« 『あの日の僕らにさよなら』をめぐる複雑でめんどうくさい思い | トップページ | ある業界内告発 »

2020年2月10日 (月)

『冥王星パーティ』の消された部分

前回、『あの日の僕らにさよなら』すなわち『冥王星パーティ』で、第一稿の約800枚から300枚分ほどの過酷なダウンサイジングを余儀なくされたいきさつについて書いた。その過程で、何人かの重要人物を消したことについても述べた。実は、当の第一稿の文字データは、今でもまだそのままの形で保持している。

主人公の一人である都築祥子が、物語の終盤では本来、奥多摩の豪邸で富豪に雇われているという設定だったこともすでに述べたとおりだが、そのくだりに登場する「皆井」という人物のことを、書き手である僕自身はとても気に入っていた。祥子が身を寄せるのは、大手製薬会社である「コーシン製薬」の創業者であり、現在は会長職も退いて隠居生活を営む船津甚三郎なる人物のもとなのだが、皆井もまた、その船津にお抱え運転手のような立場で雇われている身なのである。

以下は、いろいろあって11年ぶりに祥子と連絡のついたもう一人の主人公・桜川衛が、祥子が現住所で開催するという「ささやかな宴」に招かれ、言われるままに奥多摩駅前まで赴き、まずは皆井に迎えられる場面である。

