとは別に、たまたま男性客の足もとに100円玉が落ちていたのかもしれないではないか。

 もうひとつは、僕の声に反応して一斉にこちらを見た人々の視線に気圧されてしまったからだ。もちろん、そのとき男性客なりレジの従業員なりも一緒にこっちを見てくれれば、僕も臆することはなかったと思うのだが、彼ら2人に無視されたことによって、僕はその他の人々の目に、単なる不審者として映ってしまっているように思えてならず、その雰囲気を払いのけてまで100円玉の所有権を主張する胆力を、その場では発揮することができなかったのだ。

 いや、それを言うならそもそも僕は、最初に100円玉が転げ落ちたとき、なりふりかまわず走ってそれを追うべきだったのだ。そうすれば、「今、私はお金を落として、それを追いかけているところです」というアピールにもなったはずだ。なんとなくそれがカッコ悪い気がして、ほんの数秒といえどタイミングを見計らってしまったことが、すべての元凶だったのだ。

 この損な性格を叩き直そうとこの20年ほど努力を続けてきたつもりだったが、今もってこのザマとは。みすみす所有権を放棄してしまった100円玉に思いを馳せながら、自らに猛省を促したい。

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2012年11月11日 (日)

屈折したセールス

 純文学とそれ以外の違いがわからないという人に、かなり乱暴な言い方であることは承知の上で、こう言って説明することがある。「オチのないものが純文学で、それ以外はエンタメである」と。

 しかしこれは、もう少していねいにして、以下のように言い換えることもできることに最近気づいた。「何が起きたかということに主要な関心を向けるのがエンタメで、何が起きたかというより、それがどのようにして起きたかを描くことに心血を注ぐのが純文学である」。

 これはかなり正鵠を射ているのではあるまいか。少なくとも、ある観点から見た両者の違いを、かなり端的に言い表している気がする。純文学とは、なんであれあるできごとが起きたときに、それに関わった人間たちが何を感じ、どのようにふるまい、その人間たちをつなぐ関係がどのように変質したかをミクロな視点で記述しようとするものである、とも言えるからだ。

 そうして考えてみると、僕が書いてきたものはほとんどが、どちらかというと事実上、純文学により近いのではないかと思う。まあそれは当然のことで、デビュー前の僕はもともと純文学を志向していたのだ。

 たまたま、と言うと語弊があるかもしれないが、たまたまエンタメ畑でデビューしてしまったために、その後もおおむねその枠組みの中で作品を発表することを余儀なくされているものの、本来持っていた志向を完全にすげ変えることなどできるわけがないのである。

 そのおかげで僕は常時、「これはミステリじゃない」だとか、「あの登場人物のその後はどうなったのか」とか、「なんだか結末がすっきりしない」だとか、「展開が読めてしまう」だとかいった、(そこで読ませようとはそもそも思っていない僕にとっては)不当としか思えない苦言の数々に晒されてしまっているわけだが、そういう風に言うなら、先般文庫版が出た『マザー』は、僕にしてはそうとう、いわゆるエンタメの文法に歩み寄った作品だと思うのだ。 

「エンタメらしさ」という点でいえば、あれは僕の著作歴の中で、空前絶後と言っていい水準に達しているはずだ。

 それでも、血は争えないというか(※不適切な用法)、読み返してみると、よくも悪くも僕らしい純文学寄りの描写などがこらえきれずに随所で顔を出してしまっているようだが、それはそれとして、「エンタメとしても問題なく読める」という要件を満たしていることはまちがいないと思う。

 ……と、実はこの記事、文庫版『マザー』を少しでも多くの人に読んでもらおうとする僕なりの売り込みを企図したものなのである。たったそれだけのことをするのに、どうしてこうもひねくれた留保条件をたくさんつけずにいられないのだろうか。

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2012年11月10日 (土)

something is wrong

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 今朝起きてからクーの姿が見えないなと思っていたら、マッサージチェアの陰になっていたブランケットの上でうずくまっているのを発見。

