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2015年9月 5日 (土)

極私的読書ガイド(7) ------こぼれ話:発注をめぐる不可解な慣行

前回予告した、『3・15卒業闘争』があやうく刊行できなくなるところだった件。

最初にひとこと断っておくが、これから書くことは、特定の編集者を指弾する意図に基づくものではまったくない。

『3・15卒業闘争』のときに僕を担当していた編集者は、まちがいなく僕のよき(というより「最良の」といってもいいほどの)理解者の一人だったと思うし、誠心誠意、精一杯力を尽くしてくれたと思っている。その後所属部署は変わってしまったものの、今でも恩義の念を覚えてやまない存在である。

だからこれは、その人個人に属するものというよりは、出版(たぶん特に文芸方面)業界全般に横行するある不可解で理不尽な慣行について、素朴な疑問を投げかけたものなのだと解釈してもらいたい。

先に言ったように、僕は当初の計画どおり、日本推理作家協会賞という冠を手に入れるもくろみが挫折してからも『3・15卒業闘争』を書き進め、最後まで書き上げた。もちろん、約束した期日もきっちりと守っていた(僕はデビュー以来、連載原稿でもなんでも、一度として〆切を守らなかったことはない)。

しかしこの作品を単行本として刊行するという話は、角川書店内の会議で一度却下された。営業関係の部署や役員の方などが難色を示したのだ。早くいえば、これまで「平山瑞穂」の本が売れたためしはない、ということが問題視されたらしい。

そこだけを見れば、無理もないと思う。僕が同じ立場でも、同じことを言うかもしれない。この出版不況の時代に、客観的に見て(というのはつまり、入手できる客観的データから判断して)売れる可能性がきわめて低いとみなされるものをわざわざ商品化するなんて、いたずらに赤字の額を増やすリスクを負うことにしかならないからだ。そう判断されるのは、しかたがないと思う。

問題は、その判断が、原稿ができあがってからなされているという事実なのだ。

社会通念に照らして、これはおかしくないだろうか。僕は当の角川の社員から、「直球のラスマン路線で長編を1本書いてください」という依頼を事前に受けているのだ。日本推理作家協会賞がらみのもくろみもコミだったとはいえ、その結果のいかんにかかわらず、原稿を単行本化することは、最初の時点で約束されていた。

それは、ある製品に対する「発注」がなされたということだ。そして僕は、指示されたとおりのスペック(=直球のラスマン路線)で、きっちりと納期内に当該の製品を仕上げているわけだ。ところがいざそれを納品しようとしたら、「これはうちでは売り物にならないから買い取ることはできない」と突き返された。------ここで起きているのは、そういう事態以外のなにものでもない。

実際には、冷淡に却下を言いわたす陣営に対して、当時の編集者はそうとう食い下がってくれて、「来月の会議まで猶予を与える」という回答を勝ち取った。それまでに、この作品をあえて刊行するメリットを証明するデータを収集せよ、ということになったのだ。

ひと月でどれだけのデータを集められたのかはわからない。そもそもそういう文脈で説得力を持つデータなど、当時の僕に関しては(ぶっちゃけ今も・笑)ほとんど存在しなかっただろうから、編集者はそうとう苦労したのではないかと思う。とにかく結論としては、『3・15卒業闘争』の刊行は、初版3千部とはいえかろうじて認められた。まさに首の皮一枚でつながったという感じだ。

順序がおかしいと思う。それが商品になるかどうかという判断は、本来は事実上の「発注」行為が行なわれる前になされるべきではないのか。

しかし僕が知るかぎり、文芸出版の業界ではたいていの場合(というのは版元がどこかを問わず)、発注(=執筆依頼)は口約束的になあなあでなされ、それを本にするかどうかを会議に諮るのは事後(往々にして原稿を脱稿してから)というのが当然の慣行とされているようだ。

できあがった原稿を実際に読んでみないことには、それが売れるかどうかの判断もつかないから? ------いや、そんなのは詭弁にすぎない。断言してもいいが、たとえば『3・15卒業闘争』の刊行にNOを突きつけた人々は、一人として僕の原稿になど目を通していないと思う。彼らはそれ以前に、ただ「平山瑞穂の本は売れない」という事実にのみ基づいて判断を下しているのだ。だったら、その判断は執筆の「発注」がなされる前からつけられるはずではないか。

まあほとんどの場合、会議で刊行それ自体が却下されることはないだろうから(初版部数を見込みより減らされることなどはあるとしても)、この奇妙な順序も結果として罷りとおっているのかもしれないが、筋から言ったらあきらかにおかしな話なのだ。

特に深刻なのは、書き下ろしの場合だ。どこかに連載していたものなら、作家は少なくとも連載時の原稿料は受け取っているわけだから、仮にその後、単行本化が見送られたとしても、少なくとも原稿を書いたことそのものに対する代価は残る。しかし書き下ろしの場合、作家が受け取る報酬は通常、本になったときの印税だけだ。書き下ろしを本にしてもらえなければ、その原稿を執筆するために費やした何ヶ月という月日がすべてただ働きだったということになってしまう。

実をいうと、やはり前回触れた『出ヤマト記』が単行本化される際にも、朝日新聞出版内でほとんど同じことが起きている(会議で一度却下され、1ヶ月の猶予ののちにかろうじて容認されたという経緯)。こちらは連載時の原稿料はすでにいただいていたから若干マシな事態ではあったものの、理不尽に感じたという点では大差がない。

本来なら、「こういう不可解な慣行はすぐにでも改めてください」と出版業界全体に対して声高に訴えたいところだ。しかし実のところ、それをためらう気持ちも僕にはある。

もしもその「本来の順序」が貫徹されるようになった場合、何が発生するかというと、「現時点で売れていない作家の作品を出版しようという企画は、ことごとく水際で却下される」という事態だ。そうなったら、僕のように「客観的に見てプラスの材料」にきわめて乏しい作家は、へたをすれば永遠に本を出せなくなってしまうかもしれない。

『3・15卒業闘争』にしても『出ヤマト記』にしても、会議時点ですでに完成した原稿が存在してしまっていたからこそ、「まあ、だったらしかたがないな」という形で大目に見てもらえた面もあったにちがいないのだ。

それを思うと、たとえ社会通念には反していようと、まずは「既成事実」を作ってしまい、反対しそうな人たちに対してはそれを盾にしながら臨む、という現行の方式の方が、相対的にいえばマシなのかもしれない。肉を切らせて骨を断つ、というやつだ(ちょっと違う)。

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