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2020年1月25日 (土)

クーをめぐる顛末(2)

――前回からの続き。

 退院後は、嘔吐もおさまっていて、一応ゆるやかに回復に向かっているように見えたのだが、それまで食べていたドライフードをほとんど受けつけなくなっていた。食べるとすれば、パウチの「スープ」(魚肉を煮込んだ汁気の多いフード)だけだった。しかも、これは入院前からのことなのだが、クーはそれを与えても、汁の部分を飲むだけで、身は残してしまう。

 それは総合栄養食ではなく、1日に与えていい量の上限も決まっている「おやつ」扱いのフードだから、あまりたくさん与えるのもどうかというためらいもあったのだが、何も食べないよりはましだと思ってもっぱらこれを与えていた。いずれにしても身は食べないので、ほとんど固形物を口にしていないことになる。

 1週間後の診療でそれを訴えても、「まあ体調も悪いので、ぜいたくなものしか受けつけなくなっているだけでしょう」と先生はあっさりした回答しか与えてくれなかったのだが、この日の検査の結果、もっと大きな問題が発覚した。胆管炎を併発しているというのだ。それで炎症を抑える薬を追加で処方してもらい、それも飲ませていたところ、クーは見るからに元気がなくなっていった。

 再び頻繁に、しかも水っぽいものを大量に吐くようになり、みるみるうちに激痩せしていく。フードはあいかわらずほとんど口にせず、「もしかしたら食べるかも」と思って盛っておいたドライフードの皿が、何時間かおきに見るたびに少しも減っていない。胸をえぐられるような思いをさせられた。

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 上の画像が、最も痩せていた頃のクー。背骨のゴツゴツが、ボディスーツの上からでもはっきりとわかる。通常5kg前後ある体重が、この頃は3.6kgまで落ち込んでいた。人間で言えば、50kgが36kgになったようなものだから、危機のほどが推して知れる。動きもどんどん鈍くなり、たいていは隅っこのほうでただじっとうずくまっている。もはや風前の灯という感じで、「もうダメかもしれない」といったんは覚悟を決めていた。

 それでももちろん、放置はできなかった。次の診療は本来、2週間ほどあと、GW明けの予定だったのだが、待ちきれなくなって連休中に電話したところ、さいわいにも担当の先生がたまたま当直として出勤していて、そういうことならすぐに連れてきてほしいと言われ、タクシーで駆けつけた。

 先生が言うには、おそらく炎症を抑えるための薬が体質に合わなかったのが原因と思われるので、その薬はいったん投与を中止するとのことだった。それより、頻繁に吐くことから脱水症状を起こしており、それが原因で腎機能がだいぶ弱まっていて、今はそれをどうにかするのが最優先の課題だと指摘された。

 とりあえずその場で皮下点滴はしてもらったのだが、それを何日かは続ける必要があるという。本来なら入院が必要なほどの状態だが、連休中はスタッフも少なくて対応できない。地元の行きつけのクリニックに通いでもかまわないので処置を受けさせてほしいという話だった。

 それから3日にわたって、地元のクリニックに日参して皮下点滴を受けさせた。併せて、あいかわらずほとんど何も食べようとしないクーに強制的に栄養を与える処置も行なった。これはセンターの指導のもとに、自分たちでやらなければならなかった。脾臓摘出手術の際、術後に食欲がふるわなくなる可能性を見越して、胃に通じるチューブが装着されていたのだが、その先端に専用の注入器を接続して、液状のフードを胃の中に直接流し込むのである。

 液状といってもかなりドロリとしているので、細いチューブの中にはなかなか入っていかない。1度に与える量は50ml程度を目安に、と言われていたが、1分間におおむね3mlほどしか入れられないので、50ml注入するには15分くらいかかる。その間ずっと、クーを仰向けに抱っこしたまま、片手で注入器の異様に重たいプランジャーを押しつづけるのだ。クーもおなかになにかが入ってくる違和感を覚えるらしく、しきりと身をよじる。これはなかなかつらい作業だった。

 しかし苦労の甲斐あって、クーは瞬く間に元気を取り戻していった。4度目の皮下点滴を受ける頃には、腎臓の数値は正常な範囲に戻っていたし、胆管炎も自然に治癒していた。その翌日にはドライフードも食べるようになり、しかも本来の食欲が回復していた。

 そしてさらに2日後、腹部に装着していたはずのチューブがそこらにコロンと転がっているのを見たときには一瞬ぎょっとさせられたのだが、どうも元気になって走りまわっている間にどこかに引っかけて外れてしまったらしかった。念のためセンターに確認したら、「もう普通に食べられているのなら不要なものだし、どうせいずれは抜去することになっていたのだから、そのままで心配ない」とのことだった。

