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2015年9月 7日 (月)

極私的読書ガイド(8) ------ラスマンの申し子たち(5)

デビュー作『ラス・マンチャス通信』のDNAを受け継ぐ作品紹介の続きに戻ろう。いや、ほんとに多いな、「ラスマン」系。僕がいかにラスマンをあきらめていなかったかがよくわかるというものだ。 

『僕の心の埋まらない空洞』(2012年)

Glitter

これもまた、「なぜラスマン系に組み入れられているのか」という疑問を抱かせる可能性が高い作品だと思う。

不倫相手にストーカー行為を繰りかえしたあげく殺害したと目されている被疑者を取り調べしていた堅物の検事が、知らぬ間に被疑者に同調していき、盤石だったはずの自らの足場が危うくなっていく、という物語をサスペンスタッチで描いたものだ。それのどこが「ラスマン的」なのか------。

「なんらかの意味で偏執狂的なところのある語り手を登場させてほしい」------それが当初出されたリクエストだった。偏執狂的ということは、特定の対象に固執するあまり視野狭窄を起こしているということだ。そこに「閉塞感」が漂う。担当編集者は、僕がそういう種類の「語り」を得意とすることを知っていて、そういう形で「ラスマン性」を醸し出してほしいと依頼してきたわけだ。

そこで思いついたのが、「ストーカー殺人の容疑者がことの経緯やそれに臨む自分の心理を異様なまでの詳細さで語りつづける」という状況設定だった。それだけだと単調になりそうなので、検事側の視点や物語も対置する形で挿入しようと思い、あれこれ構想しているうちに、むしろ検事側の物語を編み上げる方が楽しくなってしまった。------大雑把にいえば、そういう流れでこの作品は成立している。

それにしても、(どっちみちほとんど売れなかったとはいえ)評価の割れる作品だった。

僕はこの作品を書くことによって、不倫を肯定したつもりもなければ、被疑者・鳥越の手前勝手な一人語りへの共感を読者に求めたつもりもない。鳥越が自分本位で同情の余地もない人物であることは、検事・荒城の視点を通じて最初に明瞭に示している。

それにもかかわらず、鳥越の供述の中に一定の論理的な正しさ(倫理的な、ではない、あくまで「論理的な」である)があると認めざるをえないところ、そしてまじめな荒城がしだいにそのロジックに取り込まれていってしまう、というカタストロフ的な事態が描かれるところにこそ、この作品の妙味があると僕は考えていたのだが、世間の多くの人はどうやらそういう捉え方をしなかったようだ。

正しいところがあるかどうかという判断よりずっと手前の段階で、「不倫はよくない」「被疑者の長ったらしい自己正当化にうんざりした」といった形でこの作品は断罪され、その先にあるものを見て取ってもらえなかったのだ。

いや、一応言っておくけど、不倫がよくないなんてことはわかりきっている。わかりきってますよ、そんなことは。そんなのはあえて言語化するまでもないことで、それを言語化したところで小説にはならないじゃないですか。

それにもうひとつ言うなら、鳥越昇という男ははたして「自己正当化」をしているだろうか。彼は自分にある非についてはすべて率直に認めている。その上で、相手の沙菜絵にあったかもしれないずるさを糾弾しようとしているだけで------って、言いだしたらキリがないのでこのへんにしておこう。要は、そのことを説得的に語って作品にするだけの技量が僕にはなかったということなのだから。

今回は『ルドヴィカがいる』まで紹介しようと思っていたのだが、なんだかすでに疲れてしまったのでここでやめておくことにした。最近どうも疲れやすい。寄る年波には勝てない。オルニチンやらコンドロイチンやらヒアルロン酸やらが入り用になるお年頃なのだろうか。

 

しかしなー、主人公に嫌悪感を抱くのはいい。それはむしろ当然のことなんだけど、嫌悪感を抱きながらなお、「この人はどうしてこうなのだろう。どういう考えでこんなことをしているのだろう」という部分に客観的な立ち位置から興味を抱く、ということが世の人々にはないのだろうか。気に食わないものは目の前から排除しておしまい? そんなのつまらなくないですか? だいたいそれをいうなら(以下略)

〈続く〉

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