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2013年1月27日 (日)

著者謹呈の札に思う

 古書を購入すると、巻頭に「著者謹呈」などと書かれた札が挟まっていることがたまにある。そしてそういう場合はたいてい、古書であるにもかかわらず、書店向けの「注文カード」も挟まったままであったりする。おそらく、著者から贈られていながらページを開こうとさえせず、そのまま古書店に売り払ったものだろう。

 贈呈された本は必ず読めとは言わない。立場によっては、そういう贈呈本ばかり月に何冊も、あるいは何十冊も届いてしまい、とうてい読み切れずに辟易している場合もあるだろうし、そうでなくても、なんらかの義理を背景に贈呈されはしたものの、まったく興味が持てない内容である場合もあるだろうから。どうせ読みもせず、ただ場所塞ぎにしかなっていないなら、売ってしまおうと思う心理はよく理解できる。

 しかしせめて、「著者謹呈」の札は取り去ってから売りに出すのが、著者に対する最低の礼儀ではないのか。それが札も取り去られないまま売りに出されているという事実を著者本人が知る可能性はかぎりなくゼロに近いだろうが、こういうのは、買った方もなんとなく気まずい、気の毒な気持ちになるものである。

 それも、僕自身が本を書き、人に贈呈する立場にある人間だからだろう。実際、僕が「謹呈」した本も(相手によっては)ときにそういう扱いを受けているかもしれないな、と漠然と想像したことは、これまでにも何度かある。

 僕もやはり、さまざまな義理等を背景に贈呈する対象を選んでいるわけだが、贈れば毎回必ず読んで感想を言ってくれる人もいれば、感想はともかくとして、届いたというお礼だけは律儀に言ってくれる人、たまに思い出したように感想を述べてくれる人などさまざまだが、常になんの反応も示さない人も相当数存在する。

 そういった人たちが、受け取ったあとに僕の本をどうしているかは、まったくもって不明だ(一応言っておくが、常になんの反応も示さないにもかかわらず、実は毎回あらかた読んでくれていることがあとでふとした拍子に判明する、というケースも中にはある)。

 以前、僕の本が配本(出荷)されたその日の日中に、アマゾンのマーケットプレイスに当該の本が出品されていた、というケースがあった。

 たまたま早めに届いてすぐに陳列された本を書店でまっさきに購入し、すぐに自ら出品の手続きを取れば、それもありえなくないかもしれないが、そんなことをしてもなんのメリットもないし、時間的にも無理がありすぎる。やはり、出荷前にすでに現物を手にしていた人が事前に古書店に売っていて、それが古書店経由で出品されたのがたまたまその日になった、と考えるのが妥当だろう。

 そして、出荷以前に現物を手にしている人がいるとすれば、その範囲はかなり絞り込まれる。出版社から本が発送されるタイミングにもよるが、著者が謹呈した相手か、パブリシティとして版元が配布対象とした人々か、おおかたそのあたりだろう。

 特に後者の場合は、ウザいと思われる確率がより高いし、その人が著者本人に特別な義理を感じない立場にある可能性も高い。だからとっとと売ってしまおうと思うのも無理はないが、それならそれで、せめて売るタイミングというものを考慮してほしいものである。

 まあそう言いつつ、たとえばそれが、「あーもうこういうパブ本が手つかずのまま山のように積まれてて超ウゼえ! よし、今日はこの山を一気に片づけよう。無条件にとにかく全部開封して、めぼしいもの以外は全部古本屋に売っちまえ!」的な流れで起こったことだったとしたら(というよりたぶん十中八九そうだろうが)、それもしかたないのかな、とも思う。この本の出荷は何日なのかなんて、いちいちチェックしていられないだろうから。

 しかし著者というのは、あなたがたが思っているよりもずっと、そういうことに傷つきやすい人種なのです。その点をご考慮の上、ご高配たまわれれば幸甚の至りでございます。

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