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2021年11月17日 (水)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (5)

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それでも、次の痙攣がいつ訪れるかはわからなかった。僕たちは脱衣所にかけ布団だけ持ってきて、床に直接横たわり、両側からクーを挟むようにしながら仮眠を取った。気づけば朝になっていた。クーも落ち着いていたので、僕と妻のベッドが接している中央部分にタオルを敷いてその上にクーを横たわらせ、ひきつづき両側から見守る態勢を取った。

もっとも、結局ほとんど一睡もせずに朝を迎えていたので、目を開きつづけていることはむずかしかった。何度も眠りに落ちてしまい、そのたびにヒヤッとして目を覚ました。そして、まだかろうじて生きているクーの姿を目にして胸を撫で下ろした。そんなことを何度も繰り返しながら、いつしか午後になっていた。そして1時半ごろ、バタッという音が耳元で聞こえ、再び「ニャーーーッ」という悲痛な叫び声がそれに続いた。僕も妻も、その音と鳴き声で、 浅い眠りの淵から一気に引き上げられた。

クーはたぶん、いまわの際に臨んで、立ち上がってどこかに行こうとしたのだと思う。しかし力が足りず、倒れてしまったのだ。バタッという音は、それが原因だったのだろう。見るとクーは、僕たちが横たわらせた位置から少し離れた場所で、体を大きくのけぞらせていた。僕と妻は、そのクーに覆いかぶさるようにして、懸命に呼びかけた。苦しんでいるのに、何もしてやれないのがせつなかった。

クーはヒュウッ、と勢いよく息を吸い込み、10秒ほど間を開けてはまたヒュウッ、と息を吸い込んでいた。やがてその間隔が、次第に間遠になっていった。もう終わったかと思うと、またヒュウッ、と聞こえる。でもそれも、ある時点で完全に途絶えた。ただ、触ればまだ温かいし、本当に逝ってしまったのかどうか、しばらくは確信が持てなかった。何分かそのまま見守ったが、呼吸の音は二度と聞こえなかった。それが、本当の最期だった。

ひとまず、かつてクーが愛用していたカゴの中に寝かせるために抱き上げると、その体はなんの緊張も伴わずにぐにゃりと垂れ下がった。ああ、本当に逝ってしまったんだな、とようやく確信した。硬直が始まらないうちに、体を丸めるようにしてカゴに収めると、おだやかに眠っているようにしか見えなかった。よくそのカゴの中で、クーが実際にそうしていたように――。

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やがて体の硬直が始まったが、尻尾だけは硬くならず、根元から先端まで手を走らせると、そのたびにまだ生きているみたいにしゅるんと手からこぼれ落ちていった。先代の猫・無為(本名は「うい」)は、(もともとノラだっただけに)生育環境がよくなかったのか、尻尾の骨が丸まったまま固まってしまっており、生前も死後も、そんなふうに尻尾を触ることができなかったので、死んでも尻尾は硬直しないということを、僕はそれまで知らずにいた。たぶん、尻尾には筋肉がないからなのだろう。

翌日の日曜日、ういのお骨を納めてあるペット霊園経由で火葬してもらった。立派な骨だった。クーは顔つきなどは仔猫のようでも実は大柄な猫だったので、骨も大きくて、猫用の標準的な骨壷に収まりきらないほどの量があり、ペット火葬業者のスタッフの人がちょっと困っているように見えた。納骨に際しては、ういの隣のスペースがたまたま空いていたので、「愛猫クー号」はそこに納めてもらうことにした。おおらかであっけらかんとしていたクーはともかくとして、気むずかしかったういはやきもちを焼くかもしれないが、壁で隔てられているので大丈夫だろう。

ともあれ、土曜日に最期を迎え、日曜日に荼毘に伏すという形で、妻と二人揃って、すべてにスムーズに立ち会うことができた。飼っていた猫が、飼い主の都合を考えて、すべてわきまえた上で死のタイミングを見計らっていたように見えたという話は、ざらに耳にする。本当にそうなのかもしれない。

 

覚悟していたことではあるが、クーのいなくなった欠落感は、そうたやすく埋められそうにない。僕が作家専業になったのは10年前であり、クーと過ごした14年のうち10年は、基本的に終日、家で一緒に過ごしていたことになる。もちろん、四六時中べったりとくっついていたわけではないが、家の中にクーの存在感があることはあたりまえの状態だった。もはやそれがないことに、心が容易に適応できずにいるのだ。

最初の数日は、1日に何度も、いや、何十回も、「そういえばクーはどうしているかな」と思ってしまっていた。もういないのに、いる前提でそう考えてしまっていた。そして僕は気づくのだ。クーの具合が悪くなる前から、日中、そうやってたびたびクーの安否を気づかい、その時点での所在をたしかめ、無事でいることを確認して安心することが、すっかり習い性になってしまっていたのだということに。

玄関のドアを開け閉めするときには、つい、クーが外に飛び出していかないかどうか目を走らせてしまうし、キッチンの、冷蔵庫の前に置いてあったエサ皿が空になっていないかどうか、つい確認しようとしたりもしてしまう。クーの水飲み用のカップをゆすいで中身を入れ替えようとして、もうそれがいつもの場所に置かれていないことに気づいて打ちのめされたり、ゴミ出しのために家中のゴミを回収している間に、猫トイレのチップやマットをもう交換する必要がないことに気づいてまた悲嘆に暮れたり。

