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2015年9月17日 (木)

極私的読書ガイド(12) ------記憶をめぐる考察(1)

僕の作品の中に見えづらい形で存在している「系列」として、『ラス・マンチャス通信』系の次に挙げるべきなのは、なんらかの意味で「記憶」をテーマにした諸作品だろう。

もともと僕は、作品の中に「過去」を入れ子にするような構造の小説を書きがちである。「10年前」「15年前」といった過去における特定の「ある時期」と物語上の現在とを交錯させるようなスタイルの物語ということだ(例:『冥王星パーティ/あの日の僕らにさよなら』『株式会社ハピネス計画』『桃の向こう』『偽億/遠い夏、ぼくらは見ていた』『遠すぎた輝き、今ここを照らす光』 etc.)。

そういう意味では、いみじくも瀧井朝世さんが『あの日の僕らにさよなら』(新潮文庫)の解説で指摘しておられるとおり、僕は「記憶について書く作家」なのかもしれない。ただしそれは、系列を横断して存在する特徴のひとつにすぎない。

ここで「系列」として取り上げたいのは、「記憶とは何か」という、記憶そのものについての考察がベースとなっているような作品群である。

記憶とは、ある人間の人格そのものといってもいいほど重要なものだと僕は考えている。記憶の総体が、その人の人格を構成しているのだ。記憶の一部が、あるいは全部が揺らげば、その人をその人たらしめている根拠そのものが危うくなり、その人にとっての世界そのものが不完全なものとなってしまう。つまり記憶とは、「その人の信じている世界」そのものなのだ。

フィリップ・K・ディックが好んで取り上げたモチーフのひとつである「自己認識の揺らぎに伴うアイデンティティの危機」(知らない方は、映画「トータル・リコール」や「マイノリティ・リポート」などを想起していただくといいかもしれない)的なテーマともいえるが、それを小説として描写するにあたっては、必ずしもSFの形を取らせる必要はないはずだ。

この系列に当たる僕の作品としては、『忘れないと誓ったぼくがいた』、『マザー』、『偽億』(文庫化時に『遠い夏、ぼくらは見ていた』に改題)の3点を挙げたい。

実は、「ラスマン系」として先に紹介した『魅機ちゃん』(2009年)にも、この「記憶とは何か」的な考察の反映は仕込まれている。そのように、「系列」による切り分けはあくまで便宜上のもので、実際には複数の系列に同時に属しているような作品もざらにあるということはひとこと付記しておく。

 

『忘れないと誓ったぼくがいた』(単行本は2006年、文庫は2008年)

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この小説は、早見あかりさん・村上虹郎さんの主演で映画化され、今年3月に公開された。ブルーレイ/DVDも今月頭に発売されている(余談ながら、特典のメイキング映像の中に原作者として僕自身が1分程度登場している)。

 

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僕の作品の中では現時点で2番目に売れている本だが、「売れている」といってもいわゆるヒット作のイメージではなく、10年近くにわたって「じわじわと売れつづけている」と表現した方が正確かもしれない。

「記憶」と「記録」は、どこが違うのか。「知識として知っていること」と「記憶として覚えていること」との違いは何か。せつなかったり悲しかったり、胸をときめかせたり怒りに打ち震えたりした記憶も、時の経過とともにいしつか生々しい感触が薄れ、しまいには「知識」と変わらないものになってしまうのではないか。「忘れる」というのは、そういうことなのではないか------。

そういった「考察」の結果を、一人の少年がひと目惚れした少女のために奔走する純愛物語の中に落とし込んだのが本作である。

これは、日本ファンタジーノベル大賞を受賞したデビュー作『ラス・マンチャス通信』の次に発表されたいわゆる「受賞第1作」だが、作風のギャップは当時多くの人を驚かせたようだ。かたや不条理感溢れるファンタジーともホラーともつかない怪作、かたや「いま、会いにゆきます」も顔負けのせつない純愛ファンタジー。驚きはもっともだろう。

ただこのギャップは、必ずしも意図したものではない。先に述べたように「ラスマン」は売れなかったため、同じ路線の作品を続けて刊行するというシナリオがほぼ考えられなかったのは事実だが、だからといってここまであからさまに作風を変えるつもりはなかった。

本来、「受賞第1作」として構想していたのは、実は『冥王星パーティ』(現『あの日の僕らにさよなら』)だった(さらにいうなら、『見上げれば天照らす鏡』という作品のプロットが、それに先立って存在していた。原稿用紙10枚分に相当するかなり精緻なプロットだったが、これは事実上ボツにされたので、今や「幻の作品」といっていい)。

ずっと前にこのブログにも経緯を書いたような気がするので詳細は割愛するが、『忘れないと誓ったぼくがいた』には少々複雑な成立事情があり、本来、僕が『ラス・マンチャス通信』で作家デビューしたこととはまったく別の文脈から生まれた作品だったのだ。さまざまな偶然が重なって、結果としてはそれが「受賞第1作」として発表される流れになってしまったのである。

ただ、この手で攻めるならいっそとことんまで「狙って」やろう、という居直り的な気持ちがなかったといったら嘘になる。

本来この作品は『ランドルト環の裂け目』(「ランドルト環」とは、視力検査で使われる、あの回転する「C」の字のこと)というタイトルだったのだが、内容的にはまさに「いま、会いにゆきます」を思わせるような、当時流行っていた純愛ものにほかならない。だったらタイトルも露骨にそれをイメージさせる感じにしよう、といったことだ。比喩として適切かどうかはわからないが、いわば「毒を食らわば皿まで」の心境だった。

ベタといえばベタだが、このタイトルは僕自身が考案したものにはちがいないし、パッと見の印象以上に含蓄に溢れた秀逸なタイトルになっているはずという自負もある。「〜ぼくがいた」と、自分のことなのになぜ客観視しているのか。また、「ぼくがいる」ではなく「ぼくがいた」と過去形になっているのはなぜなのか。実はそこに、この作品の本質が反映されているのだ。

 

ただ、ここでうっかりこういう文章みたいな長いタイトルをつけてしまったことが、ある意味運の尽きだったと思わないでもない。その点については、次回に譲ろう。

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