 どうしてそんなところにブランケットが落ちていたかといえば、おそらく昨夜、妻が寝る前にチェアを使用し、やがて眠気に耐えられなくなって、膝かけとして使っていたブランケットを無造作にそこに落としたまま寝室に直行したのだろう。

 そしてクーは、このブランケットを「自分のもの」だと思っている。

 通常このブランケットは、きれいに畳んだ状態でソファの上にセットしてある。寒い季節、クーはその上に寝そべるのが好きで、たまにそれがなんらかの原因でいつもどおりの状態になっていないと、困ったような顔でまわりをうろうろしていたりする(直してやると、安心したようにその上に乗る)。

 今朝もきっとクーは、このブランケットをあてにしてソファのところにやって来たものの、それがそこにないので困ってしまい、探したらマッサージチェアの脇にあったので、とりあえず上に乗ってみた、といったところだったのだろう。

 しかしそれは、「いつもの状態」ではない。クーもなんとなくしっくりこないのか、姿勢からして落ち着かなげだし、顔も不満げである。

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2012年11月 8日 (木)

されど幸せなる日々

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 先代の猫・無為(本名は「うい」)の命日なので、ささやかながらお供えを用意した。あれからもう6年、早いものである。

 14年生きた無為は、晩年はもう目もあてられないほどやつれ果てていた。当時まだサラリーマンと兼業だった僕が、会社から帰宅して最初にすることは、まず無為の生存を確認し(ドアを開けるたびにいつも祈るような気持ちだった)、それからどこかに無為が吐いたりおもらししたりしてしまった痕跡がないかどうか、マンションの全部屋を見て回ることだった。

 無為はもう、いちいちトイレに行く気力もなかったので、どこにもその痕跡がない日はまずなかった。僕はもっぱらトイレクイックルを使ってそれをきれいにしていたので、この時期、マンションでは必ずどこかしらからそのにおいが漂っていた。

 今でも、トイレ掃除の際にトイレクイックルのにおいを嗅ぐと、この頃のことを思い出して一瞬せつない気持ちになる。

 無為が死んだのは、3冊めの単行本『シュガーな俺』が刊行されてまもない頃だった。幸か不幸か、あの本は当時、少なくともマスコミではだいぶ話題になったので、インタビュー等の取材の話が続々と舞い込んできて、会社が終わってから1日に2件もこなさなければならないこともあった。

 無為が今日にも死にそうだというときに、また、無為が死んでまだ何日も経っていないというときに、笑顔で取材に応じるのは本当につらかった。

 気難しく、誇り高かった無為。下半身デブで、お尻がちょっと曲がっていて、横座りするときいつも少し苦労していた無為。脚が短くて、走る姿がどことなく不格好だった無為。家の中で聞こえる騒音に不寛容で、僕がくしゃみひとつでもしようものなら、どんな遠くからでもそれを聞き分けて、「あっ、あっ」と鋭い声で叱責した無為。野良出身なだけに、最後まで根性がねじ曲がっていて、だっこされてもただがまんしているだけだった無為。

  でもそんな無為も、この家できっと無為なりにめいっぱい幸せだったにちがいない。この左側の額に収まっている、あきらかに頭が空っぽの状態で箱の中から中空を見上げている無為の写真を見るたびに、僕はそう思って救われたような気持ちになるのだ。


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2012年11月 7日 (水)

3 SPECIAL BOOKS

 オンライン書店Honya Clubが展開する「ほんらぶキャンペーン」の一環として、「3 SPECIAL BOOKS」という特設サイトが設けられている。そのキュレーターの1人に選んでいただいた。 

 このサイトは、ログインすれば誰でも、自分にとっての「特別な3冊」を登録することができ、本を通じて人と人とをつなげていくような場を提供している。キュレーターに選ばれているのは著名人・作家・書店員・編集長などだが、「特別な3冊」を掲げているのはキュレーターも同じだ。