僕のスマホには、夥しい数のクーの写真が収まっている。いや、実のところ、収蔵している写真の99%以上は、クーの写真なのだ(インスタ全盛の時代ではあるが、僕はクー以外のなにかを撮影することにほとんど関心がなかった)。そうしてクーの写真を見たが最後、嗚咽にむせぶことすらなく、涙がツツーッと頬をとめどなく伝い落ちていく。ときには恥も外聞もなく号泣してしまうこともある。

作家専業になってからこのかた、朝、出勤する妻を見送って一人になっても、日中、寂しいと思うことは一度もなかった。でもそれは、実は「一人」ではなかったからなのだ。たとえ姿が見えなくても、家の中のどこかにクーがいることはわかっていたし、必要なら姿を見に行くこともできた。会話は成立しなくても、しょっちゅうなにかしらクーに話しかけたりもしていた。仕事に集中していても、廊下からクーが僕の部屋の中を覗き込んでいることにふと気づいて、ほっこりしたりもしていた。それがいっさいなくなってしまうと、文字どおり一人で過ごす家の中は妙にガランとしていて、空虚で、空っぽで、寂しくてやりきれない。本当の一人ってこんなに寂しかったんだ、と今になって思い知らされている。

それでも、事前に予想していたほどには、僕はいわゆるペットロスの状態には陥っていないと思う。いったいクーの死に自分は耐えられるのだろうか、クーが死んだら、僕は悲しみのあまり一時的に廃人のようになってしまうのではないか、と案じていたが、実際には、クーが旅立ったその日から、僕は仕事も含めてやるべきことをやれていた。その後も、日常生活をまっとうな形でこなすことができている。

それはひとえに、クーがお別れのための時間をたっぷりくれたからなのだと思っている。

近いうちの死を覚悟してから1ヶ月半にもわたって、クーはアンコールに応じつづけてくれたのだ。その間に僕は、さんざん泣いた。泣いて泣いて、その間にだいぶ心の整理がついていたのだと思う。どれだけ整理がついていても、もう二度と会えないのが死ぬほど悲しいことに違いはないから、思い出せばやはり泣いてしまうけれど、お別れは十分すぎるほど果たせたから、「もっとこうしておけばよかった」といった悔いはいっさい残っていない。

ものすごい生命力で何度も危機を乗り越え、心の整理をする機会をしっかり提供してくれたクー――それ以前に、14年もの長い年月、かぎりない慰安と癒しを、そして楽しい思い出を惜しみなく与えつづけてくれたクーには、感謝の言葉もない。せめて天国でも、おだやかでおおらかで、陽気でのんきでいつも上機嫌だったその姿のままで、元気に走りまわったり、暖かい陽射しを浴びながら寛いで丸くなったりしていられることを祈っている。

――いや、クーならまちがいなくそうしているだろう。

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〈終わり〉

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2021年11月16日 (火)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (4)

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クーはもはや、いつ死んでも不思議ではない状態だった。それでも妻は、毎朝出勤しなければならないので、夜はそこそこの時間に就寝していたのだが、僕は毎晩、寝床に就きかね、3時・4時まで粘って、クーの様子を窺いつづけるようになった。それでもある時点で眠気に抗えなくなり、今にも命の火を絶やしてしまうのではないかと気を揉みながらもベッドに向かい、翌朝、まだ生きている姿を目にして安堵する、というパターンを毎日くりかえしていた。

最後の頃、クーはたいていの場合、リビングの隅のカーペット上か、お風呂の蓋の上にいるようになっていた(人目につかない隙間などに潜り込むことは、なぜかなくなっていた)。お風呂の蓋の上に飛び乗る力もなくなってからは、脱衣所のバスマットの上にうずくまっていることが多くなった。

水だけは飲んでいたから、おしっこは定期的にしていたようで(ときどき、猫トイレをチェックすると、下に敷いたマットには着々とおしっこのしみが広がっていた)、猫トイレはバスマットのすぐそばにあったから、その意味でも都合のいい場所だったのだろう。クーは本来、洗面台の脇に置いたカップから水を飲んでいたのだが、その頃には洗面台に飛び乗ることもできなくなっていたので、バスマットのそばにカップを移動させたり、浴室の床に置いた洗面器に常に水を張っておくようにしたりしていた。

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それにしても、水だけで命をつなげるのは、せいぜい1週間くらいだろうと思っていた。食べ物を口にしなくなってから1週間が過ぎ、最初の土日が巡ってきたとき、正直、「この土日の間に死んでくれたら、いろいろな意味で収まりがいいんだけどな」と思っていた。というのも、妻は原則として月〜金で出勤しなければならず、週の中日に死なれてしまったら、火葬などに立ち会うために休みを取らなければならなくなるからだ。

