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2015年9月20日 (日)

極私的読書ガイド(13) ------記憶をめぐる考察(2)

『マザー』(単行本は2010年、文庫は2012年)

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一人だけ、自分にとって「理想の人物」を作ることができるという携帯ソフトをめぐる都市伝説の謎に、若者たちが迫っていくという話。「デスノート」的なものを書いてみてほしいという担当編集者からのリクエストに応じて書いたものだ。

編集者の意図は、「ここらでとにかく一度ブレイクして、平山さんの名を一気に知らしめることが必要。そのためには作品を一般受けしやすい形にしておかなければ」というところにあった。僕もそれを理解したからこそ、精一杯期待に沿うようなスペックで作品を仕上げたわけだ。

それで僕なりに一種のSFミステリーを書いてみたつもりなのだが、少し不器用だったかもしれない。そう、ただ少しだけ、不器用だったのかもしれない。あのミラーボールみたいに、明るくてまん丸なお月さんに、憧れただけさ。

しかしまあ畢竟するところ、「ピリオドの向こう」には行けなかったわけですな、この作品でも。

つくづく、「あの手この手」を試したものだと思う。そしてこの作品にかぎらず、「どの手」を使った場合も、僕は作品を一定以上の水準に到達させることはできているはずだと自負している。しかしほとんどの場合、それは読者には届いていない。

もしかしたら、そんな風に、何をどう書いても「それなり」に仕立てあげることができてしまう小器用さこそが、僕の最大の欠点なのかもしれないと考える瞬間もたびたびある。いわゆる器用貧乏というやつだ。もっともっと不器用で、「自分はこういう風にしか書けない」というタイプだった方が、結果としては明確に「色」を出すことができて、最終的にはそれが読者から支持される結果になったのかもしれない、と。

だがそんなのはしょせん仮定の話だし、そういうわがままがきくのは、既存の作品がいくらなんでももう少しは売れているケースなのではないかとも思う。先にも言ったように、そういう対応力が欠けていたばかりに、どの出版社からも相手にされなくなってしまったとしたら元も子もないではないか。僕はまちがっていたのだろうか。------そうは思えない。

それより僕は、敬愛する楳図かずお先生が初監督した映画のタイトルが、これとまったく同じであったことにいろいろな意味でショックを受けた。もっとも、僕の『マザー』が映画化されるようなことは(少なくとも現段階では)ほぼありえなさそうなので、タイトルが競合する心配も実質的には存在しないわけだが。

タイトルといえば、まさにこの『マザー』あたりから、僕自身が考えた案が通らなくなるケースが増えていくことになる。この作品だって、「きらら」連載当時は『理想の人』というタイトルだった。それでは今ひとつキャッチーではないので、単行本化にあたって改題してほしいと提案されたのだ。

それでも『マザー』は、タイトルとして結果的には気に入っている。簡潔で端的で力強いタイトルだ。しかし僕の作品においては、このような短いタイトルはむしろ例外的で、後半に至るほど、『忘れないと誓ったぼくがいた』的な、長くて文章っぽいタイトルが増えていく。単行本のときには簡潔だったタイトルを、文庫化する時点でその手の長いタイトルに変えることを余儀なくされるケースもままある。

具体的にどれが、と言うことは控えておくが、そうしたタイトルに僕自身がいつも納得しているわけではないということは、どさくさにまぎれてどこかでひとこと言っておきたかった。今がそのときだ。

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