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2020年3月 3日 (火)

思い出すあの人

毎年、この季節になると、否応なくある人の死を思い出す。

2012年に実業之日本社文庫から出た『エール! 1』というアンソロジーがある。僕の最新刊『ドクダミと桜』(新潮文庫)に解説を寄せてくれた書評家の大矢博子さんが責任編集した、「働く女性」をモチーフとしたシリーズの第一弾だ。僕はそこに、『六畳ひと間のLA』という短編小説を寄稿した。通信教育による英検の対策講座の講師を務める若い女性が、受講生である52歳の得体の知れないオッサンに変になつかれて往生する、という筋書きだ。

このオッサン、主人公の講師からはひそかに「タイッつぁん」と呼ばれている小柴太一なる男性には、実はモデルが実在していた。その人とどうして知り合ったのかを説明していると、それだけでひとつの長い物語になってしまうのでそれは割愛するが、とにかく、僕より十くらい歳上だったその人は、かつてはヤクザだったこともあるが、その後足を洗い、といっても何を生計の手段にしているのかは最後まではっきりしなかったという、きわめてうさんくさい人物だった。

その人のことを、仮にマッチャンと呼ぶことにしよう。胡乱な人物ではあったが、僕は単純に好きだった。決して品はよくなかったものの、頭は決して悪くなかった。頭が悪くない人のことは、僕は好きなのだ(これを反転させたセンテンスは、あえて口にするまい)。

学がないながら、拘置所や刑務所内で無聊を慰めるために読書の習慣を身につけ、「教養」と呼んでいいのかどうかはわからないが、広く浅くいろいろなことを知っていた(経験からいって、そういう人はえてしてむしろ平均以上に読書家だったりする)。そして作家としての僕を無条件に尊敬してくれていて、当時発刊されていた僕の本は(数だけはやたらと多いにもかかわらず)あらかた(図書館で借りて)読んでくれてもいた。驚いたことに彼は、奇書中の奇書といわれることもある僕のデビュー作『ラス・マンチャス通信』に対しても、著者である僕自身を唸らせるほど深く本質的な理解を示していた。

人はときに、受けてきた教育や、培われてきた英知を軽々と跳び越える勘のよさや洞察力を示すことがある。マッチャンは、まちがいなくそのうちの一人に数えられる人だった。

彼をモデルとして造型した小柴太一が登場する『六畳ひと間のLA』も、マッチャンはおもしろがって読んでくれていた。作中の小柴が、かなりドギツい、えげつない感じで描かれているにもかかわらず。

そして作中の小柴太一は、たいへんさびしい死に方をする。街なかである暴力事件に巻き込まれて警察病院に運び込まれ、ほどなく絶命するのだが、いまわの際に彼が口にするのは、通信講座の講師だったずっと歳下の女性の名だけであり、家族も友人も身元確認には現れないのである。

それから何年かして、そのモデルであったマッチャンも、ある日予告もなく、とてもさびしい死に方をした。一人暮らししていたアパートで、財布を持って外出しようとしているなりで、玄関ドアに向かってうつぶせに倒れたまま絶命しているのを、アパートの大家さんが発見したのだ。もともと、酒や不摂生が祟り、多臓器がやられてボロボロの状態だったらしい。

葬儀には、僕も列席した。それが、この季節だった。斎場まで向かう道中、前日までに降り積もった雪で、歩くのもままならなかったことを覚えている。そして、参列者の数は、驚くほど少なかった。一人の人間が死んだというのに、どうしてこれだけの数の人間しか集まらないのか。血の繋がった係累にせよ、友人にせよ、もう少しいてもよさそうなものなのに。その中では僕など、ほとんど晩年に知り合った新参者にすぎないのに。

あれから何年が過ぎたのか、正確には思い出せない。しかし脳裏には、生前のマッチャンが僕に送ってくれた何葉かの年賀状がちらつく。小学生男子みたいな汚い字で、それでもせめてもの正月らしい彩りを添えようとして、何色かのマーカーでわざわざ書き分けた上で送ってくれた拙いメッセージが。そんな彼からの年賀状を受け取ることは、今後、未来永劫ありえないのだ。

そういうせつなさを掬い上げることもできずに、「作家」を僭称することができようか。作家として八方ふさがりの状況が続く中で、自分が何をなすべきなのかが少しだけわかりかけてきたような気がする。「わかりかけてきた」「ような気がする」って、ものすごく迂遠な感じだけど。

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