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2012年11月15日 (木)

Misunderstanding all you see

 主人公に最初から最後までまったく共感できなかった------これは、僕の最新刊『僕の心の埋まらない空洞』について書かれる感想の中で確実に何割かを占める、典型的なパターンのひとつだ。

 そういう感想が一定割合に達するであろうことは、ハナから覚悟の上だった。あれは、心やさしい登場人物が心暖まる交わりを通じて心安らぐ結末を迎えるような、癒しや慈しみや慰めに満ちた物語ではない。むしろ、ことさらに読み手の心を逆なでするだけしておいて、そのままなんの手当てもなく突き放してしまうような話だ。

 ただ僕は、上記のような、「全否定」型の感想を目にするたびに、これは少々怪しい、と感じずにはいられないのだ。

 まず、この場合の「主人公」とは誰を指しているのか。本書には、主人公が明瞭に2人いる。不倫のあげくストーカーと化して、相手の女性を死に至らしめてしまう被疑者・鳥越昇と、その供述に誠実に耳を傾けながら、いつしか知らぬ間に影響を受けていってしまう堅物の検事・荒城倫高である。この2人は、少なくともスタート地点では、対極的な存在として登場する。

「主人公」が鳥越のみを指すのであれば、わかりやすい。この男は供述に名を借りて、身勝手としか言いようのない自己弁明を延々と繰り広げる。それに対する嫌悪感というのは、むしろ人として抱いて当然のものだろう。しかしもし、その同じ嫌悪感が、荒城に対しても等しく向けられているのだとすると、少しばかり首を傾げたくなる。

「全否定」をする人たちは、まず鳥越に対して激しい嫌悪感を抱き、その嫌悪感に圧倒された結果、「こうなると荒城もいやだ、なにもかもいやだ」というアレルギー反応のようなものを起こしているのではないか。そしてなぜそれを彼らがそこまでいやがるかというと、それが彼らにとって「見たくない、直視したくないもの」だからであるという可能性がありはしないか。

 直視したくないから、意識が全貌を捉える前に慌てて蓋をして、見なかったことにしているのではないか。そして「まったく共感できなかった」のひとことで、自分の中でなにかが確実に動いたという事実そのものを封印しようと試みているのではないのか。「直視したくない」と感じるということは、心の中になにがしか、触れてほしくない部分があるということにほかならないのではないのか。それは、「共感」とは呼べないまでも、一種の「共鳴」の可能性とは違うものなのか。

 まあこれはあくまで、著者としての希望的観測を含んだ、そしていくぶん穿ちすぎの想像にすぎない。たぶん、本当に文字どおり、ただ「まったく共感できない」という人もいるだろう。ただ、そういう理由でこの本が、望ましからざるものとして遠ざけられてしまうのは、とても残念な気がするのだ。

 目を閉じていれば、生きていくのはたやすい(ジョン・レノン)。

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