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2018年10月22日 (月)

「ワスチカ」ベトナム語版

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拙著『忘れないと誓ったぼくがいた』のベトナム語版の見本が届いた。これで本作は、韓国、台湾、タイに続いて4ヶ国(地域)で翻訳が刊行されたことになる。ほかに大陸の中国でも話が進んでいるはずだ。このベトナム語版と大陸中国語版は、2014年の映画化が機運となって出てきた話らしい。そういえば、YouTubeでベトナム語字幕のついたバージョンを見かけた記憶がある。

言語オタクを自認する僕だが、ベトナム語はさすがにまったくノーマークなので、一語も読むことができない。ためしにタイトル"Anh Từng Hứa Sẽ Không Quên"だけグーグル翻訳に入力して訳させてみたが、あまり信用のおける訳にはなっていなさそうだったので、あえて触れずにおく。

それはそうと、表紙の折り返し部分に著者のプロフィールと思われる文言があり、東京で生まれて、立教大学を卒業して、2004年に日本ファンタジーノベル大賞を受賞して……といった僕の経歴に当たる部分はおぼろげに読み解くことができたのだが、受賞作のタイトル、『ラス・マンチャス通信』に当たる部分が謎である。

"Last Manchester Tsusin"

とある。僕はベトナム語の知識はまったくないので、なにかベトナム語で外来語などを表記する際の特殊なルールが適用されたものなのかなと最初は思ったのだが、これはたぶん違う。原題を訳すにあたって、なんらかの誤解があったものと思われる。

『最後のマンチェスター通信』------それはそれでなんだか心惹かれる。そういうタイトルの本があるなら読んでみたい。「第2次大戦中、ドイツからの激しい空爆に晒されていた頃のイギリスを舞台にしたドラマティックな物語」のようなものがおのずとイメージとして浮かんでくる。

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2018年10月20日 (土)

「改題」について思うこと

前回の記事でアナウンスした幻冬舎文庫の『午前四時の殺意』について、さっそくAmazonレビューがついていた。めったにレビューがつかない僕の本にしてはめずらしいことなのだが、評価が★ひとつなので、精神衛生上読まないほうがいいかもしれないと思ってしばらく放置していた(単行本『バタフライ』のときもクソミソな評価をしている人がいたのを知っているだけに)。

しかしやはり気になるので読んでみたら、この人は単行本、すなわち『バタフライ』のときに購入して読んでくれていて、その改題だということがわからずに今回も買ってしまい、買ってからそれに気づいて、腹立ちまぎれに★ひとつのレビューを書いてしまったようだ。

だから言わんこっちゃない、と言わずにはいられない。そういう事態を恐れて、僕はtwitterでも注意を促すツイートをアップしておいたのだが、まあ僕のツイートなど読んでいる人はほとんどいないので(僕がtwitterをやっていることを知っている人自体が数えるほどしかいないだろう)、その程度では追いつかなかったということだ。

ちなみに「言わんこっちゃない」というのは、版元に対して言っていることだ。それも今回の幻冬舎だけではなくて、文庫化するにあたってとにかくタイトルを変えさえすれば、という態度で臨んでいる(ように見える)あらゆる版元に対してだ。

単行本が売れなかった場合、文庫化する際にタイトルを変えたくなる気持ちはよく理解できる。実際にそれで成功しているケースもある。たとえば僕の著作でいえば、『冥王星パーティ』→『あの日の僕らにさよなら』がそうだ。あれは単行本のときはまったく売れなかったのに、改題して文庫として出したら、10万部を超えるヒットになった。

でもそれも、タイトルを変えたことだけが勝因だったわけではないと思う(よくわからないが、タイミングとか出版社の売り方とか、単行本と文庫本というメディア形態の違いとか、いろいろな要因がからみあってそういう結果に結びついたのだろう)。それに少なくとも、文庫の背表紙に書かれた作品紹介文の末尾には、『冥王星パーティ』改題、と明記してあった。

