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2013年3月22日 (金)

a confession

 たとえば『大人になりきれない』を書くとき、こういうのは、つまり、とっくに成人年齢に達していながらそれに見合うふるまいができないような人が増えている、という現象は、きっとある程度普遍性のあるものなのにちがいない、と僕は思っていたわけですよ。だからあえてそれをテーマに本を書く意味もあるんだと。

 で、実際どうだったかというと、それが「普遍的な現象である」という僕の見立て自体は、間違ってなかったと思うんです。間違ってなかったどころか、とても正鵠を射たものだった。

 ただ、この本を書くにあたって、というか発表するにあたって僕が犯した最大の誤算は、その「普遍性」の度合いを根本的に見誤っていたということなのです。

 その現象は、はっきり言いますが、正直言いますが、「普遍的」すぎた。僕が見積もっていたよりもはるかに、それは普遍的だったのです。それはとりもなおさず、僕自身が見込んでいた読者の大半が、読者たりえなかったということなのです。彼らは僕が想定した読者というよりもむしろ、「描かれている対象」だった。それで共感しろっていうのはまあ、無理な話です。

 でもまあもうよくわかりました。共有できるものがいかに少ないか。僕がいかに孤立したガラパゴスみたいな島に住んでいるか。僕がこうだよねと思うことをいかに多くの人がそうは思わないか。僕が感動するものをいかに多くの人が感動しないか。多くの人が身を打震わさんばかりに感動することにいかに僕が冷淡であるか。

 このおそろしく人口の少ない島に僕は住んでいる。その島から僕は望みのないメッセージを送りつづける。おそらく誰にも受け取ってもらえないであろうSOSのメッセージを。瓶に入れたメッセージを。あっせんだーねっそーえすとぅだうぉ(The Police)。

 でももちろん、共有できる人はわずかながらも存在するのです。今日、そういう人たち何人かと会うことができました。できたんだってば。

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2013年3月17日 (日)

『ルドヴィカがいる』サイン本

Image

先週金曜日、都内で書店回りをして、以下5軒の書店さんで、新刊『ルドヴィカがいる』のサイン本を作らせていただいた。

・リブロ 池袋店
・文教堂書店 浜松町店
・SHIBUYA TSUTAYA
・ブックファースト 新宿店
・紀伊國屋書店 新宿本店

書店回りは実は初めての経験だったのだが、それぞれの書店さんのカラーの違いなどもわかり、いろいろと勉強になっておもしろかった。

ただ、僕自身は、特に作家専業になってからは、出不精なこともあって、それまで以上にネット書店への依存度を高めており、リアル書店からは足が遠のいてしまっている。こんなことではいかんな、と猛省を促された。

もっとも、僕がリアル書店にあまり行かないのは、出不精だけが原因ではない。本質的に本好きで、魅力的にディスプレイされているリアル書店の棚を見ると、あれもこれも欲しくなってしまい、収拾がつかなくなる。それを恐れているところもあるのだ。

なんにせよ、お忙しい中、対応してくださった書店員の皆様には感謝申し上げます。ありがとうございました。

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2013年3月10日 (日)

新刊『ルドヴィカがいる』

Ludwika_cov

 僕の17冊目の単行本、『ルドヴィカがいる』(小学館)が、今週なかば以降、書店に出回ることになる。「きらら」20113月号から20127月号まで17回にわたって連載した長編小説の単行本化である(連載時のタイトル『ルドヴィカ』を改題)。通常、このタイミングなら著者見本が手に入っているのだが、今回はたまたままにあわなかったので、書影を掲げておく。

 この本のバウンドプルーフ(校正段階のバージョンで簡易製本したもの。刊行前にプロモーション目的で全国書店などに配布する)を読んでくださった某書店員さんが、「これは映画とかじゃ表現できないですね」と(いい意味で)言ってくださっていたと聞いて、非常に嬉しかった。僕がこの作品で第一に心がけていたことは、まさに、「文字だけを媒体とする小説という表現手段をあえて選ぶことの必然性」とでもいったものだったからだ。 

 一方では、それはこの作品が映像化されにくいという弱点でもあるのかもしれないが、せっかく文字を使うなら、文字でしか表現できないことを取り上げてみたいではないか。

 物語の語り手が小説家になったのは、上記の試みを貫徹するためにほぼ必然的に導き出されたことだった。自分自身と同じ職業の人物を主人公にしたのは、(『シュガーな俺』という特殊な例外を除けば)初めてのことである。語り手・伊豆浜亮平と僕には、共通点が多い。実は異なる点もかなりたくさんあるのだが、ほぼ同一視されるであろうことは覚悟の上だ。覚悟の上ではあるが、これはあくまでフィクションなので、フィクションとして読んでいただきたい。

 特に、僕を担当されたことのある各出版社の編集者の皆さん、作中に登場する編集者に自分と似たところがあったとしても、その類似はあくまで偶然ですので、何とぞご了承いただきたく(笑)。

 なお、作中には、語り手である伊豆浜亮平が執筆中という設定になっている作中作が随所に挿入されている。『さなぎの宿』という作品である。これの原形は、実は僕自身がプロデビュー前に書いた同名の習作である。1997年、第40回群像新人文学賞の1次予選を通過し、そこで敗退した。それが16年後、一部とはいえこんな形で活字になって日の目を見ることができるとは、まことに感慨深いものがある。成仏せよ、『さなぎの宿』。

Sanagi_2

 

【追記】

 上記『ルドヴィカがいる』の刊行と掲載日が一致したのは単なる偶然だが、313日付の「日刊ゲンダイ」紙上、「愉快な病人」というコーナーに僕が登場する予定である。糖尿病がらみで取材を受け、インスリン治療にまつわる笑うに笑えない体験を語っている。ご興味のある方はぜひご一読を。

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2013年3月 4日 (月)

why does it matter so much?

 どのジャンルに属するのかということが、そんなに大事だろうか。本を手に取る前なら、まあわからなくもない。私自身はジャンル分けなどハナからいっさい参照していないどころか、オビなどでジャンル性を強く打ち出しているものであればあるほどむしろ敬遠する傾向があるほどだが、ざっくりと自分の好みに沿ったものであるかどうかを探る最初の手がかりとして、どのジャンルに属するのかを確認したくなるその心理は理解できる、ということだ。

 しかし、読んだあとでもなおそれをはっきりさせずにはいられないその心理は、申し訳ないが私にはまったく理解できない。読み終わったあとの最大の関心ごとが、「この本はいったいなんのジャンルに属するのか」ということであるとは、いったいどういうことなのか。もう読んでしまっているのだから、そんなことはどうでもいいのではないだろうか。読み終わったあとに問題になるのは、その本がおもしろかったかどうか、それだけではないのだろうか。 

 ------と、伊豆浜亮平なら言うだろう。僕ではない。伊豆浜亮平がそう言っているのだ。

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