ところがクーは、その土日も生き延び、新しい週が始まってしまった。さすがに次の週末まで命がもつことはないだろうから、妻も休みを取らざるをえなくなるだろうと思っていた。その間、妻は毎朝、うしろ髪を引かれるような思いで出勤していたと思う。帰宅するときには、もうクーはこの世にいないかもしれない。これが見納めになるかもしれない――毎朝、そんな思いで玄関のドアを開けて出ていっていたのではないか。

しかし驚いたことに、クーは次の1週間も、水だけで生き延びたのだった。

最後の数日ほどは、水も胃が受けつけなくなっていたらしく、しきりと水を飲もうとはするのだけれど、ひと口飲んではえずき、えずいてはまた飲もうとするというのをくりかえしていた。それでもクーは水を飲もうとし、最後まで生きようとしていた。そして、死の2日前まで、たぶんたまたま比較的調子がいいときには、僕が体を撫でるのに応じて、ゴロゴロと喉を鳴らしてくれてすらいた。

動物は、「痛い」とか「つらい」などと自分から訴えることはしない。この最期の日々に、クーが本当はどう感じていたのか、僕たちが知る術はない。それでも、あくまでその様子を見るかぎり、クーはひたすら衰弱していくだけで、おそらく、願わくば、それほど苦しんではいなかったと思う。

10月22日金曜日、日中に僕は、痩せ衰えたクーを抱きかかえて寝室まで運び、ベッドの上に寝かせていた。硬く冷たい床に敷いた薄いバスマットの上では、あまりに寛げないのではないかと思ったのだ。寝室では、僕と妻のベッドがくっつけてあるのだが、僕のベッドの足もとあたりに常に畳んだタオルケットを敷いてあり、元気だった頃にはそこがクーの定位置になっていた。クーにとってもなじみのあるその場所に横たわらせると、クーはそこそこ寛いでいるように見えた。クーがそこから降りたくなった場合のことを考えて、踏み台になる高さのものをベッドにくっつけてもおいた。

しばらくして様子を見に行くと、クーは妻のベッドに移動していた。「そっちに移ったの?」と訊きながら近づいた僕は、タオルケットを畳んだクーの居場所と、クーが横たわっている場所の間に、おしっこのしみが広がっていることに気づいた。たぶん、尿意を感じてトイレに移動しようとしている間に力尽きて、その場におもらししてしまっていたのだろう。かわいそうなことをしたと思って、僕は大急ぎでクーをバスマットの上に戻し、おもらしのあとをきれいにした。

しかしクーは、ベッドに寝かせたほうがあきらかにゆったりと身を横たえることができているようだったので、その後も様子を見ながら、ときどきベッドに寝かせていた。その晩、妻が就寝する時点でも、クーはそこにいた。そして僕は例のごとく、リビングで寝ずの番を務めながら、数十分おきに寝室に様子を見に行ったりしていた。

すると午前3時半ごろ、寝室からドタッという音が聞こえた。なにごとかと思って駆けつけると、「クーちゃんがベッドから落っこちちゃった」と妻が寝ぼけまなこで言いながら、クーを抱き上げている。「ああ、水が飲みたかったんじゃないかな」と言いながら、僕が妻の手からクーを引き取った。そして、いつしか羽根のように軽くなってしまっていたその体を、浴室の洗面器の前にそっと下ろした。

そのときの感触を、僕は忘れることができない。いつもなら、そうやって下ろしたあと、クーは四つ足で這いつくばるような姿勢を取るのに、そのときは、くたっ、という頼りない感触しか伝わってこなかったのだ。クーは、僕が置いた位置にそのまま、軟体動物のようにぐにゃりとくずおれていた。自分の体を支えようとする力が、そこからはまったく感じられなかった。「あ、これはまずい」と直感的に察せられた。その直後、クーは、それまで聞いたこともないような悲痛な声で「ニャーーーッ」と叫び、体を痙攣させはじめた。僕は大慌てで、今しがた眠りに戻ったばかりの妻を、「クーちゃんが死にそう!」と呼び起こした。

死に際の猫がそういう声で鳴くことがあるという話は、ほうぼうで聞いていた。これがそれなんだと思った。それからは、狭い脱衣所で、僕がクーのお尻側から、妻がクーの頭側から臨み、無我夢中で体をさすりながら、最期を看取ろうとした。クーは、切迫した調子の荒い呼吸をくりかえしていた。そしてその場で、バスマットの上におもらしをしてしまっていた。すぐにバスマットを交換し、お尻周辺を拭ってやった。でも、クーが粗相をしたのは、日中のおもらしとこのときのおもらしの、たったの2回だけだ。限界まで、自力でトイレに移動して排尿していたし、最後まで、嘔吐も下痢もいっさいなかった。

しばらくすると妻が、「顔を見たがっているから、見せてあげて」と言ってきた。僕はクーのお尻側から見ていたから気づいていなかったのだが、クーは、苦しそうに喘ぎながらも、しきりと顔を起こして僕のほうを向こうとしていたらしかった。でも、もう顔を起こすだけの力が出せずにいたのだ。僕が急いでクーの小さな頭に手を添え、僕のほうに顔を向かせると、クーは僕の目をまっすぐに見つめていた。