 そう、クーはこの頃には、すでに走りまわるほど元気を取り戻していたのである。そして5月15日、再度センターに連れていったとき、先生に診せる前に補助スタッフの人に現在の状況を説明している中で、「もう走りまわっています」と言ったときのことが忘れられない。スタッフの人は「あっ、そうですか!」と言いながら、カルテに「活動性100」と記入したのだ。「ああ、走りまわるのは“活動性100”なんだ、もう心配ないんだ」と胸を撫でおろさずにはいられなかった。

 事実、その後の検査で、数値に大きな問題はないこともわかり、東大附属動物医療センターからは「いったん卒業」とのお墨つきをもらうことができた。ここに支払った治療費の総額、中でも手術のために入院したあとに請求された金額は、一瞬絶句するほどの高額に達していたが(保険には入っていなかったので)、惜しいとはまったく思わなかった。

 その後は地元のクリニックで1、2ヶ月に1度くらいの頻度で経過観察的に血液検査を受けて、大過なければそのままでかまわないという話だった。そして現在に至るまで、大きな問題は見つかっていない。腎臓の数値がちょっと悪くなることもあるが、それは高齢の猫なら普通にあることで、腎臓サポート食をときどき与えるようにしただけで今のところはコントロールできている。

 あと2ヶ月強で、クーは13歳の誕生日を迎える。もちろん、高齢だから何があるかはわからないし、肥満細胞腫が再発する恐れもゼロになったわけではないものの、毎日、元気かつ呑気な姿を見せてくれるので、それだけで癒される。

 地元のクリニックの先生も、僕がクーを連れていくたびに、「毛並みがいいですねえ」と感心している。職業柄、どこかしらに不調を抱えた動物に触れることが多いのだから当然といえば当然なのだが、それでも、日々多くの動物に触れている人があえてそう評するということは、目下のところクーはかなり「いい状態」なのだな、と安心させられもする。

 特にここ数年、作家としての僕は筆舌に尽くしがたい逆境の中に落とし込まれていたけれど、さして落胆もせずに淡々としていられたのも、この猫が常にそばにいたということにかなりの部分を負っていると思う。逆に、クーが死んでしまったら、僕は一瞬で精神が崩壊してしまうのではないかという危惧すら抱いている。遅かれ早かれその日は必ず来るのだが、今はまだそのことを考えたくない。

 考えたくないだけで、いずれにしても避けられないということはよくわかっているのだけれど。

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2020年1月24日 (金)

クーをめぐる顛末(1)

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 いっとき、twitterで連日のように「本日のクー」として画像つきでクーの動向をレポートしていたが、途中でそれをやめてしまった。なぜやめたのかというと、去年の3月ごろからクーの具合が本当に悪くなってきて、日々呑気にレポートするどころではなくなっていたからだ。今さらながら、その顛末を、次回と合わせて2回にわたって報告しよう。

 結論から先に言っておくと、クーはその後すっかり復調して、今は毎日元気にしている(上の画像は最近のクー)。1ヶ月半おきくらいに経過観察の意味もこめて血液検査を受けさせてもいるが、今のところまったく問題がない状態だ。しかしそうなるまでには、山あり谷ありだった。

 もともと去年の年明けくらいから頻繁に吐くようになっていて、近所の行きつけの動物病院で診てもらっていたのだが、確たる理由がわからないままだった。エコー検査の結果、胃の中に不審な影が見られたことから、異物を誤飲した可能性があると指摘され、半日かけて造影検査(要するにバリウムを飲ませて腹部レントゲンを撮影すること)まで受けさせたのだが、やはり原因を突き止めるまでには至らなかった。

 妻は早い時期から、日本の動物医療においては最高峰といわれる東大附属動物医療センターで検査を受けさせるべきだと主張していた。先代の猫ういが、やはりある時期から頻繁に吐くようになり、同じ地元の動物病院でさんざん調べたにもかかわらず理由がわからず、動物医療センターに紹介してもらって調べた結果、たちどころに肺がんと判明したという経緯があったからだ(咳などもほとんどしていなかったから、肺の疾患だとは思いも寄らずにいた)。

 ただし、ういはその時点で末期に至っており、もはや手の施しようがなかった。できたのは、自宅で皮下点滴だけ行なって命をつなぎながら、その命の火が尽きるまで看取ってやることだけだった。そのときのやるせなさをよく覚えていた妻は、手遅れになる前により専門的な診断能力を持つところに早く託すべきだという考えだったのだ。

 当時、ういを病院に連れていっていたのはもっぱら妻だったし(僕がまだサラリーマンと兼業だった時代のこと)、その言い分も理解はできたのだが、クーは頻繁に吐くということさえ除けば元気そのものであり、そして目下、日がな一緒に家にいてクーの様子を見ているのも、病院に連れていくのももっぱら僕になっている。その僕が見て、そこまで深刻な事態になっているとは思えなかったし、地元の病院もとても熱心に診てくれているので、安易に紹介状を書いてもらうのもどうかというためらいがあったのだ。