今回は、文庫の巻末に『バタフライ』の改題である事実が小さく注記されてはいるが、背表紙の紹介文ではそのことに触れていない。ネット書店の説明文にも、それはない。まああらすじを注意深く読めば気づくかもしれないが、それに気づかずに買ってしまった読者を注意不足だといって咎めるのはお門違いというものだろう。

今回Amazonで★ひとつのレビューを書いた人は、少なくとも僕の本を何冊かは読んでくれていた人のようだ。『バタフライ』についての評価がどうであったかはわからないが、今回の★ひとつという評価が、作品それ自体に対する評価でないことは明白である。それは、「すでに読んでいる本をまた買わされてしまった」という事実に対する憤慨が呼び起こしたものだ。

それでまるで作品そのものがダメなものであるかのような色がついてしまうのは残念なことだが、この人が★ひとつにしたくなった気持ちもよく理解できるし、単行本で買ってくれた人(たとえそれが数としてはわずかであったとしても)に対する配慮が版元に足りなかったというのは、否定できない事実ではないのか。

2千部しか売れなかった、10万部売れた、100万部売れた、と部数にだけ着目していれば、それは「数」でしかない。しかし、数として多かろうが少なかろうが、それは分解すれば「人」なのだということを忘れてはならない。仮に2千部しか売れなくてもそれは、その本を買ってくれた人が2千人いるということなのだ。それぞれ名前も住んでいるところも違っていて、違う顔を持った、2千人の別の人がいるということなのだ。

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2018年10月11日 (木)

幻冬舎文庫『午前四時の殺意』発売

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2015年に単行本として刊行された『バタフライ』の文庫化である。タイトル変更は僕自身の意思によるものではなく、これで納得しているかというと正直そうは言えないのだが、そのへんは例によって大人の事情に左右されているのでいかんともしがたい。

それより何より、書評家の藤田香織さんが寄せてくださった「解説」がもうすばらしくて、ゲラで最初に読んだときには思わず落涙しそうになった。

単行本のときは、不用意に「バタフライ」という語をそのまま書名にしてしまったばかりに、勝手な期待を抱かれ、その期待に本書が応えていないという理由でずいぶんあれこれといわれなきケチをつけられたものだ。

いわゆる「バタフライ効果」を人間世界のできごとに置き換えて描いたものとしては、映画「バタフライ・エフェクト」のシリーズが有名だが、わざわざそう銘打ってはいなくても、似たような趣向を扱ったフィクション作品は枚挙にいとまがないだろう。つまり、だれかのささいな行動やふとした選択が、めぐりめぐって大きな結果に結びつく、というものだ。

それがさらに複雑な偶然の重なりあいを巻きこみながら途方もない事態に発展し、最期にはパズルのピースがカチッとはまるようにあざやかな終結に帰着する、といったタイプの小説もまま見られる。タイトルからして、僕の小説も「その手のやつ」と思わせてしまっていたのだろう。その「期待」を裏切ってしまっていたということだ。そこまで派手な展開など描かれていないから。

でも僕は、最初からそんなものを目指してこれを書いたわけではない。そういう小説なら、そういうのが得意な作家がすでにいくらでも書いている。僕が書きたかったのはあくまで、「ニュースなどで報道される事件を見て、あなたは人ごとだと思っているかもしれないが、実はあなた自身がなんらかの形で、その自覚もないままにその事件に関与し、原因の一端を担っているのかもしれないんだよ」ということだった。

藤田さんの解説は、そのキモを実に的確に捉えたものになっている。また、その怖さを描くにあたって、リアリティを醸すために、僕が登場人物たちの作りこみにこそ心血を注いだのだということもわかってくださっている。おまけに、執筆に先立って、僕が舞台となる土地におけるロケハンを周到に行なっていたことにまで気づいてくださっている。著者としてはもう、感謝のひとことしか出てこない。

藤田さんにはかつて、『株式会社ハピネス計画』の文庫版でも解説をお願いしているのだが、ご本人とは今もって面識がない。お会いしたこともないのに、どうしてこんなに僕の意図を正確に汲んでくださるのだろうかと感嘆することしきりである。この場を借りてお礼を申し上げたい。藤田さん、本当にありがとうございます。

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