瞳孔がほぼ完全に開いてしまっていて、実際にはたぶんろくに見えていなかったと思うが、クーはその真っ黒な目を、ひたむきに、まっすぐに僕に向けていた。その目が何を訴えているのか、正確にはわからなかった。「助けて」と言っているようでもあり、ただ僕に対する底の見えない信頼をあらわにしているようでもあった。僕はただあられもなく泣き崩れながら、クーと見つめあっていた。あの真っ黒な目を、僕は生涯、忘れることができないだろう。

さっきの悲痛な鳴き声は、「末期の声」だろうと思っていた。このまま逝ってしまうのだろうといよいよ覚悟を決めていた。ところが、クーはまたしても、持ち直した。僕たちに撫でさすられながら、次第に呼吸が落ち着いてきたのだ。

驚くべき生命力だと思う。もともと、一昨年の肥満細胞腫と、去年の悪性リンパ腫と、2度も大病を患いながら、それを乗り越えて生き延びてきた猫だ。そして今回も、今にも息絶えそうな危機的状態からいったんは回復し、なお1ヶ月半も寿命を伸ばした。そして最後の2週間は水だけで命をつなぎ、ついに末期の叫びらしきものを上げながらも、一度はその絶体絶命の関門をすり抜けたのだ。

〈続く〉

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2021年11月15日 (月)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (3)

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夕方、そのリビングに据えてあるエアロバイクで僕が運動を始めると、やはりクーは、どこからともなくソファの上に移動してきて、僕が運動を終えるまではそこにいることが多かった。クーは、それも踏襲していた。そして運動を終えた僕が、ウェアーなどを洗濯機にかけるかたわらシャワーを浴び、髪を乾かしてから、洗ったものをカゴに移してベランダに干しに行くと、クーはそれについてきて、気が向けばちょっとベランダに出てうろうろして、そのあとは寝室に僕を誘うのが普通だった。ベッドの上で、僕に「つぶして」もらうためだ。

「つぶす」というのは、ベッドに横たわったクーの上に僕が覆いかぶさって、顔をおなかにすりつけたりしながら適度な「圧」を加えることなのだが、クーはそれが大好きで、毎回、ゴロゴロと喉を鳴らしながら大喜びしていた(母猫のおなか周辺にまといつき、子猫同士きょうだいで折り重なっていた頃のしあわせな記憶が喚起されるからなのではないか、と僕は見立てていた)。

それがどうして、「僕が洗濯物を干したあと」に定式化されてしまったのかはわからない。たぶん、ずっと前にたまたま何度か、僕がそのタイミングでそういうふうにクーをかまったことがあったのだろう。それがクーの頭の中では、「僕が洗濯物を干したあとには、“あれ”をやってもらえる」という形で登録されていたわけだ。もちろん、クーはそれも踏襲していた。

そして夕食は、妻が帰ってから二人で摂るのが普通だったのだが、そのときには、クーはやはりどこからともなくリビングに移動してきて、食事が済むまでは近くにいた。いる場所は、ソファの上だったり、食卓の下にセットしてあるベンチ(かつて、食卓には椅子が4脚あり、2脚ずつ向かい合わせになっていたのだが、わが家は来客もほとんどなく、妻と食事する際にはテレビに向かって横並びに座るのが普通なので、ある時期に対面の椅子2脚を処分し、横長のベンチに置き換えてしまっていた)の上だったりとまちまちだったが、いずれにしても、クーはたぶん、そうして「夕食の団欒に参加」しているつもりだったのだろう。クーは、その習慣も踏襲していた。

そうした姿を見ているかぎり、クーはまったくそれまでどおりであり、大病を患って近いうちの死を宣告されているのだということをしばしば忘れそうになった。ひょっとして、リンパ腫はなにかの加減で自然治癒してしまったのではないか、と信じたくなるほどだった。しかしもちろん、なんの治療もしていないのに、病状が逆のルートを辿ることなどありえなかった。2週間・3週間と過ぎていく間には、クーが着々と衰弱に向かっていることがはっきりと目に見えてきた。

クーの活発さや食欲には波があり、何日か食が細くなったかと思うとまた持ち直すというパターンをくりかえしていたが、持ち直したとしても、最初の水準まで戻ることはもはやなかった。上がったり下がったりしながらも、均せば確実に下向きになっている曲線が、そこには見えた。それでも2週間分のステロイド剤はあっという間に尽きてしまったので、さらに2週間分、地元のクリニックで処方してもらっていたが、今度こそ、それを使い切るまではもたないだろうと思っていた。

10月に入ったあたりから、クーの食欲は再び目に見えて落ちていった。そして、毎日の習慣についても、ひとつずつ、それまでどおりにはなぞらなくなっていった。そもそも、東大で診てもらった時点では「 もってあと数日の命」と思っていたクーが、それから1ヶ月近く、わりと普通に暮らしてこられたこと自体が奇跡のようなものだったのだが、「いよいよなのだな」と思うとやはり、事実を受け入れがたい気持ちにさせられてしまっていた。

その頃には、少しでも目先が変われば、目新しさもあって口にしてくれるのではないかと期待して、それまでは与えていなかった銘柄や、ゼリー状・テリーヌ状など形態もまちまちなキャットフードをあれこれ買ってきて試したりしていたのだが、たいていは、ひと口・ふた口食べるともううんざりしたような顔をして、ぷいといなくなってしまうのだった。