 3冊、といわれてけっこう悩んだのだが、それなりのセレクトをして、それぞれに寸評およびその本にまつわるエピソードを寄せている。僕のページは、トップページのメニューから「キュレーター」→「作家」→「平山瑞穂」と進むと現れる(なお、ログインにはHonya ClubまたはtwitterFacebookいずれかのアカウントが必要)。

https://3specialbooks.com/top/

 ところで、このサイト、僕自身もまだほとんどいじっていないので勝手がよくわからないのだが、僕自身が選んだうちの1冊、『ライ麦畑でつかまえて』にリンクされている人(その人も、それを3冊のうちの1冊に選んでいるということ)の1人が、僕がかつて勤務していた会社で名を連ね、現在も在籍している某読書サークルの後輩だったので、かなりビビった。

 だったら言っといてよ、という(僕がキュレーターに選ばれ、しかも『ライ麦畑』を選ぶことなど彼が事前に関知すべくもないので、これは無茶な話)。

 こういう思いがけない「つながり」こそ、SNSあるいはそれに類似した仕組みを利用する際の醍醐味のひとつなのかもしれないが、どうも僕はそれにいっこうに慣れることができない。なんというか、寝込みを襲われたような気持ちになるのである。

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2012年11月 6日 (火)

吐息の合間に雨の音がする

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 雨が降ると、動物の活動性は著しく鈍くなる。それでなくてもクーは、日中の大半を怠惰に過ごしているが、雨の日はもうここぞとばかり不活性になり、いるのかいないのかさえほとんどわからないありさまである。

 かく言う僕自身、やはり動物の端くれだからなのか、正午前くらいにどうにも眠気に抗えなくなり、ほんの15分だけのつもりでベッドに横たわったところ、まるで待ち構えていたかのように、クーが蒲団の中に潜り込んできた。

 そうして日中、クーと一緒にぬくぬくしていると、僕はたいていの場合、当初の予定を大幅に超えた時間、惰眠を貪ってしまうことになる。今日も結局、目が覚めたら1時間半も経過していて、少々泡を食った。

 ふと見ると、僕を深い眠りに引きずり込んだ原因である当のクーは、いつのまにか腋の下からいなくなっている。もしやと思って、隣の妻のベッドの蒲団を持ち上げたら、その中に自分のねぐらを作っていた。

 夜もそうだが、クーはこの季節、僕がベッドに入ると、条件反射のように腋の下に潜り込んでくるが、そのまま長時間そこにいることはあまりない。たぶん、途中から暑くなりすぎてしまうためだろう。

 画像のクーは、それまでぐっすり眠っていたのか、まだぼんやりしていて状況をよく把握していないような顔をしている。これだけ見ると、けっこう邪悪そうな顔にも見える。「顔が怖い」という理由で猫を苦手に思っている人がいるが、こういう顔を見ると、その気持ちがわからないでもない。 

 ただそれは、あくまで「わからないでもない」のレベルである。猫好きには、こうした表情もまた、たまらなくかわいく見えてしまうものだからだ。

 


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2012年11月 5日 (月)

謎の町フーク・イール

 9月に出た僕の最新刊『僕の心の埋まらない空洞』の主要な舞台となっている地方都市は、作中で明示してはいないが、実は福井市がモデルである。ちゃんと現地にも取材に行っている。作中に出てくるイタリアンのレストラン「イル・フィウーメ」にもモデルの店が実在するので、現地の人が注意深く探せば、ここがそれだろうと特定できるかもしれないくらいだ。

 ただ、それ以外には、方言も含めて、地域を特定できるような要素は極力盛り込まないようにしていた。福井市をモデルにしたことに、特別な理由はないからだ。強いていえば、「東京からほどよく離れたところにある小ぶりな地方都市で、なおかつ極端に北でも南でもない」という条件を満たすところを探した結果にすぎない。

 と、僕自身はそのように思っていたのだが、最近、「福井」ということになにか意味があるのではないか、と思い直さざるをえないきっかけがあった。

 今週、『マザー』の文庫版が発売されるが、それのゲラを見ていたとき、「おや?」と思った。執筆したのは3年くらい前だし、単行本が出た直後以来、読み直すのは2年ぶりだったので、自分でもほとんど忘れていたのだが、この小説の主人公の1人、伊神雄輝の恋人である「麻子」は、「福井から上京してきた」という設定なのである。 

