« 幻冬舎文庫『午前四時の殺意』発売 | トップページ | 「ワスチカ」ベトナム語版 »

2018年10月20日 (土)

「改題」について思うこと

前回の記事でアナウンスした幻冬舎文庫の『午前四時の殺意』について、さっそくAmazonレビューがついていた。めったにレビューがつかない僕の本にしてはめずらしいことなのだが、評価が★ひとつなので、精神衛生上読まないほうがいいかもしれないと思ってしばらく放置していた(単行本『バタフライ』のときもクソミソな評価をしている人がいたのを知っているだけに)。

しかしやはり気になるので読んでみたら、この人は単行本、すなわち『バタフライ』のときに購入して読んでくれていて、その改題だということがわからずに今回も買ってしまい、買ってからそれに気づいて、腹立ちまぎれに★ひとつのレビューを書いてしまったようだ。

だから言わんこっちゃない、と言わずにはいられない。そういう事態を恐れて、僕はtwitterでも注意を促すツイートをアップしておいたのだが、まあ僕のツイートなど読んでいる人はほとんどいないので(僕がtwitterをやっていることを知っている人自体が数えるほどしかいないだろう)、その程度では追いつかなかったということだ。

ちなみに「言わんこっちゃない」というのは、版元に対して言っていることだ。それも今回の幻冬舎だけではなくて、文庫化するにあたってとにかくタイトルを変えさえすれば、という態度で臨んでいる(ように見える)あらゆる版元に対してだ。

単行本が売れなかった場合、文庫化する際にタイトルを変えたくなる気持ちはよく理解できる。実際にそれで成功しているケースもある。たとえば僕の著作でいえば、『冥王星パーティ』→『あの日の僕らにさよなら』がそうだ。あれは単行本のときはまったく売れなかったのに、改題して文庫として出したら、10万部を超えるヒットになった。

でもそれも、タイトルを変えたことだけが勝因だったわけではないと思う(よくわからないが、タイミングとか出版社の売り方とか、単行本と文庫本というメディア形態の違いとか、いろいろな要因がからみあってそういう結果に結びついたのだろう)。それに少なくとも、文庫の背表紙に書かれた作品紹介文の末尾には、『冥王星パーティ』改題、と明記してあった。

今回は、文庫の巻末に『バタフライ』の改題である事実が小さく注記されてはいるが、背表紙の紹介文ではそのことに触れていない。ネット書店の説明文にも、それはない。まああらすじを注意深く読めば気づくかもしれないが、それに気づかずに買ってしまった読者を注意不足だといって咎めるのはお門違いというものだろう。

今回Amazonで★ひとつのレビューを書いた人は、少なくとも僕の本を何冊かは読んでくれていた人のようだ。『バタフライ』についての評価がどうであったかはわからないが、今回の★ひとつという評価が、作品それ自体に対する評価でないことは明白である。それは、「すでに読んでいる本をまた買わされてしまった」という事実に対する憤慨が呼び起こしたものだ。

それでまるで作品そのものがダメなものであるかのような色がついてしまうのは残念なことだが、この人が★ひとつにしたくなった気持ちもよく理解できるし、単行本で買ってくれた人(たとえそれが数としてはわずかであったとしても)に対する配慮が版元に足りなかったというのは、否定できない事実ではないのか。

2千部しか売れなかった、10万部売れた、100万部売れた、と部数にだけ着目していれば、それは「数」でしかない。しかし、数として多かろうが少なかろうが、それは分解すれば「人」なのだということを忘れてはならない。仮に2千部しか売れなくてもそれは、その本を買ってくれた人が2千人いるということなのだ。それぞれ名前も住んでいるところも違っていて、違う顔を持った、2千人の別の人がいるということなのだ。

|

« 幻冬舎文庫『午前四時の殺意』発売 | トップページ | 「ワスチカ」ベトナム語版 »