クーが最後に食べ物を口にしたのは、10月8日の午後だった。汁気の多いパウチのスープ部分だけをわずかに飲んだのをしめくくりとして、もう何も口に入れようとしなくなった。すでにだいぶ痩せ細って、毛皮越しに骨がゴツゴツと突き出したようななりをしていたし、ほとんどの時間は、テレビの裏だとか、ベランダへのサッシとキャビネットの隙間だとか、薄暗くて狭いところに潜り込んで出てこなくなっていた。手を伸ばして触れても、もはやゴロゴロいうことが稀になっていた。

地元クリニックに追加で処方してもらったステロイド剤は、残り2錠のところで、投与を中断していた。無理に飲ませること自体がつらい状態になっていたからだが、日数としては、優にそれを使い切れるところまで生きていたということになる。それでも、終わりのときが間近に迫っていることはまちがいなかった。だから僕は、その10月8日も、予約していた(自分がかかっている)糖尿病クリニックに向けて出かけようとしていながら、その間にクーが死んでしまっていたら猛烈に悔やむだろうと思い、直前で予約をキャンセルしたほどだった。

ところが、奇跡のようなことは、その後もさらに起きた。それが正確にはいつのことだったのか、僕にはわからなくなってしまっていたのだが、今調べてみたら、どうやら10月10日だったようだ。というのも、そのとき僕は、遅い昼食を一人で摂りながら、NHK総合でたまたまやっていた「歴史秘話ヒストリア」かなにかを観ており、そのテーマが「仮面ライダー50年の歴史」であったことを覚えていたからだ。厳密には、「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア」と呼ばれる特番だったようだが、NHK総合でそれを放送したのは、まさに10月10日の午後3時からだったのである。

そのときクーは、キャビネットとサッシの隙間に潜り込んでいた。その頃には、そういう場所でじっとしていられると生死すらさだかではなく、何秒間かじっと様子を窺って、おなかのあたりがゆっくりと上下しているのを見届けてほっとしたり、手を伸ばして触れてみて、温かかったり、しっぽをつまめばしゅるんと動いたりするのをたしかめて胸を撫で下ろしたり、という按配になっていた。

僕はクーがそこに引きこもって出てこないことをさびしく、かつ心もとなく思いながら、そしてさほど興味も惹かれないまま「歴史秘話 仮面ライダーヒストリア」に目を向けながら、リビングで一人、食事をしていたわけだ。テレビをつけた時点で番組はすでに終盤にさしかかっていたのだが、そのあと、藤岡弘が主演を務めた初代「仮面ライダー」の第1話を丸々放送すると知って、「これは観なきゃ」と思った。ところが、それが始まってまもなく、僕は「仮面ライダー」どころではなくなってしまった。

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それというのも、ずっと隙間に引っ込んで姿を見せずにいたクーがよたよたと出てきて、ソファにセットしたブランケットの上に自ら乗っていったのだ。そんなことは、もう1週間ほどなくなっていた。なにかのまちがいではないかと思ってしまったほどだ。おそるおそる、そばに寄っていって撫でてみると、クーはそれを煩わしそうにするでもなく、やがてかすかにゴロゴロと喉を鳴らす音が聞こえてきた。もうショッカーなんてどうでもいい、と思った。今は、クーが再び、一人で昼食を摂る僕のご相伴を務めてくれていることのほうがはるかに大事だ。

僕はクーのおなかに顔をすりつけながら、またしてもボロボロ泣いてしまった。たまたま具合がいくらかよかっただけなのかもしれない。それでもクーはそのとき、僕が昼食を摂っているタイミングで自分がよくそうしていたことを思い出し、乏しい力を振り絞って、その習慣をなぞってくれたのだと思った。途中からは、ゴロゴロいう音も全開に近くなっていた。10分か15分くらいはそれが続いただろうか。少し気が済んだ僕が、使い終えた食器をキッチンのシンクに運んで片づけている間に、クーがソファを降り、もといた隙間によたよたと戻っていく姿が見えた。まちがいない、クーは、僕の昼食にわざわざ「つきあって」くれていたのだ。

〈続く〉

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2021年11月14日 (日)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (2)

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妻とも相談したいので、少しだけ時間がほしいと願い出ると、主治医は「もちろんです」と応じてくれた。妻は職場に出勤していたが、「なにかあったら連絡してくれてかまわない。すぐには応対できないかもしれないけど」と言ってくれていたので、取り急ぎLINEで概要を伝えて意見を訊いてみた。しかし、メッセージはいっこうに既読にならない。電話もかけてみたが、応答はない。

あとから聞いたところによると、妻は午前中からLINEはまめにチェックしていたのだが、僕が相談を持ちかけた時間帯はたまたまタイミングが悪く、ほかのことにかかりきりになっていたという。いずれにしても僕は、妻からの応答を待っている間に、だいぶ心の整理ができてきていた。治療は断念して、家で看取ろう――ほぼ、そういう方向に意向が定まりつつあったのだ。

