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2013年4月22日 (月)

極東浄土(6)

「われわれが通常〈記憶〉と呼んでいるものは、実は脳細胞に格納されている真の記憶の見出しのようなものに過ぎないんだ。そして普通われわれは、その見出ししか見ることができない。稀に、写真並みの精度を持った映像的記憶を随意に再現できる人間がいるが、それはごく少数だ。しかし、それを再現できるかできないかの違いがあるだけで、秘蔵している記憶自体の精度については、実は個人差などほとんどないんだよ」

「それがエングラムだということですか?」

「エングラムを有機的に結びつければ、真の記憶のまったき姿を正確無比に再現できるということだ。その記憶を保持する者の意志にかかわらずね」

 博士は、ほかに誰もいないにもかかわらず、声を落として続けた。

「数年前までは仮説に過ぎなかったが、大陸中国から台湾に亡命した技術者集団が、エングラムを抽出して組織化する技術の開発に成功したらしい。非合法だが、もともとCIAが極秘裡に資金を投入していたんだな。CIAはすでに、そのエングラム・エデューサーと呼ばれる機器を数台購入している。噂だが、確かな筋からの情報だ」

 脳をスキャニングして、ありのままの記憶を引き出す。ランチのときに同僚と交わしたとりとめのない雑談さえ、実は一言一句狂いのない形で脳細胞は記録しており、それをそっくり再構成することも可能だというのだ。本人が隠したいと思っていることもすべて白日のもとにさらされる。もはや拷問も自白剤も必要ない。より低いコストでより確度の高い情報を得るのに、これ以上優れた技術はありえない。

「どうにかして、E・Eさえ手に入れば…。本人に意識があるかどうかは問題ではない。記憶を格納する細胞に損傷さえなければ、記憶は引き出せるはずなんだ。しかし、まあそれは夢だな、当面のところは。今はとにかく、彼を生きつづけさせること以外にわれわれが取れる手段はない」

 クランシーが助手になった当初、ジーグフェルド博士はE・Eを借り受けることに向けてきわめて精力的に奔走していた。E・Eを開発したのが幻景集団と呼ばれる連中であることを突き止め、その関係者の関係者の関係者との面談にまで漕ぎつけている。しかし、交渉は遅々として進まなかった。

「あの連中とわたりをつけるには何十段階もの手続きが必要なんだ。連中が何千年もの歴史を持ってるのはそのためなんだよ。わかるかね? 駒をひとつ進めるのに途方もない時間をかける。その意識的遅滞こそが連中のいわゆる歴史を紡ぎ出しているんだ」

 博士は「交渉」が不首尾に終わって戻ってくるたびに、クランシーに向かってそういう種類の経過報告をし、やがてその報告さえ間遠になった。最近の博士は、外出すること自体が稀になっていた。いや、この言い方は公正ではない。終日家にこもっているのは、E・Eなどなくても、彼自身が厳正に執り行なう一連の密儀によって「神の声」を聴取できると信じている方のジーグフェルド博士なのだ。

 ジーグフェルド博士はそれを信じていた。

 E・Eによってこの植物人間の脳に隠された重大な情報を引き出せることを。あるいは密儀によってこの「御神体」から神の声を聴けることを。

 クランシーがそれを信じていたかどうかは、微妙だ。

 しかし彼は、長年の取材生活を通じて、どんな狂人が口にする荒唐無稽な与太話にも、その深奥部にはなんらかの現実的根拠があるのだということを知っていた。彼はその独自の嗅覚によって、ジーグフェルド博士が現実にある秘密、公になれば世界が転覆しかねないほどの秘密に最も近いところにいる人物であることを嗅ぎわけていたのだ。

 博士はクランシーを助手として雇い入れながら、「交渉」のテーブルには決して着かせようとしなかったが、クランシーはそれを不満に思いはしなかった。寝食できる場が確保されれば十分だと考えていたからではなく、実際にE・Eを入手すべく交渉するのなら、ジーグフェルド博士のような半狂人を伴っていない方がむしろ好都合だったからだ。

 彼はわかっている方の博士がもらす断片的な情報を糸口に、次第に自力で調査を進め、博士とは別のルートでE・Eに、そして事の真相に近づきつつあった。

 PAULO計画。

 ジ−グフェルド博士が携わっていた、そしてこの無力な植物人間がかつて指揮していたというそのプロジェクトの全容も、あきらかになりつつあった。革命と同時に封印されたそれを掘り起こし、自分の手で采配を振るう。その想像は、クランシーを少年のように胸踊らせた。「御神体」の脳に秘蔵された記憶を引き出せれば、それが可能になるのだ。

「本当ならすごいよね」

 ユージンは無邪気に顔を上気させながらそう言う。

「でもそれだったら、入手した秘密をネタに商売をした方が得なんじゃないかな。ここの政府と取り引きするとかね。あのじいさんにはそういう想像力が欠けてるみたいだけど。この国をひっくり返して僕たちになんの旨味があるの?」

「おまえの言いたいことはわかるよ、ユージン。しかしこれは、そういうスケールの話じゃないんだ。力を手に入れる。絶大な力を。金もひとつの力だが、使えばなくなってしまう。俺が欲しいのはそれじゃない。無尽蔵な力だ」

 それを思うたびにクランシーは、「ショーガナイ」ことばかりでもない、と思い直すのだった。それが、果たせなかった本来の夢を補償する一種の逃避に過ぎないという事実をできるだけ直視しないようにしながら。

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