 それだけではない。実は、2007年に単行本が刊行された『冥王星パーティ』が、ほぼ6年後である今年の暮れにようやく新潮文庫入りすることが決まったのだが(ただし、『あの日の僕らにさよなら』と改題)、『マザー』にひきつづきそれのゲラを見ていたとき、これはもはや偶然とはいえないのではないか、と思った。

 というのも、こちらでも、主人公の1人、桜川衛の恋人である「彩香」が、「福井から上京してきた」という設定になっているのだ。これにはさすがに少々愕然とし、忘れていたとはいえ、ここまでたびたび福井に言及しようとする自分の真意はどこにあるのだろうかと考え込んでしまった。

 念のため断っておくが、僕はこれまで、福井出身の女性と交際したことはないし、妻の出身地もそれとは違っている。しかし僕の無意識には、「福井」という土地がなんらかの形でくっきりと刻印されているらしいのだ。

 もしかして、僕にとっての「福井」とは、宮沢賢治にとっての「岩手」が心の中で「イーハトーブ」となっていたのと同じように、なにかファンタジックな、あるいはシンボリックな紗がかかった心象風景的な存在となっているのであろうか。いずれにしても、その理由が不明なのだが。

 これからは福井のことを、勝手に「フーク・イール」とでも呼ばせてもらおうかな。

 

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2012年11月 4日 (日)

『マザー』文庫版

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 さて、2010年に刊行された僕の長篇小説『マザー』の文庫版(小学館文庫)が、今週なかばには出回ることになる。表紙は、単行本のときのソリッドなものとはガラリと変わり、京都在住の気鋭のイラストレーター大前壽生さんのイラストを配置したものになった。主人公・夏実をイメージしたものである。
 この夏実、めちゃくちゃかわいくてカッコいい。僕はこんなに魅力的な登場人物を生み出していたのか、とイラストにしていただいて初めて思った(笑)。
 ちなみにこのイラスト、実はオリジナルの上半分しか使っていない。大前さんは、こういうデザインになるとわかっていながら、夏実の全身を描かずにはいられなかったとのことだ。
 僕は事前にその「全身バージョン」も見ているのだが、結果として発表されず、残念だと思っていた。そうしたら、大前さん自身がブログで、それを発表してくださっていた。しかも、ポスター風にアレンジまでしてくださっている。感動的である。
 このポスター、はっきり言ってすごく欲しい。
 感動的といえば、今回、ミステリ書評家の三橋曉さんが寄せてくださった渾身の解説もそうだ。三橋さんは、これを書くために、再読も含めて、僕の既刊の単行本16冊をすべて読んでくださったそうで、その中にこの『マザー』を位置づけしなおすということをしてくださっている。著者としてはまさに感涙ものである。
 これら強力な援軍のもとに、単行本のときには素通りしてしまった人たちの目にもこの作品が触れ、あらたな読者をたくさん獲得できることを祈ってやまない。

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2012年11月 3日 (土)

移動する秋の猫

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 寒くなってきたので、日中のクーは陽だまりを求めて室内を着々と移動していくようになった。最近のお気に入りは、食卓とその脇に置かれたゴミ箱の隙間である。そして陽射しが室内に届かない時間帯になると、なるべく寒さをしのげるような別のスペースを探しはじめる。
 ここ数ヶ月、体力維持(および体重コントロール)のためにほぼ毎日ルームランナーで走っているのだが、今日はいろいろあって取りかかりの時間が遅くなり、走りはじめたときにはすでに日が暮れかけていた。
 クーはさっきまでそのへんをうろうろしていたが、どこに行ったのかな、と思いながら規定の時間走り終え、息を整えようと思って食卓の椅子を引いたら、なぜか重い。どうやらいつのまにか、日ごろ僕が使う椅子の上に陣取っていたようだ。
 椅子が動いた時点でクーは驚いてどいてしまったので、僕はその椅子に座って、汗が引くまで休憩していたのだが、そろそろルームランナーを畳んでおこう(走る台の部分を上に押し上げて収納できるようになっている)と思ってふと見ると、いつのまにかクーがその上にあたりまえのような顔で鎮座していた。
 使用直後の台の上は温かいので、ちょうどいいと思ったのだろう。またしても追い払ってしまうのはさすがに気の毒だったので、しばらくそのままにさせておいた。
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2012年11月 1日 (木)