クーはこの4月で14歳になったところだった。猫としては、もう十分に生きてくれたし、これまでに十分すぎるほど、僕たちを楽しませてくれ、癒してくれた。去年のリンパ腫の際にはもはやこれまでかと思っていたが、それも乗り越えてさらに8ヶ月も、元気でのんきな姿を見せてくれた。これ以上、苦しませてまで生き延びさせようとするのは、飼い主のエゴでしかないのではないか。それに、延命を試みるつもりで入院させ、輸血を受けさせている間にもし死んでしまったとしたら、僕たちがいない見知らぬ場所で、寂しく心細い状態に置いたまま、クーを一人で逝かせてしまったことを、僕はのちのちまで悔やむことになるだろう。

1時間以上が過ぎ、主治医が気遣わしげに待合室に出てきたときには、僕はすでに決意を固めていた。今回はこのまま治療させずに連れ帰るとの意向を告げると主治医は、「そうですね。クーちゃんは去年がんばってくれたし、それもいいかもしれません」と応じてくれた。症状をいくらかやわらげるかもしれないというステロイド剤を2週間分処方されたが、それを実際に飲ませる機会はないかもしれないと思った。貧血傾向の悪化度合いからいって、もってあと数日だろうと踏んでいたからだ。

家に連れ帰ったクーは、病院帰りのときには常にそうであるようにいささかぐったりしてナーバスになってはいたが、やがてお気に入りのソファの上に移動してきて、寛いだ様子を示しはじめた。そして僕がその頭や背中を撫でていると、さも嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らしはじめた。ついさっき、どれほど残酷な宣告を僕が受け、どれだけつらい決断を下してきたかも知らずに……。僕はその姿を前に、こらえきれずに涙をボロボロ落としながら、「これでよかったんだ」と思っていた。

クーはどこよりも家の中が好きな猫なのだ。なじみのある場所で、僕や妻に見守られ、かまわれているのがいちばんしあわせなのだ。残りわずかな命ならなおのこと、クーがいちばん安心できるその状態の中で看取ってやりたい――心からそう思った。やがて帰ってきた妻も、僕の決断に異を唱えることもなく、結果として一人で決めさせてしまったことを申し訳なかったと言ってくれた。

さて、あと数日の命だろうと思っていたクーだが、翌日、不可解な行動を取りはじめた。しきりと猫トイレに行っては、いきむのだ。過去6日間ほど、固形物をほとんど口にしていないのに、便が溜まっているはずもなかったし、実際、何も出ていない。それがあまりに頻繁なので心配になり、東大の主治医に電話で状況を説明してみたところ、「おそらく、腸管の病変のせいでなにか違和感があって、それが便意につながっているのだと思う」という見解だった。それは、僕自身の推測とも一致していた。

かといって、いわば幻のような感覚なのだから、どうしてあげることもできない。僕は、10分、20分おきに何度も何度もトイレのチップの上に乗っていきんでは、何も出てこずにあきらめて去っていくクーの姿を、せつない思いでただ見守っていた。

ところがその日の晩、奇跡のようなことが起きた。キッチンの隅に置いてあるクーのエサ皿のあたりから、「カリッ……カリッ……」という聞き慣れた音が聞こえてきたのだ。まさか、と思いながら見に行くと、クーがドライフードをかじっていた。どういうわけか、食欲が突然回復したのだ。しかも、けっこうな量を食べる。

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半信半疑の思いで見守っていたのだが、その後もクーは、ちょくちょくエサ皿の前に行っては、ドライフードを食べつづけた。一日あたりで計算すると、元気だった頃に匹敵するほどの量に達していた。水も自分の意志で再び飲むようになり、数日の間に本来の活力もあらかた取り戻していた。便もまた出すようになり、おかげで「幻便感」とでも呼ぶべき例の錯覚にも悩まされなくなったようだった。呼吸が速くなるようなことも、いつしかなくなっていた。

これはあくまで推測だが、なにかの加減で食欲が回復し、再び十分な量のフードを食べるようになったことで、造血作用も起きていて、赤血球が減少していく動きとそれが拮抗していたのではないかと思う。しばらくはその状態が続いた。そうなると、東大に連れていったときの、貧血で今にも死にそうだった状態とは条件が異なる。このコンディションなら、比較的リスクの少ない状態で、抗がん剤治療を受けさせることも視野に入ってくるのではないか。

東大の主治医も、電話で相談するかぎり、そういうことなら、治療が成功する可能性が高まったかもしれないという見解を示していた。僕も妻も、かなり迷った。それでも結局、結論は覆されなかった。治療のためとはいえ、クーに人為的に苦痛を与えているさなかに命が尽きてしまうというリスクが高確率で存在している以上、根本的な事情は変わらないのだ。

なお、再び食べるようになってからのクーの便通はきわめて規則的で、便の状態もよかった。便通が再開した最初の2回ほどはやや軟便で、「やはり病変が進んでいるのだ」と解釈していたのだが、その後再び、見た目だけは実に健康そうな、色つやもいい理想的な便に戻り、腸管が病変で冒されているのだということが信じがたくなるほどだった。腸管から出血していたのだとすれば、便にも当然、その影響が出ていたはずだ。赤血球の減少は、どちらかというと溶血が原因だったのかもしれない。

