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2015年9月 4日 (金)

極私的読書ガイド(6) ------ラスマンの申し子たち(4)

⚫︎『3・15卒業闘争』(2011年)

315

 

これこそ、『ラス・マンチャス通信』の最も正統的な後継作品として書かれた長編小説である。前回触れた短編集『全世界のデボラ』もテイストは「ラスマン」にかなり近かったが、あれはいわば「勝手に書いた」ものだった。この『3・15卒業闘争』に関しては、角川書店からはっきりと「直球のラスマン路線でお願いします」という依頼を受けて書いたものだという点が特筆に値する。

当時はまだ、出版社(というか編集者?)側にも、直球の「ラスマン的なるもの」に期待する向きがギリギリあったということなのだ。

カバーイラストが「ラスマン」の単行本のときと同じ、田中達之(カナビス)氏の作品になっている点も、ある意味あからさまだ。しかも今回は描き下ろしを依頼している。

現実と地続きでありながらどこかが少しずつ歪んでいる悪夢のような世界を描いているという点で、これほど「ラスマン」に寄り添った作品はほかにない。加えていうなら、デビュー前に何年にもわたって書きためていた短編の連作を長編として仕立て上げた「ラスマン」と違って、こちらは最初から長編として構想されたものである。

とはいえ、第1章と第2章に当たる部分は、独立した短編としても読める体裁にしてあった。できのいい方を「野性時代」に掲載し、日本推理作家協会賞の短編部門での受賞を狙ったのだ。結果としては第1章に当たる部分(『棺桶』)が掲載され、2011年度の『ザ・ベストミステリーズ』(日本推理作家協会・編)への収録作品には選出された(それ自体が、推理作家協会賞の予選通過的な意味合いを持つ)ものの、残念ながら受賞は逃した。

さて、受賞の冠がないとなると、このような特異な作風の作品のセールスについては、正直そうとうの苦戦が強いられることを覚悟しなければならない。それでも僕は当初の予定どおり、第3章以降も書き継いで原稿は完成させたのだが、単行本を刊行する時点でかなり苦い思いをさせられることになる。あやうく本にしてもらえないところだったのだ(詳しい経緯については次回)。

いろいろあって、お蔵入りだけはかろうじて免れたものの、初版部数は3千部に抑えられてしまった。純文学かと見紛うほどの数である。経験からいって、初版が4千部以下になると、たとえ大手が刊行した新刊でも、書店ではほぼ不可視の存在になる。喫水線より下に隠れてしまい、お客さんの目に留まらなくなってしまうのだ(はじめから僕の新刊が出ることを知っていて、それを目当てに来ている人を除いて)。

仮にもっと多く刷ってもらえたところで、飛ぶように売れるような類の本ではなかっただろう。しかし部数が少なかったことで、もともと売れにくいであろうこの本がいっそう売れなくなったという面は否めないと思う。

こうしてこの「ラスマンの直系の嫡子」は、ほとんど誰の目に留まることもないままひっそりと市場から姿を消していった。当時角川で僕の担当だった編集者は、まもなく(この本のセールス上の惨敗と直接の関係はないだろうが)書籍編集以外の部署に異動になり、僕に対して後任はつけられないまま現在に至っている。

なお、この作品について「日本語が汚い」「文章が気持ち悪い」といった評価を下している人がいるが、いやしくも人の作品を批判するなら、もう少し慎重に言葉を選んでいただきたいものだ。結果として描写されている事物が汚いものであったり気持ち悪いものであったりすることと、それを描写する媒体としての言語・文章表現それ自体がそうであることとは、はたして同じだろうか。

 

『出ヤマト記』(2012年)

Exodus


国際社会からなにかと白い目で見られがちな半島の北の某国------といえば、どの国を指しているものかたいていの人にはわかると思うが、この作品は、1960年代を中心に日本で実施されたその某国への「帰還事業」をモチーフにしている。

ただし、それをモチーフとして選んだことの背景に、政治的信条とか主張といったものはほぼ存在しない。某国のことも、一種の「モデル」として描いているだけで、現実に存在する某国そのものを正しく(あるいはジャーナリスティックに)描写しようとしているわけではない。この小説を書くにあたって、僕の主要な関心はそこにはなかった。

物語は、2010年代と思われる現代、日本に住む一人の少女が、自分のルーツを探って単身海を渡り、某国に潜入して、死や危険と隣り合わせの旅を進めていくという枠組みのもとで語られていく。僕が描きたかったのは、そういう境遇、すなわち圧倒的に寄る辺ない異郷で右も左もわからずになんらかの目的を遂げようとしている者が感じるであろう孤独や閉塞感なのだ。

つまり、この作品における「ラスマン」との相同性は、まさにそこにある。視点人物------それも、なんらかの意味で損なわれている人物の主観によってしか、物語世界を把握する術のない不自由さ。視点人物の語りにはどこかあてにならないところがあり、描かれていることが真実なのかどうか、読者には究極には明かされない。某国という舞台装置は、その意図された不確実性を浮き彫りにするための媒体にすぎないのだ。

そうはいっても、モデルにするからにはいろいろとウラを取っておかねばならないと思って、「小説トリッパー」での連載開始を控えた執筆の準備期間には、某国がらみのルポルタージュなどを片端から読みあさっていた。東日本大震災が起きたのは、奇しくもその渦中のことだ。

壁際にずらりと本棚の並ぶ寝室のベッドで寝るのが怖くて、妻と二人、リビングに蒲団を敷いて夜を明かし、余震が起きるたびに浅い眠りを寸断されて飛び起きるのを繰りかえしていたのを覚えている。そんな中で某国の過酷な状況について読んでいると、目の前の状況とオーバーラップしてきて気が滅入りそうだった。どうしてよりによって今、これを読まねばならないのかと恨めしく思ったものである。

しかしこの本もまた、セールス的には惨敗としか言いようのない結果に陥った。惨敗度合いで比べるかぎり、『3・15卒業闘争』と互角といったところだ。高いレベルでの接戦だ。つまり、とても低いところで繰り広げられた、息詰まるほどレベルの高い最下位争いであった。

かわいそうな僕の作品たち------。

〈続く〉


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