 しかし、造影検査を受けてもはっきりしたことがわからなかった時点で、これはもう東大附属動物医療センターに診てもらうしかないだろうという結論になった。そして3月26日、初めてここでの検査を受けた結果、思ってもいなかった病名が告げられた。

 肥満細胞腫と呼ばれる、血液がんの一種である。「肥満」と称しているが、患畜自身の肥満度とは関係がない(実際クーは、やや太り気味とはいっても、病的なレベルでの肥満には達していなかった)。がん化している血液細胞が肥満して見えることからその名がついているという。

 動物医療センターとしては、脾臓が異常に肥大していることからそれを疑い、脾臓組織の一部を顕微鏡で見た結果、その診断に至ったという。そして、脾臓で発生したその肥満細胞腫が、すでに血管を経由して肝臓にまで浸潤している疑いがあるとの説明だった。やはり、さすが東大附属だ。地元のクリニックも熱心ではあるが、蓄積された知見の水準が比較の対象ではないのだろう。

 対処としては、脾臓の摘出以外にはほぼ選択肢がないと聞かされた。さいわい、脾臓が担っている機能は、他の臓器でも代替できる上に、この病気は脾臓が司令塔の役割を果たしており、脾臓さえ摘出してしまえば、他の臓器に浸潤した肥満細胞腫も自然に減衰することが多いのだという。

 気になるのは、それで当面の危機は回避できたとして、その後の余命はどれくらいあるのかということだった。担当の先生は確答を避け、こんな言い方をした。

「仮にそれが1年だとして、それが長いのか短いのかというのは、解釈の問題だと思います。この子はすでに12年生きているわけで、自然にしていてもそれが寿命だったという考え方もあるわけです」

 何も答えていないに等しいが、うかつなことを言って言質を取られてはまずいという意識も働いているものと解釈できた。いずれにしても、言葉どおり「1年」ということはないにしても、そう長くは生きられないと覚悟を決めておいたほうがよさそうだと思った。

 それでも僕と妻は、一も二もなく脾臓摘出手術を受けさせるという方向で意見が一致し、その場で執刀を依頼する流れになった。ただ、妻の仕事の都合や執刀する先生のスケジュール上の都合もあり、入院日は3週間近く先になってしまった。その間は投薬によって嘔吐も抑えられていたのだが、いざ入院日を迎え、手術前の検査を行なったところ、担当の先生は渋い顔をした。

「肝臓の数値がだいぶ悪くなっています。前回の検査の時点では、手術にも耐えられるであろうコンディションだったんですが、この3週間でそれがだいぶ悪化してしまいました。手術は可能ですが、このままだと当初見込んでいたよりも大きな負荷が体にかかってしまう可能性があります。術後も無事でいられる確度が低くなったということです」

 だからといって、手術を先延ばしにしてもコンディションがよくなるという保証はない。僕たちとしては、予定どおり執刀してもらう以外に道はなかった。

 入院は4泊5日の予定で、手術は入院日の翌日だった。当日は立ち会うこともできず、ただ結果が知らされるのを待つしかなかった。妻は仕事に出ていたが、僕はいつもどおり在宅していたので、手術の時間が近づくともう居ても立ってもいられず、日課であるランニングの時間をあえてそこに充てた。走っていれば、よけいなことを考えずにいられると思ったからだ(現実には、それでも考えてしまうことを避けられなかったのだが)。

 生きた心地もしなかったが、やがてセンターから電話がかかってきて、手術は無事成功し、今のところ大きな問題はなさそうだと聞かされた。全身から力が抜けて、その場にくずおれてしまいそうだった。

 翌日から連日、東大本郷キャンパス農学部の敷地内にあるセンターに見舞いに通う日々が続いた。東大附属だけあって、見舞いを受けつけているのは日中だけだ。妻は仕事があるので、僕が行くしかなかった(もちろん、僕にも仕事はあるのだが)。ちなみに、入院中の患畜に会いに行くことをセンターでは「面会」と呼んでいる。とても奇妙な表現だと思うのだが、それをいうなら「見舞い」というのもどことなく変だ。

 それはともかく、2日ぶりに顔を合わせたクーは、恐怖と心細さのあまりか、なんだかうつろな目をしていた。抱きかかえればおとなしく抱かれてはいるのだが、普段と違って喉をゴロゴロいわせるでもなく、僕とも決して目を合わせようとしない。

 毎日通っているうちに少しずつ表情が緩んできて、退院日にはようやく僕の知っている顔つきに戻ったものの、最初の頃は、このままクーは心を通い合わせられない存在になってしまうのではないかと心配になったほどだった。下の画像は、見舞い初日に待合室で撮影したものである。

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 ——以下、次回に続く。

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