ともあれ、まだしばらくは生きそうだということがわかった時点で、東大で最後に処方されたステロイド剤も飲ませることにした。クーに錠剤を飲ませる際には、無理やり口をこじ開けて、喉の奥に薬を放り込む形を取る。今にも死にそうなクーにそんなことをするのは忍びなくて、飲ませること自体を放棄していたのだが、そこも事情は変わった。残りわずかな日数だとしても、QOLを少しでも高めてやりたかったのだ。

それでもさすがに、そこから起算して2週間分の錠剤を使いきるまで寿命が伸びることはあるまいと思っていたのだが、クーは生きた。毎日よく食べ、常におおむね上機嫌で、それまでどおりの習慣的な行動をそのまま踏襲し、決まりよくくりかえした。

たとえば、朝、妻が出勤しようとして玄関まで移動すると、クーもついてきて、玄関の手前にある寝室の入口から僕を呼ぶ。本来は、出ていく妻を見送るという意味を持つ行動だったのだろうが、専業作家になってからの僕は、妻が出勤するタイミングでかろうじて起き出す(場合によってはその後、さらに二度寝する)生活形態になっていた。クーにしてみれば、「妻が家を出ていく」→「僕がベッドから起きてくる」という図式が頭の中で成り立っていたらしく、いつしか妻の出勤は、「僕が起きてくることに対する期待」にすり替わってしまっていた。妻がもう靴を履いているのに僕が起きてこないと、「起きなくていいの?」とでも言いたげにニャーニャーと僕に声をかけてくるのだ。

また、僕がリビングで一人、昼食を摂っているときには、どこからともなくやってきて、食卓のそばにあるソファの上に移動し、クーのために常にそこに敷いてあるブランケットの上で体を丸めることも、前からの習慣のひとつだった。そういうときに、とにかくそばにいようとするのだ。クーは、それも踏襲していた。ただし、毎日ではなく、気が向いたとき、条件が許すときだけだ。元気だった頃から、日中はどこかでぐっすりと寝入っていることもあり、その場合には、必ずしも姿を現さなかった。

〈続く〉

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2021年11月13日 (土)

クーをめぐる顛末 ―最終章― (1)

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まさか「さらなる顛末」の次にアップするのがこの記事になるとは思っていなかった。もっとも、それはひとえにブログを放置していた僕の怠慢に起因することであり、実際にはあれからけっこうな月日が流れているのだが、それにしても、元気になったクーの姿を伝えた記事に続けてこれを書くことには、胸をえぐられるような思いをさせられる。

10月23日の午後1時半ごろ、クーは息を引き取った。その最期の顛末について書きたい。申し訳ないが、例によって長いので、5回に分けて投稿する。

年明けからずっと、クーは驚くほど元気だった。月に一度程度、地元のかかりつけのクリニックで血液と超音波の検査をしてもらい、リンパ腫が再発していないかどうかモニターしていたのだが、毎回なんの兆候もなかったこともあり、途中からは2ヶ月に一度程度にしていた。それもよくなかったのかもしれないが、8月の終わりごろ、クーはにわかに食が細り、動きから活発さがなくなっていった。最初はたまたまなのかと思っていたが、数日のうちにみるみる元気がなくなり、水すら自分の意志では飲もうとしなくなっていた。

慌てて地元クリニックにかかったところ、超音波検査の結果、「十中八九、リンパ腫が再発している」との所見を告げられた。しかも、貧血がかなりひどい状態になっており、輸血が必要なレベルだとも言われた。ただし、そのクリニックでは輸血に対応できないという。いずれにしても、可及的速やかに東大動物医療センターにつないでもらう必要があった。

担当の先生はその場ですぐに東大に電話してくれたのだが、すでに夕刻で、その日の予約受付は終了していた。しかもその日は金曜日だったので、月曜まではどうしようもなかった。とりあえず皮下点滴と、(なんらかの感染症にかかっている兆候もあったため)抗生剤の投与だけしてもらって、ジリジリしながら週明けを待ったが、僕は実のところ、実際に東大で診てもらうまで、クーの命はもたないのではないかと思っていた。東大の予約がすぐに取れることはほとんどない。過去の経験からいっても、2週間・3週間は先になると見ておくべきだ。今でさえ息も絶え絶えなのに、それまでどうやって命をつなげというのか。

ところが月曜の午前中、クリニックから電話があって、驚いたことに翌日の午前10時に東大の予約が取れたと告げてきた。東大も、クリニック側からクーの状態を聞き、事態の切迫度に鑑みて、最大限急いでくれたのだろう。

こうして97日、僕は再び東大の弥生キャンパス内にある動物医療センターまでクーを連れていった。それは、僕自身の53歳の誕生日の翌日でもあった。待機期間中のクーは、皮下点滴で水分を与えられる以外には、僕が掌に「ちゅ〜る」を捻り出して差し出せば、かろうじてひと舐めふた舐めすることもある、という状態だったので、前日には、僕の誕生日がクーの命日になってしまうのではないかと危惧していたほどだった。

