極東浄土(1)
起き抜けに洗面台の鏡を見たとき、アイザック・クランシーはぎょっとしてわが目を疑った。額の中央に、年寄りのような皺が一本、見紛いようもなく刻まれているのだ。目もどんよりと濁り、肌もペーパーバックのざらついたページみたいにくすんでいる。俺はいつからこんな醜い顔になってしまったのか。クランシーは繁茂する顎髭の先から滴る雫もそのままに、指先で額の皺を赤くなるまでこすった。
はじめてこの国に訪れたときには、クランシーはまだ若く希望に溢れた気鋭のジャーナリストだった。「最後の革命」と呼ばれたこの極東の島国での王政転覆劇。その余波も生々しい革命直後の様子を活写するため、財産のすべてを投じ、わずかな語学力だけを携えてこの国に乗り込んだのだ。
アメリカに帰国して書いたルポルタージュ『神々の漂う島』は、サタデー・イブニング・ポストの書評で絶賛された。思えばあれが人生の絶頂だった、とクランシーは思う。早すぎた絶頂。残りの人生を長い「老後」にしてしまう残酷な幸運。
甘い栄光は長くは続かず、クランシーの本は古本屋のありふれた飾りになった。雑誌記者の仕事で食いつないだ時代もあったが、見開き二ページの記事の末尾に八ポイント程度の活字で刷り込まれたクランシーの名前を、誰が気に止めるというのか。返り咲きを期して再度この国の土を踏んだのはちょうど十年後、それからすでに三年が過ぎていた。
三年だ。無益な三年。革命が迷走するこの国の様相を描きはじめた原稿は、四ページ目で止まっていた。クランシーは今でも、下半分がまっしろな余白になっているページを表示させたパソコンの前で、何時間もただ煙草をふかしていることがあった。ユージンがそれを見て、何をしているのかと言う。クランシーはこう答える。なんでもない、ただ人生を回顧しているだけさ。
リビングに出ていくと、ジャスパー・ジーグフェルド博士がマッシュポテトで口の中をいっぱいにしてケーブルテレビの番組を観ていた。「観ていた」と言えるのかどうかはわからない。そのとき放映されていたのは在住外国人向けのニュース番組だったからだ。この男が世の中の動きなどに関心を示すはずがなかった。
「おはよう、アイザック」
ジーグフェルド博士がくぐもった声で言った。口からマッシュポテトをこぼしながら。博士は皿に落ちたポテトをフォークですくってまた口の中に押し込んだ。
「朝食にポテトはどうかね」
朝食と言っても、もう十一時は過ぎていた。それでも、博士にしては早起きな方だ。
「いや、遠慮しとくよ、パパ」
「パパ? それはまたいったい、誰のことなんだ?」
クランシーは軽口を叩いたことを後悔しながら、冷蔵庫からオレンジジュースの瓶を取り出した。蓋がちゃんと締まっていなかったために、引き抜いた勢いで中のジュースが溢れて床を汚した。ユージンのしわざだ。この家の住人はだらしないやつらばかりだ、とクランシーは舌打ちをする。
「アイザック、今、私のことをパパと呼ばなかったか? それはいったいどういう意味なんだね?」
ジーグフェルド博士は、マッシュポテトを山のように盛った皿を胸の高さに掲げたまま、クランシーのそばまで歩み寄ってきた。
「忘れてくれ、ジャスパー。口が滑っただけだ。あんたみたいな人が俺の父親だったらいいなと、一瞬そんな気になっただけなんだよ」
(続く)
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