*****

 まもなく、駅前にただ一台だけ停めてあった白いライトバンから、サングラスをかけた白いウインドブレーカーの男が出てきて、こちらへ向かってきた。どちらかというと関わり合いになりたくないタイプの人間に見えて躊躇したが、ためしに注意を促すように会釈をしてみる。しかし男は、一瞬だけ怪訝そうに衛の方を見ただけでその脇を素通りし、背後にあるトイレに向かっていく。
 途端に、祥子名義で送られてきた招待状の真実性が疑わしくなってくる。ともすれば、結果として衛一人になること自体、仕組まれたことだったのではないか。自分を陥れるために、望月と香原とでひと芝居打った? いやそれなら、仕掛人の顔がわかるだけまだましだ。彼らが無関係だとすれば、いったい誰が、何の目的で衛をここに呼び出し、酷寒の中放置しているのか。
 匿名の悪意のようなものが、不意に肌で直接感じられるような実在感を伴ってまといついてくる気がして、衛は怖気をふるった。そのとき、目の前に男が現れた。
 威圧感を覚えたのは、衛の視界すべてを覆うほど背が高かったためで、よく見れば前頭部が禿げ上がった、どこか愛嬌のある顔立ちだ。その見かけから想像するよりずっと深みのある青年らしい声で、男が言った。
「失礼ですが、香原さんか、そのお友達の方では?」
「あ、はい……桜川と申しますが、都築さんのところから?」
「ええ、皆井という者です。お迎えに上がったんですが、三人でいらっしゃるものとばかり思っていましたので……。桜川さんですね、お名前は伺っております」
 衛の中に、安堵が広がった。
 ブルージーンズにモカブラウンのシベリアンパーカー。皆井と名乗るこの男は、着ているものこそカジュアルだが、姿勢のよい長身とあいまって、全体にしゃれた雰囲気が漂っている。五十は過ぎているだろうと思われる年齢のわりに、ずいぶん若々しい。それに、メガネの奥の細い目や声の響きに、理知的ななにかを感じさせる。暴力的なことに自ら手を染めたり、それに加担したりすることはなさそうに見える。
「すみません、ちょっとわけあって、私一人になってしまったんですが……」
 そう言いながら衛は、この瞬間まで皆井はどこに身を潜めていたのだろうと訝った。どこかから衛の姿を認めて近づいてきたその気配もなく、だしぬけに目の前に出現したかのように見えた。
「そうですか、お一人でもお出でになれてよかったです。祥子さん、お待ちしてますから」
 皆井はそう言ってそつなく笑いながら、駅前の道に出て、陰になっているところに衛を誘導した。駅の敷地内から続く通用口のようなところに、黒塗りのベンツがひっそりと鎮座している。
「こんな大げさな車ですみませんね。もちろん、私の私物ではないんです。私はいわば、船津会長の……もう会長ではないんですが、私はどうも落ち着かなくていまだにそうお呼びしてるんですが、とにかく私は、会長のお抱え運転手みたいなものですので」
 後部座席のドアを開いて手慣れた様子で衛を招じ入れるさまはまさに「お抱え運転手」然としているが、この男は最初からこの仕事をしていたわけではないだろう、となんとなく直感した。
「十五分ほど、走ります」
 皆井はそう言うなり、アクセルを踏み込んだ。ベンツ特有の鈍い振動がシートから伝わってくる。顧客の中にベンツを乗り回している社長がいて、何度か、送るというのを断りきれずに乗せてもらったことがある。ただ、証券マンとしてではなくベンツに乗せられるのは、初めてだった。
 ベンツはゆるやかに車道を滑り、橋をひとつ渡り、ふたつ渡った。コンビニやガソリンスタンドなど、この時間まで営業しているいくつかの店舗を通り過ぎてしまうと、道の両脇はもう死に絶えたように真っ暗になった。そこまで無言でハンドルを繰っていた皆井が、ようやく人心地がついたとでも言わんばかりに口を開いた。
「遠かったでしょう? これでも東京都なんですがね」
「そうですね……。皆井さんも、こちらにお住まいなんですか?」
「今はね。会長宅に住み込みで働いてます。会長宅と言っても、これから向かうところはもともと別荘みたいなもので、会長ご自身、週の半分は渋谷の本宅でお過ごしになってるんですがね。お聞き及びかどうか、人工透析を受けておられて」
「ああ……だそうですね」
 そのために通っていた都心部の大病院で、祥子を見初めたのだと榛菜から聞いている。
「普段はその送り迎えに忙殺されているってところですね、私は」
 そう言って皆井は笑った。特におかしくもなかったが、衛も調子を合わせて「ははぁ」とあいまいに笑った。
「そうすると、皆井さんはコーシン製薬の社員と言うよりは、船津会長ご自身に雇用されておられるわけですか?」
「社員……でした、昔は。もう十年ほど前ですが」
 続きを言うものかと待ってみたが、皆井はそれきり無言でハンドルを操作している。それ以上突っ込んで訊くのも憚られて黙っていると、その正当な続きであるかのような口調で皆井の方から再び口を開いた。
「今は個人契約ですので、祥子さんとはまあ、言わば同僚ですね」
「あの、それなんですけど……」
 衛はその言葉尻を捉えて、少し運転席の方に身を乗り出した。
「実は僕、よくわかってないんですよ、都築さんの、そちらにおける立場とか。そもそも、僕なんかが今日こうしてお邪魔するのは、なにかとんでもなく場違いなことだったりしませんか?」
「それはないでしょう」
 皆井は言下に否定した。
「会長ご自身、今日はこちらにいらっしゃいますし、あなたがたが……いや、結局桜川さんだけになってしまいましたが、とにかく、祥子さんの古いお友達がいらっしゃることは承知していらっしゃいます。たぶん、最初だけ挨拶に見えると思いますよ」
「あの、ぶっちゃけたところ、都築さんは、会長にとってどういう……?」
「愛人なんじゃないかってことですか?」
 そう言いながら皆井は笑った。
「愛人ではありませんよ。一介の被雇用人に過ぎません、私と同じように。私が会長の送り迎えをすることで給料を頂いているように、祥子さんもあの屋敷である役割を担うことによって給料を受け取っているだけです。気にされているのはたぶん、その“役割”が、性的な内容を含んだものなのかどうかってことなのではありませんか? だとしたら、答えはノーです。おそらく」
「おそらく?」
 皆井は口をつぐみ、言葉を選ぶような間を空けてから続けた。
「会長は今年で八十五になられたご老体です。その老いた脳の中でどんな幻想が渦巻いているのかは、誰にもわからないってことです。もちろん、私にもね。でもそれは、会長のプライバシーに属することですからね」
 皆井はそんな謎めいたことを言って、くすくすと笑った。
「ま、とにかく、心配なさるようなことはありませんよ。会長は、与えられた仕事をしているとき以外の祥子さんには興味をお持ちにならないんです。もちろん、その交友関係にもね。ほぼ、自由放任です。ただ……そうそう、ひとつ、申し上げておかなければならないことがありました」
「何でしょう?」
「会長は祥子さんのことを“トシエさん”とお呼びになると思いますが、戸惑われないように」
「“トシエさん”、ですか?」
「桜川さんまで調子を合わせてそうお呼びになる必要はありませんけどね。会長にとって、祥子さんは“トシエさん”なんですよ。それだけ、覚えておいていただければと」
 道が山腹に沿って大きなカーブを描き、わずかばかりの街の灯が、闇の底にたゆたう鬼火のように一瞬だけ浮かび上がってすぐ森に呑まれた。まもなくベンツは右折して森に挟まれた細い道に入り、ライトが届く範囲以外のすべてが真っ黒に塗り込められた。
 道幅や視界の狭さが引き起こす錯覚なのか、この道に入ってからの方が皆井の運転が荒くなったように感じられ、斜め後ろからの横顔だけが見える皆井の人格までもが豹変してしまった気がした。しかし、衛の不安が本格的なものに変わる前に、皆井はそれまでどおりの知的で穏和そうな顔で振り返って、「じきですよ」と言った。

******

 14年も前に書いた文章ではあっても、われながら、綻びひとつ見られない文章だと自画自賛したくなる。こういったくだりを丸々破棄しなければならなかったのは、本当に惜しいと今でも思う。というか、今でも僕の中には、この「皆井」という人物が確たるリアリティを備えた人物として存在しているのだ。

 しかしその一方で今さらながら思うのは、この書きぶり、「なんか、村上春樹くさくないか?」ということだ。『愛ゆえの反ハルキスト宣言』で村上春樹をさんざんこきおろした僕だが、影響を受けていたことはやはりどうにも否定できないようだ(もちろん僕は、あの本の中でもその点については最初から素直に認めているのだが)。

|

« 『あの日の僕らにさよなら』をめぐる複雑でめんどうくさい思い | トップページ | ある業界内告発 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 『あの日の僕らにさよなら』をめぐる複雑でめんどうくさい思い | トップページ | ある業界内告発 »