一連の検査を終えた主治医から聞かされた診断結果は、絶望的なものだった。

「リンパ腫が再発していることはほぼまちがいがないんですが、確定診断ではありません。というのは、確定診断のためには、穿刺して病変部の組織の一部を取って生検する必要があるんですが、貧血の状態が悪すぎて、それをするのすら危険な状態なんです。かかりつけのところで金曜日に検査した結果と比べると、3日間で赤血球が半減しています。この減り方のペースからすると、リンパ腫の影響で病変部などから体内で出血しているか、溶血(自己免疫反応の一種で、赤血球を自ら破壊してしまう現象)が起きている可能性が高い。正直、もしも連れてきていただくのが明日になっていたら、われわれとしても手の施しようがなかったかもしれないほどの状態です」

貧血の状態からすれば、赤血球経由で全身に運ばれる酸素の供給量も少なくなっていて、おそらく呼吸も苦しくなっているはずだという。たしかにその数日、クーは、ときどき呼吸が速くなっていた。なお、病変部とは、リンパ節と隣接している腸管のことだ。その病変も、かなり進行していた。去年の6月、最初にリンパ腫にかかって超音波検査した際の画像と今回の同じ部位の画像を比較すると、前回は腸管が肥大しているように見えるだけなのに対して、今回は、腸管の内部がぐちゃぐちゃになっていて、組織の形をひと目で見定めることがむずかしいような状態になっていた。痛ましくて、目を背けたくなるような画像だった。

そのわりに、不思議なことに、クーは便通になんの問題も起こしていなかった。去年、東大で診てもらうことにした際も、出発点は下痢が続いたことだったし、逆に今回は、下痢の兆候がまったく見られないことから、「リンパ腫の再発ではないだろう」と油断していたところもある。

いずれにしても、まずその貧血状態を改善しないことには、治療しようにもできない状態だというのが、主治医の見立てだった。ただ、その治療とは、抗がん剤治療しかありえない。去年、それでいかに七転八倒したかが脳裏にフラッシュバックした。抗がん剤を打てば、リンパ腫はおさまるかもしれないが、その副作用で、クーはまた自分の意志では何も食べなくなってしまうのではないか。そうすると、また何日か入院させて、胃から通じるチューブを取りつけてもらわなければならなくなる。そうしてまた何度も、タクシーにクーを乗せて東大まで通わなければならないのだ。

手間はどれだけかかってもいい。チューブ経由の給餌には苦労したが、要領は今でも覚えている。それをしてクーがまた元気になってくれるのなら、労力を惜しむ気持ちはなかった。でも、今回もクーが無事に回復する確率がどれくらいあるのか、その点に関して、僕は懐疑的にならざるをえなかった。もしも治療中に力尽きてしまうようだとしたら、入院や手術、抗がん剤投与や通院といった一連の過程は、クーにとって苦痛にしかならない。家で寛いでいることがあんなに好きな猫なのに、それでいいのか――。

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「とにかくまずは輸血をして、抗がん剤治療に耐えられる状態まで回復すれば、前回の治療の際、後半で使用したような、消化器毒性の比較的弱いタイプの薬剤を投与するという形で、治療を試みることはできます。ただ、再発したことからいっても、抗がん剤が前回と同じように効くという保証はありません。一度打ってみて効かないようであれば、そこであきらめるしかないと思います。それでもとにかく、一度試してみるという手はあります。もちろん、こちらとしては、もし治療を希望されるなら提供できなくはないと言っているだけで、どうされるかはお父さん・お母さん(前にも言ったが、この主治医は飼い主のことをそう呼ぶ)のお考え次第です。治療はあえて受けさせないというのであれば、われわれとしてはそれでもかまいません」

妻(主治医が言うところの「お母さん」)との間では、「病状がどうであったにしても、クーにとっていちばん苦痛の少ない方法を選んであげよう」という大枠でのコンセンサスはできていた。でも、この場合に実際にどうするか、僕一人では決めかねた。

クーが受けるであろう苦痛を考えて、あえて治療を受けさせず、そのまま連れ帰って家で看取る、という選択肢ももちろんあった。でもその場合、クーは今日・明日にも命の火を絶やしてしまうかもしれない。それはあまりにも急な展開で、心がついていけないところがあった。それに、もうほとんど身動きもしなくなってしまっている衰弱したクーの姿は、見るに耐えなかった。

抗がん剤治療は受けなくてもいい。それでも、せめて今のつらさを少しでも楽にしてあげられる方法はないのだろうか。僕は藁にもすがるような思いで、「抗がん剤治療はしないとして、輸血だけでもすれば、少しは楽になりますか?」と訊いてみた。しかし主治医の回答は、「今の状態では、穴の開いたバケツに水を注いでいるようなもので、それにはほとんど意味がない」というものだった。輸血はあくまで、抗がん剤治療を試みることの前提として位置づけられていたのだ。それに、輸血自体にも一定のリスクはあり、その最中に容態が急変することもありうるという。

いずれにしても、対応についてはその場で決断し、回答する必要があった。貧血の状態からいっても、もはや猶予はなかった。入院させるかさせないかは即刻決め、入院させるのであればその場でクーを引き渡さなければならず、それをしないという選択肢は、すなわち治療を断念することを意味していた。

〈続く〉

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