« something is wrong | トップページ | 今日の反省(約1,500字) »

2012年11月11日 (日)

屈折したセールス

 純文学とそれ以外の違いがわからないという人に、かなり乱暴な言い方であることは承知の上で、こう言って説明することがある。「オチのないものが純文学で、それ以外はエンタメである」と。

 しかしこれは、もう少していねいにして、以下のように言い換えることもできることに最近気づいた。「何が起きたかということに主要な関心を向けるのがエンタメで、何が起きたかというより、それがどのようにして起きたかを描くことに心血を注ぐのが純文学である」。

 これはかなり正鵠を射ているのではあるまいか。少なくとも、ある観点から見た両者の違いを、かなり端的に言い表している気がする。純文学とは、なんであれあるできごとが起きたときに、それに関わった人間たちが何を感じ、どのようにふるまい、その人間たちをつなぐ関係がどのように変質したかをミクロな視点で記述しようとするものである、とも言えるからだ。

 そうして考えてみると、僕が書いてきたものはほとんどが、どちらかというと事実上、純文学により近いのではないかと思う。まあそれは当然のことで、デビュー前の僕はもともと純文学を志向していたのだ。

 たまたま、と言うと語弊があるかもしれないが、たまたまエンタメ畑でデビューしてしまったために、その後もおおむねその枠組みの中で作品を発表することを余儀なくされているものの、本来持っていた志向を完全にすげ変えることなどできるわけがないのである。

 そのおかげで僕は常時、「これはミステリじゃない」だとか、「あの登場人物のその後はどうなったのか」とか、「なんだか結末がすっきりしない」だとか、「展開が読めてしまう」だとかいった、(そこで読ませようとはそもそも思っていない僕にとっては)不当としか思えない苦言の数々に晒されてしまっているわけだが、そういう風に言うなら、先般文庫版が出た『マザー』は、僕にしてはそうとう、いわゆるエンタメの文法に歩み寄った作品だと思うのだ。 

「エンタメらしさ」という点でいえば、あれは僕の著作歴の中で、空前絶後と言っていい水準に達しているはずだ。

 それでも、血は争えないというか(※不適切な用法)、読み返してみると、よくも悪くも僕らしい純文学寄りの描写などがこらえきれずに随所で顔を出してしまっているようだが、それはそれとして、「エンタメとしても問題なく読める」という要件を満たしていることはまちがいないと思う。

 ……と、実はこの記事、文庫版『マザー』を少しでも多くの人に読んでもらおうとする僕なりの売り込みを企図したものなのである。たったそれだけのことをするのに、どうしてこうもひねくれた留保条件をたくさんつけずにいられないのだろうか。

|

« something is wrong | トップページ | 今日の反省(約1,500字) »