I'm all lost in the residential area

 そんなわけで、昨日は都内某所を舐めるように逍遥して脚が棒のようになってしまったわけだが、具体的にやっていたことは、一種のロケハンである。

 事前に地図を見て、たとえば「この登場人物はこのあたりに住んでいる」「この事件が起きるのはこのあたり」と目星をつけておき、その後実際に現地に行ってみて、それが設定上無理のないものになっているかどうかを「検証」するわけである(もちろん、仮に無理を感じた場合は、急遽別の候補地を物色するなどの修正が必要になる)。

 一般的な観光地や名所などを探すわけではないので、頼りになるのはなんといっても地図だ。今現在、どの道のどのあたりにいるのか、というのが、死活問題と言っていいほど重要な情報になるのである。

 3月にiPadを導入してからは、そのマップ機能を最大限に活かしていたわけだが、周知のとおり、iOS6になってからApple社が導入した「独自のマップ」は、すこぶる使い勝手が悪い。というか、ほとんど使いものにならない。そして僕は、うかつにも、「あーはいはい」という感じでiOS6にアップグレードしてしまっていたのだった。

 先ほど「周知のとおり」と書いたが、それが「周知」のことであるのを僕が知ったのは、事後だった。iPadもiPhoneも使っていない妻でさえ、その風評を耳にしていたらしく、僕が愕然としているさまを見て気の毒がっていた。世の中で起きているある種の事柄に対しては、まるで世捨て人のように徹底して無関心になる僕自身の性向が災いした形だ。

 なんとかダウングレードできないものかとネットで方法を探ってみたが、どのサイトを見ても、それをするための絶対的条件を僕が欠いている、ということしかわからなかった。どうやら、あきらめるしかないらしい。

 折しも米Apple社のスコット・フォーストール上級副社長の更迭が報じられ、この地図ソフトの欠陥が原因ではないかと取り沙汰されているようだが、責任の追及などこの際どうでもいいから、とにかく1日も早く欠陥を正して(というより素直にGoogleマップに戻して)OSのアップグレードを可能にしてほしいと切に願う次第である。

 ともあれ、僕としては昨日も、欠陥があるとわかっていながら、そのマップを利用せざるをえなかったわけだ。用心して、肝腎な部分だけはあらかじめPCのGoogle Mapをプリントアウトしておいたので、それとの併用でなんとかことなきを得たが、私鉄の駅がまったく違う場所に表示されていたりして(そのうちのひとつは、住宅地のただ中にある駐車場だった)、もう少しで迷子になるところだった。

 それにしても、見知らぬ土地を取材目的で訪れたあとにはきまって、そこで目にしたさまざまな光景や印象が脳内に溢れかえっていて、しばらくは眠ることさえできない。昨夜も、(食べられないほどまずい料理によってトドメを刺されたこともあって)くたくたになって帰宅したのに、頭が興奮していてすぐには寝る気になれなかったし、横になってからも、脳内の氾濫は長いこと留まらなかった。いわば、うなされているのに近い感覚である。

 観光目的の旅行をしているときとは、五感の使い方がまるで違っているのだろう。ただの旅行なら、目的地同士をつなぐ通過点などにはほとんど目を向けていないが、取材の場合、想定している登場人物になったつもりで、そこにあるすべてを吸収しようとする。結果として、いちどきに膨大な量のデータが脳内に流れ込むことになり、オーバーフロー現象を起こしてしまうということだ。

 昨日巡った界隈が舞台になっている夢も無数に見たようだが、何ひとつ覚えていない。たぶん脳が、それ以上の負荷をシャットアウトするために、忘れることを自らに命じたのだろう。おかげで、今朝目覚めてからようやく人心地がついた気がする。

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